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呼び覚ませ! 映画を貫通する体験者としての観客を

 かつて石原裕次郎主演の映画「嵐を呼ぶ男」が上映された頃、この映画を観終わって映画館を出てくる多くの人に、石原裕次郎の歩き様が乗り移ってしまっていたと聞いたことがある。石原裕次郎のカリスマぶりを大袈裟に表現した話だろうけれど、どう大袈裟に言ったとしても、現代の映画においてなかなかそのような感染ぶりをもたらすことは難しい。現代もスターがいないわけではないが、そこまでの高揚を劇場の外にまで持ち越した例を聞いたことはない。

 当時の映画が現代とは何が違ったのか。「大衆にとって他に娯楽がなかった」と聞いたこともあるが、それが誇張であったにせよ、あれほどの大きな画面のある空間の中に入って行って、今ここではないどこかの映像である「活動写真」が映し出されて感情移入するに至るものが他にはなかったのは確かなことだろう。更に、当時はそれをタブレット端末やスマホの中に所有することはできなかった。自ら映画館まで出掛けて行って、映画の世界に入るためのチケットを購入し、扉を開けて部屋に入って椅子に腰かけ、まるでこれから宇宙船にでも乗って別世界へと行くような気持で映画と向き合うのである。

 そもそも、上記のような映画との向き合い方とは「観客」であったのだろうか。もちろん映画の配給会社からすればお金を支払ってくれる来客であることに違いはないが、映画館に足を運ぶ側の人々の気持ちとして、現代の「さて映画でも観るか」といった覗き見的な気分よりも、その映画の世界に浸ってしまうぞという気分の方が、たとえ無自覚だったにせよ、勝っていたのではないだろうか。先ほども書いたように、現代とは違って映像を自宅に持ち帰ることはできないのである。途中でストップしたり巻き戻したりして再確認することはできない。何度も足を運んで観たとしても最初から最後までをノンストップで観ることになる。電車に乗り込んで車窓を眺める時のように、見逃した風景は見逃したまま後ろに流れ去り、ラストシーンを見るまでの間に振り返ることはできないのだ。電車の乗客は車窓に映る世界の体験者ではないが、貫通者ではある。一種覗き見的な観客となって遠巻きに観ている状態とは異なる。

 ところが、ビデオテープというものが売られ始めて自宅のテレビで再生できるようになってからは、映像を巻き戻して何度も部分的に確認することができるようになり、スマホやタブレットでも観ることができるようになった今となっては、文字通り手のひらにそれを所有することすらできるようになった。一回通しでしか観られなかった時には映画配給側と観る側の能動性がある程度対等であったのだろうが、今となっては観る側が観たいように観ることができるようになって、観る側の能動性が勝るようになった。こうなると、客はより映画に積極的に参画しているかのようにも思えるのだが、不思議なことに純粋な参画的貫通者から傍観者的観客と向かいがちとなった。それは傍観し、観察し、分析し、消費する。

  多くの一般的鑑賞者が体験的貫通者でしかなかった頃の映画批評では、批評家は一般客とは反対に一歩下がって傍観者的観客に徹し、映画の中に散りばめられたサブリミナルな意味を「プロフェッショナルな」(批評家蓮實重彦の言う)動体視力でもって発見して取り上げ、制作者さえもあっと驚かせるような潜在的価値を披露して見せるのが仕事だったのかもしれない。しかし現代においては、今度はその反対に、もう、暴いたりサブリミナル的な意味を探し出したりしないこともプロの仕事だと言えなくもない。客観的に(あるいは主観的にさえも)観ないことを原則として迎え入れることによって、かつての映画鑑賞者の如く「一貫通者としての存在」へと立ち戻ることになる。まるで石原裕次郎の在り様に感染されてしまった時代ほどの無防備さで映画館に浸り、そこから批評していくことができれば、新しい「超観客」としての批評家が誕生することになるだろう。誰でもやるようになってしまった解析から身を引くのである。

私の最も好きな映画を例に上記のことを少し解説してみよう。「髪結いの亭主」である。パトリス・ルコント監督による1990年のフランス映画で、当時はまだスマホはなかった。私はDVDで鑑賞したのだが、さっと一通り見てすぐに好きになったのは、ところどころで使われているスローモーションや映像の全体的な霞がかった色合いである。この効果により映画そのものが脳内記憶のように見える。現実をまざまざと観せられるような感触はない。実際、主人公アントワーヌの回想という設定だからであろうが、ファンタジーではなく一定のリアルさで描かれていたので、個人的に映画という媒体に託す「こうであって欲しい」という願いを完全に叶えていた。美しいマチルダの官能的な容姿を羨望せずにはいられなかったし、アントワーヌの朗らかに踊ったり、衒うことなくマチルダを愛したりする様子は現実にはめったに遭遇し得ない魅力があって(憧憬としては)非常に好ましく思えた。随所に挟まれる哲学的な会話もセンスがいいし、使用されている民族音楽風の音楽のおかげでフランスを舞台にしつつもさらにどこか遠い町を連想させるので、二重にイメージを逃避行させてくれるものだった。はっきり言って完璧な映画である。

 しかし、ラストだけはなんだかよくわからなかった。マチルダが自ら命を絶ってしまい、店に残されたアントワーヌは寂しそうにしていたのだが、その後訪れた客と朗らかに踊るのだ。このなんだかわからない感じ、それもその直前までは美しいロマンスや悲劇だったはずなのに、最後の最後は再びユーモラスなのである。あまりの悲劇に主人公アントワーヌは狂気に陥ったのだろうと考えた。もう笑い飛ばしてしまおうという達観ともとれた。それはそれでいい。これでいいと思ってDVDは仕舞い込んだ。

 ある時、「批評する」という行為と出会ってから、このDVDを見直してみた。映画内記憶に同行する貫通者としてではなく、動体視力を駆使し見逃すまいとして観るプロの観客としての位置に立ってこの映画を観てみたのである。すると、やはりラストで、おや?と思う。マチルダが亡くなった後に見つかった遺書のシーン。遺書は「あなたの愛を失う前に死にます」といった内容のものだ。ここに違和感がある。マチルダが大雨の中を死に向かって掛け出して行く時はほとんど衝動的で、とても計画的なことには思えないのに、なぜ理路整然とした遺書があるのか? もしもこの遺書のシーンが存在せず、マチルダが自ら命を絶った理由が不明だったとしたら?と考えた。結果として亡くなったかどうかさえ明確ではない。ならば最後のユーモラスなシーンは納得がいく。あの最後に来た客は誰なのか、ということである。

「髪結いの亭主」という映画は、動体視力を持って潜在的な意味を見逃さずに鑑賞してみると、結婚というもの(魂の、あるいは現実的な)の経過を描いたものかもしれないと解釈できる。変容の直前に大雨の降りしきるカオスのような精神状態に巻き込まれ、魂の昇華としての死(あるいは成就)を迎え、そして日常的な平安という結末へと続くことを暗示していると観られなくはない。つまり、マチルダは決して肉体上は死んではいないのである。

 だとしたら、なぜパトリス・ルコント監督は遺書のシーンを入れたのか。そもそもこの映画は一回通しでしか観ることができないものを前提に制作されたからではないか。もし遺書のシーンがなければ、一回きりの貫通者にとっては、マチルダが大雨の中を飛び出し精神的なカオスに身を任せて「精神の死」を迎えたというプロットがなかなか推察できない。だから実際に肉体としても死んだのだと描き切ってしまうことで、その後の成り行きはやや意味不明になりつつも、死後の変容という意味でのユーモラスな平安の姿を鑑賞者の心に映し出すことはできる。どうしてこんなオチになってしまったのだという不可解さは、実際のロマンスや結婚における割礼的悲劇後の平安にはある程度起こり得るものであり、リアルの滑稽さを見事に伝えきることに成功していると言える。もしこれが、現代(2010年代)のスマホなどで映像を所有し巻き戻して観ることが可能な世界において制作されたなら、もう少し暗示的な方法で「肉体は死なず、精神が変容した」ことを創り込むのかもしれない。実際、パトリス・ルコント監督は2014発表の「暮れ逢い」に関するトークの中で「今、『髪結いの亭主』を撮っていたら、ヒロインを川に放り込まなかったと思うよ」と発言されている。これは愛に関する考え方の変化という文脈上のものであるが、映画の媒体としての性質の変化も関係していると深読みできる。

 さて、「髪結いの亭主」に関して、当初の貫通者としての視点から憧憬として観たものと、動体視力を発動して観た理解では開きがあることはわかってもらえただろう。現代はやろうと思えば誰でも後者的な理解をすることが可能となってきた。映像を巻き戻して表象を探ることが可能となり、映画が書物と同じ構造になったのである。書物を見るときに必要な動体視力があれば、映画も書物のように解るようになったのだ。しかし映画の解析はできているが、映画を体験できているかどうかはわからない。わかったと思った時点で映画への憧憬はややそがれてしまうこともあり得るからである。

 そこで、これからの映画批評家に提案する。たとえば「髪結いの亭主」ならば、なんとなく変なオチだったという印象をそのままでくっきりと切り取ることのできる批評家をまずは召命するのだ。蓮實重彦がユリイカのロングインタビュー「『そんなことできるの?』と誰かに言われたら『今度やります』と答えればいいのです」の中で「自発的に見ることをやめるという選択肢もありうるのではないか」と提案したように、「見つづける」という姿勢を一旦停止する。その上で、映画内で起きるものを一回きりの貫通者として体験するニュートラルな観客を、プロの批評家の心にこそ再来させるのである。(了)

 

参考文献

ユリイカ 総特集 蓮實重彦

表象の奈落 ―フィクションと思考の動体視力― 蓮實重彦著

映画「髪結いの亭主」パトリス・ルコント監督

シネマトゥデイ記事「『髪結いの亭主』を今撮っていたら

別のラストに⁉パトリス・ルコント、官能描写を大いに語る」

 

※ 前回同様、無意味な注意書きとなりますが、理由も全体に従いまして、選ばないでくださいませ。よろしくお願いいたします。

文字数:4292

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