印刷

批評を定義する批評とは何か--《おいとけさま》をめぐる一考察

 

三人以上人が集まれば座がなごむが、二人きりで対座するとなると、どうしても気詰まりだ、という感じは一般によく知られている。《おいとけさま》というのは、そうした二人きりの対座の時、座をなごますためにかたわらに置く、等身大の木彫の座像のことである。「おいとけさまにも、おいでてもらいましょ」と言って、二人っきりになったとたん、老婆が押入れの隅から、黒くすすけて目鼻立ちもはっきりしなくなった大きな木像を、ずるずる引きずり出してくる光景は、現地を訪れたものなら、たいてい一度や二度は見ているはずである。

《おいとけさま》の「おいとけ」というのは「放っておけ」、「そばにあっても気にするな」という意味である。かつては、《おいとけさま》を正面に据えて二人が並んで座り、お互いに話すべきことを《おいとけさま》に向かって話すという光景がよく見られたという。現在でも、東北地方の山間部などにはまだ残っているようだ。

《おいとけさま》があれば、互いに目を合わさず話をすることができる。相手の目を見て話すことが美徳とされる西洋文化の影響を受けた現代人にとっては、これは悪しき日本の風習のように思われるかもしれない。しかし、互いに目を合わさずに話すというのも、やはりひとつの美徳のあらわれなのである。古来日本人は、話をする際に相手の目をのぞきこむことは「相手をとめどもなく怪しむこと」だと考えていた。そのような無礼をはたらかないために、人々は《おいとけさま》を生み出した。

《おいとけさま》は等身大の座像であり、室内で使用される。それを戸外でも使えるようにと生み出された携帯用の小型の《おいとけさま》が、「こけし」の由来である。「こけし」の語源は「個消し」であり、「自我を殺して会話のおだやかならんことを期待する」ためのものであった。

さらに近年では、《おいとけさま》が《ほとけさま》の前駆的存在ではないかということが一部の民俗学者の間で言われている。《おいとけさま》《放っとけさま》《ほとけさま》の語感が似ているというだけでなく、我国に仏教が伝わった際、それが全国へ伝播した速度が異常にはやかったのは、《おいとけさま》の存在によって仏教を受け入れる土壌があったからだと考えられている。

 

現在では、ごく一部の地域を除いて《おいとけさま》は使われなくなっているが、よく考えてみれば、現代生活におけるテレビやペットは《おいとけさま》と同じ役割を担っているのではないか。居間でテレビに向かって並んで座り、番組と関係のあることもないことも、テレビに向かって言う。そのような光景は其処彼処で見られる。テレビを介して、家族の会話がおだやかに進んでいく。テレビがついていないと、なんとなく気まずいという家庭も少なくないだろう。犬猫などのペットについても、全く同様のことが言える。近い将来には、きっとロボットが(すでにアイボなどのロボットペットがあるが)《おいとけさま》的な役目を果たすのだろう。

ところで、このような、例えば二者間の対話が二者間のみで行われず、間に人ではなくモノとしての第三者が置かれるという構造は、人々と作品(小説、音楽、美術、映画、演劇など、ありとあらゆる分野の作品)の関係と同じではないだろうか。私がある作品に対して何か言い、別の人がその作品に対してまた何か言う。それぞれが個別に作品と向かい合って発言をしているようで、しかし、決して私は作品(あるいはその作品をつくった作者)との二者関係のうちで発言をしているのではない。作品を介して、作品を享受する私たちは対話を試みている。これは決して作品を利用しているというのではなく、むしろ作品が対話を生み出す原動力を有しているからこそ起こる現象だ。いや、もっと言えば、作品(広くモノと言ってもよい)というものがなければ、そもそも社会において対話などというものが生じるだろうか。私たちがモノを挟まずに対話をしたことなどあっただろうか。

もしも社会からありとあらゆるモノが消えたら、私たちは、モノが消えたことを嘆く以外何一つ話すことなどないだろう。社会は人間によって成り立っているのではなく、モノによって成り立っている、モノによって人間が組織され、対話が生まれていると言っても過言ではない。そうしてみると、作品を介して対話を試みる批評家たちの行いとは、まさに社会を成立させる行為そのものだと言えるのではないか。

批評とは、社会を立ち上げる行為である。ひと先ずこのように定義してみたい。

 

 

今回の課題は「批評とは何かを定義せよ」というものであった。これは単に箇条書き的に自分が「これが批評だ」と思うところを書き連ねればよいというものではなく、「批評」を書くことが課題の前提としてあるので、つまりは「批評とは何かを定義」しながら「批評」を書かなければならない、ということである。「批評を定義する批評」を書く--それは一体どういう行為なのだろうか。

考えやすくするために、「◯◯を定義する◯◯」という形式に変換してみよう。批評に限らず、これを実際に成し遂げている◯◯の例を考えてみればよい。例えば、ジョン・ケージの『4分33秒』という作品はまさにそうだ。「音楽」を定義する「音楽」。音を奏でることが「音楽」なのではなく、ある一定時間のフレームを設け、その間に聞こえる音を「聴取」することが「音楽」なのだという定義を、ひとつの「音楽」作品によって与えた。あるいは、マルセル・デュシャンの『泉』もそうだ。自分の手で何かをつくり出すことが「アート」なのではなく、レディ・メイドのものを、新しい題名と新しい観点のもとで、その有用な意味が消え去るように置くこともひとつの「アート」であることを、まさに「アート」作品によって示した。

これらの事例から考えると、「◯◯を定義する◯◯」をつくるには、従来の◯◯の定義の範疇に収まっているような作品では、それができないということが分かる。「◯◯の定義を拡張する◯◯」をつくることによってはじめて、◯◯の定義を◯◯によって示すことができる。つまり、「批評を定義する批評」を書くとは、「批評の定義を拡張する批評」を書くということになるのだ。これはそういう課題だ。

批評においてこれが達成されたら、事件である。ジョン・ケージの『4分33秒』やマルセル・デュシャンの『泉』と同程度に衝撃的な事件だ。そんな事件を起こせないものかと、課題が発表されてからの二週間本気で考えたのだが、ほぼ空回りに終わった。しかし、どういうことをすれば「批評の定義を拡張する批評」になるのかという、その方法論的なものを2つほど考えつくことができた。

批評行為が成立する条件、それは「対象」が存在することである。佐々木敦の『「批評」とは何か?』という本の冒頭にも書かれている。

まず第一に、批評される対象があってはじめて批評というものがある。

つまり、はじめに何か対象があって、それについて書かれたものが批評であるということだ。何もないところに批評は生まれない。

「批評の定義を拡張する批評」を書くためには、この批評の存立条件とも言える「対象」という部分にこそ目を向けなければならない。ケージが音を奏でない音楽作品を提示したように、デュシャンがつくらない作品を展示したように、それをそれたらしめていた部分に疑問を挟んでこそ、定義の拡張は可能になるからだ。では、批評と「対象」との関係に対して何らかの革命を起こすとして、それにはどのような方法があり得るか。

ひとつには、批評家が「対象」に向ける視線の方向を逆転させるということである。どういうことかと言うと、批評家(に限らず作品と向き合う者)は普通「対象」を外側から眺めるが、その視線の向きを逆転させて、「対象」の内側から眺めるということである。昨年度、批評再生塾2期でゲスト講師の五所純子氏から「一人称を略奪して書け」という課題が出された。ここにその課題文の一部を引用する。

初等教育の国語科で教師から言われました。
「登場人物の気持ちになって考えましょう」
よくわからない文章です。
「登場人物の気持ちを考えろ」ではないのです。
「登場人物の気持ちになれ。そして、○○を考えろ」と言っているのです。
○○を埋める目的語は何でしょうか。
批評は過剰なおこないです。
求められもせず、対象を選び出しては論じ、世界の網の目を編んだり破ったりする。対象があなたに迫り出してきたのでしょうか。それにしても、批評を書こうとするあなたは主体性がやや強いのだと思います。
そこで、主体性をさらに過剰に発揮し、対象とする作品中の登場人物になりかわり、その一人称を使って作品を批評してください。

この課題はまさに、批評家が「対象」に向ける視線の方向を逆転させよというものである。批評の定義を揺るがすような試みを要求されていたのだということに、私は今頃になってようやく気付いたのだが、もしもこの課題への応答が上手くいっていれば、それは批評史上の事件になり得るものだったに違いない。それほどにラディカルな問いだったのだ。(ちなみに、この問いへの応答として私が書いた批評文は、次のようなものだ。http://school.genron.co.jp/works/critics/2016/students/mt7stars/1387/)

批評と「対象」との関係を揺さぶるもうひとつの方法は、「ない」ものについて書くということだ。つまり、「対象があってはじめて批評が存在する」のであれば、「対象」がなければ批評は成立しないはずである。が、もしもそれが可能であったなら、批評とは一体どういう行為だということになるのだろうか。

 

 

さて、最後に白状しなければならないことがある。冒頭に書いた《おいとけさま》の話は、すべて嘘である。《おいとけさま》などというものは、かつても今も存在しない。これは別役実の『道具づくし』という本(存在しない道具について、それがあたかも存在するかのようにツラツラと書かれた、一冊丸ごと嘘で編まれた本である)の「おいとけさま」というエッセイの要約に、私がさらに書き足したものである。

冒頭部分で私は、《おいとけさま》について紹介し、そこに日本文化の特質を見、現代社会の特徴をあぶり出し、そこから社会とは何か、批評とはどのような行為かという話にまで(駆け足でではあるが)発展させた。しかし、そもそも《おいとけさま》が存在しないとなると、この文章は丸ごと無効化されてしまうのだろうか。いや、そんなことはないはずだ。《おいとけさま》から見た日本の特質も、現代社会の特徴も、社会や批評の定義についても、議論の有効性は少しも落ちていないはずである。ならば、批評の「対象」が「ある」ということと「ない」ということとの差は、何なのであろう。

批評とは「社会を立ち上げる行為である」という定義を置いたが、それは「ない」ものから生まれた定義なのである。「ない」ものから「社会を立ち上げる」とはどういうことか。そもそも「ない」ものとは何なのか。

事件を起こせるほどの糸口はまだ見つかっていない。しかし、どういう批評を書けば事件になるのか、考えていくための第一歩を踏み出すことはできたように思う。

文字数:4583

課題提出者一覧