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黒沢清、赤、青、白 

 

一、

 2007年に公開された『叫』と、それから約10年の時を経て公開された『ダゲレオタイプの女』で、幽霊たちの出現、あるいはカメラに迫りくるその瞬間がほとんど同じようにして演出されたことは今更指摘するようなことではないとして、暗闇の中やビニルカーテンの向こうで不穏な存在感を強く発揮していた幽霊のワンピース、その鮮やかな赤と青の対比もおそらく繰り返し指摘されてきたこととして、色の連想をさらにその先へと紡いでいくとすれば、注目すべきは『ダゲレオタイプの女』に続いて公開された『クリーピー 偽りの隣人』(2016)で西島秀俊が始終身にまとっていた丸襟Tシャツの白さなのではないか、という気がする。

 あるいは『CURE』(1997年)で萩原聖人が執拗に発した言語の前提を無化する問いと、『散歩する侵略者』(2016年)で松田龍平が発した既成概念の問い直しに共通点を見出すのは当然のこととして、宇宙人の松田龍平が既成概念を奪うときに額に指をあて、前田敦子を崩れせしめたその仕草が、取調室の萩原聖人が「頭? ここか」と役所広司の額を突いて激高せしめたその仕草と全く同じであるということ、これもおそらくはこれまでに誰かが指摘してきたであろうこととして、それらの類似を紡いだ先に見出すべきは彼等とまったく同じ気持ちで発せられたのであろう『クリーピー』のサイコパス役、香川照之が拳銃で女の頭を打ちぬいた後の「頭おかしいんじゃないの!?」という言葉ではないか、という気がする。

 我々がサイコパスに向ける頭おかしいんじゃないのか、という目線をそのまま折り返し、我々の方こそ頭おかしいんじゃないのか、と問い直すこと。これはつまり、暗い照明の中にくっきりと浮かび上がる赤/青、ではなく、生活に溶け込む白のほうにこそ違和感を見出さねばならない、ということと同じかもしれない。

 

二、

 『クリーピー』で西島秀俊が演ずる元刑事、現大学教授の高倉は、外ではブラックスーツに白いワイシャツ、ノーネクタイという出で立ちなのだが、家に帰ればそのシャツを脱いで丸襟の白いTシャツ姿になり、妻を演じる竹内結子との食事や会話といった家族のシーンはいつもこの格好で演じられる。西島が家庭であらわにする白は、連続殺人犯の香川が終始黒ずくめなのとは好対照であり、悪を象徴する黒とそれに立ち向かうある種の正義としての白、というコントラストをまずは観る者に想起させる。しかし『クリーピー』という映画の面白いところは、その悪がただ単に降って湧いた災難ではなく、家庭にもともと生じていた隙間に入り込んできたもので、つまりは香川ではなく西島-竹内の夫婦のほうにまずは問題があったのだ、ということが徐々に明らかとなるそのねじれの構造にある。

 ところで西島秀俊と真っ白なTシャツ、といえば直ちに連想してしまうのは彼が2013年から担当するPanasonicの家電シリーズのコマーシャルで、白いものは真っ白に、柔らかく洗い上げる洗濯機のラインナップと、それら一連の家電によって構成される絵にかいたような理想の家庭は、我々が西島のむこうに透かし見る良き父・良き夫のイメージの一端を確実に担っていることを指摘せねばならないし、この先入観が白黒のコントラストを一層際立たせているのも間違いないが、しかし一連のねじれを経験した後の我々の眼には、彼がまとう白はもはや一点の曇りもない純白とは映らない。奇しくも本作では、一方では暖かい家庭の構成要素であるところの白物家電たち―ミキサー、扇風機、掃除機―の作動音が、徐々に不穏さを増す妻・竹内の存在とともに重苦しく響き続けてもいる。黒沢清において真に不穏なのは、突如現れて迫ってくる赤と青ではなく、生活に紛れ込んでいる白のほうなのである。

 

三、

 日本でいえば白装束は死者のもの、黒い喪服は残された生者のものという制度的なコントラストがあるが、例えばその制度を超えたところにある不吉さが、鮮やかな色彩を伴って現れるのだ、としてもよい。『叫』で役所広司につきまとう幽霊のドレスの赤は、『CURE』でクリーニング屋に預けたはずの衣類がないことに戸惑う役所広司の視界に、不吉な予感とともに映り込む赤いコートと同じ色である。赤は物陰に、カーテンの向こうに、そして部屋の片隅の暗闇に発見され、その都度映画を先へと推し進める。

 一方『ダゲレオタイプの女』では、『叫』と全く同じ要領で、写真家の亡妻の幽霊が青いドレスを着て写真家に迫るのだが、その娘マリーが庭をかけていくときに着ていたのは深紅のカーディガン、あるいはワンピースであった。亡くなった赤子の撮影を依頼しきにた黒い喪服の集団の中に、帰ってくるマリーがただ一人纏っている赤はここで、黒とも青とも屹立する生命の象徴である。しかしながらこのマリーも作中、一度だけ白を身に着けるシーンがある。

 写真家の父による長時間露光の撮影で、モデルを務めるマリーはしばしば筋弛緩剤を投与される。それが災いしてかある日、マリーはスタジオの階段を転がり落ちて死んでしまうのだが、その後何事もなかったかのように主人公ジャンの前に現れたマリーは、まるで恋人同士のようにジャンとの生活を続けることになる。一方、ジャンはマリーの死を利用して、写真家から広大な土地を巻き上げようと目論むのだが、計画に失敗した2人の逃避行を描く映画のクライマックスでは、行き着いた先のモーテルで行われるジャンとマリーのセックスが描かれる。そして翌日、再びせわしなく出発の準備をするジャンを映したカメラはそのまま、部屋の片隅に『叫』の小西真奈美を思い起こさせる幽霊的な静かさで、白いスリップを着て立っているマリーを映すのである。

 直後のシーンでマリーは、突然ジャンの前から姿を消し、幽霊であったことが確定的になる。黒沢映画において人が消えることはもはや驚くに値しないが、ここで問題は、消失を予感させる先のシーンでのみマリーが身に着けていた、白である。

 

四、

 思い返せば『アカルイミライ』の序盤、浅野忠信とオダギリジョーが着させられていた工場の作業着は、作業着としてはありえないほど白かった。終始ほの暗く調整された画面で明るさを放っていたのは2人の真っ白な作業着と、不良少年たちの真っ白なワイシャツと、自ら光を放つクラゲだけだった。のちに人を殺める浅野、のちに強盗をはたらくオダギリと不良少年、あるいは川で繁殖し都民を刺すクラゲ、いずれもシロというよりはクロでしかない者達に与えられた、この白という色は何なのか。

 浅野・オダギリの作業着、あるいは不良少年のワイシャツが、いずれも本人の意図を超えて与えられた制服であることは指摘するまでもないし、『クリーピー』の西島の肌着もまた、ワイシャツを着るという社会的制約に要請された、あるいは「家庭」を演出するものとしての、汚れのない白である。つまり安易に理解すれば、ここで白とは制度や秩序、あるいは理想のことなのであるが、だとするとマリーのスリップはなぜ白いのか?

 これもまた制度の色であるという前提から出発するならば、この白は赤/青=生/死の対比から、白/黒=生/死の一般的な制度の中へと回帰するためのものである。しかし、『ダゲレオタイプの女』で起こっていることは、前の二作品とは真逆のことである。『アカルイミライ』では浅野・オダギリが白い作業着を脱ぎ、ぼろ布のような服を着て過ごすことに意味があるはずだし、不良少年たちにも制服など着なくてもすむ未来が待っている。『クリーピー』の西島は、最後までその白シャツを脱がないが、しかし見ている我々にはもはやそれが潔白には見えない、という仕掛けにミソがある。つまりこれらの白は、脱制度化という文脈においてカメラに映っているのだが、マリーのそれは一見したところむしろ再制度化なのである。しかし、本当にそうなのか?

 マリーは、まるで幽霊として消えるためにそうしなければならなかった、とでもいうように白を着る……いや違う、ひょっとするとマリーは、はじめから赤いワンピースの下に白いスリップを身に着けていたのではなかったか。それはジャンがマリーとのセックスに至り、そのまま朝を迎えたことによって、はじめてカメラの前に、あるいはジャンの視界に露出したということではないのか。だとすればこれは、ある種の発見の物語である。

 

 与えられた白はほんとうに白いとは限らないが、発見された白は美しい。

 『クリーピー』の終盤、拳銃をもった香川を説得しようとして失敗し、床に這いつくばる西島を見下ろし「イカレてるな」とつぶやく香川はこれ以上ないくらいサイコパスらしく映るのだが、しかし本当は西島の方がイカレているのではないか、という問いは、『散歩する侵略者』に至るまで黒沢清が発し続けてきた問いであるし、その問いを経て登場人物はみな一様に自らの秩序を発見する。直後のシーンで初めてエロティックに描かれる竹内と西島の身体的接触が行われる、その西島が横たわる監禁部屋のベッドの白は、本作で一番美しく映る白である。

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