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「童話再生論」として読む、『スピノザの方法』『暇と退屈の倫理学』『中動態の世界』

 

「童話は乳母のするおとぎ話である」とは、プラトンによる最も古い童話論である。乳母が夜な夜な子どもたちに語り聞かせる架空の話。カレル・チャペックはさまざまな童話論を検分したのち、プラトンの理論が最も妥当だと述べているが、童話の起源を辿れば、それは必ずしも子どもに向けたものというわけではなかった。人類が未だ文字というものをもたなかったとき、無論「童話」などという言葉もなかったとき、童話は大人子どもみなのものだった。みなで車座になって焚き火を囲み、長老のあるいは話術巧みな若者の話に、笑い泣き、ときには彼方の世界へ思いを馳せ、ときには怖ろしさに身震いし、聞き入ったことだろう。カレル・チャペックは言う--童話は「車座になった聴衆のなかでの語り」であり、「語りたいという欲求と聞く喜びから生れる」、と[1]。しかし、文字と印刷術の発明は、私たちからこの喜びを奪っていった。現代において童話は、太古の語りを窺い知ることのできる、ほぼ唯一の痕跡である。それは、文字以前の世界を生きる幼い子どもたち相手に、かろうじて残されている。

哲学者國分功一郎は、童話を再生する。彼の原点となる著書『スピノザの方法』、そして彼の主著である『暇と退屈の倫理学』と『中動態の世界』--これらを通じて國分功一郎は、童話の再生を試みている。これは、著作の内容が童話的であるとか、文章の構造が童話と同型であるとか、そういう話ではない。ではどういうことなのか。それをこれから明らかにしていくつもりだが、予告的に一言で表すならば、それは「童話的な語りの復活」ということだ。その意味と意義を詳らかにするために、まずは「童話」という言葉の意味するところから述べる必要があるだろう。

 

1. 童話とは何か

童話に関しては、民俗学や文献学、心理学など多方面からの研究がなされている。童話の起源や伝承ルートが明らかにされ、通底するモチーフや形式が見出され、現代では、童話というものの定義をより詳細に示すことができる。にもかかわらず、「童話は乳母のするおとぎ話である」というプラトンによる最古の童話論が未だに最も妥当だと言われ得るのは、それが童話の形式や内容ではなく、在り方に着目しているからであろう。形式や内容から童話を解釈する限り、その妥当性はいつも部分的なものにとどまる。対して、プラトンの解釈は、太古から現代までを貫く童話の在り方を上手く言い表している。

いや、もしかすると、「乳母」という言葉に引っかかりを覚える者があるかもしれない。確かに、太古においては「乳母」が語り部ではなかったであろうし、現代においては「乳母」など存在しない国や地域が多いだろう。しかし、プラトンやチャペックが字義どおりの意味で使っている「乳母」の語の意味を少し広げて解釈するならば、たちまちその語の妥当性は納得されるはずだ。「乳母」とは何か。それは、母親の代わりに子どもの面倒をみる女性のことである。が、童話の語り手としてのこの語が意味するところは、「母親の代わり」でもなく「女性」でもなく、「子どもの面倒をみる」者ということだ。つまり、童話の語り手は、何かしら「教育者」としての役割を担う者だということである。後に述べるように、童話の語り手としての教育者は、強制的な働きかけを行うような強い教育者ではない。もっと弱い教育者である。童話の語りの場における主役は、あくまで話中の登場人物であって、語り手ではない。語り手はなるべく自身の存在を消し去ろうとするものだ。このことからも、語り手が決して強い教育者ではあり得ないということは、容易に想像がつくだろう。ともあれ、「乳母」を「弱い教育者」に言い換えるならば、童話とは「弱い教育者の語るおとぎ話」だということになる。

さて、ここでもうひとつ明らかにしておくべきは、「おとぎ話」とは何かということである。手元の辞書には「現実とは懸け離れた架空の話」とあるが、これは、ほとんどすべての童話に共通した特徴として挙げられる「神秘的な遠さ」[2]をもった設定によって生み出されるものである。「昔々あるところに」という常套句に代表される、具体的な時と場所を定めない、遠い昔の遠いところという「神秘的な遠さ」をもった設定によって、現実とは懸け離れた世界を立ち上げることが可能となるのだ。具体的な現実の制約を取り外すことによって、童話は、現実に左右されることなく自由に観念を組み合わせて事物をつくっていくことができる。例えば、「天」と「木」という言葉を組み合わせて「天まで伸びる木」を創造する、というように。

童話とは何か。それは「弱い教育者の語るおとぎ話」であり、現実に左右されない観念の組み合わせで創造される架空の話である。では、そのような意味での童話を、國分功一郎は如何に再生するのだろうか。

 

2.「おとぎ話」を語る「弱い教育者」の再生--『スピノザの方法』

國分功一郎は『スピノザの方法』において、「方法」とは何かを論じた哲学者スピノザの抱え込むさまざまな矛盾の解決に挑む。スピノザは、方法とは真理が適当な順序で求められる「道」であるという「方法の定義」を与えると同時に、「方法の役割」として「精神の指導と制御」を挙げた。スピノザの方法が「道」であると同時に「道」について語るものでなければならないという矛盾を孕んでいるというのが、解決すべき問題のひとつだ。「方法の定義が方法と道との同一視を求めるのに対し、方法の役割は両者を区別することを求める」[3]という矛盾である。ジョアキムによって指摘されたこの「方法の定義」と「方法の役割」の不整合を、國分は「方法の逆説」と呼ぶ。スピノザの抱えるもうひとつの矛盾は、國分が「方法論の逆説」と呼ぶものだ。方法論は方法を示すが、それには別の方法が必要になり、さらにその方法を示すためにまた別の方法が必要になり……という無限遡行が避けられない。「方法論は方法論であるかぎりにおいて無限遡行の問題を取り扱わねばならず、方法論であるかぎりにおいて無限遡行の問題を解決できない」[4]という矛盾である。

このような逆説が生じた原因を、ヴィオレットは、スピノザが「創出された方法」(他人に道筋を示してもらうことができる方法)と「創出的方法」(自分自身で漸進的に手に入れるほかない方法)を混同していたことにあると指摘した。スピノザの哲学は「創出的方法」に属するものであるのにもかかわらず、「創出された方法」として提示可能だと考えたことに無理があったということだ。これに対し國分は、スピノザの難点は「創出された方法」と「創出的方法」を混同したところにあるのではなく、むしろそれらを区別したところにあるのだと反論する。「スピノザはふたつの方法の役割のそれぞれを同時に果たすことのできる哲学を構想していたのに、それらを区別しようとしたところに問題があるのだ」[5]との指摘である。ヴィオレットの「創出された方法」と「創出的方法」を國分の用語に置き換えれば、それは「方法論」と「方法」となる。つまり、スピノザの「方法」と「方法論」は区別できないという解釈を國分は打ち出す。こうして國分は、「方法の逆説」と「方法論の逆説」という二つの逆説を同時に解決する道筋をつける。

その上で國分は、スピノザの「観念の連結と事物の連結の同一性」という考え方と「最高完全者の観念」という概念をもって、二つの逆説の同時解決にあたる。「観念の連結と事物の連結の同一性」とは、観念と事物の間には因果関係があるのではなく、平行関係のみがあるという考え方である。観念は観念だけ使って観念の連鎖をつくり出すが、その連鎖は事物の連鎖と対応している。「最高完全者の観念」とは、もっとも優れた観念対象の観念、すなわちもっとも優れた観念を意味する。[6] 以上の二つを以って、國分による二つの逆説の解決は、次のように示される。「精神は、最高完全者の観念に到達し、そこから観念獲得を実現していくならば、最高完全者こそはあらゆる事物の根源と源泉であるのだから、諸事物の連結に正確に対応する観念の連結を得ることができ」、「そのとき精神は、みずからの形成する観念の連結によって指導・制御される」。ここで方法の定義と役割の不整合は解かれ、「方法の逆説」が解決されている。またここには、方法と同時に方法論も現れている。精神は「みずからに固有の知性の諸法則に出会い、それを学んでいく」のだ。つまり、「方法の逆説」と同時に「方法論の逆説」も解決されている。[7]

しかし、ここには見逃してはならないひとつの重大なカラクリがある。それは、これら二つの逆説の解決が、実は新たなもうひとつの課題を呼び込むことによって成し遂げられていたということである。その課題とは、二つの逆説の解決にあたり、最高完全者の観念への到達が前提とされているということである。そこへ至ることができさえすれば、あとは解決済みだが、肝心のスタート地点に立つまでの道程が示されていない。國分のスピノザ解釈は、如何にこの課題を解決するのか。

國分は、『エチカ』においてスピノザが「最初の道」に関して「与えられた真の観念」から出発する、つまり「所与の条件のなかにある真理性」を手がかりにすると述べていることに着目する。ただし、これは「身体が受ける偶然の刺激からではなくて、純粋精神から生ずる観念」から出発しなければならないという。身体が受ける刺激によって形成された観念は、どこに真理性があるのかが曖昧であるのに対し、幾何学図形のように純粋精神から生ずる観念は、どこが真理でどこが真理でないかが明白であるからだ。しかし、これは裏を返せば、明白に真でないものを含んだ観念を出発点にするということである。つまり、「虚構」を足がかりにして、最高完全者の観念への到達を目指すということである。ひとたび最高完全者の観念へ到達すれば「虚構」の必要はなくなるはずだという仮定のもと、「虚構」を頼りに出発するのだ。

國分が『スピノザの方法』において試みたスピノザの二つの逆説の解決は、その前提に「虚構」を要請するものだった。ここでいう「虚構」とは、幾何学図形のように純粋精神から生ずる観念のうちに含まれる「虚構」のことである。これは、「現実に左右されない観念の組み合わせで創造される虚構」と言い換えることができる。ところで、これはそっくりそのまま童話における「おとぎ話」の定義ではなかったか。このようにして、國分が描くスピノザの哲学は、その要諦に「おとぎ話」を抱える。「おとぎ話」こそが、真理を求める道としての「方法」かつ「方法論」を唯一可能にしたのである。

 

このようにスピノザが「道」として定義する「方法」かつ「方法論」は、しかし、誰かを説得しようと提示される類のものではない。それは誰の説得をも試みない「弱い真理」なのだと、國分は指摘する。[8] デカルトが、ソフィストの懐疑論に対抗するためコギトなる「強い真理」を打ち出したのとは対照的に、スピノザは、説得や論駁を必要としない「弱い真理」の提示方法を探求した。それがどのように可能かを思考し、そうしてスピノザの出した答えは、原理に到達するまでの手続きは到達した原理によって正当化されると同時に、その利用がもはや必要ないことが告げられ破棄される、という論理であった。それは、導く相手の思惟の過程を一緒に辿るが、ひとたびその相手が原理に到達するやいなや消え去る教師、みずからの消滅をめざして活動する教師の在り方であると、國分はいう。「スピノザの方法は教育の理念である」と國分は書く。[9]

童話の語り手も、そのような「弱い教育者」であった。観念の組み合わせによって可能となる現実とは懸け離れたどこか遠い世界へ相手を誘い導き、「弱い真理」を求める道程を一緒に辿る。説得も論駁も説教も強制もしない。語り手は、消え去ることをめざして語る。國分の『スピノザの方法』は、この童話の語り手のような「弱い教育者」として、スピノザの哲学を描き出している。

 

3. 童話の「語り」と「言葉」の再生--『暇と退屈の倫理学』『中動態の世界』

國分功一郎は『スピノザの方法』によって「弱い教育者」の語る「おとぎ話」という童話的価値を見出したのち、今度は『暇と退屈の倫理学』および『中動態の世界』という二つの大著によって、童話の「語り」そのもの、さらに童話を語るための「言葉」の再生を図ったように思われる。

『暇と退屈の倫理学』は、大学での講義をもとにして書かれた本である。現代の童話に太古の語りの痕跡を見出すように、私たちは國分の『暇と退屈の倫理学』に彼の「語り」の痕跡を見出すことができる。それは例えば、「結論」部分に書かれた次のような一節を通してである。

以下、これまでに得られた成果をまとめ直し、〈暇と退屈の倫理学〉が向かう二つの方向性を結論として提示する。ただし、それら二つの結論は、本書を通読するという過程を経てはじめて意味をもつ。[10]

結論だけを読んで知識を吸収した気になったり、結論だけを取り上げて議論したりすることの無意味さを警告する一節である。多くの著者が思ってはいても書かないことを敢えて書くのは、本書においては、読書の「過程」というものの位置付けが特殊だからである(すでに國分の『スピノザの方法』を読んだ私たちにとってはもはや特殊ではないだろうが、一般的な意味においては、ということである)。『暇と退屈の倫理学』は、読む「過程」でのみ可能なことによって、その読書が可能になる、というような構造をもつからだ。どういうことか。國分の示す退屈への対処方法は、それに従えば解決するというような「方法論」ではなく、スピノザのように「方法」と「方法論」は切り離せないものとして提示されている。つまり、「方法論」だけを取り出すことの不可能な、「過程」のなかで「方法」と「方法論」が同時に得られるような、そういう処方箋なのである。

これは國分による「スピノザの方法」の実践、すなわち「弱い教育者」としての童話の「語り」の実践と言えるだろう。「弱い教育者」たる國分の「語り」に導かれて、私たちは、みずからでみずからの法則に出会わなければならない。

 

そして、このみずから切り開かねばならない退屈への対処法は、『中動態の世界』によって示されるところの「中動態」の概念をもって、はじめて実行可能になる。「主語から出発して、主語の外で完遂する過程」を指し示す「能動態」に対するところの「中動態」は、「主語が過程の内部にある」用法と定義される。[11]『暇と退屈の倫理学』において國分がわれわれを導かんとしているところは、まさに「過程の内部」にありつづけることであるし、また、國分が退屈に対処するための方法として提示する気晴らしを「享受する」という動詞も、「中動態」の振る舞いなのである。

同様に、童話の「語り」を聞く者も、やはり「過程の内部」にとどまり「享受する」ことを行う。童話の語り手は、聞き手の「中動態」的振る舞いを可能にするためにこそ、「弱い教育者」であらねばならないと言える。

 

 


[1] カレル・チャペック著、田才益夫訳『カレル・チャペックの童話の作り方』青土社、2005年、p.150

[2] 同上 p.146

[3] 國分功一郎『スピノザの方法』みすず書房、2011年、p.64

[4] 同上 p.74

[5] 同上 p.91

[6] 同上 p.258-259

[7] 同上 p.271-272

[8] 同上 p.52

[9] 同上 p.355

[10] 國分功一郎『暇と退屈の倫理学 増補新版』太田出版、2015年、p.353

[11] 國分功一郎『中動態の世界』医学書院、2017年、p.81

文字数:6411

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