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蓮實重彥の因果

 

 大学時代に蓮實重彥の教えを受け、後に映画監督になった黒沢清・万田邦敏・青山真治の三人の鼎談(『ユリイカ 総特集*蓮實重彥』2017年10月臨時増刊号)で、蓮實の圧倒的なカリスマ性について語られているのだが、蓮實の何にそこまでしびれたのかというと、「制度」に対する批判精神だということが言われている。「制度」という言葉は「神話」とも言い換えられ、蓮實は、批評家あるいは映画や小説の解読者はこの「制度=神話」から自由にならなければならないと説く。

解読へと向けて思考を「制度」化することで思考から変容を奪い続ける「神話」。解読者が真に解読者たりうるには、その「制度=神話」を解放することで、「制度=神話」から自由になりうる「批評体験」の実践者でなければならぬ。[1]

 そこから自由になるべき「制度=神話」とは何か。それはロラン・バルトが批判するところの「言葉を奪いその自由な流通を阻害する」「文化の総体」[2]であり、集団的かつ盲信的な文化的枠組みに組み込まれていることに無自覚な人々の「思考の収奪装置」[3]である。「制度=神話」に捉われた映画の解読者は、例えば映画に登場する「自動車」を「すでに体験として誰もが知っている自動車の表象的な反映」もしくは「現代の都市現象の『象徴』」として読み取る[4]。一方「制度=神話」から自由な「『批評体験』の実践者」は、「『自動車』という現代の消費文明の顕在的な『象徴』を、不可視の『記号』へと変容させ」る[5]。ここでいう「記号」とは、「『物語』の説話的持続を操作する」ものであり、バルトのいう「シニフィアンとシニフィエの関係」[6]である。蓮實は、「われわれ解読者はあくまで顕在的『象徴』を不可視の『記号』へと転移せしめることに努めねばならぬ」[7]と述べている。

 

※ 未完原稿です。申し訳ありません。

 


[1] 蓮實重彥『映画の神話学』ちくま学芸文庫、1996年、p.143

[2] 蓮實重彥『表層批評宣言』ちくま文庫、1985年、p.15

[3] 蓮實重彥『映画の神話学』ちくま学芸文庫、1996年、p.100

[4] 同上 p.105

[5] 同上 p.138

[6] ロラン・バルト『映像の修辞学』ちくま学芸文庫、2005年、p.103

[7] 蓮實重彥『映画の神話学』ちくま学芸文庫、1996年、p.139

文字数:965

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