印刷

「オルタナティブ・ゼロ年代」の構想力

0.

“Is there no alternative?”

そんな言葉を副題に書き付けた『資本主義リアリズム』の著者、マーク・フィッシャーは2017年自死した。

このテーゼは元イギリス首相のマーガレット・サッチャーの言葉「There is no alternative」に掛かっている。もとは「市場に代替する仕組みは存在しない」という文脈で使用された言葉だが、フィッシャーは「オルタナティブ」なカルチャーは市場を離れて成立するか? と問いかけているのだ。大富豪でありながら排外主義的な「トランプ大統領」の誕生という出来事にすでに直面している我々にとって、この問いかけを単なる「新自由主義批判」と見なすことは適切でない。フィッシャーがより根源的だと捉えている問題は、トランプを批判するリベラルなミュージシャンたちも、結局資本主義というシステムから逃れることはできないということなのである。カート・コバーンの悲劇をいま一度思い返してみればよい。「インディー」や「オルタナティブ」はかくもたやすくファッション化され、消費されてしまう。

ファッションや音楽の世界では「流行は20年周期で繰り返す」ということが言われる。まさしく資本主義的・マーケティング的なこの俗説に従えば、2020年代は2000年代の反復ということになる。2000年代はかつて「ゼロ年代」と呼ばれ、文化史の開始点が新たに定められようとした。人類の文化は20年ごとに「ゼロ」へと回帰する、空しい悪夢のようなものなのだろうか? これを突破する契機は「2020」という数字の中に潜んでいる。「20」という2桁の数字が繰り返すという意味で、2020年代はオルタナティブな千年紀(1010、2020、3030……)の系列に属しているのだ。もちろん単なる表記上の話であり、これをもって「資本主義リアリズム」からの脱出が図られるなどと言うことはできない。しかし新たな世界を構想するためのきっかけにはなる。2000年を開始点とするこの20年間こそが、終わりなき「資本主義リアリズム」のループから抜け出すための「ズレ」をはらんでいたのではないかと。

2020年代は、資本主義のもたらすループにより「ゼロ」へと戻る点であり、かつオルタナティブな人類史への乗り換え点でもある。
「オルタナティブ・ゼロ年代」としての2020年代を構想するために、「ゼロ年代」へと再び目を向けることから始めよう。

 

1.

1-1.

「ゼロ年代」は人間の生活がコンピュータに大きく依存していることの顕在化から始まった。西暦の繰り上がりに対応できないプログラムが大量に誤作動を起こし、甚大な社会的影響を与えるとされた「2000年問題」。Windows 95、98が発売され、PCとインターネットが一般家庭に普及したのもこの時期のことだ。こうした情報環境のドラスティックな変化をいち早く捉えて新たな「主体」のあり方について考察した著作が、東浩紀『動物化するポストモダン』(2001年)である。同書によればポストモダンの新たな主体(オタク)とは、ディスプレイに映し出された表象「そのもの」ではなく、その背後にあるデータベースをも同時に透かし見ているのだという。ディスプレイを介した主体と客体のこの関係を同書では「超平面性」「過視性」といった用語で表していた。

こうした環境は物語の受容の仕方をも規定していた。当時を代表する物語の類型である「セカイ系」は、「主人公とヒロインの小さな人間関係を、社会や国家のような中間項の描写を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」といった大きな問題に直結させる」などと定義される。セカイ系作品が隆盛した時代においては、目の前の表象から無限のデータベースに、GUI(カーソル)を介して「直接」アクセスできるような感覚があった。身を動かさずとも「世界の仕組み」に迫れるかのようなその感覚は、ある種の「全能性」にもつながっていただろう。こうした感覚を源泉として、「セカイ系的」な表象が出力されていたと考えられるのである。

しかし実際にはオタクたちは「世界」に触れられていない。あくまでGUIの提供する範囲でしか情報を操作することはできていないからである。真に「世界」に迫るためには、GUIを構成するソースコードの「解読」を行わなければならない。ゲームシナリオライター・元長柾木はこの点を指摘し、「セカイ系」という言葉のイメージを反転させる。

個人あるいは私的領域における人間の意志あるいは認識、そういったものが、社会なんていうショボい構築物に囚われることなく、世界という普遍構造に働きかけて変革するようなお話、といったところでしょうか。で、世界に働きかけるだけでなく、できれば個人に戻ってきて自己の変革を迫られるような。かといってそれは「成長」ではない。成長というのは「社会」内部の内輪話に過ぎません。上に向かって伸びていく成長ではなく、レゴブロックみたいな組み替えとでもいうようなイメージですかね*1

上記のような「セカイ系」観を「自己と世界を革命する物語」と要約してみせる元長は、最近でも自身のTwitter上で「セカイ系(cosmic realism)とは、登場人物(おもに主人公)が世界の観念的秩序(セカイ、cosmos)への介入可能性をもつ物語ジャンルのこと」という定義を行っている。ここで前提とされているのは、人間は大文字の「世界」それ自体には決して到達できず、それを支えている「普遍構造」「観念的秩序」にアクセスすることによって、間接的にのみ働きかけることができるという認識である。

整理しよう。元長的な意味における「セカイ」とはソースコードに対応する。PC普及期においては、それにアクセスすることで世界認識の変革を図るような、ハッカー的な思想が有効性を持ち得ていた。
しかし実際にはGUIを介して、ディスプレイの向こうに広がる「情報空間」を眺めるにとどまっていたのである。この傾向は2010年代において、「実空間」と「身体」を巻き込んだ形でより進んでいくことになる。

 

1-2.

2007年にiPhoneが発売されたのを皮切りに、2010年代はスマートフォンの時代となった。最も重要なのは情報空間にアクセスするディスプレイが「持ち運ぶ」ものに変わったという点である。デスクトップPCの時代には視野と一体化していた画面のフレームは、スマートフォン時代においてはそれを持つ自らの手と(すなわち、自らの身体が属する実空間と)重ね合わせられて認識されることになる。こうした状況においてはもはや「情報空間」という表現自体が古びたものとして映るだろう。ディスプレイには「向こう側の世界」が存在し、それを覗き見るという感覚は持ちにくくなる。インターネットがもたらす特有のリアリティを形にすることを一貫して主題としてきたメディアアーティストの谷口暁彦は、こうした変化について以下のように語る。

〔…〕コンピューターの身体性という点で考えると、昔インターネットをしていたころはブラウン管の巨大なディスプレイで、ダイヤルアップというイニシエーションを通じて別世界に入っていくというような身体性でした。〔…〕それが今では、常時接続された小さなデバイスがポケットに入っていて、寝転びながらインターネットができる。別世界だったものが、日常と地続きで、ポケットに入っているという関係性に変わり、身体との関係性が直接的になりました。これはパソコンの前で椅子に座ってインターネットをしていた時代とは全く違います*2

これに続けて「作品をつくる際にもこれまではプログラミングが必要など高いハードルがありましたが、自撮りしてSNSに流すというだけでも作品になるという、ある種、チープな表現でも有効性を持つようになってきました」と谷口は言う。彼はその状況について価値判断をすることは避けているが、こうした「チープな表現」がはたして「作品」と呼ぶに足るかということには、批評という営みにかかわる我々からすれば疑問符がつく。ここで言われているのは「作品」を理解するにはもはや「ソースコードの解読」は必要ないということである。しかし実際にはそれこそが「批評」という営みの本質なのである。

このことを考える上で示唆的なのは、村上裕一『ゴーストの条件』(2011年)のパッケージに付された「セカイ系コンテンツ批評の新たな逆襲」というキャッチコピーである。同著は講談社と東浩紀が共同主催する「東浩紀のゼロアカ道場」の最終成果作であり、かのキャッチコピーも東浩紀の手になるものである。「批評」が生まれる場を自覚的に組織した東が、そこから生まれた作品にかようなラベルを付したことの意味。村上は同著刊行後に行われた坂上秋成との対談の中で以下のように述べている。

〔…〕東さんから「セカイ系コンテンツ批評の新たな逆襲」という推薦文を頂いたんですが、これは、ゼロ年代の思想を『思想地図』界隈が担っていた時に、コンテンツ派とアーキテクチャ派という分け方をしていたことがありまして、そのうちのコンテンツ派の流れに則っているというくらいの意味でしょう*3

つまり単なる同時代的な批評につけられた呼称であった「ゼロ年代批評」から、さらに内容による区分を施すために選ばれたのが、「セカイ系コンテンツ批評」という呼称だったのである。その内容とは村上が自称するところの「作品の深奥から語る」というスタンス……「作品」に対して「アーキテクチャ」のような「外在的」要因を読み込まず、徹底的に「内在的に」向き合うというスタンスを指し示す。これは批評史的には、70~80年代に影響を持った二人の批評家、柄谷行人と蓮實重彥のうち、マルクス主義に着想を得るなどした柄谷の路線に対して、広義のテマティスムの実践者である蓮實の路線を継承するということである。蓮實によれば「作品」とは自明な対象ではなく、あまねく記号、テクスト、表象――そういった断片的で離散的な部分によって成り立つ「文学」なり「映画」なりの総体に我々が対峙することで初めて抽出される、仮初の輪郭である。その抽出の過程こそを、蓮實は「批評体験」と言う。

〔…〕読んでしまったもの、見てしまったものが文学なり映画なりに対していだくこの接近不可能の意識、縮めることのできない距離の実感こそが、まさしく「批評体験」の持つ宿命的な暗さの色どりとなっているものである*4

蓮實‐村上的な「批評」において言葉は、自明な対象としての「作品」という単位をいったん宙吊りにし、そこに対する「接近不可能の意識」の只中において紡ぎ出されるものである。これは元長的なハッカー思想とも対応している。いわば「私」と「世界」の間にあるインターフェースの存在を見つけ出し、そのソースコードを解析するような行為が「批評」なのである。

ではそのインターフェースとは今日、いったいどこにあるのだろうか?

 

1-3.

谷口はこれまで引いてきたのと同じインタビューの中で、今日のインターネット環境がもたらした新しい「時間」の感覚について言及している。

(引用者註:ニコニコ動画の)投稿コメントなどがデータベースとして蓄積され、別の時間軸で亡霊(ゴースト)のように再生されることで、本当は同じ時間を共有しているわけではない人たちにあたかも同時にそこにいるかのように感じさせるという話ですね。〔…〕時間という点で言えば、人や出来事が亡霊として蓄積され、RTやリブログで再び掘り返されるわけで、そこに絶対的な時間はないわけですよね。SNSでフォローしているアカウントの数や性質によっても、それぞれが見ている時間がバラバラで、蓄積されたデータに基づいて、それぞれに逐次時間がつくられているような感覚があります*5

「批評とは幽霊を見ることである」という東浩紀の言にしたがえば、ここで「亡霊(ゴースト)」という表現がなされているのも示唆的であるが、それについてはひとまず措こう。谷口がここで想定しているのはTwitterやTumblrといったWebサービスだが、これらのサービスが画期的なのは「タイムライン」という概念を発明したことにある。それは「ライン」――絶対的な「流れる時間」のイメージを模していながらも、「RTやリブログ」による偶発的な遭遇により複数の「視点」の存在を顕在化させる。最も素朴な意味合いにおける「セカイ系」は「パソコンの前で椅子に座ってインターネットをしていた時代」に対応していたわけだが、こうした視点の複数性・移動性は、それとはまったく異なる物語の形を生むだろう。フランスの哲学者ピエール・レヴィは、こうした新しい「時間」のあり方を「リアルタイム」と表現する。

一般的にこの語は「即時性」みたいにすごく急いでいるようなイメージがあるかもしれないけれど、〔…〕レヴィが言っているのはむしろ今で言うSNSみたいなイメージで、発信した情報が他の誰かに別の時間に受け取られたり、あるいはそもそも受け取られなかったりといったラグのあるコミュニケーションの方をリアルタイムだと述べている。発信されたものがいつ・どこで生きたコミュニケーションになるかがわからず、時間的にも空間的にも並存しているわけですよね*6

「ズレ」や「ラグ」をあらかじめ織り込んだものとしての「リアルタイム」。この観点の下では、「現実」のオルナタナティブとして「情報空間」が存在するのではなく、むしろ「現実」がオルタナティブ化する。正確には、この時代における「リアリティ」とは複数化した視点の間を常に移動し続ける中で生まれるため、どちらかが「メイン」でどちらかが「オルタナティブ」である、といった固定的な視点に立つことがそもそも不可能なのである。

我々がその存在を明らかにすべきインターフェースとは、こうした新しい時空の認知の構造、「リアルタイム」である。
「オルタナティブ・ゼロ年代」の批評とは、「作品」をはじめとする様々な事象にこの「リアルタイム」性を見つけ出していくことから始まる。

 


 

*1: 最終批評神話編『最終批評神話』に収録のインタビュー「法・倫理・社会を超えて――元長柾木インタビュー」より。

*2: 「電通報」に掲載のインタビュー「ポスト・インターネットとは?──ネット化が生み出した現代アートの最前線~メディア・アーティスト・谷口暁彦氏」より。
https://dentsu-ho.com/articles/3085

*3: 「週刊読書人」2011年10月14日号に掲載の対談「「ゼロ年代批評」を超えて 『ゴーストの条件 クラウドを巡礼する想像力』(講談社)刊行を機に」より。

*4: 蓮實重彥『映画の神話学』(ちくま学芸文庫)より。

*5: 谷口へのインタビュー(同上)より。

*6: サークル「Rhetorica」の公式サイトに掲載の清水高志へのインタビュー「文明の第三世代へ──『ポストメディア人類学に向けて』」より。
http://rhetorica.jp/interview-takashi-shimizu/

 

文字数:6151

課題提出者一覧