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ダンディズムのために批評を学ぶこと

たいていの物事には本流と亜流がある。もしも本流が本流だけで事足りるというのであれば、亜流というものは存在しないはずである。だから、必要性という意味においてはどちらが偉いわけでもない。むしろ本流とは亜流を生むために存在しているのではないだろうか。山の頂上から海へと流れ込んでいく一本の川があるとき、支流がなければ氾濫を起こして川は暴挙となるのである。従って、亜流は本流のためにあるし、本流はひとすじの道を潔癖に描くことでむしろ、両側へと続く亜流を生んで大地を潤す。

上記のことをまずは断ってから、批評を定義するための考察をしていきたいと思う。定義というからにはまずは本流、王道の話をするのである。

批評すべきものとは広義の「創作物」だろう。厳密に言うとこの世に創作物でないものはどこにもないとも言えるだろうが、ここで言う「創作物」についてまずは定義してみたいと思う。

創造するというのはよく言われているように、創、すなわちキズを造ることである。キズつかずに創造することができると思っている人もいるかもしれないけれど、それは虫のよすぎるお話であって、本来の創造とは身体を割って生まれてくるものであり、そのためにはキズは不可欠なのである。一般的な傷は外から与えられたものだが、ここで言う創とは内側から起きる隙間としてのキズであり、気付きというのもこちらの方であろうと思う。

このように自然発生的に生まれてくるのが創作物というものだから、創作物を入れるための器をあらかじめ設定することはできても、子どもを授かるときと同様に、実際には生まれてこないと詳細はわからないものだし、子どもの一番の理解者が母親であるとは限らないように、創作者というのは創造物の真価について熟知しているわけではないと言える。

批評というのは、そういった偶然性を前提として生まれてくる創作物の、歴史的位置づけや深い意味、何に適していて(言い換えるとある観点から見ると優良で)、何には適していない(同様にある観点から見ると粗悪)かを、暗示的にでも述べることにある。作者も鑑賞者も発見しがたいような意味を明確にすることだ。

本流としての批評であるならば、それ以上でもいけないし、それ以下でもいけない。批評家蓮實重彦は『表象の奈落』のあとがきにおいて、批評について述べているが、抜粋しておきたいと思う。

 

「批評」は、本質的に言い換えの作業にほかならない。翻訳とも呼べるその作業は、言い換えるべき対象としての他者の言説の中でまどろんでいるしかるべき記号に触れ、それを目覚めさせることから始まる。数ある記号のどれに触れて目覚めさせるかで、読む主体の「動体視力」が問われることにもなろうが、それは、読むことで、潜在的なものを顕在化させる作業だといってよい。その覚醒によって、他者の言説は、誰のものでもない言説へと変容する。その変容は、できごととして生起し、「批評」の主体をもいくぶんか変容させずにはおくまい。言い換えは、その二重の変容を通して、とりあえずの翻訳におさまるのだが、「批評」は、それがあくまでとりあえずのものでしかないことを知っている。また、それを知らねば、たんなる「厚顔無恥」に陥るほかはない。

 

この蓮實の文はまだ続きがあるのだが、そのままで、本流たる批評、つまり批評の定義は完成している。これ以上端的に言い表した文を見たことはない。

本流の批評のことを、定型的な批評文体だと考える向きもあるかと思うが、私はそれには賛成ではない。純文学であれ、エンタメであれ、批評であれ、本流かどうかの識別は文体にあるのではなく、存在役割を果たしているかどうかであろう。たとえば、純文学というのは積極的に読者を楽しませようというつもりではなく、作者が考えている世界や思いの類を赤裸々に描写して著すことだし、エンタメであるならば積極的に読者を楽しませるための物語の起伏を作り込んで何らかのカタルシス的結果をもたらすものである。そこで言うと、批評とは蓮實の言うように「翻訳」である。

たとえば、appleという英語があったとして、これを翻訳するならば、りんごであり、付け加えるとすれば、バラ科の落葉高木の果実。甘酸っぱくて食用ということくらいであろう。エデンの園でイブが食べた実とか、砂糖と共に煮込んでジャムにしてアップルパイを作ることもできるとかまでなら、許されるのではないだろうか。よくないのは、「appleを絵に描いたものとしては、セザンヌの『果物入れ、グラス、りんご』やダリの『素早く動く静物』があって、そこではappleの捉え方はまるで違う、云々…」と話を展開してしまうことである。その批評家が物知りなのは結構なことなのだが、appleの翻訳にはなっていないし、正しい批評を読もうという読者としては、そこは聞いていないわけである。これをやりたいのなら、亜流批評として、たとえば批評的連想雑文というようなジャンルを別途拵えて、思う存分やったらいいと思う。むしろ芸術性はこちらの方が高いだろう。もっと言うと、本流批評は芸術的であってはいけないのであり、工芸的な無駄のなさ、美しき説明書きとしての役割に徹している姿こそが求められるのである。

思うに、亜流批評、つまり批評的連想雑文をやるためには、最初に本流批評として工芸的な無駄のない書き方を学ばなくてはならない。これは文体のことではなくて、創作物をありのままに観て翻訳する力の徹底である。そして、批評的連想雑文の中には、そのありのままに観た姿を随所に書き込むようにする。彷彿とさせるのである。ユーモア連想雑文だと思って笑いながら読んだら、結果的に、そもそもの連想元の創作物についての存在意義や意図が飲み込めていたというように創る。これは創造的批評であり、これは単なる連想雑文との差別化を徹底するためである。単なる連想雑文というのは創造的ではなく、捏造的となりがちだから、それを避けるためには基礎力がいる。

文体を学べば批評は書けると考えがちだが、文体は子どものしゃべるドチテ言葉でも批評は書ける。実際、裸の王様という物語でもわかるように、子どもほど卓越した批評家はいないのである。従って、文体よりも「観る力」を養うことが大事で、批評家とはブランド名の貼っていない陶芸を買い付けて適正価格で売る目利きと同じようなものなのだから、売り方のことばかり卓越するよりは、目を養わなければいけないことを忘れてはいけない。まして、目利きである自分自身を売り込んではいけない。自分を売るのではない、作品を売るのである。これは批評とは広告だと言っているのではなくて、適材適所という意味で作品を位置づけて定めることを言う。どうにも売りようがない、居場所がないものを発見したら、それこそは芸術作品と言えよう。これはもう批評できないという作品に出会うまで批評し続けるのがよい。

批評は文体のことではない件について、もう少し触れておこう。佐々木敦×東浩紀の『再起動する批評』で東浩紀が書いた「はじめに」の以下の部分に応答したい。

 

この塾から新たな才能は出てくるのか。正直言うと、ぼくにもそれはわからない。あらゆる表現と同じく、批評もまた努力すれば結果に結びつくというものではない。いい文章を書く人間は最初からいい文章を書く。(中略)実際、この塾の試みを批判するひとは少なくない。批判者は、才能のある人間は出るべくして出てくる、才能のないやつはどのみち未来はない、塾なんて無意味なのだと言う。それは半分は正しい。ぼくだってそんなことはわかっている。

 

私が思うに、本流の批評とは才能ではない。鍛えられた目の力とそれを書き表す文章力である。なので、上の抜粋中の批判者の言うことは正しくはない。

本流の骨子を含めた批評的連想雑文を書くという段階になって、ある程度の文才というものは必要になるけれど、当塾でやっているように、ほとんどしごきのように次から次へと優良作品を見ることを強いられることは、まずは眼の力とそれを書き表す最低限の文章力を養うためには非常によいカリキュラムであるとしか言いようがない。こんなことをやりもしないで、文才だけで表面的な活躍をすることもできるのかもしれないが、そこに否を提示して英才教育をしているのである。もしも文才のない受講生が居たとして文筆家としてはデビューしなかったとしても(多くの場合、文才があろうとなかろうとデビューなんかしない。デビューという概念がやや古くなってきている件に関してはここではそれほど触れないでおく)、批評的精神を他の媒体、たとえばアートなどで表現する批評的彫刻家になるのかもしれない。ハンス・ベルメールという作家をご存知だと思うけれど、好みは別として、その作品『イマージュの解剖学』は典型的な形のみを美とする思想への批判の意味もあるらしい。ナチスを批判したドイツ人であるハンス・ベルメールは批評的な作品を写真や絵画、人形などで残したのである。精神分析学者ジャック・ラカンの共感を得たものでもあるという。

批評的精神というのはまずは眼力であり、文章や絵画などでデビューしようとそうでなかろうと、それを携えてから後の人生というのは宝物である。なぜならば、批評的になる以前の私たちは、多くの場合、盲目的か、あるいは批判的なのである。批評とは、この盲目的か批判的な状態から脱却させ、精確に観ようとすることだから、少なくとも安全対策にはなる。そして、精確に観ることができる人間が増殖することで、芸術家の方も心置きなく創作することができるようになる。創作者たちは内側から突き破ったキズを造ってまで産み落とすのであり、その価値を的確にわかる人がいてこそ安心して産める。好循環が生まれる。

さて、たいていの物事には本流と亜流があると最初に書いた。定義とは本流のことではあるが、亜流は本流の支流であるから、その定義を含んだ毛細血管のようなものであることもわかっていただけたと思う。従って分離しているものではなく、蓮実重彦の著した

 

「批評」は、本質的に言い換えの作業にほかならない。(中略)また、それを知らねば、たんなる「厚顔無恥」に陥るほかはない。

 

という定義は亜流の中にも浸透し、溶けていなければいけないということになるだろう。完全には無理だったとしても、ある程度は厚顔無恥を回避するためには、何か嗜みとしてでも批評精神を学ぶことは、生き方として、男女共に必要なダンディズムのひとつだと思う。(了)

参考文献

「表象の奈落」蓮實重彦著

「再起動する批評」佐々木敦×東浩紀 編者

「イマージュの解剖学」ハンス・ベルメール作

※ 前回と同じ理由で、選択しないでください。

文字数:4363

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