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しぐさの演劇~シュルナチュラリズム(岡田利規さんのことについて)

 岡田利規さんについての評論を執筆する。以下敬称略。

 演劇は―音楽もそうであるけれど、その場限りの芸術だといって差し支えないだろう。何度も同じ公演を繰り返すことはできたとしても、公演日に起きることは一回きりであり、居合わせた観客と劇団だけが共有するものだ。もちろん後で映像として観ることもできるが、それと演劇そのものは全く違ったものであろう。公演が行われた国や街、その日の天候や現実的な時事の影響によって俳優の気分も変わるだろうし、観客が持ち込む期待やそもそも持っている文化経験も異なるのである。厳密に言えばどのような芸術だって一回性という性質をもつものだろうが、音楽や演劇はそれが顕著であり、そこに携わる芸術家は(鑑賞者も)、瞬時に消えてなくなる燃焼に向けて時間やエネルギーを捧げつくしている。絵画や彫刻といった半永久的に残るものを形作って保存するために尽力する類のものではないのである。

 岡田利規は小説家でもあるけれど、見たところ、主にその一回性の強烈な演劇というジャンルに、これまた一回性極まりない人生そのものの多くを投入している。考えてみれば潔いことだ。普通ならばこれこそは我が使命として気負ってしまって当然だろうと思われる。プロフィールだけを見た時には、きっとそんな風に気負った感じの人なのだろうと思った。しかし、ネット上にある岡田利規のインタビュー動画を見ても、そのような気負いは全く感じられなかった。ひょうひょうとしているのでもなく、こんなことはそれほどのことはないのだと言いたげなニヒリズムもない。腹決めと脱力が同居した安定感と、言葉をひとつひとつゆっくりと相手に送り届けていく静けさがあった。あたかも炬燵のある居間のような空間からそのまま抜け出してきて、普通のことを普通の速さで淡々と語っている雰囲気なのである。つい、シュルナチュラリズムとの造語を思いついてしまった。森や野菜をイメージさせる概念としてのナチュラルではない。「もっと」ナチュラル、なのである。

 残念ながらまだ劇場に足を運ぶチャンスを得ていないが、ネット上にある舞台映像をいくつも見てみると、やはりそれらの作品も気負いのなさは際立つ。俳優たちは演劇らしさを演じない。だからと言って何も演じていないのではない。むしろ、これまでに私が体験してきた「演劇らしい演劇」よりも、もっとくっきりと演じている。きちんと脱力して演じている。あれは一体何を演じているのだろうか。

 いくつかの作品に共通して見られたもの、それは「しぐさ」といったものだった。ジェスチャーとも違う。ジェスチャーは人が他者に向かって言葉に添える形でより明確に伝えようと使用する身振り手振りだが、この舞台の中で誇張されている「しぐさ」は人が自分自身に向かって問い掛けるときに無意識にとってしまう癖のような動きだと言えよう。

 たとえば、将棋の棋士には集中し始めると無意識に体を前後に揺らす人がいるし、ギタリストの中には口をぽかんと開けて下あごをかくかくと動かしながらソロパートを弾く人がいるのだが、あれは、目前に居る人々の存在は視界から消えて自己の中に深く入り込んでいる集中状態の顕れであろうと思う。

 岡田利規の演出する舞台に立つ俳優たちには、そういった無意識に起きてしまう「しぐさ」を際立たせて反復しながら何かを語る様子が頻繁に見られるのだ。誰かの無意識の中で起きている現象は岡田によって鋭く見抜かれて抽出され、俳優たちがそれを意図的に演じている。無意識に起きているものを表側まで引っ張り出してデフォルメし、やや強調して観客たちの目の前にありありと見せている。それらを観ている時には、そういえば友人の数学者は考えを語り始めるとあれに似た動きをし始めるとか、知人は嫌いな上司の話を始めるとあんな感じになるとかを思い出し、また自分も何かそういったしぐさをしているだろうかと思わずにはいられなくなる。そしてさらに思い出す。このようなしぐさは互いに社会的な役割のない場所において心を開き信頼し合った対話の中でのみ起きたものだったことを。舞台では、そういう開かれた対話のしぐさが演じられているのである。気負わないから、癖がダイレクトに出てしまう。オープンダイアローグとも言えるのだろうか。

 さらに、その誇張されたしぐさの反復により、見ている側としては目の前で起きている舞台は脳内の記憶なのだろうかとも感じる。記憶においては、静止しているものを反復再生する時のように他者の印象的な癖を何度も反復して定着させてしまうところがあり、この舞台は脳の中の対話を再現したような質感を持っていると言える。そのためなのだろうか、岡田利規の演出した舞台(映像ではあるが)を眺めているうちに、私はこの夏に訪れた六本木の国立新美術館で見たジャコメッティの彫刻を思い出してしまった。ジャコメッティの彫刻はそぎ落とした美と言われることも多いが、私自身は実物作品を見た時「むしろ肉厚となった視線の軌跡」と感じ、ジャコメッティの視線が創作時にモチーフとなる対象とこれから彫り進む素材の間を行ったり来たりした時に発生した脳内の残像を立体化したものではないかと考えているのだが、岡田利規の舞台芸術もそのような脳内の対話の残像軌跡に見えたのである。

 脳内でデフォルメしてしまった知人たちの対話風景を、劇内での音楽は少しドラマティックに仕立てる。対話が旋律となって重なり全体に歌のようにも響く。音楽は舞台のための演出だけではなくて、私たちが脳内で起こしている演出のリアルな描きとりでもあるだろう。我々はこんな風にやってしまっているんじゃないか、自己内部で演出してしまっているんじゃないかと見せる。

 私たちは社会的な立場として人と接する時には何かのペルソナを演じると言われているが、逆に他者を記憶の中で再生するときにも、迎え入れた対象を脳の中でデフォルメしてドラマティックに演じさせているのだろう。シュルナチュラリストの人は意図的ではないにしろ、シビアな洞察によってそのように提示する。確かに脳の中にはあまり囲いのない空間があって、そこにはシンプルな置物があり、知人たちをモチーフにしつつも自分自身で作り上げてしまった―捏造してしまった―脱力している俳優たちが延々と葛藤しているだろう。自己欺瞞でもあるだろうし演劇に似たものかもしれない。ジャコメッティの彫刻が美しいように、やはりその脳内軌跡である演劇は捉えどころのない風合いがあり、外から過度に与えられた装飾もなく美しいと言える。

 ペルソナとして演じてもいるし、脳内でデフォルメされたしぐさを持つ知人たちを演じさせているのだとすると、世界や人生の成り立ちはどこまでも演劇そのものでしかないとも言え、そのような中で、劇作家です、俳優ですとの職業的在り方を引き受けて生きてみようと覚悟することは、演技者としての立ち位置を取りながらも、実際には真実の姿にもっとも接近しているのかもしれない。一回性についても、私たちの人生は一回性そのものであり(様々な思想はあるだろうけれど)、この人生全体を形にして保存することはできず、アルバムをめくりながら回想することはできても時間を戻して丸ごと追体験することもできないのであり、ならば演劇の「公演日に劇場で起きることがほとんど全てである」という性質も含めて、この人生を率直に言い換えたものでもある。演劇は人生の縮図なのだ。

 さて、岡田利規はそのような演劇に潔く身を投じて、何をする のだろうか。

 たった一人の人間がひとつの時代や芸術などのジャンルに影響を与えてこれまでの流れを大きく変えたり、ずっと昔のものをリバイバルさせたりすることは少なくない。一人の影響ではなく全体として変わったのだと言っても、最初の投石は一人かもしれないし、最初の一投石ではないにせよ、この人こそはごく初期段階でその波紋を受け取ってさらに拡張したと言って間違いないキーパーソンは特定できるはずだ。岡田利規は演劇というジャンルにおいて、そのような変化のための初動を与えている人物なのだろうか。

 もしも上記のことをご本人に問い合わせたら「僕は特にそんなことを考えていません、演劇がやりたいだけです」と言われてしまいそうだ。きっとそうであろう。いや、このような脳内の質疑応答こそは私の妄想で(そうか、これぞ演劇ではないか!)、私自身が勝手に脳内で「岡田利規」をイメージしデフォルメして演じさせてしまっているだけなのである。先述した通り、私たち人間のそれぞれの脳内劇場においてはこのように自作自演で他者を質疑応答に駆り出して対話し、あたかも実際にそうであるかのように思い込んだ自分勝手なものなのだろうから、誰だって己の脳内劇場の主宰者であり作家であり演出家なのだ。みんなどこか「脳内岡田利規」なのだ。そうではないですかと問うと、私の脳内岡田利規は言う。「そうかもしれません。だから僕は特に気負ったことなんて何もしていません。みんなが内側でやっていることを、そのまま外側でやっているだけです」

 結論として岡田利規は演劇というジャンルを大きく変化させるだろうか。あるいは時代を? わからない。私たちが普段ペルソナとしては演じることのできない無意識の「しぐさ」を抜き出して演じて見せることは私たちが封印している後姿を顕現させて見せるようなものでもあるが、そのことが演劇の(時代の)何を変えるのだろう。

 確かに以下のことは言えよう。

 無意識の少しいびつな「しぐさ」たちは個性的なのにどこかで見たことのある懐かしさがあり、なぜか少しエロティックでもある。目を逸らしてきたものを直視することへの微かな羞恥心が匂い出すからだろうか。エロスとは対象の肉体の方にではなく、しぐさに共感する主体の感情側にあるという示唆を受け取る。岡田の舞台を観て、普段は気付かないうちに湧いては消えている小さなエロスの感覚にドキッとさせられるのなら、観客は都度何かを考え直す機会を得るだろうし、内的には何かが更新されてしまうのであろう。(了)

 

参考文献

Discordant Harmony-Okada Toshiki

チェルフィッシュ上演動画群(YouTubeより)

ALBERTO GIACOMETTI 2017年展覧会(国立新美術館)図録

 

※前回と同じく、そのレベルに達しているとも思いませんが、テレビの前で発表する勇気がありませんので、選ばないでくださいませ。よろしくお願いいたします。

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