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見えない幽霊

 

1. 姿の見えない現代の幽霊

21世紀初頭の身体表象の特質を考えるにあたり、幽霊を分析するところから始めてみたい。幽霊は、時代や場所によって姿形を変える。つまりは文化的創造物である。幽霊の形象は、その時代その場所の人々の意識下/無意識下にある欲望や恐怖心を映し出す。21世紀初頭の日本の幽霊はと言えば、姿の見えないことが特徴らしい。「見えない幽霊」--それは一体私たちの何を映し出しているのだろう。

日本における化け物の流行の変遷を大雑把に記せば、古代や中世には鬼や天狗が、近世の都市部(城下町)には見た目の恐ろしい幽霊が、近代(明治時代から高度経済成長期まで)には善良な幽霊が主流派だった。日本の幽霊文化を研究する高岡弘幸[1]によれば、自然の中に暮らし、互いに互いを熟知する集落的な人間関係を築いていた古代や中世には、狐・狸などの動物の妖怪や鬼・天狗といった自然環境を形象化した妖怪が中心であったが、近世に入って城下町が形成されると、縁の浅い一時的な商売上の人間関係が築かれるようになり、その負の側面の表象として人間の化け物=幽霊が生み出されたのだという。恐ろしい外見をもつ幽霊が創造されたのは、近世の人々が表立っては批判しにくかった「権力」「貨幣」「家」の悪を告発し罰したいという思いを幽霊に託したからだという。しかし近代に入り、国家の用意した巧妙なイデオロギーによって「立身出世」や「良妻賢母」を善とする価値観が生まれると、近世の人々にとって批判対象だった「権力」「貨幣」「家」は「夢」「憧れ」「希望」へとすり替わった。「権力」「貨幣」「家」の悪を罰するため恐ろしい外見をもった幽霊の出る幕ではなくなり、こうして善良な幽霊のみが残ることとなった。近代においては、死者が肉親を懐かしんで会いに来たり、最期の挨拶のために親しい人のもとを訪れたりといった幽霊体験が圧倒的に多かったという。

そして現在、幽霊はさらに変化し、姿の見えないものになった。高岡はTwitter上に見られる幽霊体験談を収集し、幽霊の姿形も出現理由もどのような災厄があるのかも語られないのが現代の幽霊の特徴であると指摘する。人々は幽霊を目撃していない。ただ感じるのである。ここに何かいる、ここはやばい、と。幽霊は見るものではなく、感じるものになった。その理由を高岡は、善悪の価値基準が明確だった近世には幽霊の善悪の区別も明確で、幽霊の善悪を判断するために幽霊の可視化は必要だったが、現代では「私たちが、何が『善』で、何が『悪』なのかを明確に判断できなくなったため」[2]に幽霊を可視化できなくなったのではないかと述べている。

確かにその通りかもしれない。幽霊の姿が消滅した2010年代は、価値観の多様化が前面化してきた時代である。土井信彰はアニメの潮流を分析し、2010年代の作品の特徴として、単一の価値観/イデオロギーから語られる20世紀的な作品とは異なり、多様な立場/価値観のすべてを肯定しうる(ある意味支離滅裂な)構造をもつことを挙げている[3]。あるいはまた、幽霊の姿が消滅した2010年代は、「ポスト真実」と言われる時代でもある。インターネット上に到底処理しきれぬ量の情報が行き交う中で、真と嘘の判別がつきにくく、ゆえに善と悪の判別もつきにくい。人々はそれぞれに、真偽のほどが定かでない異なる善や悪を信じている。つまり現代は、善悪の価値基準が多様化している上に、あらゆる情報や判断について真偽のほどがはっきりしないという、二重に善悪の判断がしにくい時代なのだ。もはや何が善で何が悪かということに関してコンセンサスを得ることは不可能であり、つまり共通の場所に共通の幽霊をイメージすることができない。だから幽霊は姿を消した。なるほど、確かに納得のいくストーリーではある。

しかし、共通の幽霊をイメージできないことが「見えない幽霊」に直結することは、果たして必然だろうか。例えば、近世のように町中で「あのお屋敷には……」などと噂が立つことはないにしても、同じネットワークに属する価値観の似た者同士の間では、共通の幽霊の目撃談が出てもよさそうなものである。しかし、人々は幽霊の存在は感じても、目撃はしていない。さらに、出現理由も語られないし、どのような災厄があるのかも語られないのだ。それはなぜなのか。その訳を考えてみれば、以前はどうしてそこにそういう幽霊が出るのかというストーリーこそが(例えば人々にとって共通の悪を罰するために)大事だった(だから理由が語られ、相応しい外見が与えられ、災厄がもたらされた)のに対し、現在では「見えない幽霊」そのものに重要な意味があるため、出現理由についても災厄についても語られる必要がないのだと言えるのではないか。

どういうことか。その意味は、「見える」幽霊と「見えない」幽霊の違いを考えてみれば、自ずと明らかになるだろう。当たり前だが、「見える」幽霊に遭遇したとき、人はその幽霊を「見る」ことができる。ここで人々が体験するのは、「見る」ことによって想像/創造された物語の世界である。それに対し、「見えない」幽霊に遭遇したとき、人は何を体験するか。姿の見えない何者かに、一方的に「見られる」という感覚を体験するのではないか。ここには想像力を喚起する五感情報がないため、物語は生まれにくい。物語を媒介せず、「見られる」ことの恐怖心だけがわき起こる。左様に、「見えない幽霊」の出現が「見られる」感覚の恐怖を人々に体験させるための現象であるとすれば、その出現理由や災厄について語られないことにも納得がゆく。

さて、ここに一つの仮説が立つ。現代の私たちは、「見られる」感覚の恐怖を「見えない幽霊」によって表象しているのではないかという仮説である。であるならば、さらに、ここに一つの問いが立つ。「見えない幽霊」によって表象される「見られる」感覚の恐怖は、現代の私たちのどのような身体表象の特質から生じているのか。

 

2. 作品化する私、観客化する私、「見えない幽霊」化する私の身体

とある酔っ払い集団の話をしよう。先日深夜の電車に、酔っ払いの若い男性6人組と乗り合わせた。自由が丘駅から乗ってきた彼らは、座席に3人ずつ向かい合って座り、どういう流れでそうなったのかはよく分からないが、いきなり手拍子に合わせて「パンパンパンパン、パンパンパンパン、パンパース」と大声で歌い出した。そして、「21歳のやることじゃねー」と自分たちでツッコミを入れながら、大爆笑をしていた。

興味深かったのは、その後に彼らがとった行動だ。6人のうちの誰かが一連の行動を動画に撮っていたらしく、その場で動画を再生し始めた。再び車内には「パンパンパンパン、パンパンパンパン、パンパース」の大声が響き渡る。動画を見ながら、彼らは再び大爆笑をする。誰かが「21歳のやることじゃねー」とツッコミを入れる。動画が終わると、また始めから再生する。三度目の「パンパース」、爆笑、そしてツッコミ。四回、五回と、彼らは同じことを繰り返した。ものの5分程度の、しかも単なる酔っ払いの行動ではあるが、ここには現代のわれわれの行動の特徴が凝縮されているように思う。

彼らの一連の行動について、順を追って考えてみよう。彼らはまず、酔っ払って電車内で大合唱をした。それを仲間の一人が動画におさめていた。ここで彼らの大合唱は、意図せず「作品化」された。次に彼らは、「作品化」された自分たちの写る動画を再生した。ここで今度は、彼らは「観客」となった。自らを「作品化」し、作品化された自分たちを眺める「観客」となる。過去の自分たちと現在の自分たちが、一つの時空間に「作品」と「観客」として併存している。

これと同様の構造を、近年さまざまな場面で見受ける。例えば松浦理英子の小説『最愛の子ども』(2017年)に、この構造を読み取ることができる。ここでは、私立玉藻学園高等部二年四組の女子生徒たちが「作品化」され、また同時に彼女たちが「観客」となっている。どういうことか。この小説は、従来の小説のように、一人称で自らの日常が語られたり、あるいは三人称で彼女たちの様子が描かれたりするわけではない。主要登場人物の女子生徒たちにはそれぞれ役が割り当てられ(パパ、ママ、王子様など)、彼女たちは教室という舞台でそれぞれの役を演じながら学校生活を送っている。その様子を、記録者という役を割り当てられた(自ら割り当てた)草森恵文が記録した「作品」という態の小説である。彼女たちの日常は仲間の一人によって「作品化」されていく。その「作品化」は、現実と並行して進められる。私たち読者は、「作品化」された彼女たちの姿を見ているのであるが、その背後に常に、「作品化」された自分たちを「観客」として眺める彼女たちの存在を感じるのである。

あるいはまた、今年の「六本木アートナイト」のコンセプトのひとつとして掲げられた「自撮り」も、「作品化」された自分と「観客」としての自分の併存構造を生み出すものだ。展示されている作品の中に自分が入って写真を撮るよう「自撮り」を奨励した「六本木アートナイト」の実行委員会によれば、「自撮り」をすることによって「自らも『創る人』側になってもらう狙い」[4]があったというが、ここで人々が創るのは「自分」である。人々は、自らを「作品化」し、また「作品化」された自分を眺める「観客」となる。

このように私たちが自らを「作品化」し「観客化」しようとするのは、なぜなのだろうか。私たちは「作品化」「観客化」によって何をしようとしているのだろうか。もちろんそれは、意図せずしてのことかもしれない。いずれにしても、私たちは「作品化」「観客化」によって一体何を為そうとしているのだろうか。それはおそらく「視線」と関係している。

私たちは普段、他者からの視線に晒されながら生きている。しかし、自らの「作品化」「観客化」によって、私たちは視線の方向を操作することができる。自らを動画や写真におさめ「作品化」する行為は、現在の私を直に見つめる他者の視線を、「作品化」した私の方へ仕向けることを可能にする。そして、現在の私は、「観客」として見る側にまわることができるのだ。

「作品化」された私を「見られる」対象として生み出すことで、現在の私は「観客」という「見る」側にまわる。しかし、このような視線の操作は、必ず次の段階として、倒錯した主従関係を生じさせる。つまり、「見られる」「作品化」された私が「主」となり、現在の私が「従」となる関係である。この現象の最たる例が、インスタ映えするファッションや整形手術の流行である。写真家の蜷川実花は、「若いモデルの子たちでも、直接会うとギョッとするようなメイクに見えるんだけど、インスタグラムで加工して上がったものは、いい仕上がり」[5]になると言う。つまり、現在の/現実の私が、「見られる」私としてInstagramに投稿される「作品」のために存在するようになっているのだ。

このような主従関係の逆転を体感させるステージがあった。2016年1月に東京文化会館で行われた「ON-MYAKU」という音楽×映像×ダンスのパフォーマンス・ライブである。ダンサーの身体にセンサーが取り付けられ、数拍前のダンサーの動きがスクリーンに映し出される。ダンサーは数拍前の自分の影とコラボレーションをしながらダンスをするのだ。

私と影というのは、本来最も主従の逆転しにくい関係である。これが逆転すると、いわゆる二重人格/多重人格という症状が引き起こされるわけで、「主」である私と「従」たる影との関係は覆されないというのが、私たちの正常な感覚である。しかし、このパフォーマンスでは、私と影の主従関係が逆転していた。影は、「作品化」された過去のダンサーの映像である。ダンサーはその影のために動く。影がダンサーを規定している。さらに、われわれ観客の視線は、生身のダンサーではなく、影の方へ向けられる。

現在の私と私の影(作品化された過去の私)の主従関係が逆転し、人々の視線が現在の私から逸らされていく。このように現代の私たちは、現在の私を見つめる視線を不在化させている。つまり、われわれの身体は「見えない幽霊」化している。

こうしてみると、「見えない幽霊」化する私たち人間が、「見られる」ことを排除してきた結果として、「見えない幽霊」によって「見られる」という近年の「見えない幽霊」の流行が生み出されたのではないかと思えてくるのである。

 

 


[1] 高岡弘幸『幽霊 近世都市が生み出した化物』(吉川弘文館、2016年)を参照。

[2] 前掲書、p.231

[3] 2010年代的特徴をもつ作品としては、例えば『アナと雪の女王』(2013年)や『ズートピア』(2016年)、『君の名は。』(2016年)などが挙げられ、それらは軒並み大ヒットを記録している。土井信彰『21世紀のアニメーションがわかる本』(フィルムアート社、2017年)を参照。

[4] http://www.asahi.com/and_M/articles/SDI2017093044761.html

[5] http://tabi-labo.com/283611/roppongiartnight2017

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