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飢餓と食慾の倫理学 ―國分功一郎の医療学的変奏―

一、

 2017年、医学書院から出版された國分功一郎『中動態の世界』は、精神科界隈に大変な衝撃をもたらした。依存症患者との架空の対話から始められる本書は、アルコールやドラッグへの依存症においてしばしば問題にされる「意志」(の弱さ)というアイデアについて専門家が有していた知見を、鮮やかに、きめ細かに物語化した。

 能動態でも受動態でもない、意志のありなしというパースペクティブから外れた動詞の態「中動態」。あらゆる行為にはその端緒となる意志が存在する、という西洋哲学的なモデルの成立過程で抑圧されたこの態を掘り起こすとき、我々は結果として自ら行為していながら、その過程に様々な要因が外在するようにも感じている自分自身を発見する。自ら進んで行為するのでも誰かに行為されるのでもなく、一方でそのどちらでもあるかのようなこの経験について吟味しないかぎり、依存症の病態を理解することはできない。『中動態の世界』が精神科領域で打ち立てた新たな共通認識は、ひとまずそのようにまとめることができる。

 

 私はひとりの内科医として、『中動態の世界』が精神科のみならず医療全般をあまねく問い直すアイデアであることを直感した。しかし一方で、國分功一郎は医療が目指すところの「健康」なるものについてはどうも懐疑的でもあるらしい。

もちろん「健康」を一概に否定するつもりはない。(中略)しかしここには、楽しむということに対する、社会からのぼんやりとした禁止が現れているような気がしてならない。[i]

 私の専門の半分は生活習慣病領域だが、この領域の使命は、人が少しでも長い時間を楽しく生きられるようにすること、そのために彼の健康維持を手助けすること、である。そしてこの目的意識それ自体は、國分功一郎の思想と同居不可能ではなさそうに見える。このギャップをどう理解すべきか、というごく個人的な問いは、國分思想を読み解くひとつの鍵になるように思われる。

 一方で、國分功一郎を論ずるうえで見逃してはならないのは、本来は政治哲学を専門とするはずの國分の著作においてなぜか頻繁に登場する「食べる」ことの問題である。それらはアイデアや事象の具体例として示されたり、あるいは直接的に問題にされたりする。『暇と退屈の倫理学』では定住以降の人類が宿命的に抱える「退屈」の問題が論じられるが、これを克服するためのテーゼとは、よく噛んで食べること[ii]、味わって食べること[iii]、なのだった。文字通りの意味でも味わって食べることについて考えた國分は、いわゆるところのファストフードの味わえなさについて「インフォ・プア・フード/インフォ・リッチ・フード」という論考で論じてもいる。

 いうまでもなく、生活習慣病治療の最大のポイントは食事療法である。これはしばしば「食べない」ことであると誤解される。患者のみならず多くの医師がそう理解している。治療は「〇〇を食べてはいけない」という禁止の形をとって患者に突きつけられ、「〇〇を食べたのではないか」という尋問によってその順守を確認される。「健康」がこのように禁止と強制の形をとって食行動の改善を要求するとき、國分が「健康」に見出す否定的な印象はまったく妥当であるというほかない。しかしもう少し正確に言えば、食事療法の本質は「食べない」ことではなく「うまく食べる」ことにこそある。

 「味わって食べる」ことと「うまく食べる」こと、このふたつの「食べる」の交点を探し求めるうちに、國分思想の臨床応用にたどり着くような気がする。タイトルに付した「医療学」とは、河合隼雄が糖尿病治療について提唱した概念である。生命科学としての医学ではなく、哲学込みの実践としての医療について学べ、というこのコードは、國分思想の変奏にうってつけである。

 

二、

 「食べる」の話に入る前に、すこし議論の前提を整理しておかなければならない。

 この中動態という魅力的なアイデアは、あまりに魅力的であるがゆえに一人歩きを始めた感がある。たしかに依存行動において、個体の外部に存在する様々な行為生成要因は重要であり、そこに意志と責任を求めることは病態の解決につながらない。とはいえ、個体に内在する行為生成要因もまた無視されてはならない。あるいはよく批判されるように、中動態が主体の逸脱行動を不問に付すための単なるエクスキューズとして使われてはいけないし、國分も『中動態の世界』においてそういうことを言っているわけではない。

 『中動態の世界』は、中動態というキーワードを超えて理解されねばならない。その核は中動的であるとはどのようなことか、を問うことのみならず、能動・受動のパースペクティブを無効化したところで人間の行為生成について考えることにこそあり、その白眉はそもそも我々のすべての行為は中動的に記述されうるのではないか、という視座をスピノザの思想のうちに見出す一連の議論である。

 少し長くなるが、かいつまんでこの議論を追ってみよう。スピノザ思想の出発点にある神とは、超越原因;他動詞的・能動態的に外部に影響を及ぼすもの、ではなく、内在原因;中動態的に自ら「変状affectio」し、個物において自らを表現するものとして想定される。「変状」の動詞形であるaffeciturとは、「刺激する」「影響を及ぼす」といった意味の動詞affectioの受動態である。しかし、唯一の実態である神が、その外側から刺激されるなどということはあり得ない。つまり、神は自らに刺激を与え、その刺激によってある状態へと「もたらされる」。このように行為が主体自らをその過程に含む態こそが、言語学者バンヴェニストの指摘したところの「中動態」であり、したがって神の「変状」によって現れる世界は中動態的にしか説明されえない。

 ただし、個物そのものもまた、絶えず他の個物から刺激や影響を受け、さらに「変状」しながら存在する。この個物間の作用と二次的な「変状」をどう記述するか、というのが大きな問題で、スピノザはこれを描写するために「能動」「受動」という用語を持ち出さざるを得なかったのだが、しかし、この対立は我々のよく知るとおりの「作用する/される」という二分法とは重ならないと國分は指摘する。スピノザ自身の言葉の中により適切な二項対立を見出すならば、それは「自由」と「強制」である。

 個物には、自身を構成する「諸部分間の関係を一定の割合で維持しようとする力」が内在する。スピノザはこれを「コナトゥスconatus」と呼ぶ。コナトゥスは自らを維持しようとするが、一方でその同じ力が、外部からの刺激に応答するときには変状を司る。この力は生命科学の領域で「恒常性homeostasis」と呼ばれるようになって久しいところの概念に他ならず、したがってその力の実在を疑う余地はないのだが、それは今は置いておくとして、この力こそが個物の本質である。

 そして個物が二次的に「変状」するとき、つまりは行為し、なんらかの状態としてあるとき、そのプロセスと結果が本質を十分に表現していることが能動であり、逆に外的刺激が支配的になっていることが受動である。國分は前者を「自由」に、後者を「強制」にパラフレーズする。つまりあらゆる行為は、したのか、されたのかという形で評価されるのではなく、その生成過程の自由/強制の綱引きによって記述されるべきなのである。

 

 スピノザの理想は、「強制」の比率を減らし、「自由」の比率を増やすことにある。もちろん、外的な刺激を全て遮断することなどできないし、したがって個物は「完全に自由になれない」。しかし、「思惟能力」を充分に働かせれば、外的刺激によって湧き上がる反射的な感情のままに行為することは避けられる。「罵詈雑言を浴びたらそのまま怒りに震えるとか、他人の高い能力やすぐれた実績を見たらそのままねたむといった、変状の画一的な出現」は、罵詈雑言を浴びたことの理由、自分が他人をねたんでしまった理由を冷静になって考えることで避けられる。

 そんな風にして「ときおり、自由に近づき、ときおり、強制に近づく」個物としての我々人間が、どうすればより自由でいられるかを考えるのが「中動態の哲学」なのである。

 

三、

 ところで、スピノザ―國分のこの解決策は、すでに「認知行動療法」という形で方法論化され、生活習慣病治療における効果が実証されている。

 空腹感には、「生理的空腹感」と「情動的空腹感」がある。(中略)「情動的空腹感」は、退屈、抑うつ、怒り、イライラのようなマイナス気分が引き金となって起こる、心理的衝動的な空腹感である。(中略)
情動的空腹感に条件づけられた食事習慣は、肥満症患者の大きな特徴の一つである。したがってお腹が空いたと感じても、「ちょっと待てよ、本当に食べたいのか?」と自問するくせをつけさせる。

 菓子類などの食品が身の回りにあると、空腹でなくてもつい口に入れてしまいがちである。(中略)まず、偶発的な摂食がないか(無意識に食べていないか)を確認し、それを誘発する刺激(環境)を明らかにする。次に、食べたくなる刺激を減らし、避ける方法を計画し、実行する。
このように、食べ過ぎを起こす刺激を一貫して避けることを「刺激統制(環境調整)」という。[iv]

 

 ここで指南されているのは、恒常性維持の必要性を超えた「食べる」という行為が、生成されるその過程を解体する方法である。前者は外的刺激で生じた負の感情を、思惟によって変状にまで至らしめないことであり、後者は「私を食べて」とばかりにアフォーダンスを発する食物を排除し、変状を誘発する外的刺激そのものを減らすことである。いずれもスピノザ的に「強制」を薄め、「自由」に近づく方法といえよう。

 中動態の哲学のもと行う依存症治療とは、この不断の努力を要求することに他ならない。これは、患者の依存行動を前にした治療者が「まあ、人間は中動態だから、責任とか問うてもしょうがないよね」とそれを不問に付すような態度では断じてない、ということをまず理解せねばならない。

 

 さて、「生理的空腹感」とは飢餓のことであり、「情動的空腹感」とはそれとは完全に重ならないものとしての食慾、と言い換えることができる。國分の言葉に重ねるならば、飢餓とは暇のことであり、食慾とは退屈のことと理解してよいだろう。『暇と退屈の倫理学』の命題が「よく噛んで食べる」「味わって食べる」というのは言い得て妙である。國分が言うところの「食べる」はもちろん比喩だが、我々はここで文字通りの意味においても、飢餓を回避しつつ食慾をも満たすこと、そのために食べることそのものを楽しむことを考えなくてはならない。

 一方、『中動態の世界』の命題をやはり「食べる」ことで例えるならば、「食べる前によく考える」あるいは「食べるものをじっくり選ぶ」という具合に解釈するのがよさそうだ。では、なにを「食べる」かをじっくり考えた我々の身体は、「食べる」という行為をいかにして生成するのだろうか?

 

 國分は『中動態の世界』の執筆後、中動態的な行為生成に関する極めて解像度の高いモデルとして、アスペルガー症候群である綾屋紗月が記述した自身の「症状」[v]について言及している。

 綾屋は定型発達の「健常者」と比較し、行為のまとめ上げに膨大な時間がかかる。あるとき「ぼーっとする」「胃のあたりがへこむ」「倒れそう」「なんか悲しい」というばらばらの身体・心理感覚を自覚してから、次第に増強するそれらを「おなかすいた」という意味へとまとめ上げ、さらにその意味が「食べたい」という行為への欲求:「したい性」に接続され、そして実際に提示されるレストランのメニュー=モノのアフォーダンスと「食べたい」のすりあわせが奇跡的に完了したとき、綾屋ははじめて食べるものを注文することができる…という一連のプロセスに、放っておくと丸二日間かかってしまったりするというのである。

 ここで、身体内部の刺激(身体・心理感覚)はスピノザの言うところの本質に相当し、モノが発するアフォーダンスは行為を強制する刺激である。綾屋の行為生成は、「食べたい」のかどうかをあまりにもじっくり考えることにより、ほんとうに「食べたい」ときに「食べたい」ものと出会った瞬間にしか食べることに至らない、という極めて純度の高い「自由」によってなされており、したがってスピノザの理想形に近い。にもかかわらず、実際問題としてこれでは不便であり、なにより苦しい。それはいわば、中動態地獄とでも呼ぶべき世界である。

 そこで綾屋は普段、「したい性」ではなく「します性」によって行動する。飢餓か否かにかかわらず、12時になったら鶴亀庵に行ってソバを食べます、という具合に、外的要因によって行為をパターン化するのである。これを「自由」と「強制」のパースペクティブでどのように表現するかはよく考えなくてはならないが、少なくとも「したい性」の「自由」をあえて抑え込むような方法論であることは確かである。

 さて、定型発達の「健常者」も、同じように中動態の世界を生きているのであるとすると、やはりこの複雑なプロセスを踏んでいることにはなろう。しかし、そこでは「おなかすいた」→「なんか食べたい」→「ソバにする」→「鶴亀庵に行く」というステップがほとんどひと飛びで通過される。常に中動的であることは不便だから、我々はしばしば行為生成を簡素化する。その過程では様々な内的衝動の枝葉を切り捨て、外的なアフォーダンスの方に個体をすりよせることにもなろう。これは時として、あまりにも「うっかり」ではないか、と綾屋は指摘する。

 綾屋の議論に付けくわえて例を挙げるならば、あまりよくないこととは思いながらも深夜になんとなくラーメン屋の暖簾をくぐってしまうとき、我々はラーメン屋の明かりが有するアフォーダンスによって、ラーメンを食べることを知らず知らず「強制」されている、ということがある。ここで一歩踏みとどまって、中動態の世界にふたたびどっぷりと浸かり、行為生成のプロセスを延長すること、つまり私は本当にラーメンなど食べたいのか、自問することは、純粋に過食の防止という意味においてはやはり妥当な解決策である…。

 

四、

 ラーメンを食べることについて、もう少し深く考えてみよう。

 前々から思っていたのだが、生活習慣病患者が「食べすぎた」という時、その過食の様相には2種類ある。後ろめたい過食と、すがすがしい過食である。

 想像してほしい。あなたは働き盛りで一人暮らし。23時に仕事が終わって帰路につくが、家の冷凍庫にはご飯がない、冷蔵庫には野菜もない、イトーヨーカ堂はもう閉まっている。さて、晩御飯になにを食べようか? 開いているのはコンビニか、駅前にある家系ラーメン。ここでラーメンを食べる、という選択がなされたとして、そこには是が非でもラーメンを食べるのだ、という能動態的な意志はたしかに存在しない。かくして「うっかり」ラーメンを食べるパターンが恒常化し、糖尿病が増悪した患者が外来で口をそろえて言うことは「仕事忙しい時期は、しょうがないよね…」。

 ここで「しょうがない」という言葉によって語られるのは、アーキテクチャによって行動・選択を制約されているからラーメンを食べさせられたのだ、といういわば受動的な行為生成のナラティブである。しかしながらアーキテクチャを前提としても、それではなぜ彼はコンビニで夕飯を買う、という選択肢を棄却したのか、という問いは発せられるべきである。コンビニでサラダとサラダチキン、それにおにぎりでも買って、炭水化物と食物繊維と蛋白質をバランスよく摂取する選択肢だってあったはずなのに、なぜ「うっかり」ラーメンを食べてしまったのか。このようなほとんど暴力的ともいえる尋問が治療者から向けられてしまったとき、それに臆面もなく答えられる患者はそう多くない。

 この「食べる」はアーキテクチャという形で外側から与えられるアフォーダンスのみならず、実は内側から発せられている「高いエネルギー価の食物を効率よく摂取したい」という一生命体としてのコナトゥスの呼び声も関与して生成される(これは患者がそう、というよりも、我が身を振り返ってもそうであると感じる)。つまり、仕事で遅くなった帰り道でラーメンを食べることは、実際には中動態的な変状である。しかし患者自身のナラティブにおいて、この内的要因の存在はかき消されてしまう。なぜならば―おそらくは、だが―この内側からの衝動を意志の力で抑制できなかったことについて素直に語ってしまうことは、治療者と結んだ治療関係を裏切ることになると考えるからである。驚くべきことに、意志と責任を強調するはずだった能動・受動というパースペクティブは、ここでは逆に患者自身の意志と責任を想定した上で、それを隠蔽するために用いられている。

 この一見受動態的なナラティブを、中動態の世界に引き戻して読み解くことには意味があるし、そのためには治療者自身も、ラーメンを食べた患者の意志を前提とする能動・受動のパースペクティブから離れて問いを差し向けなければならない。

 

 しかしそもそも、すでにお気づきのとおり、ラーメン自体は悪ではない。それは文脈が変われば美食であり、したがって善なるものである。

 旨いラーメンも食わないでなにが人生か、というタイプの患者がときどきいる。入院するとしばらく食えないからね、とお気に入りのラーメン屋に行った足で病院にやってくる。上のパターンを「後ろめたい過食」と呼ぶならば、こちらは「すがすがしい過食」である。このタイプの患者は、絶対に言い訳をしない。気持ちの良いくらい、自分自身が食べすぎたと考えていることを素直に告白する。彼等は環境によって「強制」されず、ほとんど純粋な「自由」の表れとして旨いラーメンを食べ、それを楽しんでいる。

 意外なことかもしれないが、「すがすがしい過食」タイプの治療は、前述の「後ろめたい過食」タイプに比べてずっとうまくいく気がしている。「後ろめたい」タイプの治療は、たとえば転職とか結婚といった形で外的要因が変化すると急速に進むのだが、そうでない限りは難渋する。一方、「すがすがしい」タイプははじめから「自由」であるがゆえに、つまらないものを無駄に食べたりはしない。別に飲みたくて飲んでいたわけではなかった清涼飲料水が血糖値を急激に上昇させていたことを知った時、彼等は驚くほどあっさりとそれを飲むことをやめる。「味わって食べる」ことができる人間は、それが彼等の「自由」を抑圧するのでないかぎり、「うまく食べる」ことも「食べるものをじっくり選ぶ」こともできるのである。

 

 

五、

 ここまで患者自身が「食べる」ことについて考えてきた。今度は患者自身の行為を離れ、医療のプロセスを俯瞰してみよう。このような患者と、それに相対する治療者、両者の間に織りなされる治療関係は、「自由」と「強制」のパースペクティブにおいてどのように描写されるだろうか。

 ある一定の局面においては、医療はまったく肯定的な意味において「強制」である。能動・受動のパースペクティブにおいて治療が執行されるしかないのは、たとえば心肺停止状態、意識消失状態のような極限の状態である。一方で、疾病の長期的なコントロールに「強制」的な治療者の態度が良い影響を与えないことは、すでに多数の研究者によって報告されている。すると問題は、両者の間にグラデーション的に横たわる医療の形態をどこで切り分けるか、ということになりそうだが、実はそのモデルも、1950年代にすでに示されている。

 SzaszとHollenderは、医療者と患者の間に生じる役割関係を次のように分類した[vi]

  1.  activity-passivity:能動と受動
    患者が判断能力を失っており、医療者が治療の目標や計画について全責任を負う状態。
  2. guidance-cooperation:指導と教育
    医療者の優れた方針決定と技能によって苦痛の除去を目指すが、その実現には患者の協力が必要となる状態。
  3. mutual participation:相互参加
    医療者と患者が同等な力を持ち、責任を分担する状態。

 のちに糖尿病医療学学会の長である石井均がこのモデルを引きながら、(2)を急性疾患モデル、(3)を慢性疾患モデルと言い換えている[vii]。急性疾患とは、嵐のように訪れて去っていく病である。感染症や手術可能な腫瘍を想定するとよい。抗菌薬の選択や手術の腕前、つまり治療者の技量が治療行為の中心となるが、その際には患者の同意と協力―薬をしばらくの間毎日飲んでもらうこと、入院して安静にしてもらうことなど―が必要になる。これに対して慢性疾患とは、共に長い人生を歩まねばならない病のことである。すでに見てきたような生活習慣病がこれに属する。患者は自由であり、日常の多くは病を忘れて過ごし、その生活のごく一部でのみ治療行為を実践する。(1)については緊急疾患モデル、とでもしておくのがよいだろう。これは隕石のように突然直撃し、患者から自由を奪う病で、すでに見た心肺停止状態、意識消失状態がこれに当たる。

 ここで、患者―治療者の系によって行為=治療が生成される過程に注目してみよう。この三分類はまさに、患者自身の関与の度合い、すなわち「自由」と「強制」のバランスによって切り分けられたものであることに気がつく。

 (1)ではほとんど100%、医師由来の要因=「強制」によって患者の身体が変状し、そこには患者由来の要因=「自由」が介在しない。一方、(3)がその理想形をとっているとき、「強制」と「自由」は半々である。その中間にあるのが(2)だとすると、そこでは「強制」が75%、「自由」が25%といったところになるだろうか。残念ながら今日でも、慢性疾患の患者を前にして治療者が(1)か(2)のように振舞うことは少なくない。この場合、実は患者の側に50%も委ねられている治療要因を賦活することができず、治療としては成功しない。だからこそ、(3)がモデルとして提示されたことは大きな意味を持っていた。

 ここで、治療関係において50%の濃度を決して下回らない治療者の身体にフォーカスすることは、患者にフォーカスすることと同様に重要である。『中動態の世界』の視座のもとに依存症やその他の病を扱うとき、実は見落とされがちなのはこの治療者の身体ではないか、という気がする。もちろん、自身が権力であるかの如く振舞う治療者を批判するための道具立てはすでにそろっている。しかし、そうではない振舞い方を目指すとき、治療者の身体運用もまた中動態をとるのだ、というごく当然の事実について付け加えねばならない。

 治療者は自らの意志によって能動態的に治療をするのではない。治療とは、患者―治療者というふたつの身体を1つの系とし、中動的に生成される系の変状のことであり、つまりは系から発せられ系自身をその過程に含む行為のことである。

 

六、

 しかし、このモデルから考えるべきことはもうひとつある。「自由」と「強制」というパースペクティブを手に入れた我々は、(1)~(3)のさらに先に、「強制」がほとんど0%に、「自由」がほとんど100%になった状態が存在するのではないか、ということにも気がつく。(4)未病モデル、とでも名付けるべきこの状態においては、患者―と呼ぶことはすでにできないが、ここでは便宜上そう呼ぼう―が医療者の助言を受けることなく治療し、自ら健康を目指す。スピノザ―國分のモデルによれば、これはある種の理想形である。わが国でもセルフケアの重要性が指摘されて久しく、健康について極端な自己責任論さえも飛び出す今日、患者が自ら健康を目指すことは望ましいことのようにも見える。

 しかし患者が意識を失っているのでない限り、「強制」すなわち外的刺激が治療行動の生成に与える影響は0%にはなりえないのだった。ここで彼等は自覚的に、あるいは無自覚的に、治療者以外から情報を得て行為することになる。そしてよく知られている通り、それは時に「正しく食べる」ことよりも「〇〇を食べない」ことに重心をおいた情報として患者を刺激する。高純度の「自由」から出発した患者の変状は、知らず知らずのうちに、患者―治療者の系の外部で別のアフォーダンスから「強制」される度合いを高めていく。

 別のアフォーダンスとはなにか? 具体的には、あらゆるメディアや口コミを通じて獲得される健康情報である。しかしより抽象的にいえば、國分が括弧付きで名指しして批判した「健康」とやらが、まさにそれにあたるのではないかという気がする。

 

 健康になれ、と言われるといい気持ちがしないが、健康でありたいと願わない者はいない。自分はそうは思わない、というあなたは、いつの日か救急車で病院に運ばれたときに必ずそう思うことになる。さて、これら2つの健康は、おそらく微妙に違うもののことを指している。仮に前者を「健康」、後者を<健康>と区別して表記することにしよう。國分の「健康」批判は、端的には次のようなことである。

 「健康」という名の生存の条件を全ての物事の尺度にする考えが、消費社会のロジックから導き出されたものでない保証がどこにあるだろうか? 酒もタバコも甘いものも絶ってジムのマシーンの上でただひたすら走る行為は、どこかしら、終わることのない記号消費ゲームのメタファーにも見える。[viii]

 『暇と退屈の倫理学』の少し後で書かれた「生存の外部――嗜好品と豊かさ」という短い論考では、同書で展開した浪費と消費を区別する議論の延長として、消費ではなく浪費としての嗜好品が論じられる。生存に必要な水準を超えて嗜まれる食事や喫煙こそが、まさに消費ではなく浪費であり、それは純粋に「楽しむ」ことである。生存には必要ないが美味しいいものを味わって食べる、ということは、國分的に言えば退屈に対するアンチテーゼであるし、本稿でいうところの「うまく食べる」とも同居可能なのだった。

 まさに恒常性というありかたで、我々の身体で維持されている内部性としての<健康>に対し、これとは別に「物事の尺度」として想定される「健康」とは、個体を「強制」し変状せしめる外部性であり、ある種の権力といってもよい。引用文で語られているのは「後ろめたい過食」タイプの患者のそれと同様、「健康」を目指す行為がアーキテクチャの中で生成されるという受動態のナラティブである。より厳密にこれを言い換えれば、ある種の権力によって、酒もタバコも甘いものも「絶たされている」こと、ジムのマシーンの上でただひたすら「走らされている」ことが問題視されている。そして注意せねばならないのは、ここでも、本当はあったはずの内的衝動―記号消費への欲求、ではなく、<健康>を維持しようとする力―は隠蔽されている。

 

 この新たな見立てにはいくつかの問題が含まれているが、最大の問題は「健康」を要請し我々をジムで走らせる権力とは具体的になんであるか、そのような権力をふるっているのはいったい誰であるかという点である。國分が言うように「健康」が消費社会のロジックに立脚するのだとしたら、権力の行使者は社会、ないしその主力構成員である。しかし、本当にそうだろうか。本稿はここで、國分自身のイメージを中動態の世界に置きなおして再検討する必要に迫られている。

 

七、

 もう一度『中動態の世界』に戻ろう。権力とはなにか? バンヴェニストの見立てによれば、能動態は主体が行為のプロセスの外にいる態。中動態は主体が行為のプロセスの内にいる態。そのうえで國分は、アレントを批判的に検討した後でフーコーの主張に依拠し、権力を行使すること、被ることの態について次のようにまとめる。

 権力の関係は、能動性と受動態の対立によってではなく、能動性と中動性の対立によって定義するのが正しい。すなわち、行為者が行為の座になっているか否かで定義するのである。
 権力を行使するものは権力によって相手に行為をさせるのだから、行為のプロセスの外にいる。これは中動性に対立する意味での能動性に該当する。権力によって行為させられる側は、行為のプロセスの内にいるのだから中動的である。[ix]

 (3)慢性疾患モデル、または(4)未病モデルに身を置く患者が「健康」のために「うまく食べる」あるいは「食べない」とき、彼は行為プロセスの内におり、中動的である。では、ここで権力をふるっているのは誰か? すでに見てきたように、自らも治療行為の過程におかれた治療者はこの意味において権力の行使者にはなりえない。この点は、権力とセットで論じられる暴力について考えることでも確認できる。

 権力と暴力が混同されがちであるのは、権力がしばしば暴力を利用するからである。暴力が行使可能性に留まりつつも効力を発揮するためには、権力を行使される相手がその暴力の恐ろしさを理解していなければならない。したがって権力は、暴力の恐ろしさを理解させるために、暴力を限定的に用いることがある。[x]

 医師は患者に対して治療行為を提案するし、それが順守されず検査結果が改善しないときにはあまり良い顔をしないかもしれない。しかし、この権力の効力を裏付けている暴力は、医師自身が持ち、行使するものでは決してない。およそ文明国であれば、医師が身体機能の保たれた患者を押さえつけて野菜を食べさせるということなど起こらないし、野菜を食べない患者を罰することもない。罰するのは―などという表現は本来全く適切ではないが、ここでは敢えてそう言おう。罰するのは治療者ではなく、病である。

 すなわち「健康」という権力は、誰によって行使されるでもなくただそこに存在し、その成立要件として「病」という暴力を持っている。患者がその暴力の効力を直感したとき、そう、たとえば彼が初めて病院に救急搬送されたとき、「健康」は権力として立ち現れる。

 この奇妙な無人の権力を前にして、それが「消費社会のロジック」の作り上げたものである、などと結論づけてみたくはなるし、「消費社会」のかわりに「環境管理権力」「医療経済」「ボディポリティクス」などあらゆるものを代入してみるのもよい。しかし、それらの理解もやはりこの奇妙な権力を説明できない。日本のようにセーフティネットが比較的整備された国においては特に、社会はそう簡単には患者を罰しないからである。患者がやがて直面する「病」は、社会のロジックとは全く無関係に行使される暴力である。

 

八、

 中動態の哲学から導き出された権力としての「健康」、暴力としての「病」というこの見立てにおいて、少なくとも「健康づくり」などというおこがましい発想、すなわち、人間が「健康」を能動的に操作し獲得できるかのような旧来的なモデルは意味を失う。

 しかし一方で、まさに同じ「健康」がゲームとしてプレイされるとき、患者はこの「健康づくり」モデルを自らの身体にインストールしてもいる。このねじれもまた奇妙である。先の引用で指摘されている通り、「健康」とはある意味でゲームでもある。それは、外から与えられたルールによってプレイさせられるゲームである。

 先のモデルの(3)、(4)で治療されるところの病~未病、たとえば生活習慣病は、それ自体が苦痛を与えないが、心筋梗塞・脳卒中といった致命的な疾患のリスクである。この種の病は潜在的な苦痛であるがゆえに治療の対象となる。しかし潜在的な苦痛は、決して身体感覚としてはフィードバックされない。すなわち人間は、今自分が「健康」であるかどうかを、医療機関での検査を介して他覚的にしか知ることができないし、その結果は身体感覚とは必ずしも紐づけられない。生活習慣病は、いわばバーチャルな病である。

 このバーチャルな病を遠ざけるためのゲームにおいて、行為生成の基準は完全に外部化される。深夜にラーメンを食べることそれ自体は、コナトゥスの呼び声に従うものであり、人間の長い歴史のなかでは<健康>に矛盾しなかったわけだが、今日の「健康」観ではそうではない。この理不尽なゲームをプレイすることを余儀なくされた患者は、酒と煙草はよくないらしい、甘いものもよくないらしい、ジムで運動するといいらしい、という、極めて不確かな攻略情報をもとに手探りで行為する。それらの試行錯誤がよかったのか、悪かったのかの結果は、1か月後に再び病院を訪れたときにはじめて、1か月の平均スコアという形で限定的に明らかになる。

 もはや自らの<健康>を直感できないこの状況は、我々の身体が二重化していることを意味する。

 國分は『暇と退屈の倫理学』の増補版の付録「傷と運命」において、「世界体験の中で次々に立ち上がる事象のうち、もっとも再現性高く反復される事象系列群こそが、「身体」の輪郭として生起する」という熊谷晋一郎の指摘を引きながら、「自己の身体」イメージの獲得には予測モデルの成立が不可欠であるとしている。指しゃぶりをする赤ん坊が、この筋肉をこの動かせば、腕が上がり、親指を口に運ぶことができる、という事象が確実に繰り返されることに気が付いたとき、一連の事象に含まれる要素は自らの身体として囲い込まれる。

 そうだとすると、患者になんらの苦痛も与えないバーチャルな病は、自己の身体に潜在していながらも、感覚としてはつねに自己の身体の外にある。自己の身体と、病める身体は解離する。(3)、(4)の治療モデルはつねに自己の身体の外で遂行される。そして病態が(1)、(2)へと移行したとき、病める身体ははじめて、症状の苦痛という感覚的フィードバックを与えることによって自己の身体と重なり合う。

 中動態の世界において、人間の身体はいま・ここにあると同時に、いま・ここではないどこか、にもある、と理解されなければならない。「健康」という権力を行使するのが神ではないとしたら、それは、いま・ここにない身体がいま・ここにある身体に行使するのである。そのようにしか理解できないように思われる。「健康」はある意味では社会的に作られたアイデアであり、生物としての人間に潜在する<健康>とは微妙にずれてぴたりとは重ならず、従ってときに〈健康〉に対して権力を行使する。しかし、それらは等しく個体のうちにある。〈健康〉を飢餓の回避と、「健康」を食慾のコントロールと重ね合わせてもよい。ふたつの食行動原理をすりあわせて「食べる」我々に必要なのは、飢餓と食慾の倫理学とでも呼ぶべきものである。

 

九、

 哲学者の大澤真幸は、國分との対談のなかで、中動態的な主体を自身が繰り返し用いてきた楕円の比喩によって描いている。書く、という行為の生成過程において、主体の中には「書いている」と「書かされている」のふたつの中心が存在する。ひとつの中心は私、そしてもうひとつの中心は、他者、というわけではなく円の中にはいるが、私、とも言い切れない「他者以前の他者」である。ふたつの中心によって楕円として輪郭を与えられた行為生成の系は、「書かされてる感と書こうとしている感」のブレンドによって書くことのもっとも高いパフォーマンスを発揮する…。[xi]

 このイメージを借用するならば、患者―広い意味での、病が潜在するあらゆる個体―もやはり、楕円である。自らが輪郭を意識できる身体と、その外にあるように感じられる病を抱える身体は、同じひとつの楕円の内にある。あるいは「食べたい」私と「食べさせられている」私は、同じ楕円の内にある。(1)、(2)の治療モデルが扱うところの患者が、中心の限りなく狭まった楕円であるならば、そうなってしまう前に治療を、というのが、(3)あるいは(4)のモデルの理念である。

 中動態の哲学の実践として構想される慢性疾患治療モデルとは、自己の身体を唯一の中心であるかのように知覚する患者に、病を抱える身体をもう一つの中心として知覚せしめること、それらふたつの点を中心とする楕円によって、新たな身体の輪郭を与えること、に他ならない。中動態とは、病める身体を切り離すことではなく、かといって自己の身体に縛り付けることでもなく、適度な距離をもって包摂することである。『中動態の世界』が切り開いたケアの新たな地平とは、そのように理解されるべきである。

 さらに言うならば、患者―治療者も、治療行為を生成する系としての楕円の、ふたつの中心である。さらに…と続けることも、あるいはまったく別の他者とのあいだに楕円を見出すことも、きっとできるような気がする。中動態の世界に生きる人間とは、ミクロ的に、マクロ的に、あらゆる次元において、楕円的に他なるものを包摂し、ふたつの中心の濃淡によって変状する存在であるように思われる。

 

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[i] 國分功一郎「生存の外部――嗜好品と豊かさ」『民主主義を直観するために』(初出2012)p77
[ii] 國分功一郎、熊谷晋一郎「Human Nature, Human Fate」『WIRED vol.30』(2017) p27
[iii] 國分功一郎『暇と退屈の倫理学 増補新版』(2015) pp356-357
[iv] 日本肥満症治療学会 メンタルヘルス部会『肥満症治療に必須な心理的背景の把握と対応』(2016)(強調は引用者)
[v] 綾屋紗月、熊谷晋一郎『発達障害当事者研究』(2008)
[vi] Szasz TS, Hollender MH ”A contribution to the philosophy of medicine.” Arch Intern Med 97 (1956) pp585-592
[vii] 石井均『糖尿病医療学入門』(2011) p33
[viii] [國分2012 ]p79
[ix] 國分功一郎『中動態の世界』(2017)p151
[x] [國分2017] pp150-151
[xi] 特集「中動態の世界」 第一部 國分功一郎×大澤真幸「中動態と自由」|週刊読書人ウェブ(代官山蔦屋書店)http://dokushojin.com/article.html?i=1580

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