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宿る 住む 所有する  ―ハイデガー、マルクス、スナフキン―

 

 建築は人間にとって最も切実な必要物である。なぜなら家屋は片時もなくて叶わぬものだったし最初に作りだした道具だったのだから。(中略)
 だが人々は古い家屋に住み、自分らの家屋を建設することをまだ考えたことがない。古巣は心につなぎとめられて、久しいことだ。家の神聖な崇拝を樹立するほどにそれは強いのだ。<屋根>、もう一つの守護神である。宗教は教義によって打ち立てられ、その教義は変わらない。だが文明は変わる。宗教は蝕まれてくずれる。家屋は変わらなかった。家屋の宗教は数世紀来同じ状態に留まっている。家屋は崩れ落ちるだろう。

ル・コルビュジエ『建築を目指して』

一、

 学生時代に日本国内で一人旅をしていたころ、金がもったいないので宿泊はいつも漫画喫茶だった。次第にそれももったいなくなると、今度は野宿をするようになった。終電でたどり着いた名も知らぬ駅の周辺で、適当なところを探して横になり、朝日と小鳥のさえずりに目覚め、再び旅を続ける。そのようなことを繰り返すうちに、たとえば「素泊まり三千円」といった田舎の民宿が要求するところの料金が、いったい何に対して支払われる金なのか、よくわからなくなってしまった。

 もちろん、そのようなことができるのは暖かい季節だけであり、そしてそのような季節にはかならず汗をかく。風呂に入りたい。したがって宿泊において優先順位が高いのは、実際には<屋根>よりも風呂である。しかし、日本にはどこへ行っても温泉というものがあるので、旅の途中で風呂にはいくらでも入ることができる。

 さて、温泉施設で風呂のために支払う金は、たかだか千円。「素泊まり三千円」との間には実に二千円もの差額がある。私はこのとき、<屋根>の下に「宿る」ことそのものに対して支払われるこの差額の意味について、じっと考え込まないわけにはいかなかった。なぜならそれは、駅前のベンチで横になるときには支払う必要のなかった金だからである。

 

 それからしばらく経って、私はふたつの書物のなかにそのヒントらしきものを見つけた。

 そのひとつが、建築家の坂口恭平による『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』だ。自らも1年間ホームレスになってまで行ったフィールドワークの知見をまとめたもので、持ち運べるダンボールハウスの作り方から日々の生活物資の採集、はてはそれらを可能にする、都市の知覚の方法論までを、つぶさに描いた名著である。普段我々が意識の外に追いやっているだけで、都市には生き抜くための物資がたくさん転がっている。彼等はそれを採集して生きるのである。

 冒頭では、坂口をそのような定型キャリアからの逸脱へと駆り立てた問題意識が語られる。いわく、「なぜぼくらは家を借りたり、買ったりしなくてはならないのか?」「はたして人間は土地を所有なんかしていいのだろうか?」「そもそも、お金をもらって家を建てるなどという仕事自体が間違っている」。

 「宿る」ための金の問題は、本書との出会いを経て「住む」ことと「所有する」ことの問題へと広がっていった。

 

二、

 我々人間は、住むことをはじめて学ばねばならない。

 かつてそのように提案したのはマルティン・ハイデガーで、彼が見出した人間の本質とは、ひとつには「住む」ことだった。『建てる 住む 思考する』と題した講演の中で、彼は彼自身のはなすドイツ語の起源を遡る。Ich bin(私はかくある)はその語源をたどればIch bauen(私は建てる)であり、それは本来Ich wohnen(私は住む)という意味を有していた。人間である、ということは、建てることであり、住むことなのである。

 講演のタイトル通り、彼の関心事は、建てられた住処の中で人間はどのように思考するか、という点にあった。『ヒューマニズムについて』の「言葉は存在の家です。その住まいに人間が住まうのです」という命題も、おそらくは同じ問題意識に根差すものであろう。他方、彼はその「言葉」について「人間はあたかも言語の形成者であり師匠であるかのように振る舞っているが、実は言語のほうが人間の女主人であり続けているのである」とも語っている。

 ふたつの命題をつなぎ合わせてみるに、ハイデガーにとっての建築とは、コルビュジエの言うような人間の道具などではなく、むしろ人間を使役するものであったのらしい。言葉について言えば、人間が言葉を駆使して存在へと迫る、のではなくて、人間が言葉の内に否応なしに住まわされている、ということにもなるかもしれない。

 

 さて、この「言葉は存在の家、人間がそこに住む」という命題が意味することのひとつは、シンプルに言い換えれば「言語が話者の思考の枠組みを規定する」という点にあると言えよう。そしておそらく、ハイデガーはその危うさについても自覚的であった。

 ハイデガーが手塚富雄との対話を下敷きにして書いた『言葉についての対話』では、九鬼周造が日本的美意識である「いき」の概念を西洋哲学やドイツ語を駆使して論じたことを指して、「言葉は存在の家」という自身の命題を引きながら、はたして異なる家のあいだで対話が可能なものだろうかと訝しがる。それに応える手塚も、そのような研究は対象を全く別のものに仕立て上げてしまう恐れを感じる、などと言う。

 しかし、仮にそのような批判が妥当なのだとしたら、ここで言葉の家に「住む」こととは、出られないことであり、したがって出会えないことである。今日のように高度に国際化された定住社会にあって、そしてまた、民族主義的な排他的な家への引きこもりが目立つ今日にあって、この問題はあまりにも深刻である。我々は一度「言葉は存在の家」という命題そのものを解体せねばならないようにも思われる。

 

三、

 ところで、住むことの中に人間の本質を見出したハイデガーを、「定住中心主義」といって批判したのは國分功一朗の『暇と退屈の倫理学』であった。もともとは移動を繰り返しながらその日暮らしをしていた人間という種にとって、定住とはたかだかここ一万年程度の習慣に過ぎず、むしろその新しい習慣こそが人間に「退屈」という課題を突き付けているのではあるまいか、とする國分の立場は、ひとつの場所にとどまって「住む」ことを自明の前提と考えていたらしいハイデガーの立場とは相反する。

 とはいえ「定住中心主義」は、単に近視眼的な発想として非難されるべきものでもない。なぜなら実際問題として、「私たちがいま住んでいること、住まないわけにはいかないこと、これらは厳然たる事実だからである」。問題は、我々がその家から引っ越したり、隣の家と行き来したりすることの難しさにある。

 國分はこの前提を引き受けたうえで、言葉の家のほうを建て直すことを考えた。彼が次にまとめた大きな仕事『中動態の世界』では、今日多くの言語で採用されている能動態―受動態のパースペクティブを疑い、歴史の中で抑圧されてきた第三の態「中動態」を導入することで、意志をめぐる我々の思考を抜本的に組み替えることが試みられた。つまりは、歪んでしまった古い家屋をリフォームし、人間がのびのびと住めるようにした、ということである。

 

 しかし実際問題、ということで國分の「定住中心主義」批判をさらに遡るならば、今日我々にとって家という比喩は所有の問題と無関係ではいられない、ということも言い添えておかねばならない。

 定住を前提とする我々の社会にあって「住む」こと、あるいは「宿る」ことは、その対象たる家ないしそれに類する閉鎖空間を「持つ」こと、あるいは誰かが「持つ」その空間を借りて、一時的に「持つ」ということと不可分である。「素泊まり三千円」のうち風呂代を抜いた二千円は、あるいはアパートの管理会社に毎月振り込む数万円は、あるいは土地代・建物代込みでローンを組んで返済し続ける膨大な金額は、一定期間その部屋を「持つ」ことの対価である。ここで家とは、我々が金を投じて手に入れる所有物であり、「住む」とは我々を守護する<屋根>を「持つ」ことである。

 

四、

 我々はいかにしてこの家を出て、近隣住民と出会うことができるか?
 あるいは、いかにしてこの家を建て直すか?

 と、そんな風に問うてもよい。ハイデガーと手塚の対話はそれを問うていたし、先に触れた國分の仕事もその解答に他ならない。ただし、この問いの立て方にはまさに「定住中心主義」的な、さらに言えば「資本主義」的な盲点がある。もうひとつ、我々が問うことができるとすれば、それは次のようなことだろう。

 すなわち今日、「持つ」ことに拘束されずに「住む」ことは如何にして可能か?

 たとえば坂口恭平がホームレスの観察を通じて拾い上げたのは、定住社会の隙間で実は営まれている「持つ」ことなしに「住む」という生活のあり方だった。ここで、自身の必要に応じてその場にある材料で家を建て、畳み、持ち歩き、必要なくなれば捨てる、という彼等の家は、なにか今日の思想のあるべき姿をも示唆してもいるように思われる。しかし、ホームレスたれ、というのは実際問題として、普遍的な解答にはなりえない。言葉や思想をその都度作りあげるなどということは実際には不可能だし、加えてこのように人間の自由に扱われる家はあくまでも人間の道具でしかない、という意味では先の命題とも相容れない。

 

 ところで、私が「素泊まり三千円」問題のヒントを見いだしたもうひとつの書物とは、トーベ・ヤンソンの『ムーミン』だった。

 どのタイトルだったかは忘れてしまった。主人公のムーミントロールが、旅人スナフキンと一緒に見知らぬ荒野を旅するエピソードである。道中に宿をとることになった洞窟の中で、ムーミントロールは壁に埋まった大きな宝石を発見する。すごい、きれいだ、あれを持って帰りたい、でも大きすぎてとても持ち歩けないなあ、そう嘆くムーミントロールをスナフキンが諭す。宝物は、自分の家へ持って帰らなくたっていいんだ。僕は世界中を旅して、世界中で綺麗なものに出会った。だから、今は持ち歩いてないけれど、世界中にたくさんの宝物を持っているんだよ。

 私はその時初めて、初期のカール・マルクスが夢見た「私的所有の止揚」というアイデアの核心を理解したような気がした。

 

五、

 私的な所有は我々をひどく愚かにし、一面的にしてしまったので、われわれが対象を所有するときにはじめて、対象はわれわれのものであるというふうになっている。

私的な所有の止揚ということは、人間が世界を人間のために、人間によって完成的にみずからのものとして獲得するということであるが、このことは単に直接的な、一面的な享受という意味でだけとらえられてはならない。(中略)世界に対する人間的諸関係のどれもみな、すなわち、見る、聞く、嗅ぐ、味わう、感ずる、思考する、直観する、感じ取る、意欲する、活動する、愛する、こと、要するに人間の個性のすべての諸器官は、対象的世界の獲得なのである。

カール・マルクス『経済学・哲学草稿』

 スナフキンとマルクスは、基本的には同じ立場をとっている。マルクスがここで意図した私的所有の止揚とは、「持たない」ことでも、平等に分配されたものを「持つ」ことでもなく、人間的な感覚を解放し、逆説的に世界を「持つ」ことだった。

 しかし、いったいなんのためにそんなことを? このようなアイデアが必要だった背景について、後に社会学者の真木悠介がこんな風に書いている。

 森の妖精や木霊のむれは進撃するブルドーザーのひびきの前に姿を没し、谷川や木石に潜む魑魅魍魎は、スモッグや有機水銀の廃水にむせて影をひそめた。すみずみまで科学によって証明され、技術によって開発しつくされたこの世界の中で、現代人はさてそのかげりのなさに退屈し、「なにか面白いことないか」といったうそ寒いあいさつを交わす。
 世界の諸事情の帯電する固有の意味の一つ一つは剥奪され解体されて、相互に交換可能な価値として抽象され計量化される。

真木裕介「交響するコミューン」『気流の鳴る音』

 自然をも私的に所有するという恐るべき習慣は、意味の解体に由来する。もはや人間は、自然に畏怖することも、自然を慈しむこともなくなった。こうして脱色された世界に退屈する人間にマルクスが出した処方箋は、科学と社会制度によって外的に与えられる価値体系を捨て、現前する自然そのものに驚くこと。個々の物、行為、関係、それらに内在する意味への感覚を取り戻すこと。換言すればこれらは、我々が住む家から出て世界と出会うこと、に他ならない。科学も、社会制度も、我々の知覚と思考を規定する家である。

 ここには恐らく、比喩的にも字義通りの意味でも、「持つ」ことなしに「住む」ためのヒントがあった。しかし、と真木は書く。この「驚くべき起爆力を秘めた把握」は、残念ながらそれ以降明確に展開されることはなかった。周知のとおりマルクスの思想は、むしろ平等に「持つ」ことへの労働者の切実な欲求と結びつき、やがてそれ自身がその名の後ろに「主義」をつけて呼ばれる、ひとつの家となったからである。

 

六、

 人間は、言葉の家に住むのみならず、言葉によって思想の家を建てる。言葉の家と思想の家は入れ子のようになり、個体の知覚と思考を規定する。ひとたびそこに住めば容易には出られないし、近隣住民そのものとの出会いに新鮮な驚きを抱くこともない。

 マルクスの家には多くの人間が住んだ。たとえば一頃の映画批評家もそうだった。多くの映画がマルクス主義かそうでないか、というパースペクティブで鑑賞された。思えばこれを批判し「表層批評」(イデオロギーではなく、画面に映るものを観よ!)という方法論を打ち出した批評家の蓮實重彦は、その家から出よ、と説いた人かもしれない。なぜ出るのか? 家の中ではその家のやり方でしか映画を観ることができなくなり、実際に画面に映るもの(内在する意味!)のほうが見落とされるからである。

 さて、このとき思想とは、はたして人が自ら設計して「建てる」ようなものであろうか。多くの市民にとってはそうではあるまい。それは誰かから買って「持つ」ものである。いや、場合によっては「持つ」ことすらせず借りて「住む」だけのものであり、主人のもとに居候するだけのものである。いわんや、言語においてをや、である。「言葉は存在の家、人間はそこに住む」という比喩はまるで、我々が言葉を「持つ」かのように錯覚させる。しかし残念ながら我々は、はじめから言葉でできた家に「持つ」ことなしに「住む」、存在の居候なのである。

 國分のように「住む」者がその家を自ら改装できればよいほうで、たいていはそれもままならない。古い家屋は、コルビュジエの言うように古いままあり続ける。そしてハイデガーの言うように、その<屋根>の下に居候を匿い、彼が安心安全に日常を繰り返すことを可能にする。彼は<屋根>のもとで日常に埋没し、知覚を奪われ、支配され、それを建て直すことを考えない。言葉は家―ある種の道具―でありながら、女主人でもある。言葉と思想とのアナロジーに則って言えば、実はコルビュジエとハイデガーの問題意識は似通っている。

 

 蓮實が映画にたいして抱く畏怖を、真木が指摘した自然への畏怖と重ねあわせると、「持つ」ことなしに「住む」人間のあるべき姿が、少し具体的になるように思われる。つまり、我々は定住せざるを得ないが、安住してはいけないのである。

 家に「住む」ことはやむを得ないが、家を私的に、半永久的に「持つ」こと、あるいは「持っている」と錯覚すること、その安堵がいけないのである。その家も、隣の家も、遥か遠くの家も、いや家など立っていないあらゆる場所でさえ、「持たない」ことによって自らのものとし、一方でその古い家屋がいつ崩れ落ちるやもわからない、その恐怖に怯えて眠ることがなくてはならない。家ではなく世界そのものに住み、時には大地に眠り、駅前のベンチに眠り、往来する地域住民に怖れおののき、藪蚊に苛まれ、暑さにうだり、朝日と小鳥のさえずりにたたき起こされなくてはならない。

 

七、

 しかし、まさにハイデガー自身が同じようなことを言っていた。

 『存在と時間』の中で、現存在としての人間が日常に埋没していることを批判するハイデガーが、その埋没から脱却するための契機として挙げるのは「死への先駆」、すなわち自らが死すべき存在である可能性に直面することだった。そして、日常安住する家の外に「宿る」ことは、まさにそのための経験である。野宿とは、生命の危機を肌で感じることに他ならない。

 そもそもハイデガーとは、自然の向こう側に外在する神/本質存在を見出すのではなく、自律生成する自然に内在する存在そのものを見出そうとした人だった。外在する意味を自然に適用すれば、自然は人間にとって支配可能な対象となる。その対象化の貧しさを説きながら、世界内存在―家、というよりは世界の内に住む者としての人間―を論じたハイデガーは、結局のところスナフキンや初期のマルクスと同じものを見ていたはずではなかろうか、という気がする。

 だとすれば今、「言葉は存在の家です。その住まいに人間が住まうのです」という命題は、ひとつのアイロニーとして理解されなければならない。ほかならぬハイデガー自身が、その家の外で眠ることを夢見ていたからである。

 

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参考文献:
カール・マルクス『経済学・哲学草稿』
國分功一朗『暇と退屈の倫理学 増補新版』
國分功一朗『中動態の世界』
坂口恭平『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』
真木裕介「交響するコミューン」『気流の鳴る音』
マルティン・ハイデガー『言葉についての対話』
マルティン・ハイデガー「建てる 住む 思考する」『ハイデガー KAWADE道の手帖』
マルティン・ハイデガー『ヒューマニズムについて』
ル・コルビュジエ『建築を目指して』

文字数:7252

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