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対話のなかの沈黙

 

 

To see a World in a Grain of Sand
And a Heaven in a Wild Flower,
Hold Infinity in the palm of your hand
And Eternity in an hour.
一粒の砂にも世界を
一輪の野の花にも天国を見、
君の掌のうちに無限を
一時のうちに永遠を握る。[1]

砂と世界、花と天国、掌と無限、一時と永遠。ウィリアム・ブレイクの詩 ”Auguries of Innocence”(無垢の予兆)の冒頭部分は、砂粒と宇宙ほどにスケールの異なる、ごく身近な微小なものと遥か広大な時空間の接触を私たちに体感させる。接触という言い方は相応しくないかもしれない。砂すなわち世界なのであり、一時すなわち永遠なのであり、一見矛盾するような対極にあるような感覚を、しかし私たちは同時に把握することができる。

ハイデガーによる「存在の真理」についての記述は、私たちをしばしばこれと同じ感覚に誘いこむ。たとえば、次のような一節。

「存在」--それは、神ではないし、また、なんらかの世界根拠でもない。存在は、あらゆる存在者よりも、より広く遥かなものでありつつ、それでいて人間には、どんな存在者よりも、より近いのである。たとえ、この存在者が、岩であろうと、動物であろうと、芸術作品であろうと、機械であろうと、はたまた、その存在者が、天使であろうと、神であろうと、それらにかかわりなく、それらよりも、より近いのである。存在は、最も近いものである。しかしながら、この近さは、人間には、あくまで、最も広く遥かなものにとどまり続けている。[2]

ハイデガーは、「存在」(存在の真理)と「存在者」(現前する存在)の語を明確に使い分け、西洋哲学におけるこれまでの一切の存在論は「存在者」のみを問題にし、その前提となる「存在」を問うことを避けてきたと批判する。「存在」をこそ問おうとしたハイデガーは、しかしそれゆえに、多くの矛盾を抱えることになる。

ハイデガーのいう「存在」(存在の真理)とは如何なる性質のものか。先に「広く遥かなもの」であり、かつ「近い」ものだというハイデガー自身の言を引いたが、他にも存在は「与えられている」ものであり、かつ「それ〔存在〕が与える」ものでもあり[3]、また存在は「みずからを与える」とともに「みずからをも拒む」ものでもある[4]など、様々な矛盾に満ちた表現がなされている。しかし、「存在」を論じる上で最大のかつ根本的な矛盾は、次の点にある。すなわち、「存在」は本来的に「対象化」され得ないものであるのにもかかわらず、それを論ずる際には「対象化」せざるを得ないということである。

何かを論ずる、何かについて思惟するということは、つまりその何かを対象化するということである。伝統的な西洋哲学では、「存在」とは「対象的に存在すること」を意味し[5]、「存在論」とは論じることが可能な、すなわち「対象化」可能なものの根本を問う学問であった。しかし、ハイデガーは、われわれがこれまで存在の根本を問うていたと思っていたことが実はそうではなく、存在の根本には「対象化」できない「存在」が存在するのだと主張した。

ここで、「対象化」できないということについて、もう少し考えてみる必要があるだろう。何らかの対象を論ずる際、論ずる者のうちには、それを論じようという「意志」あるいは「意欲」がある。しかし、ハイデガーは『放下』において、「存在」を思惟するにあたり、「無–意欲」または「〈意欲し無いということ〉を意欲」する状態を通り抜けることによってはじめて、われわれはその本質に近づくことができるのだと言っている[6]。つまり、それを「対象化」する「意欲」をもたない状態で、思索の道へと入ってゆくということである。

しかし、そのようにしても、われわれが「存在」を完全に把握し、その真理を十全に記述することは不可能である。ハイデガーは、思惟と存在が一致するという〈真理の一致説〉を否定している。彼にとっての「真理」とは、「アレーテイア」に関わっていると、ハーマンは指摘する。「アレーテイアとは、漸次的に覆いを取ること(すなわち非隠蔽)を意味するが、それはけっして影を取り除くことでもなければ、また、けっしてなにかを剥き出しの現前へと引きずり出すことでもな」く、「真の実在は、けっして眼前的特徴によっては十全に記述されえない」[7]というのがハイデガーの立場である。

さて、ここでようやく、『「ヒューマニズム」について』におけるハイデガーの記述「言葉は存在の家である Die Sprache ist das Haus des Seins」について検討する時が来たようだ。まず、この記述の意味するところを、訳注による要約があるので引用しておこう。

「言葉」は、一方で、そこに「存在の真理」が宿り、「存在」によって「隅々まで接合されて組み立てられ」、「思索」によって「建て」られる、「存在の家」であるが、他方で、人間は、「存在」の「守護」によって、「言葉」のなかに「住まう」ようにさせられるものであるがゆえに、「言葉」は「人間本質の住まい」である[8]

「言葉」は「存在の真理」が宿る「家」であるとされているが、先に述べたように「存在の真理」とは決して「十全に記述されえない」ものであった。であるならば、「言葉」と「存在の真理」との関係は、少なくとも「存在の真理」が「言葉」の「家」にすっぽりと収まるような図式でないことだけは確かである。しかし、では一体どのような関係なのだろう。

このことを考えるために、次に私たちは「人間」について検討しなければならない。なぜなら、「言葉」は「存在の家」であると同時に、「人間本質の住まい」でもあるからだ。

ハイデガーは『存在と時間』において、「人間は話をする存在者として姿を現わす」[9]と書いている。「話す」という行為は、ただ「話す」ということを意味するだけでなく、「聞く(Horen)ことと黙止する(Schweigen)こととが、可能性としてぞくしている」[10]という。人間は「聞く」という行為によって、他の「共同存在」との「連帯」をもつ。

……に耳を傾けることは、ほかの人びととの共同存在としての現存在にそなわる実存論的開放性である。[……] ほかの人びとと共にある了解的な世界=内=存在として、現存在は共同現存在と自己自身とに「聴従的」(horig)に存在しており、この聴従性において連帯的(zugehorig)なのである。[11]

そして、話す–聞くという共同行為のうちに、偶の「黙止」が「話すことのもうひとつの本質的な可能性」を露わにする。

いつも無言でいる人は、ここぞという瞬間に黙止することもできない。本当の黙止は、真正の話のただなかでのみ可能なのである。黙っていることができるためには、現存在は言わんとするところがなければならない、すなわち、自己自身の本来的なゆたかな開示態を身につけているのでなければならない。そのような場合には、沈黙はなにごとかをあらわにして、「駄弁」を制圧するのである。[12]

沈黙というのは、明らかに無意味の表現態ではない。それは、言葉のないところに意味を宿らせることができる。ここで、先ほどの「言葉は存在の家である」の意味をもう一度考えてみよう。「言葉」のうちに「沈黙」を含ませたらどうであろうか。「沈黙」という語りは、語りの「対象」をもたないゆえ、無限の広がりをもつだろう。決して「十全に記述されえない」「存在の真理」も、「沈黙」の地平があればこそ、「言葉」の「家」に宿ることができるのではないか。ハイデガーはこうも言っている。

存在が語りかけてくる要求のもとでは、自分はごくわずかに、あるいはごくまれに、言うべき何ごとかをもつのみであるという危険をも覚悟しなければならない。そのようにしてのみ、言語に対しては、その本質の貴重さが、また人間に対しては、存在の真理のうちに住むための住まいが、再び贈られるのである。[13]

そうであればやはり、「存在の真理」は発言される「言葉」よりも発言されない「沈黙」と親和性の高いものであるように思われる。

最後にもうひとつ述べておくべきは、「存在の真理」が「沈黙」に宿るのだとすれば、「存在の真理」の思索は必然的に「対話形式」でなければならないということだろう。己ひとりで紡いでゆく文章には、話す–聞くという共同行為がないゆえ、沈黙も機能しない。ハイデガーの一番の矛盾は、「存在の真理」を問うたにもかかわらず、それを「対話形式」で行わなかったことにあるだろう。確かにハイデガーは、『「ヒューマニズム」について』において、対話の可能性について言及している。

あなたの書簡で提起されているもろもろの問いは、おそらく直接会って対話を交わすことのうちで、よりよく解明されることのできるものではあろう。書かれたもののうちでは、思索は、容易に、その生き生きとした動きを失ってしまうからである。しかもとりわけ、思索は、書かれたもののうちでは、みずからの領域のもつ思索固有の多次元性を保持することが、きわめてできにくいのである。[14]

しかし、実際には、ハイデガーはそれを行わず、書面形式で応答した。真に「存在の真理」を問うのであれば、「対話」という形式にこそ最もこだわるべきだったのではないか。そう思うのである。

 

 


[1] 松島正一編『対訳ブレイク詩集』岩波文庫、2004年、p.318-319

[2] マルティン・ハイデッガー著、渡邊二郎訳『「ヒューマニズム」について』ちくま学芸文庫、1997年、p.58

[3] 同上 p.66

[4] 同上 p.70

[5] 轟孝夫『ハイデガー『存在と時間』入門』講談社現代新書、2017年、p.126

[6] ハイデッガー著、辻村公一訳『放下』理想社、1963年、p.44-47

[7] グレアム・ハーマン著、高野浩之・飯盛元章訳「大陸実在論の未来 ハイデガーの四方界」『現代思想』2018年2月臨時増刊号、青土社、p.135-136

[8] マルティン・ハイデッガー著、渡邊二郎訳『「ヒューマニズム」について』ちくま学芸文庫、1997年、p.308-309

[9] マルティン・ハイデッガー著、細谷貞雄訳『存在と時間 上』ちくま学芸文庫、1994年、p.354

[10] 同上 p.346

[11] 同上 p.350

[12] 同上 p.353

[13] マルティン・ハイデッガー著、渡邊二郎訳『「ヒューマニズム」について』ちくま学芸文庫、1997年、p.29

[14] 同上 p.21

文字数:4307

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