印刷

「反復」し、「移動」する音楽

 

 

人間の耳は、一秒間に二十回から二万回の間で規則正しく「反復」する波形からできている音であれば、それを音楽の音と認識するらしい。それは楽器の音でなくてもよい。歯医者のドリルでもオートバイのエンジン音でも何でも、「反復」する波形からできている音であれば音楽の音となりうる。逆にそうでない音は、雑音と認識されてしまう。[1](その意味でノイズミュージックは、ノイズではなくやはりミュージックだ。)つまり、音楽は「反復」から構成されている。(いや、例えばジョン・ケージの『4分33秒』はどうなのか、演奏されない曲なのだから、という反論は一先ず置いておく。『4分33秒』がそれでも音楽であると言えるのは、4分33秒という「時間」が定められているからだが、これは音楽の定義を「時間」の観点から考えたときにラディカルな意味をもつ作品なのであって、それについてはもっと後で触れたいと思う。)ともあれ、基本的に音楽は「反復」から構成されている。

いや、考えてみれば、「反復」から構成されているのは音楽だけではないだろう。人間も、日常生活も、自然界も、あらゆる種類の「反復」から成り立っている。例えば、心拍と呼吸。朝起きて夜眠るという行為。日が昇り日が沈むという現象。春夏秋冬という季節の循環。この世界は「反復」に彩られている。

「反復」というのは両義的な運動である。「不変」的でありながら、「変化」を引き起こす。われわれ動物は、規則的に脈を打ちながら、死へと向かって変化しつづけているし、春夏秋冬という季節循環の反復は、新しい生命を生み出している。いずれも「くり返し」という「変わらなさ」のうちに、「変化」の契機を含んでいる。

斯様に、私たちの世界は「反復」による「変化」に満ちている。そして、蓮沼執太の音楽は、「反復」と「変化」に満ちたこの世界の様相を、多次元的かつ多層的に立ち上げていくものであるように思う。

 

 

2013年にリリースされた蓮沼執太フィルのアルバム『時が奏でる』の中に、「ZERO CONCERTO」という楽曲がある。蓮沼はこの曲を「移動」というコンセプトの下に作曲したという。[2] 蓮沼は「移動」という言葉を、いわゆる物理的な場所の移動よりも、もう少し広い意味合いにおいて使っている。蓮沼は自身のエッセイの中で、次のように「移動」を語る。

もちろん身体の移動はあると思います。さらに日常の微かな移動は、身体だけでなく、思考や心にもあると思うのです。それが変化に気付ける力です。世界に触れ、世界を共有する方法が、そこにありますが、世界はひとつではないということも明らかです。つまりそこに生きる僕らも、ひとつではありません。常に変化をしている、ということになります。日々、小さな移動を繰り返して僕らは生きているのだと思います。[3]

蓮沼の「移動」という言葉には「変化」の意味合いが含まれる。それは世界の「変化」であり、思考や心の「変化」でもある。同じエッセイの中で蓮沼は、「フィジカルな移動」は内面の「変化」を伴い、そういった「変化」も「移動」の一種であると述べている。(それを蓮沼は「内的な移動」と呼ぶ。)

さて、「移動」をテーマにつくられたという楽曲「ZERO CONCERTO」を改めて聴いてみると、「フィジカル」かつ「内的」な「移動」を、私たちは二つの次元で体験することに気付く。ひとつは、音の「反復」によってもたらされる「移動」であり、もうひとつは、言葉の「反復」によってもたらされる「移動」である。

曲の冒頭、金管楽器(フリューゲルホルンの音だろうか)のファーンという音がところどころ鳴る中で、マリンバが5拍でワンフレーズのリズムをくり返す。そこに、ティーラリ、ティーラリ、という電子音が重なる。しばらくすると、シンバルのリズム打ちがはじまり、さらに、スチールパンが7拍でワンフレーズのリズムを打つ。やがて4拍でワンフレーズのリズムをバイオリンが奏ではじめ、最後にフウッフ、フウッフ、という軽く透き通ったコーラスが入る。

各楽器が異なる拍数で同等の存在感でリズムを重ねるため、聴き手は、異なる楽器の音を同時に意識の中心に置くことができない。まるでエッシャーの騙し絵【下図】を見ているときのように、意識が音のあちこちへと移動していく。エッシャー曰く、「人間の心は同時に二つのことを扱えないので、一方から他方へと素早く、しかも何度もジャンプを続けなければならない」[4] のだ。

エッシャーが絵の「反復」の重ね合わせによって、私たちに意識の「移動」を体験させるように、蓮沼は音の「反復」の重ね合わせによって、私たちに「移動」の体験をさせる。これが一つ目の「フィジカル」かつ「内的」な「移動」の体験である。

もう一つは、言葉(歌詞)の「反復」による「移動」である。「ZERO CONCERTO」の歌詞は抽象的で、一行一行を抜き出して読んでもその意味をはっきりと掴むことは難しい。しかし、一連の歌詞が「反復」されることで、そこにイメージが立ち上がってくる。しかも、同じ言葉に都度異なるイメージが伴うのだ。それによって私たちは、「移動」を体験することになる。以下は、私が曲を聴きながらイメージしたことを、歌詞の横に書き記したものである。

街はあかるく そこにはいない (→昼)
すべてが見える 言葉の彼方 (→上空)
誰かが見てる エトセトラ飛ぶ
小さく燃える 星が現われ
街はあかるく そこにはいない (→夜)
すべてが見える 言葉の彼方 (→宇宙)
誰かが見てる エトセトラ飛ぶ
小さく燃える 星が現われ
歩きはじめる 葉が舞い落ちる (→宇宙)
光のなかで また覗き込む
歩きはじめる 葉が舞い落ちる (→地上)
光のなかで また覗き込む

これはあくまで曲を聴きながら私の脳内に立ち上がったイメージであり、歌詞の意味を客観的に解釈したものではないが、同じ言葉に都度異なるイメージが伴うという現象については、なぜそうなるのか、分析が可能である。まず「街はあかるく」という言葉で、「昼」の光をイメージした。その後の「すべてが見える」という言葉で、「上空」から「昼」の街を見下ろすイメージをもった。そして「星が現われ」という言葉で、日が沈んで「夜」になったという時の流れを感じる。そのため、その直後に来る二度目の「街はあかるく」という言葉は、今度は「昼」の情景ではなく、「夜」の情景として思い浮かべることになる。そして、「夜」の「星」に意識が向いている状態で、二度目の「すべてが見える」という言葉を聞くと、今度は「上空」ではなく「宇宙」へとイメージが飛ぶのだ。その後「歩きはじめる」の部分では、「宇宙」空間を漂っているが、「覗き込む」という言葉で「宇宙」から「地上」を覗き込み、二度目の「歩きはじめる」では「地上」を歩いている。

さらにこの後、最後の行の「光のなかで〜」から、最初の行の「街はあかるく〜」まで、今度は後ろから前へ歌詞が流れ、反復されるのだが、そこでも同様に、同じ言葉に異なるイメージが宿る。ともあれ、ここでこのような現象が起こったのは、前に置かれた言葉との関係で後ろの言葉の意味/イメージが変わるように、歌詞が「反復」されていたからである。その「反復」作用によって、この楽曲を聴く私たちは、昼から夜へと「時間」の「移動」を体験し、地上から上空へ、上空から宇宙へ、宇宙から地上へと、広大な「空間」の「移動」をも体験する。これが二つ目の「フィジカル」かつ「内的」な「移動」の体験である。

 

以上のように「反復」による「移動」というコンセプトは、「ZERO CONCERTO」にとりわけ顕著だが、蓮沼の他の作品にもいろいろな形で多く見られる。(後ほど触れるが、この傾向は録音された楽曲に限ったことではない。)だが先ずは、録音された楽曲の中から、もう一作品だけ取り上げておきたい。それは、アルバム『メロディーズ』(2016年)におさめられている「ハミング」という楽曲である。

「ハミング」は次のような歌詞ではじまる。

静かなここは かつて大きな音が
いま聞こえるのは それとは違う景色
知らない過去の 風景と空気は
土地と人間で 繋がっているのよ
(中略)
知らない未来の 風景と空気は
土地と人間で 繋がっているのよ

この歌詞によってイメージする光景は人によって様々だろうが、歌詞が示すように、私たちはこの言葉に乗って自然と「過去」や「未来」の時空間を「移動」する。あるいは、「現在」の中に「過去」や「未来」が流れ込んでくると言ってもよいかもしれない。

そしてこの後、歌詞は次のようにつづく。

あのリズムにのって 良いかもしれないよ
あのハミングにのって 良いかもしれないよ
あのステップにのって 良いかもしれないよ
あのシュプレヒコール
静かなここは かつて大きな音が
いま聞こえるのは それとは違う景色

この歌をゆったりとした気分で聴いていた者はみな、「シュプレヒコール」という異質な言葉が挟まれた瞬間、ハッとするだろう。そして直後に、「静かなここは かつて大きな音が〜」という歌詞が「反復」される。日本人の多くは「シュプレヒコール」という言葉を聞けば、「国会議事堂前」を思い浮かべるだろう。二度目の「静かなここ」は、もはや思い思いの「静かなここ」ではあり得ず、どうしたって「国会議事堂前」であり、二度目の「かつて」の「大きな音」はやはり「シュプレヒコール」以外の意味には取ることができない。われわれは数年前のSEALDsのデモを思い出し、1960年代/70年代の安保闘争を想像する。

斯様に「反復」は、人々の意識の在り処を分散させたり、集中させたりすることもできる。人々の「移動」の体験は、このようにして時々、一所で出遭うことがあるのだ。

 

 

音と言葉の「反復」は、「フィジカル」かつ「内的」な「移動」の体験を私たちに促す。ところで、この「反復」とは一体どのような行為なのだろうか。

当然と言えば当然のことだが、「反復」を可能にするためには、ある音なり言葉なりの「始まり」と「終わり」を劃定することが必要だ。あるいは逆に、「反復」されてはじめて「始まり」と「終わり」が事後的に劃定されるのかもしれないが、いずれにしても、「反復」のあるところには必ず「始まり」と「終わり」が存在する。

「始まり」と「終わり」を設ける。こう言ってみて気付くのは、これは作曲行為そのものに当て嵌まる定義でもあるということだ。蓮沼執太は、「無限時間に対して始まりと終わりを設け」ることが「音楽的な作曲行為を意味」すると言う。[5] 冒頭で少しく触れたジョン・ケージの『4分33秒』が音楽作品たり得るのも、「4分33秒」という「始まり」と「終わり」のある時間的枠組みを設定したがゆえである。佐々木敦は『「4分33秒」論』の中で、近藤譲の言説を引用しながら、「『曲』とは時間的・空間的な『枠』を何らかの形で用意するもので、その中に入っているものが『作品』」[6] なのだと述べている。

あるいはまた、「始まり」と「終わり」の劃定という行為は、野家啓一のいう「出来事」と「物語り」の定義と重なるものでもあるだろう。野家は、「世界は事物(thing)の総体ではなく、出来事(event)のネットワーク」[7] であり、「出来事」とは「始め-中間-終わり」という時間構造をもつものだという。さらに、出来事の「『始め』は先行する出来事の『終わり』でもあり、『終わり』は後続する出来事の『始め』でもあ」り、「こうして個々の出来事は常にすでに、より広い文脈の『始め』と『終わり』の中に、すなわち『物語り』の中に置かれている」[8] のだという。

ここで、「出来事」と「物語り」の文脈において「反復」と「作曲」という行為を捉え直してみれば、その関係性をより明確にすることができるだろう。「始め」と「終わり」をもった音や言葉の一連のフレーズとは「出来事」であり、その「出来事」の連鎖すなわちフレーズの「反復」によって、より大枠の「始め」と「終わり」をもった「物語り」が立ち上がる。それがすなわち「作曲」という行為である。

あるいは、逆から捉えることもできる。一曲の「物語り」の中に「反復」があることによって、そこに境界が現れる。境界の存在は、「出来事」と「出来事」の接続/遭遇をもたらし、そこに新たな意味が生まれる。こうして一つの「出来事」が多層的になってゆく。

蓮沼が特異であるのは、この「出来事」が多層化された「物語り」を作品中で完結させようとはしないことだ。「反復」という「物語り」行為に聴き手を巻き込んでゆく。例えば『作曲的』展(2015年)において、観客は自身が半ば音楽の作り手となって、「反復」を構成することになる。空間に配置された音の間を、自らのペースで進んでゆく。どこでどれだけの時間留まるのか、行きつ戻りつしながら音の「反復」を構成してゆく。聴き手に音楽の構成を委ねることによって、蓮沼のつくる「出来事」は作品をこえて「反復」され、外の世界と接続され、そこでまた新たな意味を帯び、さらなる多層化を遂げる。

このように蓮沼は、「反復」による「移動」の力学を幾重にも構築することで、「反復」と「変化」に満ちたこの世界の様相を、多次元的かつ多層的に立ち上げようとしているのではないか。

 

 


[1] ジョン・パウエル/著、小野木明恵/訳『響きの科学』(早川書房、2011年)を参照。

[2] 蓮沼執太「立日」『疾駆 第4号』YKG Publishing、2015年1月

[3] 同上 p.71

[4] エッシャー/著、坂根厳夫/訳『無限を求めて』朝日新聞社、1994年、p.51-52

[5] 蓮沼執太「協働性をうながす『音楽』のかたち」『美術手帖』2015年5月号、p.60

[6] 佐々木敦『「4分33秒」論』ele-king books、2014年、p.123

[7] 野家啓一『物語の哲学』岩波現代文庫、2005年、p.311

[8] 同上 p.314

文字数:5686

課題提出者一覧