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朝井リョウ、このヤロウ。

社会人の3年目は節目といわれる。

わたしは今年がちょうどその時に当たるが、1年6ヶ月目でササっと転職してしまっているので、同期たちがいま感じているかもしれない『本当このままでいいのかな』という胸のざわつきや『ここでやっていける』という確信からはちょっと離れたところにいるような気がする。

それでもやっぱり就活当時からこの3年を振り返りたくて、「就活といえば」でひらめいた、朝井リョウさんの『何者』を手に取った。そういえば、朝井さんも3年で会社を辞めて、作家の仕事に専念されている。

読み終わった後で知ったことだが、朝井さんは就活本を描きたかったわけではないらしい。本当に書きたかった事柄に就活の舞台が最適だった、とのこと。おそらく、朝井さんが描きたかったのは、何かになりたい若者と、その希望を歪にするSNSの影響力だ。多くの若者は、就活をきっかけに学校以外に帰属を探すが、Twitterなどネットに浸ると、等身大で他者や自分を見られなくなる。そうして他者と自分を比較しながら自己について悩み続けるのだが、それは精神的に健康的なことではないから、徐々に人間関係は歪んでゆく。『何者』は、ただでさえ形を変えやすい若者の意識や他者との関係を、インターネットがさらに強く作用して歪ませていくまでを描いている。

『何者』では、その過程で謎の違和感や不気味さが少しずつ積み上げられていく。クライマックスでその招待が明かされるのだが、そのとき使われる仕掛けは、同じ朝井さんの作品『桐島、部活やめるってよ』の、映画で使われた仕掛けと同じ仕組みが施されているように思う。『桐島』の映画では、ラストにほど近いシーンでスクールカーストの上位と下位の生徒が逆転するという現象が起こる。これはフィルター越しの世界での出来事のなのだが、解釈次第で真実とも取れるように描かれていると。同じように、『何者』でもある2人の立場が逆転する現象が起こるのだが、その前に「就活」の定義と、その2人の特徴をまとめておく。

わたしの個人的な解釈では、就職活動とは「社会的な関係を結ぶための活動」のことだ。ここでの「社会」と「関係」を簡単に以下のように想定している。

・社会的…ある主体が、自身だけでは自己の目的を達成できないため、他の主体を必要としている状態。
・関係…社会的な主体同士の間、ある作用が発生する状態

つまり就職活動とは、就活生がある目的を達成するために、企業と相互に作用する契約を結ぶことである。また企業からしても、企業の目的を達成するために、戦力になることを期待して就活生と相互に作用する契約を結ぶことである。就活とは、そんな双方の利害の一致を探るゲームに例えられるだろう。また、このゲームは自分自身について等身大で理解した上で、ゲームクリアのためにその等身大の自分を演技で補わなくてはならない。

『何者』で就活に取り組む学生たちは5人だ。5人とも特別に行きたい会社や、やりたい仕事はない。留学やインターン、演劇やバンドに打ち込んだという就活の向けの手札の程度は異なるが、この1つの共通点において5人のスタートラインは横一直線だと言っていいと思う。

そのうち2人は楽々内定、というわけではなかったが、就活ゲームにおいては成功をおさめている。反対に、就活ゲームで成果を出せないのは、主人公である冷静分析系男子・拓人と、意識高い系女子・理香だ。

物語を読み進めると、この2人が「見られる者」と「見る者」というように、対立の構造として描かれることがわかる。それでいて、この2人は似ている性質を持っている。それは、「痛い」と「エモい」という性質だ。理香は「見られる者」「痛い」の象徴であり、拓人は「見る者」「エモい」の象徴なのだ。

まず、理香は誰もが画一的な見た目になってしまう就活スタイルから抜きん出ようと、自分を表現する小道具として名刺を作り、それをばら撒きながらOB訪問をして、Twitterにも多くの肩書きを並べ日々意識高いツイートをして周囲から「見られよう」と自身を猛アピールする。その行動が、物語が進むにつれて「経験値が高い実力者」から「自己愛が強すぎて痛い」という印象を理香に植え付ける。

一方、拓人は「見る者」「エモい」の象徴である。
友人たちとつながりのある表アカウントとは別の裏アカウント「@nanimono(何者)」で、周囲の人間の様子を達観しているかのような、「みんなの痛さ」に呆れているようなツイートをし続ける。「就活の現状を憂う(これが拓人の『エモい』部分である)、他者とは違う自分」への高揚感に浸っているのだ。彼らの就活を見守る読者が読めば「@nanimono(何者)」は拓人が持っていないものを持つ人々への、拓人の妬みを綴った卑屈なツイートのようにしか見えない。

『何者』が執筆されたのは2012年だ。2017年現在、emotionを語源とした「寂しさ、切ない気持ち」を表す「エモい」という言葉が認知されている。拓人は演劇の脚本を手がけてきた人物だから、心の機微に敏感だし、ある現象にストーリーを見出さずにはいられない。就活も、「@nanimono(何者)」からすれば格好の「エモい」の対象だ。「見る者」を決め込んだ拓人は、「社会的な関係を結ぶ」就活ゲームの目的を認知しておらず、その本来の目的を果たすための芝居ができないので、ゲームを達成するには不足している。

「痛い」と「エモい」は社会関係を結ぶ上においては、それぞれマイナスの要素である。どちらも片方の主体の感性が強すぎるため、もう片方の目的を達成することの妨げになる可能性があり、契約関係を結びにくい。

この「痛い」と「エモい」というマイナスの性質を持つある意味近しい存在でありながら、「見られる者」と「見る者」の比較構造で描かれた2人は、『何者』のクライマックスシーンで立場を逆転することとなる。

未だ内定の無い2人だけで対峙するシーンで理香は、拓人を「意識高い行動」と揶揄するツイートしていたことを以前から知っていたと告げる。この時から拓人が「見られる者」、理香が「見る者」というように立場は逆転される。さらに理香は、拓人は自分に酔っていて、そういう拓人自身の自己愛を「痛い」と指摘した。この時の理香の様子は見るに堪えないほど切なく、「エモい」に近い感情を抱かせる。
今まで「見る者」と「見られる者」の対比で描かれていた2人の立場を逆転させたことで、このシーンは読者にかなりの衝撃的をもたらし、読後に後味の悪さを感じさせる効果を持っている。

それでも、このシーンの後はなんだか晴れやかな印象が残る。それは今までの自分を突き抜けて自分の心の一番弱いところと向き合い他者を認める、社会と関係を持つ準備ができた拓人が描かれているからだろう。また、あのシーンで本心を吐露する理香の姿が、また気取らず素直に自分をさらけ出す拓人が書かれているから、わたしたちはこの2人を嫌いになることはできない。

『桐島、部活やめるってよ』は、スクールカーストを描いた作品だ。映画のラストで、神木隆之介演じるスクールカーストの底辺として描かれた映画部部長が「俺たちはこの世界で生きていかなければならないのだから」と、世界を選べない学生ならではの「諦め」を口にする。対して、『何者』で描かれるのは「可能性」だ。就活生たちは未だ何者でもないが、これから「何者」にでもなれる可能性がある。頑なにまとっていた思想を捨てて、新たにスタートできる希望が最後には描かれている。

朝井さん自身も就活をし、大企業に内定を得ている。その時は本名で就活を行い、一番のアイデンティティであるに違いない作家であることを隠していたという。本来作家としての気性を持つ朝井さんが「作家ではない演技」をしてこのゲームに臨んだということは、「採用試験に落ちたとしても、本来のあなた自身が否定されたわけではない」ということを体現しているようにも思える。就活に失敗したからといって死ぬわけでもない。本書の最後で企業の面接を受けながら、拓人も「たぶん、落ちた。でも大丈夫」と語り、「@nanimono」の卑屈は消えている。

朝井さんは3年で企業やめ、現在作家の仕事に専念されている。朝井さんは企業での3年間をどのように過ごしたのだろう?また、どんな思いで企業に就職したのだろう。小説のネタ集めだろうか、他の作家と異なるキャリアを積む生存戦略だろうか、それとも企業で成し遂げたいことがあったのだろうか。作家として成功して、実力で大企業に受かり、就活のトラウマをゆとり世代に思い出させて、しかも3年で大企業のキャリアを手放す。あまりにも眩しい生き方に、同世代のゆとりからは「朝井リョウ、このヤロウ」と思われることもかもしれない。それでも、『何者』で描かれた希望に、痛々し胃けれども愛らしくゆとり世代を描く朝井さんに、わたしたちは救われるのだ。

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