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宇宙卵の中の音楽~その中で聴きたい

 正直に言うと、蓮沼執太(敬称略)の顔と名前を知ったのはこの批評を書くことになった時のことだ。しかし音楽はというと、既に耳にしていたのだろうと思う。活動歴を見るとコマーシャル音楽の仕事も多く手掛けているし、ネット上にある音楽を聞いてみると聞き覚えのあるものもいくつかあった。

 これは珍しい出会い方と言えるのではないだろうか。名前も顔も知らないうちに音楽だけは聞いたことがあって、しかも、はっきりと楽曲として注意深く聞いたというよりは、コマーシャルや街で流れていたものを耳にしたり聞き流していたりしていたことになる。なんとも不思議な気分である。私は蓮沼執太といつ出会ったのだろう。空気の粒子の中に紛れ込んだ音楽(音質としても泡のような音楽)はいつの間にか私の日常や身体に忍び込んでいたことになる。

 ネット上の音楽を聞いた時、最初の感想は「決して嫌いではない」というものだった。互いを絶対に邪魔し合わない音量に調整された音同士が微かな隙間を保ちながら心地よく働いているといった表情をもつものであり、たとえば、線路を行く電車のリズムが遠くから聞こえてくるときの音や、密かに独り言を言うときのささやき声のように、耳にしているが積極的に聞き入ってはいなかった音たちの記憶を静かに起こしては後味を残さず消滅していくのである。マイクコードのプラグをハードの穴に差し込むときのカソコソいう音を拾ったようなものもあった。「あるある、こんな音、するする」とつい微笑んでしまう。

 映像も街の日常のようなものが多く、飛んで行った風船を何気なく目で追った時のもう届かない切なさを淡く思い出させるものや、ふと日差しを避けて入ったビルの壁と壁の隙間から見た半分だけ影の風景のようなものがあった。きっと誰でも見たことはあって、でも積極的には記憶しようと努めてはいなかった、ほのかな感情を含んだ情景。

 不思議だったのはBGMではなかったこと。これだけ不快感のない音楽というのならBGMとしての位置づけをすぐに思いついてしまうのだが、全くそうではない。やはり明確に、傾聴とまでは言わなくても手を止めて耳を占有させることを望んでいる。BGMであれば“+作業”によって完成するための“どことなく足りない感じ”があるのだが、ネット上で聞いた蓮沼の音楽にはその「足りなさ」はなかった。記憶の断片を静かにつなぎ合わせて調和させた音楽は実によく完成されたものに思えた。足りないピースはない。大きな卵の中で完全な栄養バランスの音楽が殻を割らないように心地よく鳴っている。この世界の中に完成された卵として浮かび、絶対に私の邪魔をしないのだが、あまりに完成されているので、もうひとつ世界ができてしまっているようにも思えた。その中に異物はないが、この世界に存在するにしては微かな異物感として空中に浮かんでいるのである。決して嫌いではない。私を邪魔したりしない。心をかき乱したり、はみ出してきたりはしない。美しく浮かんだ卵は、殻が割れない程度の音量で優しい音楽を口ずさんでいる。永遠に、そこでは、それが鳴っているだろう。

 このことを、どう批評すればいいのだろうか。と、私は首を傾げた。これはこれでいいんじゃないか、このままでいいと思って、そんな批評はあり得るだろうかと悩んだのである。それでも、何か批判的な視点を考えてもみた。これは首尾一貫して広告っぽいのではないか、とか、パッションが足りない感じがする、とか。しかし、広告っぽいとはどういうことか。実際、コマーシャルで使われている音楽は様々であり、広告として制作したからといって広告っぽいという表現に値するイデア的なものなど存在しない。第一、広告っぽいことの何が悪いと言うのか! パッションはどうだろう。ヘビメタのように世界に爪を立てるようなものだけがそれと言えるだろうか。寡黙なものや、いっそ沈黙の中にでもパッションはある。

 何となくネットを見ていると、蓮沼がほんの数日後に AWAJCafé and Galleryで行われるイベントに出演するのだということがわかりさっそく足を運ぶことにした。偶然とは言え、おもしろい企画と言えるだろう。先に書いた通り、顔や名前を知る前に音楽は耳にしたことがある方の批評を書くことになり、悩んでいる時に(しかも批評の提出期日直前に)、たまたまイベントで生の人物と会うことができるのである。全体として出会う形がフィルムの逆回し的なのである。あるいはランダムアクセス。

 さて、イベントのその日、どんな方なのだろうとワクワクしながら現地に向かった。淡路町にあるAWAJCafé and Galleryは路地に面してはガラス張りになった建物で、一階と地下に展示スペースやカフェがある。立派なエスプレッソマシンがあるので、イベントの前にエスプレッソを注文してみた。本格的な苦みのあるものだったので嬉しくなり角砂糖を入れて溶かしながら飲む。

 蓮沼の出演するイベントはゲンロンでも活躍中の漫画家西島大介の展示「トゥルーエンドを探して」の中で行われる。西島の絵画やオブジェクトがセンスよく並べられている会場内には午後の柔らかい光が差し込んでいた。蓮沼は西島、郷とのトークセッションと、そこに石塚を含めた演奏が出し物である(出し物というのも古めかしい言葉使いだが、このくらいのほどよい軽みがあった)。それぞれの制作活動や演奏活動について話し、合間に演奏が入る。こじゃれた近況報告ラジオといったところだろうか。作ったような面白ネタや美談はない。日常の中で自然に生まれてきている作品のことをまるで自分の子どもについて話すように話し、思い出アルバムをめくるように時々歌ってくれる。音楽は技を自慢げに押してくるものではなく、あくまでも私たちをもてなしてくれていて、こうなってみると、なるほどなあ、強すぎるパッションというものはやや押しつけがましいものなのかもしれない、と思い直してみたりもするのであった。

 あるひとつの演奏が終わったとき、西島が「ああ、よかったねえ」と言い、郷が「昼下がりのねえ」とのどかな様子で応えた。まさにこんな感じのイベントだった。カフェのガラス扉から温かい昼下がりの光が差し込んでほのぼのとした天国のような空間を創出し、そこで起きる音楽もまた場所に調和して、どこも尖ったもののない、まあるく優しい恩寵のように場を満たしていた。客たちにも、さあ楽しませてくれよという傲慢さもなく、招かれてにこにこと笑顔で居合わせている。すばらしい才能の持ち主の集まる家をみんなで訪問して、まるで当たり前のことのようにもてなしてくれる音楽を聞いているのだった。

 蓮沼は登場したばかりの時には表情は硬かったけれど、少しずつほどけていくのが見て取れた。これは自然なことだと思った。初めからリラックスし過ぎているのは場慣れが「作る」もので、実際には時間とともに緩んでいくことこそが完璧に自然なのだと思う。

 トークの中で、蓮沼はニューヨークの滞在場所で曲を作っているのだという話になって、その部屋には防音装置がないのだと言った。ああ、それで、と私は一人合点した。蓮沼の音楽の中でそれぞれ音が遠慮がちに譲り合って調和し、卵の中で完成しようとしているのはそのせいかと考えたのだ。それを私はパッションがない感じと受け取っていたかもしれない。音が隣の音色に気を使って出し切っていない感じがする。その抑制された音の集合でこそ不思議にデリカシーのある調和が生まれている。卵の殻を割らないように鳴っている。そして、曲の中にわずかな不協和音がある。ミスタッチではなくそういう作りになっている。不協和音と言っても音がはみ出し合って邪魔し合うのではなくて、それぞれの方向を向いたままの音が控え目に鳴る瞬間がところどころにある。その和音の中でも蓮沼は詩のように歌う。不協和音は完璧な音楽の中の一員として融けてしまっていた。よそよそしく体裁通りの平安ではない。小さなふくれっつらの居場所も音楽の中にはあった。

 このとき、クラシック音楽における室内楽という言葉が頭に浮かんだ。それまで、この言葉の意味がよくわからなかった。たとえば弦楽四重奏なら室内楽なのかというとそういうわけでもなさそうで、室内楽とそうではないものの切り分けについては明確にできずにいたのだが、イベントにおける蓮沼の演奏を聞いた時―もちろん、この解釈が正しいかどうかは定かではないのだが―これが室内楽なのかもしれないと思った。というのは、蓮沼の卵という部屋の中に作った音楽があり、その部屋の中に客は招待され、一体化して包まれて聴くというスタイルである。それは「ここだけの話ね、」という語り出しの物語のように、「ここだけの音楽」という有限化が起きる。一回きりだからとか、セッションだからとかいう意味の「ここだけの」ではなく、卵の殻の中の宇宙部屋に招かれることで聴ける音楽という意味である。演奏会場の中で熱狂に飲み込まれるようにして起きる高揚感としての一体感ではなく、今ここにあるものを包む(包まれる)という形での「ここだけの」である。

 こうしてみると、最初ネット上にある蓮沼の音楽を卵の殻の外側から眺めるように聞いた時には、こちら側には置いてきぼり感があったのかと思う。この音楽の中にだけはあるだろう親密な感じ、閉じられた完璧な平安の感じを、私は外からぼんやりと眺めながら聞いていた。そのもどかしさや寂しさを言い換えて「この音楽は広告的な気がする」とか、「パッションが少し足りない気がする」と表現していたのかもしれない。それはひょっとすると、映像を見ながら聞いてしまったからだろうか。もしも映像を見ないで音楽だけを鳴らしたら、それもイヤホンを使わずにステレオを使って鳴らしたなら、この部屋の中もあのイベントの時のように包まれる感じになるのかもしれない。

 今は夜中だからそれをやってみることはできないが、夜が明けて朝になったら、そのようにして聞いてみようと思う。(了)

 

参考文献

蓮沼執太 動画、音楽作品群(ネット上)

AWAJCafé and Gallery「西島大介トゥルーエンドを探して」展

※ 無用な注意書きとなりますが、前回同様、人前で発表する勇気がないので、選ばないでくださいね。

文字数:4208

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