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憑依する身体/憑依される身体(身体がなければ恋はできない/足がなくても恋ならできる)

一、

 20世紀の終わりに表された三浦雅士の身体論『考える身体』(1999)で、しきりと話題にされていたのは西洋的心身二元論のグロテスクさであった。

脳は身体から切り離されうる。切り離されて生存し続けることができる、生存し続けるのみならず思考し判断することさえできる――この発想の奥深くには、身体は頭脳を入れる箱に過ぎないという考え方がある。心身二元論である。

三浦雅士『考える身体』

 この時三浦が参照していたのは、科学者J.D.バナールが『宇宙・肉体・悪魔』の中で取り上げた「群体頭脳(compound brain)」「複合頭脳(complex mind)」というアイデアだった。夥しい数の脳が網目状に結びつけられて「感情が真にそっくり伝達され、記憶が共通に維持され、しかもそのさい個体の発展の自己同一性と連続性が失われない」というこのイメージの背景には、「意識があるから身体がある」という身体観がある。しかし実際には、身体を通じて外部の情報を感覚することで初めて意識が生ずるのであって、だからほんとうは「身体があるから意識がある」が正しい、というのが三浦の主張するところである。

 しかしいずれにせよ、ヒトの身体というのは物理的に、事実上所与のものである。このようにヒトを対象として「意識が先か、身体が先か」などと考えていると「鶏が先か、卵が先か」のごとく議論が袋小路に陥るように思われる。たとえばここで、身体および意識について、その片方または両方を持っていてもよい、しかしどちらも持っていなくてもよい、という、宙ぶらりんの立場に置かれた者達をとりあげて、この問題を考えてみよう。ロボット、アンドロイド、プログラム、人工知能…などと呼ばれている者達がそうである。

 

 20世紀の終わりはちょうどインターネットの黎明期と重なったこともあって、数々のSF映画で身体を持たずリゾーム状に存在する意識の在り方が描かれた。

 『攻殻機動隊』(1991)では、ネットの海を漂う膨大な情報がプログラムに意識を与え、身体を持たない人工生命体「人形使い」を生み出した。『攻殻機動隊』からの影響を公言してはばからない映画『マトリックス』(1999)では、コンピュータのネットワークが人類の知性を上回り、人類を支配する様が描かれた。あるいは1984年に第1作が公開された『ターミネーター』シリーズは、自我を持ったコンピュータネットワーク「スカイネット」と人類の全面戦争の話であった。

 そしてこれらの意識は、作中で文字どおり事後的に身体を獲得してもきた。「人形使い」は複数の義体(人型のロボット)をリモートで操ることによって、「マトリックス」は仮想現実の中に無数のエージェントを描き出すことによって、「スカイネット」は次々とターミネーターを派遣することによって、人類の前に生身の身体を現前させる。ロボットの身体は意識のあとで構築されるものであるからして、一つの意識に対して複数の身体が存在できるし、逆にたくさんの意識が一つの身体に宿っている状態でもある。こうした身体/意識観は、まさに三浦が批判した複合頭脳のアイデアの相似形である。

 

二、

 しかし21世紀に入り、インターネットにまつわる神話が崩壊してしまったあとで、時代の関心は「ネットワークが意識を持つか」から「個体としてのロボットや人工知能が心を持つか」という事案に移ってきたように思われる

 たとえば『her/世界で一つの彼女』(2013)は、妻と別れた男が会話特化型の人工知能OS「サマンサ」と恋に落ちる、という趣旨のSF映画だった。「サマンサ」がパソコンやスマートフォンのスピーカーから男に語りかけるうち、男は姿の見えない「サマンサ」に惹かれていき、しまいにはただのOSだったはずの「サマンサ」も男に恋をしているかのようにふるまい始める。

 一方、これとは対照的に人工知能の身体を描いたのが『エクス・マキナ』(2016)である。主人公であるエンジニアの男は、世界一の検索エンジン「ブルーブック」社の社長の別荘で、ヒューマノイドのチューリングテストに参加する。チューリングテストといえばふつうは、顔の見えない相手が人工知能か人間かを判定することによって人工知能の完成度を試すことを指すが、男の前に現れたのは顔と四肢末端以外の皮膚がなく、一目で人間ではないとわかる美しい女性型ヒューマノイド「エヴァ」だった。訝りながらも彼女との会話を続ける男は、ヒューマノイドと知りながらもやがて彼女に惹かれ、あげく彼女の企みに知らず知らず加担してしまうことになる。

 「サマンサ」や「エヴァ」が20世紀SFの人工知能と大きく異なるのは一目瞭然だが、両者の間にもまた隔たりがある。つまり、恋をするのに人型の身体が要るか、あるいは物理的なオブジェクトさえあれば事足りるかという点が、両者の見解が分かれるところである。

 『エクス・マキナ』はこれに対して一つの答えを出している。作中のエンジニアと社長の議論に曰く、会話型のプログラムが「意識」をもっているかどうかを会話のみでテストするのは、チェス用に作られたプログラムをチェスのみでテストすることに等しい。本当に人工知能なのか―プログラムされた応答ではなく、意識をもってふるまっているかどうか―を確かめるには、そのプログラムと交流ができるかどうかを確かめなければならない。しかし我々人間は、身体を持たない「灰色の箱」を前にして、人間同士のように振る舞い、交流することはできない。人工知能が意思疎通できる水準の「意識」を持つためには、だから原理的に身体が必要だし、ジェンダーのみならずセックスも必要である。実際「エヴァ」は高感度のセンサーが高密度で配置された穴、要するに疑似膣を備えており、「その気になればファックできるぜ」などとそそのかす社長にエンジニアが不快感を示すシーンがある。

 『エクス・マキナ』は西洋の伝統とは逆に「身体があるから意識がある」を支持しているように見えるし、『her』は「身体はなくても意識はありうる」という立場である。しかし一方で、『her』では男が「サマンサ」の入ったスマートフォンをまるで生身の女性を抱きしめるように握りしめ、ぐるぐる回ってみせる印象的なシーンがある。『エクス・マキナ』では、エンジニアはファックどころか「エヴァ」の機体に指一本触れることはない。

 美しく造形された「エヴァ」と恋に落ちることはある意味で当たり前の話だが、なぜスマートフォンの中にしか存在しない「サマンサ」とも恋に落ちることができるのかが問題である。この際、物理的な身体を持たない「サマンサ」との恋の方がむしろ触覚的に表現されたことは示唆に富んでいる。そこには心身二元論的なパースペクティブとはまったく別のところに存在する、21世紀の身体観が潜んでいるように思われる。

 

三、

 ところで、「ペッパー君」には脚がない。

 2014年にソフトバンクから発売された家庭用アンドロイド”Pepper”、通称「ペッパー君」は、脚のシルエットを再現した下半身を有するが、腰から下の関節を持たず、移動はキャスターで行う。

 『鉄腕アトム』への憧れが火をつけた日本のロボット工学は、脚がなにかヒューマノイドの根幹をなすものであるかのように、二足歩行脚の開発に勤しんできた。Hondaが2000年に発表したASIMOの足取りが、年を追うごとに滑らかに、軽やかになってきたのはその一つの象徴である。そんな日本のヒューマノイド史においてこの「ペッパー君」は、「ジオング」に匹敵する異形の合理主義者である。「ジオング」とはアニメ『機動戦士ガンダム』に登場する人型ロボット兵器の1つで、ロボットが四肢を有するのが通例となっていた宇宙戦争において、両脚のない未完成の状態で実戦投入された。脚の代わりに推進器を内蔵しているため機能的な欠損はないのだが、それでも脚の欠損を指摘するパイロットに整備兵が「あんなの飾りです! 偉い人にはそれが分からんのです!」と呆れるシーンはあまりにも有名である。

 

 さて、この脚のない「ペッパー君」に、あろうことか同じく脚がない「幽霊」を憑依させる、という奇想天外なメディアアートが現れた。メディアアーティスト市原えつこが2015年に発表した『デジタルシャーマン・プロジェクト』である。

 デジタルシャーマンを演じるのは、故人の3Dデスマスクを被ったペッパー君である。これが故人の霊を憑依させ、故人の言葉で話しながら、故人の身振りをもロボットの身体で再現する。同作は2017年のメディア芸術祭で優秀賞を受賞し、アンドロイドの第一人者である石黒浩の作品とともに会場に展示された。

 日本の四十九日の慣習になぞらえ、プログラムは死後49日間の再生をもって終了する。こうした仕掛けと、市原自身が言語化したコンセプトにも引きずられ、本作は死、および弔いのありかたを問い直す作品として評価されているが、むしろ興味深いのは、ここであまりにも的確に捉えなおされている「幽霊の身体」(幽霊的身体、ではない…)の方である。

 デジタルシャーマンにインストールされた会話はあらかじめ収録されたものであり、したがってこれは人工知能ではない。市原は発案当初そのような会話型のプログラムの作成を目指していたが、それが「その人らしさ」を出すために効果的な方法では必ずしもなかった、と振り返る。スマートフォンではなくペッパー君という物理的身体に故人を仮託するのであれば、より本質的に故人を表象するなにかがあるだろうと考えた市原は、最終的に非言語情報の表現、端的には体癖の再現という手法にたどり着く[i]

 故人がペッパー君に憑依すると、ペッパー君の身体はむくりと頭をあげ、故人そのままの体癖をもってあたりをきょろきょろと見まわし、腕をひろげて大きく伸びをしてから、故人の言葉で語りだす。市原が憑依させた幽霊は体癖を再現するのみならず、なんと幽霊としての身体感覚についても言及する。生前にダンサーだった女性の幽霊は、あの世で「踊る」ことの奇妙な感覚について語っているし、別の幽霊は「身体ないって、けっこういいよ。身体あるってのも、捨てがたい。行ったり来たりできるといいよね」などと言う。あげくのはてにある幽霊が、脚のないはずのペッパー君に憑依するや開口一番「あー、生き返ったー! 1か月ぶりの足だー。足が地面についてるって素晴らしいよね」などと口にするのを聞くと、我々は物理的身体とは独立して存在するらしいこの幽霊の身体感覚について、はたと考え込んでしまうことになる[ii]

 

四、

 そもそも幽霊の脚の有る無しが話題になるということは、幽霊は身体を持っているということに他ならない。そしてそうだとすれば、幽霊それ自身が情報として保持する身体感覚、ないし体癖を可視化して表現するためには、物理的な霊媒を必要とする。ところが、その霊媒が実際に二本脚で歩いているかどうかは必ずしも問題とならない、というのが面白い。キャスター走行でも推進器でも、実質的に脚とみなせるオブジェクトがあればそれでいい。極論すれば「サマンサ」がそうであったように、霊媒がスマートフォンのごとき「灰色の箱」であっても、まるで生身の女性のように抱きしめることができるのならそれでいい。

 もはやこの身体観は、従来の心身二元論やソフトウェア/ハードウェアの二元論とはパラレルに語れない。議論しなければならないのは意識と身体の関係ではなく、幽霊と肉体の関係なのである。より実際的に指摘するならば、ヒューマノイドを作るためにロボットの身体にインストールしなければならないのは、身体から切り離された意識/心ではなく、幽霊/魂/ゴーストが持つ身体そのものだということである。

 ソフトウェアあるいは心は、初めから完成した身体に剥き出しのままインストールされるのではなく、仮想の身体をまとったものとして我々の肉体に憑依し、重ね合わさることで初めて身体を完成させる。身体感覚の情報は、肉体=「憑依される身体」ではなく、幽霊=「憑依する身体」の方が保持している。幽霊に憑依されたペッパー君は、故人の仮想の身体を手に入れる。あるいは「サマンサ」がインストールされたスマートフォンは―「サマンサ」が優れたプログラムであれば、だが―副次的に仮想の身体を手に入れる。

 憑依されたペッパー君は、そのキャスター付きのロボットの身体感覚ではなく、幽霊に保存された二本脚の身体感覚で生者と交流する。「サマンサ」は意識だけで恋をするのではなく、同時にインストールされた仮想の身体をスマートフォンにまとわせて恋をする。「憑依する身体」がなければ恋はできないが、「憑依される身体」が人型でなくても恋はできる。そういうことである。

 

 考えてみれば、ロボットだけではなくヒトたる我々にしても、誰もが当たり前にこのような二重の身体を重ね合わせて生きている。肉体はつねに幽霊の憑依と幽体離脱を繰り返し、モノとヒトとの間を行き来する。

 たとえばヒトの体に針を入れ、メスを入れる医療行為は、通常であれば傷害行為に当たる。これを例外的に行う医療者は、患者の身体に対するモラルの感覚をいったん書き換える必要がある。患者に憑依する身体を忘れ、あるいは無視し、あるいは眠らせることによって、患者をモノ化する必要がある。このとき医療者から見えている患者の身体は、霊媒=憑依される身体のみである。モノ化した肉体ならば、我々は躊躇なく―といっては言いすぎだが―切ることができる。ここで対象としての身体の本質は、肉体ではなく幽霊の情報量に依存する。

 あるいは、死んだばかりのヒトの身体は、死に際にどんなに衰弱していたとしても、生きていた時の身体とはまるっきり別のものである。意識/心がないという単純な話ではない。身体自体が変質していることが一目でわかる。ヒトの死とは、身体から意識が離れていくことではなく、肉体に憑依していた幽霊の身体が離れていくことであり、すなわち肉体を動かすための情報が離れていくことである。だから死体はモノ化する。一方で、幽霊は永遠とは言わぬまでも49日の間、肉体とは独立して現世に身体をとどめる。ここでも本質は肉体ではなく幽霊の方にある。

 恋についてもそうかもしれない。モノ同士ではなくヒト同士の恋を成立させるためには、幽霊の身体同士が交わる必要がある。肉体のみで関係したカップルを俗にセックスフレンドと呼び、所謂恋愛関係とはみなさない。これを心身二元論的に理解すると、身体ではなく心のつながりが恋愛の本質である、という話になるわけだが、まさにソウルメイトという表現が意味するように、心というよりは幽霊どうしの関係と考える方がずっと理解しやすい…。

 

 21世紀初頭、我々は心身二元論の陰で長らく忘れられていた幽霊の存在を、「憑依する身体」の重要性を、皮肉にもロボットの登場によって思い出したのではなかったか。

 おそらく21世紀も半ばになれば、この幽霊が幽体離脱し、現世に跋扈するような世界が現実のものとなるはずである。しかしその世界を想像・創造するとき、幽霊のもつ身体については意識的でなければならない。その身体観はおそらく、我々の幽霊が憑依する肉体/ロボット/その他のオブジェクトが、いかなる身体運用をなしうるかについて、一つの示唆を与えるものだからである。

 

[i] Designing death | Etsuko Ichihara | TEDxUTokyo

[ii] デジタルシャーマン・プロジェクト/ Digital Shaman Project

文字数:6369

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