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蓮實重彥、A感覚とV感覚

 我々人間が外界を認識し、心の中で映画として再表現(represent)するとき、その認識、その入力系、つまり感覚のモダリティは、VAKの三要素に支えられる、としたのはかの神経言語プログラミングの大著『魔術の構造』であった。V:Visual(視覚)、A:Auditory(聴覚)、K:Kinetics(触運動覚)の三要素によって捉えられた神経学的表象は言語以前のレベルにあり、これらが構成する映画的な表象を、評価するためのメタレベルの信号が言語である、としたこのモデルを前にして素朴に浮かぶ疑問は、我々が誰かの発話をそれが発せられた瞬間において知覚するとき、それはV感覚をもってするのか、あるいはA感覚なのか、というものである。

 V、A、Kの各システムを使い分ける比重は個々人によって異なり、その者がもっとも重きを置くシステムは彼の優位システムと呼ばれる。誰かによって発せられた言葉を、優位システムを主として、その他のシステムを副として知覚するのだとすると、書物を読むとき、映画を見るとき、その他言語を用いたあらゆる形態の表現を受容するとき、同じ対象から各人が知覚し立ち上げる心的表象は常に違った映画となる、ということは言うまでもない。つまり、結局のところは個性の問題である。

 さて、蓮實重彥という批評家は、一見したところわかりやすくV感覚優位の人である。

(前略)そんなありさまを呆気にとられるふうもなく凝視しうる連中に欠けているのは、 言葉の夢、それもできれば美しくありたいといったロマンチックな夢ではなく、言葉を書き、読みとる瞬間ごとに言葉が夢みよと強要しにかかるきわめて具体的な夢、つまりは、すでに書かれてしまった言葉で汚染されてはいない空間にふと生まれ落ち、言葉ならざるものから言葉へと移行するそのまばゆい航跡をゆっくり時間をかけて享受しつつ、しかも別の言葉たちと触れて匿名化される以前の艶やかに湿ったその表皮の始源的な隆起や陥没ぶりを、 これまた言葉に汚染されてはいない個体の無垢の視線で、それ自体がエロチックな行為であるとも意識されぬままに深々とまさぐられてみたいという不可能な夢にほかならない。[i]

 かくも長きにわたるセンテンスを与えられたとき、聴覚的には「具体的な夢」と「不可能な夢」が並列関係にあることを理解することすら容易ではなく、言葉は時間軸を持たない視覚的平面に並べられ同時に眺められることによってはじめて正確な表象を受け手の内部に立ち上げることができる、という彼特有の文章構成の点に加えて、彼自身が言及するように、彼にとって言葉の理想的な知覚のされかたとは音として聴かれることでもその表面を撫でられることでもなく、産み落とされたその瞬間を視線によってまさぐられることに他ならないのである。

 このV感覚優位の批評家が「表層批評」というまさに見ることに主眼をおいた方法論でもって映画を観る時、そもそも聴覚的にしか与えられない言葉、俳優によって発せられる台詞とは、いったいどのように知覚されるのか、つまり映画の表層において言葉はどのように観られているのか、という問いこそが、この方法論の輪郭を明らかにするように思われる。ひとつ、例を挙げよう。

彼(引用者注:オダギリジョーが演じる若者)は、あるとき、クラゲの無時間的なたゆたいに見とれ、思わず水槽に手をさし入れ、不定形にただようその触手に指をのばしそうになる。間髪を入れず、飼い主(引用者注:浅野忠信が演じる先輩)は、「触るな」と穏やかに警告する。どうやら、そのクラゲは、猛毒を持つものらしい。『アカルイミライ』がその作者にふさわしい主題をいきなり視界に浮上させるのは、その瞬間である。『カリスマ』で邪悪な森にさまよいこんだ都会の刑事が、ふと瞳を惹きつける奇妙な樹木のかたわらで耳にしたのが、その「触るな」の一言だったことを人は忘れていない。接触の禁止。そして離れていることの要請。それは、黒沢清にあっては、物語を指導せしめる能動的な記号に他ならない。[ii]

 「触るな」のたった一言が纏う既視感を執拗にまさぐることによって、黒沢清をつらぬく接触禁止の原則をみいだすその視線はあまりにも鋭い。これを起点に蓮實は非接触性感染という黒沢映画のホラーとしての様式に踏み込んでいき、さらに『アカルイミライ』の終盤ではその原則が覆されもすることを指摘する。クライマックスでは浅野忠信の父親役である藤竜也を、オダギリジョーが無言で抱きかかえる、その接触の瞬間を、キャメラがクロースアップで映す……それがいかに「奇蹟」的であるかをサスペンスさながらに示してみせるその手つきは見事というほかない。

 ところで、『アカルイミライ』の中で「触るな」以外にも数多発せられているはずの言葉たちについて本論の中で触れられることは二度とないし、もちろんそれらの言葉の連なりが紡ぎだす物語など論外である。なるほど、人はともすればこの物語にからめとられ、その限定性においてしか映画を観ない、というのはまさに蓮實の批判したところであるし、画面に映る物のみならず、言葉をそれが生まれる瞬間においてのみ観る視線、その瞬間を見逃さずに射抜くこの視線の鋭さこそが、映画における視覚の復権を可能にしたことは間違いない。

 しかしこの超人的な視線が、かえって映画のなにか重要な側面を見落としているということはあるまいか。そんな風に考えながら、『アカルイミライ』でほかにどのような言葉が発せられたのかを見返してみると、驚くべきことに冒頭、オダギリジョーがクラゲの水槽に手を入れる問題のシーンで浅野忠信は「触るな」などと一言も言ってはおらず、実際に発するのは「おいおいおいなにやってんだ危ない、危ないよ」という、呆れ、驚き、焦りが絶妙にブレンドされ「穏やか」さなどどこからも感じさせない台詞なのであった。たしかに当時の浅野忠信の容姿が、いかにも「触るな」の一言で後輩を制しそうな穏やかさと厳かさをたたえているのは間違いないのだが、この視覚的な先入観に実際に発せられた音の方が引き寄せられていく様を、我々は見過ごすわけにはいかない。

 

 こうした誤りをもって、蓮實の映画批評において俳優の発声はあまりにも軽視され、意味のレベルまで単純化されて知覚されている、と仮説することはいささかの横暴さもはらんではいないし、ここで行われていることは、まさに蓮實が視覚領域において提示した「表層批評」という方法論、すなわ「画面に映るものすらきちんと観られないまま深層の物語が論じられてはいないか」という問題提起を、そのまま聴覚領域に折り返すことによって同様に批判されるべきものである。つまるところ蓮實は、映画館に響く音そのものを聴くことなしに、俳優の発話を遂行機能の次元においてのみ知覚することによって、実際には膨大な量の情報を損失しつづけていたのではなかったか。

 そしてそうだとすれば、彼とその「表層批評」がスタンダードとなっていたその時代にあっては、キャメラの前で渾身の力を込めて発せられたにもかかわらず、批評家の耳介の内側でエロチックに反響することはなく、ただ意味のみをかすめとられて空しく宙に消えていった無数の俳優の声があっただろう、ということは想像するに難くない。

 

 なぜこのような無視が、聞こえているはずなのに聴いていないという現象が起こるのか。

 V感覚優位の蓮實は聴くことを得意としていなかったのだ、と素朴に理解することもできる。これについて検証してみるために、最近の批評集『映画時評2012-2014』を参照すると、そこには台詞や声に関する言及がほとんどないことに驚かされるのだが、しかしながら、そんな中にも二ヵ所だけ、台詞の登場する記述がある。

 一つはフランシス・フォード・コッポラの『Virginia』という吸血鬼映画で、彼はこの映画が「出会いの映画」であるという仮定のもと、主人公の三流作家がさして重要な役柄ではない夫人と出会うシーンの台詞をそのまま引用したうえで、このシーンを捉えるキャメラの短い切り返しショットの反復を指摘し、この演出こそが映画全体を貫く「出会い」性を立ち上げているのだと指摘する。

 もう一つが北野武の『アウトレイジ ビヨンド』である。この作品評において長々と描写されるのは、刑務所から出てきたビートたけしと刑事のピリピリとした応酬を写していたキャメラが、観る者の意表をついて白竜の演ずる韓国系ヤクザを捉えるまでのサスペンス的な展開なのだが、ここで引用されたビートたけしと刑事との「おい大友!」「誰がまたヤクザやるって言ったよ!」というやりとりの引用の後に綴られるのもまた「語気鋭く振り返る大友を、キャメラは切り返しショットで鮮やかに画面に浮き上がらせる」という、ほかでもない切り返しショットへの言及なのである。

 つまるところ、ここに透けて見えるのは得意不得意の問題以上に、画面に現れる2人の人物の関係は俳優の身体とキャメラの運動のみで描き切れるのであり、台詞はあくまでもその運動に従属する、というある種のV感覚信仰であり、その信仰が結実したものが最近の「あらゆる映画は、無声映画の一形態でしかない」という論考であったと理解すれば合点がいくというものであるが、とはいえトーキー以後を生きる我々はもはやこのように視覚のみを絶対視することはできないし、昨今日本で隆盛をみせているアニメーション―キャメラの運動など存在せず、声優がその声色をもって微妙な表象を描き分ける芸術形態―を批評しうる射程を、蓮實の方法論が持っていないのは間違いない。この射程の外に結果として生み出された報われぬ亡霊の声こそ、今日我々が聴きなおさねばならないものである。

 

 たとえば蓮實がその横顔にスター性を見出す『アカルイミライ』の浅野忠信において、真にスター性が現れているのは、微妙な声色の違いだけで人間関係の温度感を描き出すその発声にある、と言ってのけることはできないか。殺人を犯し留置所に入った浅野のもとを訪ねてきたオダギリジョーに向けられる、気まずさと優しさの入り混じったやや上ずった声。そのあとで訪ねてくる藤竜也に対して発せられる、不安を気づかいで押し殺したような低い声。そして時が経つにつれ、オダギリジョーへの発声には先輩としての横暴な苛立ちが、藤竜也への発声には息子としての幼い苛立ちが、それぞれ微妙に異なる響きをもって顕在化する。

 浅野だけではない、加瀬亮と藤竜也が演じる冷めた親子の噛み合わない会話、息子の殺人に狼狽する藤竜也の震える声と、答える弁護士を演ずるりょうの微動だにしない声…いずれも切り返しショットで捉えられるこれらの会話において、二人の関係性がキャメラの運動みならず俳優の優れた発声によっても立ち上げられているのだ、ということは、きちんと耳を使って観れば明らかである。

 そしてそれらの聴覚体験の中で、エコーのように繰り返され、時に重苦しく、時に焦燥を伴って響く「未来」という言葉。死刑になるであろう浅野には決して訪れることのない「未来」、オダギリが一人で生きねばならない「未来」、過ぎてしまった年月、これから待たねばならない年月、そうした時間に関する言及をつなぎ、紡いだはてに、決して訪れはしないであろう「アカルイミライ」のほうへ、それでも一人で向かっていくオダギリの姿を、我々は画面のうちに観るのである。

 

 …などと書きながら、我々は音と戯れるうちにいつのまにか、深層の物語がA感覚を支配しV感覚に対して圧倒的な優位に立ち我々を包み込んでいる、という事実にはたと気づき驚愕する。言葉に身を委ねて観ることを続けるうち、今度は見えるもののほうが聞こえてくるものの意味に従属し、修飾され、オダギリジョーの身体は「未来」に向かうものとしてしか見えなくなり、その視野狭窄において多くの運動が失われる。これはまさに、表層ではなく深層を見ている、ということである。表層批評の方法論によっていったんは距離をとりなおしたはずの映画の物語に、ふたたび声を聴くうちにかくも容易に飲み込まれていく感覚を省みるうち、ひょっとすると、蓮實はV感覚優位の人なのでは決してなく、A感覚をあえて遮断していたのではなかったか、という思いが頭をよぎるのとほとんど同時に、我々は彼の愛した思想家、ロラン・バルトと映画との関わりを思い出すのである。

 

 映画批評家の廣瀬純は、バルトの映画に関する問題意識は「映画は私を映像への同一化へと導くが、その映像から私はいかにしてなお距離を取ることができるか」という命題に集約できるのではないかと指摘する。この問いにバルト自身が出した方法論を、ドミニク・パイーニは「映像を停止させ、拡大すること」に見出しており、一方で廣瀬は「長回しとロングショット」がそうだと言う。ここで廣瀬が指摘する長回しとはバルトが「映画館に入ること、そこから出ること」と書いたところのもの、すなわち映画を観ている時間の前後をも連続的に映画体験のうちに収めることであり、一方でロングショットとは、映画を観ている空間にある「音の肌理、館内、闇、ほかの身体たちのなす暗い塊、光の筋」を映画とともに体験することである。つまり端的に言えば、画面を観よ、という蓮實の指摘とは裏腹に、バルトは画面の外も観よと言っているのだ、というのが廣瀬の指摘なのである[iii]

 実際、これらの操作や環境が映画への没入をそぐことも、我々はすでによく知っている。停止・拡大がビデオテープ以降当たり前に行われているのはもちろんのこと、長回しやロングショットに相当する現象も、スマートフォンの小さな画面を含む多彩な視聴環境のなかで自然に起こっている。こうしてまるでそれ自体がオブジェクトであるかのようにして対象化される映画は、もはや我々を飲み込み同一化するような強大さを持ってはいまい。キャメラと同様に大きなスクリーンをも信仰していた蓮實がその向こうに映画の神を見ていたかどうかは定かでないが、そのような映画が矮小化されて物となった今日、映画はもはや我々自身が内的な物語を投影するためのスクリーンにはなりえず、したがって我々が映画の物語に同一化される恐れも、映画が現象学的に我々の鏡となる恐れももはやなく、それ自体が思考し雄弁に物語るオブジェクトとしての映画と、ただエロチックに戯れればよいのだ、などと昨今流行の思弁的唯物論に新しい映画体験の理路を求めてもよい。

 

 ただし、これらの話はいずれも、映画体験を視覚のモダリティにおいてプログラムしなおす方法論である。それでは聴覚についてはどうなのか、と考えるときに思い起こされるのは、『この世界の片隅に』で使われた生々しい戦闘機の爆撃音について論じる斎藤環の「人間は環境情報の8割以上を視覚から得ているとされるが、リアリティーを担保する比重は、むしろ聴覚よりである」という指摘であり、「幻視よりも幻聴のほうがはるかに不安と恐怖を喚起する」という、いわば我々を支配するものとしてのA感覚への畏怖なのであった。

 この指摘を前提とするならば、バルトが目指すような形で映画と距離をとるために真に懸念すべきは視覚ではなく聴覚のほうであり、だとすると「あらゆる映画は、無声映画の一形態でしかない」という蓮實の防衛は、バルトへの応答としてこれ以上なく的確であるとも言えはしないか。

 ここで我々は、蓮實はV感覚優位の人でも、V感覚信仰の人でもなく、ただ純粋にV感覚の救済者たろうとした人であり、A感覚に支配されそうになる映画体験からあえて自らを引きはがし、逆説的にトーキーと初めて対峙することに成功した、そういう人なのではなかろうか、という第三の理解に到達する。だとすると、彼の功績を踏み台にしつつその射程の外を目指すために我々が考えるべきは、亡霊の声にもう一度耳を貸すことと、その声が語る物語に同一化せんとする意識の運動にあらがうこと、この相反する二つの営みを、いったいいかなる形で止揚することができるのか、というこの一点なのである。

 

 しかし皮肉にも、すでに蓮實自身がその答えの糸口を示していたとしたら? そう、先頃の対談で述べられた「あるとき見ることをやめてしまうことこそが最大の映画批評であるという可能性」[iv]という逆説は、まさにトーキーを無声映画に引き戻したその手つきで、「見ない」ことによってトーキーを声劇のごときものに落とし込み、運動など初めから不在のところで存分にA感覚のみと戯れるための、唯一の理路であるようにも読めないか。かようにして別々に知覚された無声映画と声劇は、映画館でトーキーとして統合されるのではなく、我々の心的表象において統合されなおすことによって、V感覚がA感覚を排除することも、A感覚がV感覚を侵食することもなく、ありのままの姿を我々の前にさらけ出すのかもしれない。もっとも、映画館で無声映画と声劇を同時に、かつ別々に見ることなど、いかに優れた眼と耳をもっていてもできはしない。この期に及んで誰にも解けない命題を掲げ界隈を騒がす蓮實重彥は、誠に罪な批評家である。

 

[i] 蓮實重彥『表層批評宣言』

[ii] 蓮實重彥「『善悪の彼岸』に」『映画崩壊前夜』

[iii] 廣瀬純『シネマの大義』

[iv] 「そんなことできるの?」と誰かに言われたら「今度やります」と答えればいいのです」『ユリイカ 平成29年10月臨時増刊号』

文字数:7116

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