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人間と幽霊の反転ーー『岸辺の旅』論

 

私は残念ながら(あるいは幸いにも)これまで幽霊を見たことはない(と思っている)が、いま仮に幽霊が目の前に現れたとして、私はそれを幽霊だと判別することができるだろうか。例えば、すでに亡くなった祖父の姿があれば、それは幽霊だと思えるだろうし、あるいは家の中に全く見ず知らずの人影があれば、それも(泥棒や殺人犯でなければ)幽霊だと分かるだろう。だが、例えば道ゆく人々が生きた人間なのか幽霊なのか、確信をもって判別することが果たしてできるだろうか。近世の幽霊のように恐ろしい外見をもったものであれば見分けもつきやすいだろうが、現代にはそういう恐ろしい見た目の幽霊はあまりいないようだ。いまあなたの脇を通り過ぎた人が人間なのか幽霊なのかを判断する手がかりは、もしかしたらほとんどないのではないか。姿は見える。声も聞こえる。足もあるし靴音もする。ちょっとぶつかってみれば、肉体の感触がしっかりとあるだろう。生きた人間と何一つ違いはなさそうだ。なのにその人が幽霊かもしれないという可能性は否定できない。なぜなら、私たちは黒沢清監督の映画『岸辺の旅』(2015年)によって、そういう幽霊の存在可能性を知ってしまっているからだ。浅野忠信演じる優介がそれだ。彼は、誰にでもその姿は見え、会話もでき、五体満足の肉体をもち、食事もし、何一つ生きた人間との違いはないが、幽霊なのだ。彼のまわりの人々は(深津絵里演じる妻の瑞希以外)彼が幽霊であることに気づいていない。では、瑞希がどのようにして彼が幽霊であることを知ったかと言えば、彼自身による告白と、それを裏付けるような登場の仕方によってである。失踪して三年になる夫の優介が、ある晩瑞希のいる部屋の片隅に音もなく土足で現れた。それによって瑞希は、優介が幽霊となって帰って来たことを瞬時に悟ったのだろう。優介が現れた直後の二人の会話--「おかえりなさい」「どれくらい経った?」「三年」「ああ、随分かかったなあ」「優介、靴」「ああ」というやり取りは、穏やかな緊張感に包まれていた。その後優介の口から、彼が三年前に飛び込み自殺をし、肉体はすでに蟹に食べられてしまって存在しないのだということが語られる。では、いま瑞希の目の前にあって触れられるその肉体は何だという疑問は当然あるが、瑞希は優介の話を信じる。つまり、見た目には生きた人間と寸分違わぬ夫が幽霊であることを彼女は信じる。観客も同様である。優介が土足で部屋の片隅に現れたことと、彼の証言をもって、彼が幽霊であることを了解する。だが、実際彼は生きた人間と全く見分けがつかない。そのため、瑞希(と観客)以外の人たちは、最後まで彼が幽霊だということに気づくことはない。

 

さて、瑞希以外のすべての人物が幽霊である優介のことを生きた人間だと思っているように、これほど生きた人間と幽霊の区別がつかないのであれば、私たちが生きた人間だと思っている人物が実は幽霊だったということがあっても、何ら不思議ではない。そう考えてみると、瑞希こそが実は幽霊だったという可能性も否定できなくなる。そもそも、なぜ私たちは彼女のことを幽霊ではなく生きた人間だと思っているのだろう。理由は単純だ。彼女は土足で部屋に突然登場したりしないし、自分は幽霊だと言ったりしないからだ。ただそれだけの理由である。しかし、よく思い出してみれば、彼女が玄関から出入りするところを見た者はいないのではないか。いや、たとえ玄関から出入りしていたとしても、それをもって幽霊ではないと言える根拠にはならないのだから、そもそも土足云々で彼女が生きていると判断するのはおかしな話だ。また、「自分は幽霊です」と名乗らない幽霊だってきっとたくさんいるだろうから(優介の話によれば、島影さんのように自分が幽霊であることに気づいていない幽霊すらいるらしいのだから)、名乗らないことを以て生きていると判断することもできない。つまり、私たちは然したる根拠もなしに、優介が幽霊だと言うならば瑞希は生きているに違いないと勝手に思い込んでいるだけなのだ。では逆に、瑞希が幽霊だと考えられる理由なり根拠なりはあるのだろうか。瑞希が生きているという思い込みを捨て、公平な目線で映像を見直してみれば、実のところ瑞希が幽霊かもしれない理由はいろいろと見つかる。まず一つは、瑞希がものを食べる姿を正面から映した映像がないことだ。冒頭のピアノのレッスンのシーンで、出されたケーキをひとくち口へ運ぶ後ろ姿が映されているのと、旅先で幽霊の島影さんと幽霊の優介と一緒に食卓を囲み、箸を口へ運ぶ横姿が遠景で映されている以外には、瑞希の食事シーンはない。それに対して優介は、瑞希のつくった白玉を食べたり、旅先で夜食にリンゴをかじったりと、食べ物を食べる姿が正面から何度も映されている。もう一つは、旅先で泊まった島影さんの職場兼自宅が幻影で、実は廃墟だったということが分かるシーンで、その有り様を見ているのは瑞希だけだということだ。そしてもう一つ、優介以外に瑞希に触れようとする人が誰もいないことだ。電車の中で近寄ってきた子どもが触るのも、優介のみである。終盤の旅先の場面で一度だけ、瑞希が薫さんを抱擁する場面があるが、あくまで瑞希が薫さんを抱擁するのであって、その逆ではない。また薫さんは、優介によれば生きているらしいが、義父には幽霊だと思われている魂の抜けたような人物である。このように瑞希は、食事をとっているか定かでなく、幻の廃墟に寝泊まりし、優介(と幽霊のような薫さん)以外には誰にも触れられていない--まるで幽霊のような人物なのである。『岸辺の旅』は、誰が生きた人間で、誰が幽霊なのかが分からない、その関係性が容易に反転しうる世界の実相を映し出す。その意味で、『大いなる幻影』(1999年)とも強く共振する映像世界である。

文字数:2400

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