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誤認される身体

 肉体は身体の一部に過ぎないと言えば神秘主義的と思われるだろうか。偶然かもしれないが、身体とは神体と音声を同じくするシンタイであり、とすると身体は肉体よりも神体に近しいと思える。身体とは神体へ向けては透け透けのものであり、個人とは肉体がわずかに囲いを与えているに過ぎないという思い方なのである。

 身体と肉体の違いについてもう少し考えてみよう。

 肉体とは目に見える物理的な体であり、身体とは目に見えない五感や機能をも含む全体的(神体的)な働きをも含む体である。

 心身一如という言葉があり、心と体はひとつのものだという意味で、体は仮の存在であり心こそが真実のものであるという二元性を否定するものだ。心が健康であれば体も健康であると言うのだが、ここで大事なのは心肉一如とは言わないことである。外側から見て健康そうに見える肉体でも内側に腰痛や内臓疾患を持っている場合もあるし、人は見かけに依らないという言葉もある通り、よほどの眼力でもないと内実まではわからないものだろう。

 また、私たちが人を好きになるとき、厳密に言って誰かの肉体そのものを好きになることはあるだろうか。あったとして、その好きという感情は持続するものなのだろうか。肉体の様相は日々刻々と変化し、いずれは老いていく。肉体の様相が好きだと言っても、おそらくその好きという感情そのものが恋しかったり、肉体の様相から想像できる心身の在り方を恋しく思ったりしているのではないか。一見強そうな体つきの人が小心であったり、いかにも貧相な顔つきの人が頑丈な精神を持っていたりすることはよくあるもので、長い間観察しているうちに、表情やしぐさなどから、だんだんと心身の方が現れ始め、好ましくなったりそうでもなくなったりするものだ。ここで言う心身とは心だけではなく、活発さや利発さ、優雅さや柔軟さなどの「働き」、つまり身体をも含むのである。

 さて、こういった肉体と身体のイメージの不一致についてはかつてなく認識しやすい時代となったといえるだろう。たとえば、SNS上で見るある人の肉体イメージが、実存している身体イメージとは随分異なっていることは多い。画像の加工という技術も発達した。SNS上というワンクッションがなかった時代には肉体イメージと身体イメージは別物だという認識を明確化するチャンスは少なかったのかもしれないが、現代のように第一印象が肉体の実態ではなくSNS上の画像である時、そこからイメージする身体は、かつてのように最初から実態を見た時代よりも「ズレ」が大きいだろう。そこでクローズアップされるのは「誤認される身体」というテーマである。

 ヨガの話をしよう。ヨガとは「誤認されない身体=思いの中の自己が等身大となること」を目指すものでもあり、このテーマに関して思い巡らすことに適しているだろうと思う。

 私は20歳くらいの時(1990年頃)にヨガの第一次ブームを体験し、その時は本を見てストレッチをやる程度にヨガを体験した。22歳でカルチャーセンターのような場所でヨガクラスを体験し、ストレッチ的なものに呼吸が加わってくるのだと知った。いくつかポーズをした後、大の字にになって(シャバアサナ)血や気の巡りを解放する時間をとった。そこで先生の言われたことは「ヨガは感じるものです。ポーズの形をとるものではありません」であった。そうだったのか、と本を見てストレッチをしていた過去の自分を思い出して笑い出しそうにさえなったものである。その後、結婚や出産によるブランクがあり、35歳の時に第二次ブームを迎えて再開した。しばらくは上記の教えと同じような取り組みだったが、当時、世界的なブームとなったせいか「外から見た形」をアジャストすることが流行した。レッスンクラスの中ではインストラクターが正しいやり方を外から修正して回るのである。そして、よくできている人とそうでもない人に分けられていった。私はこの辺りから、ヨガに違和感を覚え始めて自分なりのスタイルを追求するようになっていった。というのは、アジャストされた後、身体の居心地は悪くなることも多かったからである。外から見た肉体の正しさと内的な身体の快適さは必ずしも一致するものではないという事実について考えた。この一致点を独自で模索するのが私のヨガにおける研究テーマのひとつとなった。

 この取り組みの中でわかったのは、楽であり続けるのと快適であるのは同じではないことや、外側からアジャストされることへの不快と同時に、何かそれでも指摘されてみたいような依存心が生まれること。内的な快適さを反故にしてでも外側のアジャストに従う時に起きる忍耐としての高揚もある。もちろんエゴの強い私はすぐに我流へと戻すのだが、この時、心というものの一筋縄ではいかないことを認識したものだった。

 ヨガにおいて、様々な肉体と身体のせめぎ合いを体験し、業界的な評価も外側に決められた肉体の正しさ(言動の外面的な正しさも含む)にどれだけ近付けるかということで決定されていく中にいて、ありとあらゆる葛藤と向き合うことになった。私の身体が快適を目指すことと、外的な評価が全く折り合わない。いつしか、私が私の身体の快適さを追求することが、まるで異端児の悪者であるような錯覚も得て、従う人=よい人間、我流の快適さを追求する人=悪い人間という構図に自らすっぽりとはまり込んでしまって身動きできなくなり、何をどう生きればいいのかわからなくなっていった。今になってそれを明確に言語化してみると「誤認される身体」が真実を理解されようともがいていたと言える。ヨガのポーズの話だけではなくなっていった。私の人生の形と本心の快適さの折り合いにまで思いを向ける他ない状況へとなっていった(ヨガの素晴らしいのはこのような個人的な哲学探究が起きることなのだ!)。

 外側からアジャストすることの示すヨガの正しさとは一体何か。実のところ、美ではない。「安全性」なのである。膝を曲げて立つ時には膝から下と床は垂直でなければいけないとか、肩は縮めないで緩やかに下すとかいった「正解」は、当然、解剖学上間違いではなく、僅かなアジャストによって安全の位置を体得できるようになるためのものである。これを学ぶことで、日常的に重いものを持ち上げる時に膝や腰の正位置を確認したり、緊張しがちな場所に出なければいけないような時にそっと肩を下に落としたりして、自己修正することができるようになるのではある。学んでおいて損はないのかもしれない。しかし、正しさの絶対的な評価項目として捉えられるべきではないだろうし、内的な心地よさとの組み合わせによって微調整されなくてはいけない。安全であろうとすることのみに縛られる在り方はむしろ息苦しくなり結果的には安全でもない。安全だが快適とはいえない状態に留まり続けることにもなる。

 少しマニアックな話をすると、ヨガはプラーナのコントロールであり、ポーズの形を作って筋トレするものではないから、呼吸を伴ったポーズの維持をすれば誰でも内側からプラーナが湧きおこり、初期段階では戸惑うこともある。凝り固まったものがあって頭頂へとエネルギーを通し切ることができなかったり、喉元で上へと抜けすぎるのを防ぐバンダという技術を習得していなかったりする場合には脳にとって危機的な状況になる場合もある。そこから考えてみると、肩を縮めて首から上へとエネルギーが向かわないようにするのはむしろ正しい防御でもあるのだといえる。私たちが何かを怖がっている時にとる肩をすぼめたポーズ、あれは頭に血が上りそうになるのを肩に力を入れて止めているのであって、安全性から見ても間違ってはいない。それを外から肩の力を抜くようにとアジャストすることには疑問が残る。アジャストの前に、頭頂からエネルギーを抜く方法を先に習得させるか、喉元のバンダ(ジャーランダラバンダ)を先に習得させるべきなのだ(アイアンガーというヨギも「ヨガ呼吸・瞑想百科」の中でバンダの中ではジャーランダラバンダを最初に習得すべきだと述べている)。あるいは足腰の安定感を先に鍛錬するようにする。しかし、当時は外側から撮影したヨガのグラビアが大量に街に溢れ、その形をなぞろうとする動きはなかなか止まなかった。ジャーランダラバンダの正しい方法を真っ先に教えようとする指導者は少なかった。

 ヨガ業界において、そういった肉体イメージとしてのアプローチが活発であった時、私はひとりで、私の内観に従って古典を解釈し直し、ポーズと言われているアーサナをとらえ直していった。その中でも、私にとっては、太陽礼拝は完全に流線形であるべきだという考えに至った。ロボット体操のように合掌→万歳→二つ折り→三日月→…とやるのではなく、一連の動きにつなぎ目のないように回転させる。そもそも動画のなかった時代に分割表示して絵にして記録しただけで、実際には滑らかに回転させていたのではないかと考えた。流線形の回転型太陽礼拝を数回もすれば私の身体は覆いとしての肉体の外側へとはみ出し外側の神体とリンクするように感じた。ロボット体操のように角があるとうまくリンクせずプラーナ(呼吸)だけが放出されていく。スポーツのように発散はするが浪費した。浪費し、後のシャバアサナでチャージすることになる。この断捨離しては買い直すような無駄は効率が悪いと思った。そこで、浪費でもなく充電でもなく、身体を神体にリンクするために太陽礼拝を流線形に回転させることを思いついた。リコネクションともいうのかもしれない。そこでやっと身体は誤認を免れる。神体とつながってしまうことで、誤認すべき身体そのものが消えるからである。

 いずれにしても己の肉体は見えず、身体は誤認に晒されている。私たちという存在はそのような手探り状態であることを疑わずにいよう。誤認される身体。それは恥ではなく、すべての人にとってそうなのである。(了)

 

※恥を忍んでお断りするのですが、ニコ生のカメラの前に出る勇気がありませんので、選ばないでくださいね(選ばれるようなものではないとは承知しておりますが、念のため書きました。でもみなさんと一緒に掲載されると楽しいので投稿しました。)。

 

参考文献

ヨガ呼吸・瞑想百科 B・K・Sアイアンガー著

 

文字数:4208

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