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幻想としての「日本文化」論 ―あるいは、スカヨハのマヨネーズ和えでも攻殻機動隊と見なすべきか否か問題―

 

一、

 玉村豊男『料理の四面体』(1999)は、世界のあらゆる食文化を一つの論理体系によって演繹的に網羅しようとした意欲作であった。

 あらゆる料理は、火、空気、水、油を頂点とする四面体のどこかの点に位置づけられる。どのような強さで火を通したか、その際、熱源と食材の間に介在したのは空気のみであったのか、油もあったのか。食材の周囲は水ないし水蒸気で満たされているような環境であったのか、乾いていたのか。この四要素の強弱によって相対化してしまえば、かのフランスの名店ポール・ボキューズのブフ・ブルギニョンも、アフリカの河畔で寸胴に放り込んだ羊肉のシチューも、結局のところはマリネ・リソレ・煮込みという三行程に集約され、本質的にほとんど同じ料理として理解される。

基本はひとつ。
あとは風土によって手に入る材料が違うだけ。
バターやワインやシャンピニョン等が手近にあるブルゴーニュ地方でならブフ・ブルギニョンができるし、オリーブ油とニンニクとトマトが豊富に手にはいるアルジェリアなら羊肉のトマトシチューができる。
と、すると、この同じ方法論を日本に適用したらどうなるか、と想像力を働かせるのが、料理のレパートリーを増やすコツである。

玉村豊男『料理の四面体』

 実際にこれらの工程に日本の食材と調味料を代入して料理を作ってみると、できあがるのは牛肉のすっぽん煮とか、豚肉の生姜焼きといった、ごくごく日本文化的な代物である。そう、文化とは方程式に代入する項目のバリエーションと、その結果に過ぎない。その土地固有の食文化とはすなわち、使用できる食材とスパイスの違いに還元されるディティールのことなのである。したがって、食材やスパイスさえも国境を越えて輸送される今日にあっては、もはや食文化は場所の制約を受けない。

 食材だけでなく、人材もアートも越境するのであるから、この解釈はあらゆる文化において妥当である。土地に固有の文化を論ずるなどということは今日あまり意味をなさないし、「日本文化」なるものがいまだにあるというのも、ある種の幻想にすぎないのかもしれない。

 

 ところで映画業界には、伝統的な日本料理をアメリカの食材でもって料理しなおした結果、ファンから盛大なバッシングを浴びたことで有名な作品がある。2017年に実写映画版『攻殻機動隊』として公開されたハリウッドのSF映画『Ghost in the shell』である。

 『ブレードランナー』や『マトリックス』等、数々のSF映画の源泉として知られる士郎正宗作の同名漫画がハリウッドで映画化されたこと自体にさほどの驚きはないが、問題は原作において日本人だったその主役:草薙素子少佐を、ハリウッド版『Ghost in the shell』では白人女性のスカーレット・ヨハンソンが演じることになったというその事実である。この人選に対しては日本人からではなく、むしろ白人の側からいわゆる「ホワイトウォッシング」[i]ではないかという批判が相次いだ。

 この論争は一見すると古くからある人種問題のようだが、同作には日本人である北野武が荒巻課長役で出演しており、同作が単に人種差別的な観点から日本人を排除したとは断定しがたい。それでもなお、スカーレット・ヨハンソンの起用が問題にされるのだとしたら、これはおそらく人種問題より手前にある「正しさ」の問題であろう。正当なブフ・ブルギニョンにおいてブルゴーニュ産以外のワインを使うことが認められないように、仮にも『攻殻機動隊』の名を冠するならば「正しい」料理をしなさいよ、すでに白人の口に合うことがわかっている日本人女性(菊地凛子とか)があるのだから、そういうものを使いなさいよ、という話である。そんな逆風もあってか、予算1億ドル以上を投じた本作の興行は思ったよりも振るわず、アメリカでは封切りから2か月足らずで公開終了となった。

 

二、

 士郎正宗版『攻殻機動隊』は1991年に、当時としては驚異的とも言える想像力をもって、テクノロジーの未来を描いたSF漫画であった。

 主人公である少佐は、脳だけを自らの生体のまま残し、あとはすべて義体化[ii]され機械に換装された、いわばサイボーグである。強化された身体能力もさることながら、生まれ持ってのハッキングの才が彼女の強みだ。すでに人々の体が多かれ少なかれ義体化された近未来にあって、ハッキングとは他人の身体にアクセスすることをも含む。こうした超人的な能力を駆使し、事件の芽を発見し摘み取るべく予防的に捜査と制圧を行う組織が「攻殻機動隊」であり、少佐はその中心メンバーである。

 テクノロジーとその進歩により生じる生命哲学的な問いと、登場する組織の利害関係が複雑に絡み合うなかで、その設定を存分に生かした電脳戦と肉体戦が繰り広げられる士郎版の読み味は、仮想世界を遊ぶというSFの複雑な味わいそのものである。一方、ハリウッド版ではこれをごくシンプルに「人間とはなにか?」という問いと、明瞭な勧善懲悪劇に味付けしなおして提供してみせた。本作は食材の変更にばかり注目されるあまり、この味付けの変更の方があまりつぶさに論じられていないように思われる。

 

 ハリウッド版が冒頭でまず描いたのは、少佐の脳が取り出され、全身義体と接続され、少佐が初めて義体を通じて呼吸する、といういわば通過儀礼のシーンだった。士郎版では初めから前提として存在したこの全身義体という設定は、ハリウッド版では与えられたものであることが強調され、ときに「武器」などと呼び捨てられる少佐は終始自らのアイデンティティ―自分が人間なのか、機械なのか―を問い続けなければならないことになる。

 士郎版では義体化された眼が特徴的だった少佐の相方、バトーについても同様で、冒頭では生身の眼を持っているが、捜査中に爆発事故に巻き込まれ、眼を奪われて仕方なく義体の眼を植え付ける、という展開になっている。バトーは義体化された眼を少佐のほうへ向けながら、「X-Rayまで見えるんだから、生身の眼より都合がいいぜ」などとうそぶきながらも、飼っている犬が怖がるから、と餌やりを少佐に頼んだりするのである。

 あげく、敵対組織の黒幕は彼等の義体を作っていたHANKA社で、同社が家出少年を誘拐して義体化実験の材料にしていたことを突き止めた攻殻機動隊が同社のボスを制圧して、事件は幕を閉じる。人間が意志に反して機械化されていくこと、その過程で生じる「人間とはなにか」という問い、そして機械化の営みが最終的には悪事に集約され、それが懲悪されるという構図…。映画における尺の制約を勘案してもなお、ハリウッド版の味付けは実に楽観的で、過度にわかりやすさが追及された、いわばマヨネーズとケチャップを塗りたくったハンバーガーのような「大味」である。おそらくは多くのユーザーの可食性を担保する必要性から、その最大公約数をとった形の味付けなのだろうが、そこで描かれたテーマは結果として、別に『攻殻機動隊』でなくてもいいよね、という程度のありふれた味わいに終わった。

 さて、この大味に埋もれずに自己主張の強い味を発揮できる身体こそが、ハリウッド版『Ghost in the shell』の少佐に求められるものであるとすると、既に世界的にその味を認知されているスカヨハは菊地凛子よりも適切な食材であったかもしれない。しかしそうだだとすると、問題の核心はなぜ日本人女性を使わなかったかではなく、なぜ白人女性を使わないといけない味付けになってしまったのか、という点にこそある。この問いはとりもなおさず、このハンバーガーがなぜ多くの人に食される美味なものとならなかったのか、という映画自体の興行的不振を評価するための重要な問いのはずである。にもかかわらず、あくまでも材料の方がやり玉に上げられてしまうのはどうしてなのか、そしてまた、この問題に対して白人のほうが日本人よりも敏感であったのはなぜなのか。

 

三、

 たとえばラーメンや寿司がそうであったように、文化がひとたび海外に輸出されるや全く別のものに変ってしまう事例がある。寿司の場合、生魚や海苔を食す習慣があったかどうかに加えて、良質な醤油やわさびにアクセス可能であったか、あるいは「正しい」寿司をうまく握るための職人がいたかどうか、そもそもそれがアメリカ人にとって食える代物だったかという種々の要因に大きく左右され、結果として海苔は内側に隠し外側をトビッコで飾ったアボカド・すり身・マヨネーズの巻き物:カリフォルニアロールの形態が長らく海外の寿司の主流となってきた。

 カリフォルニアロールが日本人の口に合うかどうかという味覚の問題についてもさることながら、その奇妙な代物が寿司として提出されることに対して、日本人は生理的な抵抗を覚えるのらしい。これを邪道とし「正しい」寿司のあり方を普及しなおそうと躍起になった日本政府は、日本食認証制度とか食の伝道師などという矯正プログラムを考案しつづけている。一方でこうした試みが、食の自由を奪う暴力であるとして海外メディアから「スシポリス」などと揶揄されたのも記憶に新しい。

 寿司について起こっているのは『攻殻機動隊』とは正反対の動きである。輸出元が「正しい」文化を発信しようとこだわっているのが寿司なら、輸入元が「正しい」外観にこだわっているのが『攻殻機動隊』である。どちらも「正しい」ことを求めているにもかかわらず、どうしてこのように異なる反応をもたらすのか? 答えは簡単で、日本人は輸出された寿司をまだ「日本文化」だと考えているからであり、一方で輸出されハリウッド的に実写化された『攻殻機動隊』をもはや「日本文化」の延長とは感じていないからである。逆もまた然り、アメリカ人にとって『攻殻機動隊』はあらゆるSFの祖であり純然たる「日本文化」でもあるが、寿司においては「日本文化」としての「正しさ」よりも、可食性が実際的な「正しさ」として優先される。

 土地固有の文化というものが成立するかどうかは別として、それを受け取る者、あるいは差し出す者が、何らかの形で文化の正当性を問題にすることはあるのである。土地に紐づいた「文化」などというものがもはや存在しえなくなったとしても、観念としての「文化」は十分に機能しているということである。日本文化論とは、日本人が自覚する「日本文化」、あるいは外国人が求める「日本文化」という、いわば幻想の構造と機能について論じることであろう。ここで二つの「日本文化」が互いに一致しない概念であることは、もはや言うまでもない。

 

四、

 文化とは食材とスパイスの可変性のことであろうか? はたまた、その結果として生じる固有性のことであろうか?
 いや、そのどちらでもない。文化とはつまり、所有幻想である。

 ブフ・ブルギニョンがどこで作られようと、それが本来ブルゴーニュ地方文化であることは疑われない。寿司が本来日本文化であることも、おそらく疑われない。「正しい」寿司の主張は、所有権の意識に基づくものである。しかし、それを輸入した土地の者が、土地の味覚に合うよう改良を重ねたとき、出来上がった代物の所有性はほんとうは揺らいでいる。カリフォルニアロールが、スシではなくまさにカリフォルニアの名を冠しているように。結果として、日本人はそれを所有していると思っていながら、外国人の方でも所有している、という認識のズレが生じる。

 逆に、しばしば外国人から見た「日本文化」とされる芸者や忍者を、普通の日本人はもはや所有していない。富士山はかつて広い範囲から見える日本のランドマークであったが、高層ビルばかりが立ち並ぶ今日、それを所有している実感があるのは静岡県民と山梨県民くらいのものであろう。芸者・忍者・富士山という「日本文化」観が滑稽に感じられるのは、外国人は日本人が所有していると思っているのに、日本人はそれを所有していないというズレがあるからである。

 『攻殻機動隊』について言えば、それは海外のファンにとっても日本のファンにとっても日本漫画・アニメだった。スカヨハ起用に対する批判は、したがって差別的であることへの批判ではなく、日本の所有権に敬意を払っていないことへの批判なのである。とはいえ大多数の日本人には『攻殻機動隊』に所有物としての愛着などなかったはずで(そんなことはない、と考えたくなるのは漫画・アニメファンの贔屓目であろう)、『Ghost in the shell』はロードショーの映画館を次々と流れていく、ハリウッド映画として深い意味もなく受け入れられたのに違いない。

 とはいえ昨今のクールジャパンなる対外政策を通じて、漫画やアニメは日本文化であると国民に広く認知されつつある。ただし、このクールジャパンを素直に「日本文化」として論ずる愚だけは犯さぬようにせねばならない。クールジャパンだと外国人が言っているうちはよいが、日本人が言えばそれは日本人側の「日本文化」幻想を表明しているにすぎず、場合によっては攻撃的な所有権の主張でもある。それがほんとうに「日本文化」でよいのか、あるいはすでに他国の「文化」としても成立しているものなのか、ということについては、海外からも広く意見を募ってみなければ、よくわからないところなのである。

 

 

[i] もともと白人ではなかった役柄に白人俳優が配役されること。アメリカ映画業界では古くからあることで、古くから問題視されても来た。

[ii] 生身の身体を部分的に、あるいは全面的に機械で換装すること。全身義体を使いこなせれば元の身体機能を上回る能力を発揮することができる。

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