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映画を覗いている私は、登場人物から見るとどう見えているのか

黒沢清監督(以下敬称略)の『タゲレオタイプの女』が封切られた時、あの映画はすごいという噂を何度も耳にした。もちろん世間的にも大きく取り扱われていたとは思うが、私に伝わってくる時には、メル友や喫茶店で隣り合わせた人の口からそっと伝わってくるものだった。どんな風にすごいの?と聞いても、「まあ見てくれ、見ないではわからないだろう」と言う。どういうジャンル?と聞くと、黒沢清だからホラーかなと言う人もいれば、幻想文学的だったと言う人もいた。しかし、当時の私は個人的に嵐のように大変な毎日を過ごしていたものだから、映画を観に行くという心の余裕を持ち得ないまま時間は過ぎていった。

この度、やっとDVDではあるが観る機会を得て、ある程度気軽な気分で観ていると、みんなが「あれはすごい」と噂していた時期の個人的な気分が呼び戻されてくるようで、当時の街中の空気全体が『タゲレオタイプの女』だったのではと錯覚してしまいそうになった。もちろんそんなのは自己中心的な話で、同じ時期を別の気分で過ごしていた方々も多くいるだろうことはわかっているが、私の周辺の空気がまさにあのようなムードに包まれていたことを思い出さずにはいられなかった。だから、もしも今度は逆に誰かにジャンルを問われたとしたら、「私にとってはある種のドキュメンタリー映画でした」と答えたいのである。「あの映画をドキュメンタリー映画だと言うのはちょっとおかしい」と言われそうだ。先述した通り、当時の私は嵐のような時間を送っていたのだから、事実少しまともではなかったのかもしれない。あの嵐の日々はある小説を書き始めた途端に始まったもので、長編の虚構作品を初めて書くという体験によって起きる陰陽結合時の暴風雨のような魂の状態だった。この世とあの世にあるベールを突き破って作品は生まれていった。その時の個人的な状態とあの映画の中の雰囲気は実によく一致している。嵐と言っても、幽界をさまよう足取りでの嵐なのである。

映画のあらすじをかいつまんで紹介しておこう。ジャンはタゲレオタイプという写真撮影方法を行っている写真家ステファンの助手となるためにある豪邸に出向く。タゲレオタイプとは何時間もかけて被写体を媒体に写し込ませる古典的な撮影方法で、ステファンは被写体そのものを保存しようとする熱意でそれを固守していた。のちに、ステファンの被写体となっている娘マリーとジャンは恋愛関係に陥る。詳細は実際に映画を見ていただくとして、この映画に込められている最大の謎は、このマリーは誰か? と言うより、何なのだ? ということであろう。つまり、ジャンは何と恋愛状態にあったのかということである。端的に言うと異界者なのだろうか。

ややタイプを同じくする異界者との恋愛話としては江戸川乱歩の『押絵と旅する男』という短編があり、この短編では人間が額縁の中に溶け込んでしまって押絵となったり、その押絵を恋人のように抱いて旅をする老人が出現したりするのだが、要は肉体の写し身と生の肉体との融解が起きている。タゲレオタイプの写真であれ押絵であれ、そのイリュージョンの世界に身を投じていく時には、それまでにあったあの世とこの世の境界線を失っていくことが共通の主題となっている。私が思うに、この境界線とはおよそ水平線か地平線のようなもので、限りなく接近すればそれはないも同然なのだ。浦島伝説にしてもそうだし、ある種の通過儀礼としては古典的なモチーフである。

しかし、この『タゲレオタイプの女』が古典的テーマを扱いながらも斬新なのは、幽玄なテーマを扱いながらドキュメンタリー映画的に思えることにある。画像はリアルなまでに幽界的なまどろみを表現しているのだが、急に俯瞰的な位置に移動して撮影したカットが入ったり、たとえばジャンの視点でターゲットを追っていても瞬時にジャンの顔を正面から撮る位置に切り替わったりするので、カメラはドローン的ともいえる神視点と同一化しており、その視点は人間的なものではない。あたかも空中を浮遊しつつ、しかし安定したフレーミングで一連の顛末を眺めている何者かなのである。このドローン的神視点に最も近い存在は監督あるいはカメラマンということになるだろう。映画の中の人々がどこか妄想的で半眠状態にあるのに比べて、この監督あるいはカメラマンたる神視点はものすごく覚醒していて現実的だ。取材するジャーナリストのように、ぶれることなく顛末を「記録」している。竜宮城に出向き、まったく酒を飲まずに撮影して戻って来たという強烈なドキュメンタリー映像を見たようだった。こうなると確かにみんなが言った通りだと思う。この映画はすごい!

この幽界において極度に覚醒したジャーナリストという感覚は身に覚えがあり、先述の嵐の期間中がまさにそうだった。嵐の中に巻き込まれている「私‘」を私は淡々と観察し書き取っていたのだ。その時期とこの映画の撮影された時期が一致しているので、個人的には映画は他人事ではないのだが、渦中にいた時の私は観察対象である「私‘」に関してどこか他人事だったように思う。

この他人事感覚が当映画にもある。これらを記録している優秀なジャーナリスト的存在の気配。物語に感情移入し ていない。そしてそれ自体は見えない。カメラを回している人か。この画面には出てこない人、カメラを回している人、そうか、それが『タゲレオタイプの女』とも言えるのか、と気付いて唖然とする。

それは物語世界の時間を隅から隅まで把握していながらも、彼らとは同じように年老いたりはしない永遠の存在である。

小説を書いていた時の私もそんな存在だっただろう。筆記されていた方の「私’」ではなく、今ここにもいる私。ある意味では肉体的で他者からの妄想によって成り立っている形としてのわたしが実はダッシュ付きの「私‘」であり、映画内の登場人物たちから見るとホリスティックでタゲレオタイプ的永遠性を持つわたしが今ここにいる「私」なのだった。ひょっとして、虚構作品の顛末上の場のカメラ側には作者たる私がタゲレオタイプで撮影された写真の姿をして、そこからじっと彼らを取材しているのかもしれない。映像時間内(約二時間)だけ生きている彼らから見れば遥かに長い時間を生きる私なのである。

もちろん、このようなややこしいことを考えなくても、この映画は普通にホラーとしても幻想的な美しい映像作品としても楽しめる。難しい映画というわけではないことを付け加えておく。

ところで、どうしてフランスで撮影されたのだろうか。フランスで撮られたということが示しているのは、「フランスに憧れている日本という一面」を幾重もの仕掛けによって、やや自虐的に訴えているのだろうか。鑑賞者である私の方に「日本の監督が撮ったもの」という先入観があるからかもしれないが、どうしても日本人がフランスに抱いている憧れの気持ちが浮かび上がる。これが単なる先入観だとしても、鑑賞者の何割かは同じような先入観と共に上記のような解釈をしてしまうだろう。実際には最後のシーンの景色を見ればなんとなく理由が見える。ジャンがある事実にはっと気づいた瞬間の風景は大変日本的な田園風景なのである。我に返る瞬間はビル街やフランスの家具に囲まれた場所ではなく、緑広がる田んぼで、やはり日本人監督が撮った映画なのだと思う。憧れと覚醒の転換を風景映像だけで語るのには、日本人が撮ったフランス映画でなければならなかった。

『タゲレオタイプの女』の前に、黒沢清監督の映画としては『クリーピー偽りの隣人』もネット配信の画像で観た。この映画でのカメラワークは『タゲレオタイプの女』と類似している部分もあったが、ストーリー展開としては主人公である大学教授の視点がぶれることなく鑑賞者との共通の事実として明確に伝えられ、話の起伏や感情の揺さぶり方に抜け目はなかった。この監督の作品であれば安心だという思いで『タゲレオタイプの女』を入手したのでもある。女性を物のようにコレクションしたがる男性や、そこから女性を救出しようとする男性が描かれている点ではこの二作は似ていると思えたが、『クリーピー偽りの隣人』は感情移入すべき視点人物がある程度現実思考の大学教授と定められているので、ハラハラドキドキするものの視点人物に関しては裏寒い感じはない。主人公は最初の段階では詮索的傍観者的な人柄として描かれ、事件関係者の女性から「あなたそれでも人なの?」と罵倒されるシーンもあるのだが、ストーリーが進行していくに従って能動的な人へと成長し、ある意味シャドウとしても考えられる隣人(女性を物のようにコレクションしたがる男性)との対決により自己の詮索的傍観者的性質を克服するというエンターテイメント色の強いものとなっている。類似しているモチーフでも『タゲレオタイプの女』はカタルシスのためのエンタメ作品ではなく、映画の存在意義としてはこの二つは全く異なる路線を行く。『タゲレオタイプの女』は深い意味での内部告発的なものと言えるだろう。告白や独白という形ではなく「私‘」的なものの内部告発をしているのだ。

さて、この二つの映画作品の間には、キャラクタータイプ以外に共通していることがもう一つある。それは、登場人物の性質に関しての根拠がそれほど描かれていないこと。このような幼児体験があったので、こういう性質となったという因果関係はほとんど無視されている。こういう境遇だったのでこうなったとの説明は、過去を描くからか「深い物語」と思い込みやすいのだが、実際には安直な意味づけによって手っ取り早くわかったつもりにさせてしまうこともある。たとえば、子どもの頃に犬に吠えられた人はそのせいで犬が嫌いなこともあるが、実際には吠えられても好きな人もいれば、吠えられなくても嫌いな人はいるもので、後付けの根拠であることは多い。根拠を後付けにて持ち出すことを頻繁に行うようになると、「これで説明がつく」といった、やや傲慢な態度に陥りやすいのである。黒沢の二つの作品にはそれがなかった。これは素敵であるとしか言いようがない。というのも、性質の根拠を過去に求めようとする習慣に対して否を示すという、そっと陰ながら行われた善のようだからである(ある人の陰ながら行った善について、他者が気付いた時に素敵という言葉を使うのが私にとってはより適切で、それ以外のことや自分自身のことをこれって素敵でしょう?と使うのを見るはどういうわけか居心地が悪くなる)。

また、この根拠を創り込み過ぎない作風は、「今、映像の中で起きていることを観よ」と説いた蓮実重彦の教え子でもある黒沢清の的確な応答とも言える。言い換えると「今、映像の中で起きている時の中で描けることを描いた」からである。

ここまで書いて、野暮用で某古本屋に立ち寄り、「今、批評を書いているのだけれど、黒沢清監督に関する書籍はないですかね」と尋ねると、「一冊だけありますよ」と言って『映像のカリスマ』を出してきてくれた。「あれ? ちょっと価格が安すぎますよ」と私は余計なことを言った。「そうですか」と言いつつ、店主が映画好きなので黒沢の映画の話になってしまって、価格の安すぎる件に関してはうやむやになったまま私は購入して地下鉄に乗った。乗って座席に着いてから、店主からのツイッターメッセージが届いていることに気付いた。「すみません。レッテルを確認すると、さきほどの書籍は朱線が入っているらしいです。それで安く値段を付けていたみたいです。気付かなくてすみません。気になるようでしたら返品に応じますのでお持ちください」とのこと。「気にしないでください。どこに朱線が入っているか、むしろその偶然性が楽しみです。よいお年を!」と返信し、私は袋から書籍を取り出して件の箇所を探した。それは以下のところに引かれていた。高橋洋さんとの往復書簡の高橋洋さんの部分。

 

人生の法則とは実はキャラクターの法則です。そこには当然、一般的な要素と個別的な要素が混在している。キャラクターが生きる人生は映画の上映時間分しかありません。どこから来てどこへ去っていくのか分からない。おそらくそれがキャラクターの理想でしょう。そしてキャラクターが異常であれば、その法則は異常なものとなる。『サイコ』とはノーマン・ベイツの異常な人生を描いたドラマです。彼の悲惨な過去は、ドラマのラストで精神科医の口から語られますが、誰も「色々大変だったんだ……」とは思わない。自らの人生の法則をノーマン・ベイツに押しつけることは出来ないからです。

 

これを見て、黒沢映画の「過去に根拠を求めない素敵さ」の根拠を見つけてしまったような気がして、嬉しいのか、それとも自前で発見したつもりの手柄を失った気がして残念なのかわからない気持ちになった。が、この出来事はよく考えてみるとトートロジーになっていやしないか? 根拠は要らないことの意味を根拠は要らないと言っている内容に求める。結局根拠は要るのか、要らないのか、どっちだ! いずれにしても、あまり根拠にこだわらなくていいというのも監督の素敵なメッセージなのだと考えると、朱線に関してそれほど神経質になる必要はないだろうと判断した。

私が古本屋を好きなのはこのような不思議なハプニングが頻繁に起こるからであり、単にお得な価格だからと言うわけではない。だから、本が古ければいい訳でもなければ、安ければいい訳でもない。たとえば今回のように、批評で引用すべき箇所に、かつての書籍の所有者が前もって朱線を引いておいてくれる。まるで見知らぬアシスタントが縦横無尽に存在しているような、巧みな連携プレイが起こり得るからおもしろいのである。

それにしても、密かにあの朱線を引いたのは誰なのであろうか。これもまた幽霊ではないか。もうひとつ告白すると、最後に校正する直前まで、私は『タゲレオタイプの女』の主人公「ジャン」の名前を「サム」と思い込んでいたようだ。DVDで映画を観たのに、である。サムは一体誰なのだろう。映画の中の幽霊浮遊状況は越境して私の部屋まで浸透し始めているのか。こうなると、ドキュメンタリー映画であるどころか、シェモアをスクリーンとしたリアル映像として乗り込んできそうなので、実に油断できない映画なのである。(了)

 

参考文献

『クリーピー偽りの隣人』黒沢清監督の映画

『タゲレオタイプの女』黒沢清監督の映画

『映像のカリスマ』黒沢清著

『押絵と旅する男』江戸川乱歩作

※ 理由は前回と同様、選ばないでくださいね。

文字数:5924

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