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映画とは水たまりに映し出された自然物か

どのように切れ味のよい批評を書いたところで、愛がなければ単なる嫌味でしかないと思うがどうだろうか。蓮實重彦(敬称略)の映画批評を読んで間違いなく言えるのは、蓮實は映画を愛しているのだろうということ。蓮實が映画批評の巨星と呼ばれるのは、単に正しい批評を書いたからではなく、精確に観てやろうとする愛があったからであろう。

蓮實が大学で「映画表現論」を教えていた頃のことを映画監督である周防正行は以下のように思い出している(ユリイカ 総特集 蓮實重彦より)。

 

「何が映っていましたか?」の一言で始まる授業は、一週間前に告げられた課題の映画を見てくることが唯一の決まりだった(まだビデオテープすら一般に普及していない時代の話である。みな、映画館に行って見たのだ)。何が映っていたかという質問に、間違っても映画の背景や、テーマについて答えてはいけない。本当に何が具体的に映っていたか、自分の目で見たものを答えなければならない。

「小さな円盤のような物体が道路の上を、その道筋に沿って飛んでいました」

間違っても「SFXが素晴らしかった」などと付け足してはいけない。そんなことを言えば、「あれは本当に飛んでいたのではないですか」と返ってくる。

「いえ、特殊撮影です」

「どうしてあなたは特殊撮影だとわかったのですか?」

「プログラムに書いてありました」

これでアウトだ。

「何が映っていましたか」という質問に答えながら、僕は映画を「見ていた」のではなく、「読んでいた」のだと思い知らされる。

 

このような蓮實の「表層批評」というスタンスに従い、映画史中の位置づけや映画製作者の裏の思惑を手前勝手に深読みすることなどを避け、白紙の心で向き合って見ることは、理解というものの理想形でもあろう。対象を歪曲せずに精確に観ようとする構えは、今や批評家にとって当たり前のことのように思うが、実際には己の筆の流暢さを証明する方に関心を寄せてしまえば、重要な精確さの方はつい忘れてしまいがちなものであり、蓮實はそれを明確に否定し戒めたのである。エゴを取り払って、まずは対象を精確に観ようと心がけることは、批評という領域でなくても愛の条件である。

口調はどうあれ蓮實の批評精神は温かい。何かを指摘する場合にも朗らかさやユーモアがある。たとえば、イングマール・ベルイマン監督の『秋のソナタ』についての批評文に以下のようなものがある(抜粋)。

 

『秋のソナタ』(1978)がことのほか優れた作品であるかどうかは、ひとまずどうでもよろしい。(中略)『秋のソナタ』は、その作品をめぐってつぶやかれるだろうありとあらゆる言葉を超えて、それが映画として存在しているというただその一点において、祝福されねばならぬ作品だからである。(中略)ここでいう祝福とは、対象への条件なしの参入を意味する。その後に撮られた『ファニーとアレクサンデル』(1982)の方が遥かに評価は高かろうが、その311分の上映時間を通じて、文句をつけたい瞬間は多々ある。だが、『秋のソナタ』の92分の上映時間には、すべてを無条件に受け入れよという寛容さへの要請がなだらかに息づいており、それに素直にしたがうことに誰もが甘美な悦びを覚える。

 

手放しで褒めているわけでもなければ、あからさまにけなしているわけでもない。当作品が優れているかどうかではなく、存在意義としての価値があり、それに従うことに甘美な悦びがあると言っている。これは蓮實の主観的な感想とも言えるが、映画を観るときの眼差しを単なる優劣以外の視点からも向けていくことを提示していて、『秋のソナタ』に関しての文言でありながら、映画鑑賞に対する全般的なアプローチのあるべき姿を示しているともいえる。鑑賞する姿勢を学ぶ上でもよいことであるが、映画の制作をする側にとっても、良識のある観方をする鑑賞者の存在を想定することができれば、品位の高いものを制作する意欲が湧くことになるだろう。

この国において、映画というメディアが始まったばかりの時代に、この愛が大きくプラスに作用したことは疑いようがない。映画というメディアが育つ上で重要な地盤となったことは間違いないし、前提として曲解しない批評が居るという安心感は、映画を作る側の素朴で素直な発話を促しただろう。鑑賞者の解釈能力に頼らず画面の中で描けることだけを描くという精神も磨かれていったのではないだろうか。「表層批評」という絶対愛はこの国の映画を育ててきたのだ。

では反対に、「表層批評」の姿勢が見逃してきたものは何だったのか。

自分勝手な解釈をして講釈を垂れる「映画の子どもたち」の必要性ではないだろうか。良識的に映画をバックアップして育てようとする鑑賞者ではなく、テキトーなことばかり言う鑑賞者のことである。この猥雑な鑑賞者がするだろうことは、放っておけば「泥んこ批評」である(←私の自己反省的に!)。そこには、いっぱしの学者然とした偏見まみれの分析家もいるだろうし、何もわからないまま、あれはよかった、これはつまらなかったとだけ大声で言うガキ大将もいるだろうし、小声でまともなことだけを言いかき消される優等生もいるだろう。彼らは自分が消費するためにのみ映画を貪る。映画をそれほどは(蓮實ほどには)愛していないに違いない。よく観てもいないし、知ってもいない。鑑賞の途中で居眠りをしたかもしれない。そのくせ、ああだ、こうだと偉そうに言うのが「泥んこ批評」であり、これらは映画制作者自体をそれほど良識的に育成したりはしないだろう。だが、彼らがいてこそ鑑賞者を太く育てる側としての映画になるのだとも言える。というのも、彼らの存在をも見込んで制作することにより、単に鑑賞者に育てられる側の映画ではなく、育てる側となるからだ。泥んこ批評は厚顔無恥を恐れず、見当違いの解釈をしてやろうと手ぐすねを引いて待っている。ならば、映画はもはやひ弱ではいけない。優等鑑賞者にウケるように作るだけでは物足りない。泥んこにも見合う深さを仕込んでいかなければいけないのだ。そうして初めて、映画は良識のある鑑賞者に見守られた子どもという立場であるだけではなく、泥んこな鑑賞者に反抗される親という立場にもなることができる。その泥んこたちが映画を自分たちの親へと持ち上げていくのだ。

言いたいのは、絶対愛と品性、知性に溢れた「表層批評」だけでは、やはり映画はいずれ表層現象だけを描いてお茶を濁すようになってしまうということだ。黒い泥んこ批評-ありもしない行間を読みまくる批評に耐えうる映画の制作が難しくなり、徐々に形骸化してしまう。もしも表層批評だけを真とするのなら(あるいはそれを真として制作するならば)、裏のありそうでなさそうな、随所に思わせぶりなシーンを抱えている映画がなくなってしまうことになるだろう。

批評でなくとも、敢えて邪推し深読みすることは世界に行間を作り出していくことになる。見えなくてもそこに何かがあるという妄想を発揮することによって、適正であることだけに徹していれば失われてしまうささやかなものの居場所を創造していくことができる。大枠から考えてみると、芸術というものがもっぱら正しさの方ではなく、亜流的生の方を担当していることを思い出してほしい。嫌味っぽく深読みしてもいいのだと間違えて見せることは(敢えて間違える必要もないが結果的に)、気楽な鑑賞者を掘り起こしていくことになるだろう。全員が精確に観ようとしなくてもいいなずなのだ。

蓮實の功罪は上記の通りとして、残った文字数で、果たして映画とはそもそも物理的な映像の表層的集合なのかと考察してみたい。

映画はその映画を制作した人の意志で注目した連続被写体であり、広義においては世界を意図的に接写したものである。もしも、裸眼で接している世界も、何か大いなる存在が世界よりも大きなもの(例えば宇宙)の部分を接写した連続体であるかもしれないとすると(ホログラフィック宇宙論)、私たちという存在は幻影の中に映し出された俳優でしかなく、さらにその内部に存在している映画は幻影内映画ということになり、意志は大いなる存在にのみ認められることになる。そこでは、映画は二元論的唯物の部分といえる。

この限りにおいて、一旦、映画をまるで水たまりに映し出された偶然の自然物であると仮定してもよいが、その自然を偶然観るに至った鑑賞者の意識には、独自の意味が生じないわけにはいかないだろう。映画の中にいる登場人物の感情が映画製作者の意図的創造物であるように、人が映画を観ることで起きる意味も大いなるものの想定した脚本通りのものかもしれないが、映画の中の登場人物が物事を曲解するがゆえに時間が発生してストーリーが生まれるように、私たちは(たとえ想定通りとしても)曲解することによって、この世界には時間が常に生成されていく。そもそも映画は二元論的唯物の一部であったとしても単なる映像でもなければ写真でもなく、展開する「時間を内蔵する映像」なのだから。

そのような性質を持ちながら、観る側には曲解を全く許さないというような、正しく把握されたいだけの映画というものが存在し得ると考えにくい。曲解によって時間が進行するのに、相手に曲解を許さないことはない。それなら、限りなく写真に近い物理的な連続映像でなければならないことになる。すなわち、映画とは物理的な映像だとしても曲解を許容するものなのだと言えよう。

そこで、最初の大前提であるホログラフィック宇宙論を否定するならば、映画は水たまりに映し出された自然物であるとも言えなくなり、二元論的唯物の部分として説明することはできない。よって、映画は意志を持たない物理的な映像であるという話も成り立たないこととなり、映画と鑑賞者の間にある曲解的運命的意味は生まれ続けることが認められるのだ。

表層批評はプロの批評家としての姿勢のひとつとして重要な意味を持つが、映画そのものの願望としては、歪曲された主観的解釈や運命的な意味づけを歓迎していることを、どうしても忘れてはいけないのだろう。(了)

参考文献

ユリイカ 総特集 蓮實重彦

表象の奈落 ―フィクションと思考の動体視力― 蓮實重彦著

映画時評2012-2014 蓮實重彦著

The Universe of Things On Speculative Realism by Steven Shavir

※ 前回と同じ理由で、選ばないでください。よろしくお願いします。

文字数:4258

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