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ソナタ、彼らの弱さを歌うソナタ。

 黒沢清といえばホラーやサスペンスの大御所といったところだが、彼の代表作の中でひときわ異彩を放つのが『トウキョウソナタ』(2008年発表の映画)だ。東京に暮らすある一家の様子を描いたこの作品は、連続殺人事件が起こったり、未確認の寄生虫が登場したりという風ではないが、激しく揺れ動きながら葛藤を繰り返す人間の心象風景がつぶさに描写され、克明に表れる人々の内面の、苦しみと弱さが、画面の外まで溢れ出る。そんな『トウキョウソナタ』が放つのは、リアリズムから来る、男性に向けた「フェミニズム的」な救済メッセージなのである。どういうことだろうか。

 主人公の佐々木竜平は、妻子を養う一家の大黒柱として、亭主関白に暮らしていた。彼は有名な企業の中の重要なポジションに就いていたが、ある時突然リストラされてしまう。のみならず、それを妻子に打ち明けることができないで、妻子に嘘をつくようになる。そして表向きは「厳格な父親」を装いながら、裏で密かに職探しに奔走するのだった。竜平より以前から同様の状態に陥っている友人の黒須と意気投合するも、黒須は一家心中をはかって亡くなってしまう。それでも竜平の自宅では、家族が食卓を囲んだ時、父親である竜平が食事に箸をつけるまで他の者は食事をしてはならないという、家父長制然としたルールがしっかりと生き残っているのであった。その構図は、亡くなった黒須とその家族の構図に重なっていた。

 竜平はのち、ショッピングモールの清掃員の職につくが、偶然拾った札束をネコババしそうになったり、強盗に脅されている妻を助けることなく逃げ出したりと、終始において情けなさを強調して描かれる。こういった権威が最下層まで凋落し尽くしたイメージは、竜平についてのみならず、その妻や息子の周辺でも繰り返し表出される。竜平の妻の恵は、強盗に襲われて家の中をめちゃくちゃに荒らされ、脅されて、まるで共犯者のように盗難車を運転し、強盗と一晩を過ごすことになるのだ。また、長男の貴はまるで家出のように渡米してしまうし、次男の健二は、担任の教師の面目をおおいに潰す。加えて、ピアノの才能を活かすための進学は出来ないと諦めさせられ、非行をはたらいて警察の留置所で夜を過ごすことにもなる。そうやって、彼らが今まで積み重ねてきた、彼らのアイデンティティーにも関わる立場が、音を立てて崩壊していく様を、この映画は何度も何度も、繰り返し描写する。特に主人公が背負っている「男らしさ」または「家長の務め」といった類のプレッシャーの大きさと、その責任を果たせない現実の残酷さについては念入りに。

 主要な登場人物たちの全てが、それまでの自己イメージの崩壊を味わって、「権威の失墜」を我が身に体験した後になると、「リセット」や「はじめからやり直す」といったキーワードが、彼らの中から頻出するようになる。失墜した後、かつて権威だった存在はどうなるのか? やりなおしは効くのだろうか? その部分こそ、この映画の醍醐味で登場人物たちの願いだ。そして着目すべきは、この映画の、権威が失墜し始めてからの様子を、その一挙手一投足までをも繊細に描写していくという点にある。振り返れば、この物語はまず、時代の流れによって権威的な場所から降格させられた「元強者」が発生するところから始まり、終盤で彼が交通事故に遭う、つまり擬似的に死ぬという部分できりがつく。しかしその後、映画の最終盤になると、彼は「蘇生」するのだ。この場合、「死んだ」のは彼自身ではなく、権威的な、男らしくて大きな責任を背負った強者としての自分像であった。よくよく見れば、竜平は別段、大きく健康を損なったり、今までの信用や財産の全てを失ったりはしていない。この状態を言い換えれば、リストラされるなどの出来事は「強者」の立場から見れば降格だが、だからと言って竜平が社会的弱者になったのではない、ということになる。むしろ今まで存在していた彼への報酬や責任が、社会の不均等によって発生した過大なものであったので、それが是正されたにすぎないのだ。それは次のシーンに象徴され、これを裏付けている。偶然拾った札束を懐に隠し持った竜平が走り回るが、彼が擬似的に死んだのち、自らの意思で札束を遺棄するという部分だ。そもそも彼が会社をリストラされた理由は、それまで日本にいなかった優秀な外国人の若者の台頭だが、それは同時に、その外国人たちの、優秀なのに社会進出できない不遇が是正されたことを示している。社会の中の不公平が正されたことによって自分の地位がいくばくか下がっても、それは正当なことであると、彼自身も実のところ理解しているのだ。

 ただ彼はしばらくの間、権威からの失墜を受け入れることができず、それによってひどく苦しむことになる。そしてこの映画は、竜平のような人々への手助けとして差し出されている作品なのだ。まず、妻子に対して嘘をつくのはつらくて苦しい。映画の中の竜平自身もそれを理解しているし、身を以て体験する。次に、夫の竜平より妻の恵の方が子供の管理がよくできているが、竜平の振る舞いは妻へも子供たちへも常に尊大で、物語は、これは不当な権力を笠に着ているのだと暴く。これも竜平自身が理解し、体験する。けれど、そんなまがい物の「男らしさ」の囚われに起因する苦しみや迷いが、現実の世界に多く存在するのも確かな事実であり、竜平はまさに、自分が一家の大黒柱でなくてはならないという抑圧を真正面から受け取らされている存在だ。そして物語は、きっと観ている大勢の「竜平」にメッセージを放つのである。過大に評価されている自分像を死なせて良いのだ、偶然拾った札束を手放して構わないのだ、と。

 「男の弱さとは、じぶんの弱さを認めることができない弱さだ」(※1)。ある批評家はそう語る。それを鑑みると、竜平の様子はまさにその「男の弱さ」を全面的に強調して固めた表現になっていると分かる。映画で竜平の振る舞いに変換された「男性性」は、弱さをうまく吐き出せないことや、弱さとの付き合い方が下手である等の弱点を内包しており、しかもそのための言説が、今の社会には圧倒的に不足しているといった要素にもつながる。

 竜平にとってリストラは権威を失う大事件だった。しかし、それは例えば世界の終わりなどでは全くなく、傍目には「ちょうど中間よりやや上の地位にいた人物が、ちょうど中間の位置に移動した」だけのことでしかない。そして竜平も、以前より条件が下がることさえ受け入れれば、新しい職の選択肢は豊富にあるし、実際それを理解しているのだ。結局のところ彼は、清掃業で納得することができて落ち着く。似たような話は世間に偏在しており、わざわざ事件として語るに値しない。だがこの作品は、そんな、たったそれだけの瑣末な部分に焦点をあてることで、男性性が抱える弱さの部分を抽出し、男性の弱さへの拡大鏡として機能しているのだ。そして同時に、男性性に悩んでいる当事者へのエールを送る形になっている。これは、一見すると逆のような印象だが、フェミニズムにも通底している現象である。フェミニズムなどの運動は、弱い立場にいる人々がそれを理解し、強い立場にいる人々へ向かって公正を求めるという性質のものだ。そのため、まず自分たちの立場の弱さを認めることが前提となっている。そして、全体的に見れば恵まれている男性の中にも苦しみはあり、立場が弱い男性も存在する。場合によっては、地位を向上させた女性より低い位置に、多くの男性が立っているようにもなる。そんな、己の弱さと向き合わねばならない男性たちのために放たれたメッセージであるこの映画は、自分の弱さを受け止めて上手につきあうために、不当な理由によって優遇されている部分を手放すことが必要だとうったえかけるのだ。もちろん同様の行為が、地位の向上に成功した女性にも当てはまる。

 今の社会に圧倒的に不足している部分へ切り込んでいるからこそ『トウキョウソナタ』は高く評価されているのだ。

 

※1:『非モテの品格 男にとって「弱さ」とは何か』より抜粋。杉田俊介著、2016年、集英社新書より発行。

文字数:3332

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