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アートとしての病、ゲームとしての健康 ―20年代の『ハーモニー』論―

はじめに

 みなさん、健康になりたいですか?

 なりたい! と元気よく答えたあなた、はっきりしていていいですね。
 健康になんてなりたくない、と答えたへそ曲がりのあなた、あなたはきっといつの日か、苦痛にもだえながら救急車で病院に運ばれたとき、心から健康でありたいと願うことになります。そのあとでまたお会いしましょう。

 さて、なんと答えていいかわからなかったあなた。うまく答えられなかったあなた。
 この文章は、あなたのために書かれています。うまく答えられないのは当然です。だって、健康っていったいなんなんでしょう。ほんとうは、わたしたちはまず、それを考えなければいけないのです。

 何千年ものあいだ、人間はそれについて考えつづけてきました。もっともらしい答えもたくさん出ています。しかしそれは、時代とともに変わります。わたしたちの時代には、わたしたちのための健康が必要です。それは「なる」ものでしょうか。「ある」ものでしょうか。それとも「つくる」もの、「手に入れる」ものでしょうか。もしかしたら「させられる」もの、かもしれません。そしてそれは、社会と思想と技術によって、時々刻々と変わっていくのです。

 わたしは内科医です。生活習慣病領域を専門としています。わたしの仕事のほとんどは、人々がおおきな病気を予防し、健康に長生きするにはどうすればいいかを考えることです。でも、だからこそ、健康とはなにかをほんとうに考えるには、わたしは病院の外へ出て、批評という世界に足を踏み入れなければなりませんでした。新しい考え方を時代の最先端でつかまえるのは、いつも科学ではなく芸術と思想だからです。

 

 もう10年も前のことになりますが、『ハーモニー』という健康についてのSF小説が話題になりました。科学と福祉がかつてないほど肥大化し、身体のたえまないモニタリングシステム「WatchMe」とすばやい投薬システム「メディケア」によって、老い以外のいかなる不健康とも縁がなくなった医療のユートピアの話です。小説のラストでは、人間みんなが健康に生きるために、つまり余計なものを食べたり飲んだり、自殺したり争ったりしないように、意識を並列化されてロボットのようになってしまう様子が描かれていました。

 たとえばこういう芸術作品を批評する、というやり方によってしか、わたしたちはわたしたちの時代の健康について考えることはできないのではないか、という気がします。

 『ハーモニー』からさらに遡ること約20年、遺伝子の優劣で社会的地位が決まってしまう近未来を描いた『ガタカ』というSF映画もありました。90年代、まさに人間にとって可能な技術になりつつあった遺伝子操作やクローニング。その衝撃をどのように受け止めるべきか考えながら撮られたのであろう『ガタカ』は、名作として繰り返し批評され、そうするうちにわたしたちは、少しずつ新しい技術に対するモノの見方を作り上げてきたのではなかったか、と思います。『ガタカ』のモチーフは、遺伝、という点だけに注目してみれば、人間の発達には遺伝素因よりも環境因子のほうが強くかかわるのではないか、という話です。そして今日わたしたちは、いつのまにか、そのことをすでによく「知って」います。

 『ハーモニー』についてはどうでしょうか。ごく個人的な意見ですが、わたしたちは2017年になってようやく、『ハーモニー』を批評するための道具を手に入れたのではないか、という気がするのです。

 

 『ハーモニー』に登場するような身体のモニタリング技術は、日々進歩し実現されています。そのひとつの到達点が、日本では2017年に発売された持続型血糖モニタリングデバイス「Free style Libre」というものです(詳しくは後ほど)。人はかつて想像することすらできなかった身体の揺らぎを、少なくとも血糖値については「ごはんを食べたら10分後から血糖値が緩やかに上昇し、30分でピークを越えて降下に転じた」という具合に、24時間絶え間なく監視できるようになりました。一部の患者さんは、まるでゲームのように、これを食べたらこのくらい血糖値が上がる、このくらい歩くと血糖値がいくら下がる、と試行錯誤し、自分の身体の恒常性を理解するようにさえなっています。

 こうした技術の登場は、わたしたちがWatchMeの実現にむかってすでに歩き始めていることを意味しているし、逆に言えばようやくWatchMeのある世界がどういうものか、すこしずつ想像できるようになってきたということでもあります。

 他方、わたしたちが健康になるためには、意識を奪われなくてはならないのだろうか、というのも重要な問題です。むやみに美味しいものを食べすぎたり、お酒を飲みすぎたり、煙草を吸ったりすることは「不健康」な行為だと考えられています。そういう行為がどのようにして生まれるのか、そしてそれを防ぐためには、本当に意識そのものを奪わなくてはいけないのだろうか、そもそもどうして防がなくてはならないのだろうか、ということを、わたしたちはきちんと考えなければならない。

 『ハーモニー』の作者は、人間の意識が奪われるラストについて、インタビューでこう答えています。

ある種のハッピーエンドであるとは思うんですけど、はたして本当にそれでよかったのか、っていう思いもあります。そのほかに言葉が見つからなかったのか。さっきの言葉でいうと、「その先の言葉」を探していたんですけど、やはり今回は見つかりませんでした、っていうある種の敗北宣言みたいなものでもあるわけで。

 それから10年後、10年代のわたしたちは、はたして「その先の言葉」をもっているのでしょうか。

 さて、これらの厄介な問題を考えるための道具を携えて、10年代に颯爽と現れた哲学者がいます。『暇と退屈の倫理学』(2011)、『中動態の世界』(2017)といった哲学書で一躍時の人となった、國分功一郎です。意外なことかもしれませんが、わたしの見立てが正しければ、國分は「食べる」ことについて考え続けている哲学者であり、一方で「健康」については訝しがってもいる哲学者です。健康を考えるうえで「食べる」ことの問題は避けて通れません。我々はなぜ「食べる」のか、どのように「食べる」のか。そしてそこに、意識はどのようにかかわるのか。そういうことを、わたしたちは國分の登場によってはじめて考えられるようになった、といっても過言ではないように思います。

 『ハーモニー』、「free style Libre」、そして國分功一郎。このやや突拍子もない三要素の接続が、医療と健康のあたらしい見方を切りひらき、そしてそれぞれへの理解を深めてもいくように思われます。これが、この文章の行き先です。

 

 芸術は、批評に先行してわたしたちに問いをなげかけます。そして批評は、テクノロジーに先手を打ってそれに応えねばなりません。

 電子書籍やネットゲームのアイテム、あるいは仮想通貨といった仮想のモノが、モノを持つことのアイデアの更新よりも早く実装されてしまったことの歪みは、すでになんどか社会問題として噴出してきました。医療と健康については、まだなんとか間に合うような気がします。我々は2020年代を迎える前に、Watch meが社会に実装される前に、この00年代の置き土産にもう一度向きなおり、来るかもしれないテクノロジーと育まれつつある価値基準に対する批評的視座を、手に入れておかなけれなりません。

 

10年後に読む『ハーモニー』

一、

 『ハーモニー』(2008)はSF作家、伊藤計劃の、結果としては最後に書かれた長編である。

 伊藤は当時、すでに末期まで進行した肺癌を患っており、入退院と化学療法・放射線療法を繰り返し、時に朦朧とした頭で本作を書いたという。同じ時期に書かれたブログには、人間が生きることと死ぬことについての当事者としての考察が、時折顔をのぞかせる。死を目の前にした伊藤は、健康の価値を実感として知り、そしてさらにその先の、健康な我々が想像しえない領域へと、思考を進めていたに違いない。

 『ハーモニー』の属する世界は、2019年(我々にとっては来年のことだ)に起こった世界戦争と、未知のウィルスによるバイオハザード、通称「大災禍」によって、従来の政府が一度崩壊したあとの世界である。荒廃した時代からの反動か、人々は健康であることにかつてないほどの価値を感じるようになる。こうした背景から発達したのは、構成員の健康保全を唯一最大の責務とする「生命主義」的統治機構、「生府」であった。

生命至上主義(英:)Lifism。(中略)二十世紀に登場した福祉社会を原型とする。より具体的な局面においては、成人に対する十分にネットワークされた恒常的健康監視システムへの組み込み、安価な薬剤および医療処置の「大量医療消費」システム、将来予想される生活習慣病を未然に防ぐ栄養摂取および生活パターンに関する提供、その三点を基本セットとするライフスタイルを、人間の尊厳にとって最低限の条件と見なす考え方。

 人々は一定の年齢になると、自らの身体にモニタリングシステム「WatchMe」をインストールし、身体を内側から監視させる。恒常性から逸脱するような変化があれば、ただちに個人用の医療薬精製システム「メディケア」から薬が吐き出され、それを飲む。さらには個々人ごとに起こる可能性が高い生活習慣病を予測し、これを予防するべく、「ライフデザイナー」が提供する栄養摂取と生活パターンを順守する。もちろん、酒・タバコ、その他あらゆる放蕩に堕さないよう自らを律することは言うまでもない。

 遠い未来の話のようだが、我々のよく知る言葉でいえば、WatchMeとはつまり「診断」のことであり、メディケアは「治療」であり、ライフデザイナーは「予防」である。これら三点セットによって、あらゆる病が未然に防がれ、身体の恒常性=健康は、極めて幅の狭いゆらぎの中で保たれる…というこのコンセプトは、基本的に今日の医療と変わらない。精度と速度が格段に上がっただけの話である。

 したがって、これは今日の医療にとってはユートピアの話でしかない。

 余談になるが2017年の日本糖尿病学会では、30あるシンポジウムのうち1つだけ、情報技術を主題としたものがあった。そこでテクノロジーが診療上の問題を解決する例として挙げられていたのが、スマートフォンの普及による患者の療養行動把握の簡便化、あるいはインターネットに接続された測定計によるビッグデータの創出、といったものである。

 スマートフォンで食事の写真をとると、アプリで推定カロリーが表示される。万歩計アプリを使えば、実際にどれくらい運動していたかがわかる。治療者はそのデータを見ながら、実際にどのように療養を工夫できるかをアドバイスする。あるいは血圧計や体重計を扱う株式会社オムロンは、数千万人単位のユーザーの家庭血圧や体重がどのように変動したかのデータを持っており、それはたとえば次のようなことを明らかにする;収取期血圧は外気温と逆相関して季節変動する。ただし全体としては、実際の気温よりも1か月早く動く傾向がある。少数派だが2か月早く動くクラスタもあるし、逆に外気温と相関して動くクラスタもある。…こんな事実は診察室では到底知ることができないが、実際に診察室を訪れた患者の血圧変動を理解する上では極めて有用である。

 プライベートを切り取って差し出すかのような、これらのテクノロジーに管理社会の影を見出す向きもあろうが、患者の療養行動や身体の変化を治療者が把握することは、皮肉でもなんでもなく、治療のための第一歩である。

 とはいえ、優れたSF小説がみなある種の両義性を抱えているように、『ハーモニー』は市民にとってのディストピアの話でもある。生命主義のもと、市民の身体は「公共的身体」、つまり社会的に守られ、有効に活用されるべき公的資源と理解されるようになった。自らの身体管理の主権を完全に剥奪される未来が我々の医療の延長にあるとしたら、それはちょっと困る、という気もする。しかしそもそも、身体の恒常性維持をほとんど外注に出し、食べるものすら決められて自らが不健康になることを許されない『ハーモニー』の市民の姿は、すでに毎日体重計に乗り、食事の写真を撮り、テレビやインターネットの情報を頼りにせっせと健康管理に勤しむ我々の姿と、ほとんど重なり合うようにも思われる。

 

二、

 『ハーモニー』が我々の医療と健康について問うていたことは、いったいなんだったのか。

 素直に理解すれば、それは登場人物が「権力が掌握しているのは、いまや生きることそのもの。そして生きることが引き起こすその展開全部」(p291)とミシェル・フーコーの思想を引用して説明するとおり「生権力」「バイオポリティクス」の問題である。あるいはフーコーの権力論を引き継いだドゥルーズのアイデア「環境管理型権力」の問題である。今日我々は、唯一絶対の価値基準によって規律訓練されるのではなく、自由に行動しているつもりで実は周到に整備された環境によって制御されている、という実に複雑なかたちで権力の支配を受けている。『ハーモニー』の世界で働く権力には、放蕩に対する直接的な罰則=規律訓練的な側面もあれば、好むと好まざるにかかわらず「健康に良い」ものしか摂取できない、という環境管理的な側面もある。しかしいずれにせよ、これらの問題系は決して新しいとはいえない。

 あるいはフーコー的にも理解できる公共的身体というアイデアを、臓器移植が社会に実装された90年代~00年代ころの議論と重ねることもできる。脳機能が停止し回復の見込みはないが、その臓器は瑞々しく保たれている「脳死」の状態に陥った身体は、その臓器を社会のために提供すべきである、いやそうではない、という一連の議論は、まさに市民の身体が資源化されることを話題としていた。とはいえこれらの議論も、10年代に入ってすでに収束した感がある。

 20年代に向けて『ハーモニー』を論じるにあたり、まだ十分に問われていないのはどの部分だろうか。

 ひとつは、冒頭で書いた通り『ハーモニー』のラストで人間から永遠に奪われる、行為生成の土壌としての「意識」の問題だろう。そしてもうひとつは、先の検査・治療・予防の三点セットを成立させる大前提である重要な機能「社会評価点(ソーシャル・アセスメント、以下SA)」の存在をどう読むか、という問題だ。そして、じつはこれらふたつの点を、一度に読み解くことを可能にする道具こそが、國分功一郎の一連の著作なのである。

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