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蓮沼執太とエーテルの調整 ―音楽空間の二重性に関する一考察―

序、

 ダンサーは視覚野でも聴覚野でもなく、運動野で音楽を聴いている。

 調べたわけではないが、そういう風にしか感じられないことがある。

 クラブに入っていくときは、プールに飛び込むときのような感じがする。科学的に脱色してしまえばこれは、たんに空気の振動を触覚的に感じている、ということに過ぎないのだが、しかし我々はなにも触覚的な入力によって踊るのではない。場としての音楽は必ずしも空気の振動を介さずに、なにか直接的に身体運用を規定するかのように作用している。

 ここには、環境音楽について新しい視座を必要とする何かがある。「空気のように」と例えられがちな環境音楽と、伝統的西洋音楽に則り構造的聴取を要求する「聴くための音楽」とのあいだに、空気よりもむしろ水に近い性質を有するような、つまり聴くことを意識せずともその場に入るだけで身体感覚のモードが変わるような、そういうものがあるのではないか、という問題提起である。端的に、クラブに流れるハウスミュージックはそういう性質を有している。

 

 蓮沼執太の音楽はどうか。

 聴くことを強いない環境音楽的な実験から始まった蓮沼の作品は、時を追うにつれてメロディアスなもの、いいかえれば構造的聴取を要求する伝統的西洋音楽に近いタイプのものへと移り変わってきた。一見すると異なる音楽形態ともとれるこれらの作品群を串刺しにするには、空気と構造物、あるいは家具と美術といった従来的な音楽の二項対立から離れる必要があるように思われる。

 蓮沼の一連の作品群は「プール的音楽」であると、まずは仮定する。

 

一、

 環境学のフィールドワークをバックグラウンドとする蓮沼執太の音楽は、環境音の録音と、録音された音の再構築から始まった。再構築された環境そのものをCDという物理的なメディアの中に封じ込め、個人的な再生環境のなかで再現すること。すなわち誰かの部屋の中に別の空気を立ち上げるということ。そして立ち上げた空気と、もともと部屋の中にあった淀んだ空気との間に偶然起こる相互作用を楽しむこと…蓮沼の初期作品がもつこうした側面は、まさにエリック・サティの「家具の音楽」からマリー・シェーファーの「サウンドスケープ」へと至る路線の延長上にあるわけだが、それでいて、彼らよりももう一歩プールに近いように思われる。

 『OK Bamboo』(2007)は、「聴くための音楽」でも「踊れる音楽」でもないという意味で一見「空気のような音楽」なのだが、身体を反応させるフックを随所に隠し持ってもいる。空気のように非侵襲的なリズムの中に、Beep音、スクラッチ、笑い声といったノれるほどではないがやや侵襲的なリズムが混ざり、身体を定型的でないやり方で反応させる。そうかと思えば突如挿入される「Discover Tokyo」のようなピアノ曲では、今度はメロディの反復と音量の調整によって、感情的な揺さぶりをかけてくる。身体と感情それぞれの揺さぶりを経て、曲はふたたび「空気」のようなリズムに戻るのだが、一度環境に同調してしまった身体は彼の曲のモードから離れられない。調整されたモードから逃れられないまま浴びる環境音楽は、もはや環境音楽のままではありえない。そこがプールであることに気がついた瞬間から、我々の身体はそこで泳ぐためのものに調整されてしまう。

 

 プール的であることは、蓮沼執太の音楽制作の多様さを支えている。

 従来のソロ曲ではヴォーカルのない実験的な音楽が多かったが、蓮沼執太フィルや『メロディーズ』(2017)では一転、蓮沼自身や環ROY、木下美紗都のヴォーカルを前面に出した「歌もの」が目立っている…というのが一見したところの印象だが、本人が「常に音楽でなにができるかを追求している」[i]と述べる通り、彼の作品はプールとしての作り方と使われ方を問うている、という点において完全に一貫性を保っている。

 美しいプールはそれ自体が鑑賞の対象となる。聴き手はそれを見ることも、そこで泳ぐこともできる。これは一見あらゆる音楽が有する性質であるようにも思われるが、プール的音楽の真髄は、そこで泳ぐものをシンクロナイズド・スイミングのように構造的に鑑賞することもできるし、プールの制作者がそこで泳いで見せることもできる、という点にある。蓮沼執太フィルで歌う環ROYも木下美紗都も、蓮沼の音楽で踊った「アルトノイ」も、蓮沼自身も、蓮沼のデザインしたプールを泳いでいる、ということである。優れたプールでは、あらゆるジャンルのプレイヤーが各人の泳法で泳ぐことができる。

 

二、

 すると問題の中心は、蓮沼の音楽は従来プール的に機能してきた「踊れる音楽」と比較してどのように新しいのか、という点である。

 「聴く/聴かない」のパースペクティブ、すなわち聴くことを強いる音楽と聴いても聴かなくてもいい音楽の対比に、もう1つ別の軸を重ねるならば、それは「踊る/踊らない」のパースペクティブだろう。これは「踊れる/踊れない」の対比ではない。「踊れる音楽」の中にある、踊ることを暗に強いる音楽と、踊っても踊らなくてもいい音楽との対比である。前者の代表が四つ打ちのリズムで身体運用を矯正するハウスミュージックの類であることは言うまでもないが、後者のようなものがもしあるとすれば、蓮沼の音楽はまさにそうである。

 菊地成孔と大谷能生の講義録『アフロ・ディズニー』には、ファッションショーにおいて頻用されるハウスミュージックと、その四つ打ちを敢えて外すモデルウォークのズレに関する言及がある。「踊れる音楽」の王であるハウスミュージックをバックに、モデルは音に乗って歩きたいところをぐっと我慢して、あえて無関係な、自分のリズムで歩く。四つ打ちの通りに歩けば、その身体運用はダンスとして意味を持つことになり、身体運用ではなく服を展示する場としてのファッションショーにはそぐわないからである。

 菊地・大谷が指摘するのは、この四つ打ちから逃れるための不自然な身体の抑制が「抑圧」に他ならない、という点で、つまり「踊れる音楽」は通常踊ることを強いるような場の力を持っている。

 他方、蓮沼の音楽はというと、「踊れる」にもかかわらず、踊る/踊らないの選択はあくまでも各人の身体に委ねられる。しかしひとたび踊る方を選んだならば、その身体運用は音によってプール的に規定されていく。換言すれば、踊らないときには空気のようだが、踊るときには水のように作用する。この踊る/踊らないの往復は、従来の環境音楽における聴く/聴かないの往復運動とぴたりとは重ならない現象であるし、ハウスミュージックのようにただ単にプール的ということでもない。

 

 この水のようにも空気のようにもふるまう粒子にいかなる名前をつけるか、と考えあぐねたとき、思い起こすのは環境音楽の祖、エリック・サティが「エーテル」を知覚できる音楽家であった、という話である。

 

三、

 エーテルとは空間にガスのように充満している微粒子で、光の伝搬を媒介する物質である。20世紀初頭まで、そう信じられていた。

 アインシュタインの特殊相対性理論をもって、物理学的には否定されたこの概念を音楽において再び召喚したのが、岩井俊二監督の映画『リリィ・シュシュのすべて』に登場する架空の歌手、リリィ・シュシュだった。リリィ・シュシュによればエーテルとは、感性の伝搬を媒介し精神を満たす物質で、赤だとか青だとか色までついている。エリック・サティは、エーテルを知覚することができ、それを音楽で表現することができた数少ない音楽家の一人であったという。そしてリリィ・シュシュのファンも、同じくエーテルの存在を信じ、あるのかないのかわからないその粒子の存在を知覚しようとした。

 

 サティによるエーテルの表現が「家具の音楽」だったという話と、エーテルの元々の概念とを重ね合わせて整理すると、このアイデアは要するに、我々の身体がおかれた空間は空気(=聴覚的・触覚的情報の媒体)とエーテル(=非聴覚的情報の媒体)の重なり合わせでできている、という話である。

 ハウスダンスの四つ打ちのように身体運用を強制しないクラシック音楽でも、バレエやフィギュアスケートを「踊れる」、あるいは蓮沼のように侵襲的なビートを作らない音楽でも「踊れる」ということは、単に空気の振動だけではない空間のレイヤーがそこにあると考えなければならない。クラブで流れるハウスミュージックが単に空気の振動によってではなく、なにか別のレイヤーを介してプールのように身体運用を規定する、のだとしたら。

 だとしたら、つまり我々は空気によって聴き、エーテルによって踊る、ということである。

 そしてそうであるとしたならば、ハウスミュージックと環境音楽の―つまり、水と空気の―本質的な差異は、エーテルの濃度にある。エーテルをつねに「爆音」で震わせているのがハウスミュージックなら、環境音楽とはしっかりと空気を振動させながらもエーテルの振動を最小限に抑えた、身体への影響が少ないもの(あるいは踊らないモードへと身体を調整するもの)というふうに理解するべきだろう。そして、エーテルの振動にあえて緩急をつけて、身体へのフックを随所に忍ばせているのが蓮沼である。だから作業用のBGMとしては適さないし、そういう意味でちっとも家具的ではない、しかしそれゆえに適度に環境調整的な、環境音楽としか呼べない代物なのである。

 このスタンスは、初期の作品においてはもちろんのこと、ポップス的とされる近作でも、舞台音楽でも、2010年代にいくつか行われた展覧会でも変わらない。所謂ポップスとは、あるいはダンスパフォーマンスとは、空気の振動との同期を魅せるものであると同時に、エーテルの振動との同調を展示するものである。エーテルの振動を視聴者自身が感じるのが環境音楽なら、ヴォーカルはそれを聴覚的情報に変換して発する変圧器であるし、ダンスはそれを身体運用に仮託し視覚的情報に変換する作業である。『リズム』(2016)、『作曲的』(2015)、『音的』(2012)といった、音を視覚的・身体的な要素に還元して表現する一連のインスタレーション展示も、本質的にはエーテルを知覚できない人々に対する可視化の作業である。一見多動的で散逸的にもみえる蓮沼の作品群は、すべてエーテルの調整作業として一元的に理解できる。

 

四、

 さて、ライブや展覧会ならばごく自然なものとして伝播するこのエーテルの振動が、CDやmp3というメディアを介しても伝達されるのはなぜか、という点は考察に値する。エーテルを問題としないアーティストならば、エーテルと同調した歌や身体運用そのものを、エーテル抜きで展示することもできよう。しかし、蓮沼にとってはまさにここが重要なポイントであったように思われるし、その困難は蓮沼執太フィルが結成からCD発売までに4年の歳月を要したことに顕著に現れている。そしてその解決策は、蓮沼自身が繰り返しインタビューでも言及し、歌詞にも頻繁に登場する「時」と「光」という、まさにエーテルを暗示するかのようなキーワードに関係があるように思われる。

 『時を奏でる』(2016)のリリースにあたって、生のセッションを魅力とする蓮沼執太フィルがなぜライブレコーディングではない形でCDを作ったのか、という問いに、蓮沼は次のように答えた。

ライブレコーディングって、ライブした時間が刻まれちゃうので、その時間に縛られちゃう感じが嫌だなと思ったんです。ライブというのは瞬間ごとになにかが起こるから面白いのであって、それをCDに焼き付けてしまうと、音楽にその時間の色がついてしまうんですよね。(中略)フィルだったら、未来にも過去にも行っちゃえるような、どこにでもアクセス可能な音楽を作れるんじゃないかと思うんですよね。[ii]

 時間の色とはなにか。その色を持たないことによって、未来にも過去にも行ける、というのはどういうことか。実は、答えはこのアルバムの冒頭に示されている。

一斉に振り向く光の中、全てと唯一を同じくはかりあう
熱烈なノックの中、ぼくはうまれる時を、たずね、たばね、
(中略)
時をたずね たばね 光を振り返らせるのさ
1人なんだけど1人じゃない

蓮沼執太フィル「ONEMAN」『時が奏でる』

 時をたずね、たばねると、光が動く。時をたばねたものを封入したメディアは、その再生によって光の運動を―すなわち、古典的な理解ではエーテルの振動を―誘発する。エーテルの振動そのものが記録され再生されるのではなく、たばねた時の再生によって我々の部屋の中で新たにエーテルが振動する。

 光が動くと、全てと唯一は等価になる。個人の部屋で聞く音楽は、そこにもともと淀んでいだ固有の色をもつエーテルを振動させ、ごく個別的な経験を我々にもたらす。しかしながらその振動のパターンそのものは、どんな部屋にも、いつ何時にも偏在する経験でもある。時間の色とは部屋に漂うエーテルの色=「唯一」であり、たばねられた時がその振動のパターン=「全て」を提供する。その掛け算によって音楽を経験する我々は、1人であったとしてももはや1人ではありえない。

 エーテルに無自覚な音楽は、図らずもそこに現れたエーテルの色をCDに刻み込む。刻み込まれた色は、特定の時間を再現する形で構造的な聴取を共有する。エーテル・センシティブな優れた音楽は、エーテルの色を焼き付けないことによって文字通り、時が奏でる、ことを可能たらしめる。時が奏でる音楽は再生環境を問わず、過去・未来を問わず、普遍的に成立するのである。こういうものをこそ、本来の意味で環境音楽と呼ぶことができるように思われる。

 

[i] 実験性とポップスを両立する、蓮沼執太のスタンス

[ii] 同上

文字数:5616

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