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「見る」行為を「見る」演劇--『現在地』と『地面と床』に、観客は何を「見る」か

 

佐々木敦は近著『新しい小説のために』において、岡田利規の代表作『三月の5日間』(2004年初演)の革新性が「まず第一に、従来は分かち難く(そして特に疑問に附されることもなく)結びついていた『アクター(=俳優)』と『キャラクター(=登場人物)』を切り離し、組み替え可能にしたこと、そして第二に『アクター』に『ナレーター(=話者)』という機能を付与したこと、もしくは『アクター』にあらかじめ潜在していた『ナレーター』としての属性を切り出して増幅してみせたこと」[1]にあると分析している。「ミノベって男の話なんですけど」と言ってミノベの話を語り始めた男が、いつの間にかミノベとして話していたり、あるいはまた別の人物になっていたり、別の人物について語っていたりと、「キャラクター」と「アクター」が一対一対応をしていない上に、複数の「アクター」たちによって離散的に担われる「ナレーター」の役割が常に現前化される構造になっている。そこで為されていることは、物語の上演というよりは、物語ることそのものの上演、佐々木の言を借りれば「『〜の話を語る』という文型の行為」そのものであり、「『ナラティヴ』の前景化」である。この物語るという行為そのものを上演するという形式はその後も究められ、『わたしたちは無傷な別人である』(2010年初演)において一種の定式化にまで至ったと、佐々木は別著『即興の解体/懐胎』において指摘している。[2]

しかし、周知のとおり、これ以後のチェルフィッチュの作品はさらなる進化と変革を遂げている。その特徴を一言で表せば、これは岡田利規自身が述べていることだが、「観客の中にイメージを受精させる」ことを強く意識するようになったということであろう。例えば『わたしたちは無傷な別人である』ですでに岡田は、「最終的な完成品としてのパフォーマンスではなくて、媒介物としてのパフォーマンス」[3] であるという意識を強くもっていたと言う。

「観客」を意識する傾向が強まってきたことに加え、もうひとつ、「異化」という考え方を拡張させてきたことも大きな特徴である。『ゾウガメのソニックライフ』(2011年初演)や『家電のように解り合えない』(2011年)では、「何かと共感・融合するのではなく、異物としてそこにある」[4] ものを「併置」させるという手法を開拓してきたという。[5]

「観客」の中で作品を完成させることと、異物を「併置」させること。このような試みの先に、『現在地』(2012年初演)と『地面と床』(2013年初演)の二作品において、岡田利規はまたひとつ別の形式を完成させたように思う。『三月の5日間』から『わたしたちは無傷な別人である』に至るまでの作品で、「〜を語る」という行為を前景化させた演劇の形式を追究したというのであれば、それ以降の作品では、「〜を見る」という行為を前景化させた演劇の形式を追究したと言えるのではないか。

「見る」という行為を前景化させるとはどういうことか。岡田はどのような方法で「見る」という行為を前景化させたのか。それによって、私たちに一体何をもたらしたのか。以下ではそのことについて考えてみたい。

 

『現在地』

 ある日ある村に、青くぼうっと光る雲があらわれ、それが原因で村が滅びるという噂が流れる。その噂を信じ或いはその噂を信じないということができなくて狼狽え村を出ようとする者たちと、その噂をまったく信じず村に残る者たち。ナホコ・ハナ・チエの三人は、噂を信じている。アユミ・カスミ・マイコ・サナの四人は、噂を信じていない。双方は互いに説得を試みるが、分かり合うことはない。噂を信じ村を出た者たちは、程なくして村は滅びたと言い、噂を信じず村に残った者たちは、村の生活は元通りになったと言う。両者では、はじめから終わりまで見えている現実そのものが異なっている。福島原発事故以降の日本人の様相が、あからさまに投影された物語である。

ドラマのドラマ性を排除する傾向にあったチェルフィッチュの以前の作品と比して、『現在地』はドラマ性の強い作品である。岡田利規は自身の演劇論を述懐した『遡行』において、この時期にドラマに対する考え方が変化したことを語っている。ドラマなどなくても演劇は成立する(むしろその方が力強く成立する)というそれまでの考え方から、ドラマをつくることに意義を見出すようになったという。つくりごとのドラマ(フィクション)が現実の中に置かれることで、現実とフィクションの間には緊張関係が生じる。現実とフィクションの関係について、岡田は次のように述べる。

現実とは「本当のこと」ではない。それは現時点においてはさしあたって最有力なフィクションである、というにすぎない。そしてフィクションとはただの「嘘」ではないし「つくりごと」ではない。それは、潜在的な現実なのだ。だから強いフィクションは、現実をおびやかす。現実に取って代わる可能性を、常に突きつけているからだ。この現実はフィクションによって励まされる必要もあるが、僕はそれと同じくらいに、こんな現実はフィクションによっておびやかされなければいけない、というふうにも言いたい。[6]

現実をおびやかす力をもったフィクションとして、『現在地』はつくられた。こう言ってしまうと、何ら新鮮味のないものに思われそうだが、そうではない。『現在地』は、現実のおびやかし方のその方法が新しいのだ。しかもその方法は間違いなく、これまでのチェルフィッチュがつくりあげてきた語りの方法論/形式の上に築かれている。「語る」行為を前景化させる演劇の形式の上に成り立つ、「見る」行為を前景化させる演劇の形式が、それである。そしてその形式自体が、現実をおびやかす力をもっている。どういうことか。

『現在地』は、演劇の形式としての構造が少々複雑である。それはまず、劇中劇という設えで上演される。七人の俳優全員が、終始舞台上におり、出番でないときは観客役として上演を観ている。そして、噂を信じる者たちと信じない者たちとの対立という劇中劇の中で、さらに同様の対立構造をもった劇が演じられる。この劇中劇中劇では、噂を信じるタエコ(劇中劇で噂を信じる側のチエが演じている)と、噂を信じないシノブ(劇中劇で噂を信じない側のサナが演じている)の姉妹の確執が演じられる。そしてこの劇中劇中劇を、他の五人は観客として鑑賞している。

では、そこで私たち本来の観客は、何を見ることになるか。劇中劇中劇とそれを見る劇中劇中の観客、劇中劇とそれを見る劇中の観客という、二重の入れ子構造になった劇を見ることになるのだ。いや、それだけではない。劇中劇と劇中劇中劇の対立構造は、現実の対立構造そのものでもあるので、われわれ観客は、観客役の前の劇中劇の対立を見、劇中劇中劇の対立を見、さらにその奥に現実の対立を見るというように、三重の入れ子構造の劇/フィクションを見ることになるのだ(現実は現時点での最有力なフィクションであるという岡田の定義を思い出してほしい)。[図1]

このような入れ子構造の劇では、すべての俳優が観客役として上演を観ているので、劇中劇中の役としては知らないはずのことを知っており、結果として彼らはナレーター的役割を担うことができる。例えばチエは、劇中劇中ではカスミがハナを殺したことを知らないはずだが、それを観客役として見ているため、「ハナは死んでいるわ」と語ることができる。このように、すべての役者が観客役として劇中劇を見るという入れ子構造の形式を採用することで、アクターのナレーター的属性を『三月の5日間』などの作品よりもむしろ自然体に現前化させている。ただし『現在地』が『三月の5日間』などと大きく異なるのは、それが「語る」行為を前景化させるための形式ではなく、「見る」行為を前景化させる形式だということである。観客役が劇中劇を「見る」ことで、結果として俳優が三人称的視座を得て、語ることができるようになっているのだ。

さて、もう一度問うてみよう。われわれ観客がそこで見ているものは何か。入れ子構造の劇を見るということは、すなわち、「見る」行為を「見る」ということである。観客役が「見る」劇中劇、劇中劇中の役たちが「見る」劇中劇中劇。そして、それら「見る」という行為を「見る」観客たち。

では、「見る」行為を見せることによって、岡田は一体何を為そうとした/為したのだろうか。それは、自分が含まれる状況の外に出て自分たちの状況を眺めるという三人称的な視座を、劇中で終始メタ化して見せることで、観客に三人称的視座そのものを与えたのではなかったか。しかも劇の入れ子構造の奥には、「現実」というフィクションがしっかりと組み込まれていた。つまり、われわれ観客は『現在地』の観劇によって、観客自身が含まれる「現実」を三人称的視座で見るようになるのだ。

考えてみれば、他者が関係するありとあらゆる物事は、三人称的視座をもってはじめて存在するようになるのではないか。例えば、一人称的視座しかもたない「私」が、敵対する他者と向かい合った場合、この「私」にとって存在するのは「敵対する他者」のみであり、「私と他者が敵対している」という状況全体は見えていない。この状況を認識するためには、三人称的視座が必要である。三人称的視座をもつことによってはじめて私たちは、「敵」ではなく「敵対する状況」に意識を向けることができる。『現在地』という作品は、三人称的に「見る」行為を前景化させるという演劇の形式をもって、観客の眼を「敵」ではなく「状況」に向けさせる力をもった。このような意味で、岡田がフィクションによって現実をおびやかすという企図は、フィクションの内容よりもむしろ形式によって実現されたと言えるだろう。

 演劇は、現実には見えない/見えにくい物事を見せることができる。そもそも「幽霊と俳優は似ている」。そう、岡田利規は言う。どちらも「人に見られることによってしか存在できない」から、と。[7] 私たちは「俳優」を通じて、「幽霊」という現実には見えないものを見ることだってできるのだ。

『現在地』において生者同士の対立/隔絶を見た私たちは、次なる作品『地面と床』において、生者と死者との対立/隔絶を見ることになる。

 

『地面と床』

 生きている者と死んでいる者の対立、或いは隔絶。『地面と床』の舞台には、母の幽霊が登場する。事あるごとに母の墓前で手を合わせる次男と違い、死んだ母の墓参をしない長男夫婦。母の幽霊は、墓の手入れをしてほしいと頼むが、長男の妻は、生きている人間のために何もできない死者が、生者に何かを要求するのは卑怯だと言ってのける。彼らにとって死者は、気にかける必要のない存在である。死んだ者のことよりも、生きている者のことを守らなければならない。そう主張する。『地面と床』も『現在地』と同様、福島原発事故以降の問題があからさまに投影された物語である。

また形式面においても、『地面と床』は『現在地』と同様、「見る」行為を前景化させる形式によって、現実をおびやかす力をもった作品である。『現在地』のように劇中劇という手法はとらないが、別の手法によって入れ子構造をつくり出している。まず、『現在地』の劇中劇を見る観客役に相当するのが、長男の妻「遥」である。長男(夫)には見えていない母の幽霊が、彼女には見えている(これがなぜなのかという問いには、後ほど答えることになるだろう)。つまり、遥は生者である夫と死者である義母の幽霊の対立構造を見る。そして、『現在地』の劇中劇中劇に相当するのが、舞台上に設置された「鏡」である。舞台上手にある大きな鏡で、舞台上で演じる俳優たちは劇中ずっと、自分たちの姿を見ることができる。劇中劇中劇が劇中劇の対立構造をそっくりそのまま写し取っていたように、鏡は舞台上の対立構造をそっくりそのまま映し出し、俳優たちはそれを見ている。さらに、この対立構造は、現実の対立構造そのものでもある。つまり、われわれ観客は、遥の前の舞台上の生者と死者の対立構造を見、舞台上の俳優は鏡の中に同様の対立構造を見、さらにその奥に現実の対立構造を見ることになる。[図2]

このような入れ子構造によって、われわれはやはり、「見る」行為を「見る」という体験をすることになる。そうして三人称的視座を得る。入れ子構造の奥に組み込まれた「現実」というフィクションを、観客は三人称的視座から見られるようになるのだ。

しかし、『現在地』と『地面と床』とでは大きく異なる点もある。それは、時空間の捉え方である。『現在地』では、過去から現在、未来へと一直線に流れる時間軸に沿って、同じ空間を共有する者同士の対立が描かれていた。しかし、『地面と床』では、時間は一直線に流れない。ではどうなっているのかと言えば、過去と未来がつながっているのだ。それは、第五場の最後に映し出される字幕によって明らかになる。

「地面の下にいるのは その生を終えたもの」
「そして その生を未だ始めていないもの」

過去の生命である死者と、未来の生命は、地面の下でつながっている。だとすれば、現在を生きる人々が死者を気にかけないということは、同時に未来の生命を気にかけないということを意味してしまう。クンステン・フェスティバルの『地面と床』公演の当日配布パンフレットに書かれていたという、生者と死者「双方の利害関係の調整のために、もっと多大な〈外交的努力〉が払われるべきではないか」という岡田のメッセージには、このような含意もあったのではないだろうか。

こう考えてみると、『地面と床』の劇中、なぜ妻の遥には幽霊が見えて夫には見えなかったのかということについての説明もつくように思う。それは、遥がお腹に子を宿していたからではないか。つまり、夫と同じ考えをもつ(つまり死者のことなど気にかけない)はずの遥は、未来の生命である子を宿したことによって、地面の下の過去とつながり、幽霊が見えるようになった。未来の子が、過去の生命である死者と現在を生きる遥の間に回路を開いてくれたのである。

このように『地面と床』は、過去と未来を同時に見つめる三人称的視座をも、私たちに与えてくれたのではないかと思うのである。

 

 


[1] 佐々木敦『新しい小説のために』講談社、2017年、p.175-176

[2] 佐々木敦『即興の解体/懐胎』青土社、2011年、p.350

[3] 岡田利規『遡行』河出書房新社、2013年、p.61-62

[4] 徳永京子・藤原ちから『演劇最強論』飛鳥新社、2013年、p.239

[5] 岡田利規『遡行』河出書房新社、2013年、p.41-42

[6] 岡田利規『遡行』河出書房新社、2013年、p.28

[7] 岡田利規『地面と床』インタビュー(http://jimen.chelfitsch.net/journal/0730/

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