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「中動態的家族」の誕生

1.

2010年代の終わりもいよいよ見えてきた今年の初め、あるひとりの音楽家の突然の引退会見が世間に波紋を投げかけた。

小室哲哉。90年代に一世を風靡した作曲家・音楽プロデューサーである。

会見ではくも膜下出血により高次脳機能障害を負った妻・KEIKOが「夫婦として、大人としてのコミュニケーションが日に日にできなくなって」いる現状を告白。自身の体調不良、絶頂期に比しての作曲能力の衰えも感じる中、不倫相手と報じられた看護師との会話を通して「メンタルケアと言うときれいな言い方ですが、なんとなく容認してもらってるのかなという気持ちに」なったのだという。女性への依存を強く自覚する中で週刊誌の取材を受けたことに「自分への戒め」のようなものを感じ、けじめとして「引退」という形をとることを決意。会見の最後には「高齢化社会、介護、ストレスだったりの問題について、少しずつですがこの10年で触れることができたので、こういったことを発信することで、何かいい方向に、皆さんが幸せになる方向に進んでくれたらいいなと、心から思います」と締めた。*1

一時代を築いた音楽家が自らのプライベートな部分も含めて悲痛に語るその姿に同情的な反応が多く見られたこの会見だが、不倫疑惑を介護疲れや音楽家としての苦悩などの問題にすり替えたとして、批判的に反応している者たちも少なからずいた。しかし抜粋された発言を見るかぎり、小室は当該の事実を何らかの「原因」と結びつけることを慎重に回避しているように思える。女性看護師と会っていたという事実はあった、介護疲れという事実もあった、そして自らの才能の限界に直面したという事実もあった……と。それでもこうした糾弾が止まないのは、不倫、というよりはその前段である「結婚」という行為が持つ、根本的な性質に起因している。

ジョン・L・オースティンによって提唱され、弟子筋であるジョン・サールによって深化させられた「行為遂行的発言」の概念は、ある発言をすることがそのままひとつの行為となるような事態を説明する。彼らの著作中で特に代表的なものとして分析されるのが「約束」という行為である。サールによれば、「約束」という行為にはそこで言われている内容を遵守しなければならないという「責任」が常に伴う。「「私はAを行なうと約束するが、Aを行なうということを意図してはいない」などと述べるならば、つねに奇妙な事態が生ずる〔…〕つまり、「私はAを行なうと約束する」と述べることは、Aを行なうことを意図するという責任を負うことなのである」*2。「死がふたりを分かつまで……」の定型句を引くまでもなく、「結婚」という行為のうちにもこうした「約束」概念をめぐる素朴な理解は書き込まれている。不倫が世間に対して謝らなければならないとされる理由もそこにある。「不倫をした」という事実をもって、遡行的に結婚の約束は「不誠実になされた」ということになるからである。

『中動態の世界 意志と責任の考古学』で國分功一郎がハンナ・アーレントを引きつつ述べるのは、 意志とはある選択の「責任」を問う局面で初めて現れるものだということである。本来、選択とは常に「過去からの帰結としてある」ものである。ある選択に至るまでにはあまりにも多くの要素が関わっているため、その始まりを何かひとつに定めることはできない。一方で意志とは「絶対的な始まり」を司るものである。ある選択の「責任」を問うためには、その選択の開始地点を特定せねばならない。「(意志とは)過去からの帰結としてある選択の脇に突然現れて、無理やりにそれを過去から切り離そうとする概念」なのである。そして、今回の報道のきっかけとなった「(誰かとともに)時間を過ごす」という行為は、まさしく能動的な「意志」の問題に還元することができないものだ。むしろ國分が言語学者エミール・バンヴェニストを引きつつ示す「中動態」の性格、「主語が(その行為の)過程の内部にある」そのものを備えていると言えるだろう。こうした語の分析を通しても、件の会見が投げかける問題の複雑さが浮き彫りになる。

そもそも、結婚とは社会的な制度にすぎない。生まれ来る子供たちに戸籍という社会的身分を与えるために、あるいは氏族同士の結び付きをより強固にするために、それは人類史において連綿と行われてきた。「約束」という、強い遵守の命令をはらんだ概念が結婚と結び付けられてきたのは、こうした制度としての「家族」を実現するために他ならない。しかし自由恋愛と核家族の時代を経て、シェアハウスや同性婚など新たな「家族」の形が模索される現在においては、「家族」の形を強制的に定めるものとしての結婚=約束は邪魔物でしかない。KEIKOとの離婚を考えているのかという記者からの質問に対して「女性というよりも子供のようで、今のKEIKOのほうが愛情は深いです。離婚という大人の言葉が浮かんでこないです」と答える小室が私たちに投げかけるのは、「家族」を成り立たせるために本当に必要なものは何かという根本的な問いかけである。それは婚姻という制度(外骨格)ではなく、内側から支える「愛」なのではないか。その前提に立った上で「結婚」や「約束」をどう肯定的に位置付けられるのかについて、考え始める必要があるのではないか。

 

2.

約束はいったい何を与えるのか。時間をである。もちろん、「待つ」時間を、「決済のなされるときを待つ」時間を。〔…〕約束という行為のもつ力と危うさは、時間のなかでしか〔…〕与えられぬものを、「現在」〔…〕のうえに構築するということにあるのである。〔…〕われわれは約束によって設定された時間だけを生きており、それ以外の時間を生きるすべを知らない。だからこそ、人は皆約束をもたねばならないのである。*3

「家族」は結婚をしたという事実によってではなく、その後の長い時間によって裏付けられている。それは時間の中で「愛」が育まれるからだ。上に引いたように「約束」が「時間」を与えるものならば、それを「愛」を与えるものとして捉えることもできるのではないだろうか。

アニメ『Charlotte』(2015年)は、かような逆説をまさに主題的に扱っている作品である。本作は『CLANNAD』『AIR』『リトルバスターズ!』などのゲームを手がけたシナリオライター、麻枝准が全話の脚本を執筆した全13話のテレビシリーズで、いわゆる「超能力者もの」に分類される。特殊な能力(他人に乗り移る、姿を消す、高速で移動する、など)を持った少年少女たちが複数登場し、彼らが協力して様々な事件を解決する、というフォーマットを(少なくとも前半部においては)踏襲している。またこれまでの麻枝作品と同様、「家族」の主題も早い段階から提示されており、能力者たちは非人道的な科学者に捕まって実験材料とされる恐れがあることから、学園の形をとった保護施設で共同生活をしていることや、主人公・乙坂有宇とヒロイン・友利奈緒がともに母子家庭の出身であり、その母親からも育児放棄をされて現在に至っているという事情が語られる。

しかしここで問題にしたいのは、「タイムリープ(時空移動)」の能力が登場し、にわかに思弁的な色彩を強める後半部の展開である。
主人公の乙坂には唯一の家族として妹・歩未がいた。彼女にもまた特殊能力者としての素質があり、ある時暴走した自身の能力で命を落としてしまう。精神的な支えを失ってしまった乙坂は自暴自棄に陥り、学園からも抜け出して荒んだ生活を送るが、それを追ってきた友利の叱咤によって救われる。この一連の出来事の中で、乙坂は友利に好意を抱き始める。
学園に戻った乙坂は、ある時「ここにない世界」の記憶に襲われる。それは地下実験場のような施設で、歩未や他の能力者ともどもモルモットとして生活する自分の姿だった。その記憶の中で、乙坂は自分には歩未の他にもうひとり兄がいたこと、その兄・隼翼が持つ「タイムリープ」の能力によって、改変された果てにあるのが自分たちの日常であることを知る。現実に乙坂と対面を果たした隼翼は、学園を作ったのは自分であるということ、「タイムリープ」の能力は使うたびに視力を奪っていき、現在は完全に失明してしまったため使えなくなってしまっているということ、そして乙坂の隠された能力が、「他人の特殊能力を奪って自分のものにする」ものだということを語る。隼翼は乙坂に告げる。「でもまだやり残したことがある。それは絶対に達成しなくちゃならない、俺たちの約束だったはずだろう」。兄弟の約束、それは歩未を救うということ。かくして乙坂は隼翼の能力を受け継ぎ、歩未が命を落とす前の過去へと跳躍するのだった。

歩未の持っていた能力を奪い取ることで危機を未然に防いだ乙坂だったが、その能力「略奪」は強力すぎるがゆえ、能力を悪用しようとする者たちに狙われる危険性も高いものだった。ほどなくして海外のテロ集団が人質をとって、乙坂の身柄を要求してくる。その人質とは隼翼の腹心で親友でもある熊耳と、そして他ならぬ友利であった。相手方の要求に従い、単身アジトに乗り込む乙坂であったが、負傷の痛みから歩未から奪った能力「崩壊」を暴発させてしまう。アジトは倒壊し、乙坂と友利は一命をとりとめたが、熊耳は落ちてくるガレキから友利をかばい、絶命してしまう。
特殊能力の存在によって、誰かの命が失われたり、大切な人が悲しむ姿を見るのは耐えられない。乙坂は自身の能力を使って、「世界中の能力者から能力を奪い、能力の存在しない世界にする」ことを決意する。乙坂は友利に告白する。かつて歩未を喪った世界で、絶望の淵から引き上げてくれた君が好きだ、そんな君を危険な目に遭わせないためにも、僕は行くんだ、と――。しかし友利にはピンとこない。乙坂が自暴自棄になり、それを友利が止めに入ったという出来事は、タイムリープによってすでにこの世界からは失われているからだ。それでもなかなか譲らない乙坂に、友利はこう提案する。

「だったら言いましょう。待ってます、と」
「すべての能力者を救って、もう一度会えることを。その時、私たちは恋人同士になりましょう」

そうして二人は指切りの約束をし、かくして長く過酷な旅は始まる。世界各国のマフィアのアジト、紛争地帯、科学者の実験施設……乙坂は片端から能力者の集まる場所をめぐっては、能力を奪い去っていく。裏社会で「死神」と恐れられるようにもなるのだが、複数の能力を身に宿すことは脳への負担も凄まじく、次第に記憶の混濁が見られるようになっていく。最後のひとりを残すのみとなった時点で、もはや自分が何者なのか、何のために能力を奪ってきたのかもわからない状態になっていた。目的を完遂し、倒れ伏したところを隼翼によって回収され、乙坂は友利との再会を果たすが、顔も名前もまったく覚えていない状態であった。「君は誰?」と問う乙坂に、泣き笑いの表情で友利は答える。「私はあなたの恋人です」と――。

 

3.

以上が『Charlotte』の概略であるが、物語の転回点で「約束」という行為が大きな意味を持っていることにお気づきいただけるだろう。隼翼と乙坂の間で交わされた「歩未を救う」という約束、友利と乙坂の間で交わされた「すべての能力者の能力を奪い、帰ってくる」という約束、都合二つの「約束」があるわけだが、これらはともに「家族」と「約束」の新たな関係を考えるための示唆を与えてくれる。そこで示される「約束」の新たな相貌とは以下の二つである。

Ⅰ. 「待つ」ための時間を与え、「愛」を育むものとしての「約束」。
Ⅱ. 対等な人間同士の、相互信頼の証としての「約束」。

Ⅰについては、前節の冒頭で提示した問いの通りである。友利から乙坂に対する恋愛感情は無いに等しいものであったが、「待つ」時間の中で愛は育まれていった。ここでポイントとなってくるのが拡張された「家族」の存在である。実は、友利にも兄がいた。彼もやはり能力者だったのだが、隼翼の保護が間に合わず、先に科学者に捕まってしまった。現在は実験の後遺症で廃人同然の状態である。友利がいくら妹として兄を想っても、兄からのフィードバックを受けることはない。その寂しさを、乙坂と歩未の関係に重ね合わせて見ていたのではないだろうか。乙坂に兄の姿を重ねていたというのではなく、「乙坂‐歩未」の関係を「兄‐自分」の関係の「ありえたかもしれない姿」として見ていたという話だ。直接的な描写はないが、旅立った乙坂のことを友利と歩未はともに待っていたはずで、歩未を蝶番としてある種の擬似家族的な関係が形成されていたことが想像できる。「誰かを待つ」ことで育まれる愛とは、その「誰か」に対してのみ育まれるものではない。その「誰か」を「ともに待つ」人々との間にも育まれるものなのだ。

Ⅱに関しては、隼翼と乙坂の間で交わされた「約束」について、まずは考える必要がある。これは隼翼の口から語られるのみで、そのような約束があったかどうかも定かではない。そもそもタイムリープをしたのは隼翼であり、彼以外の人間にとってその過去は「なかったこと」になっているのだから、乙坂に生じた「ここにない世界」の記憶は、どこかから「到来した」ものである。なぜ、どうやって乙坂がそれを「受け取った」のか、作中では明らかにされないのだが……ともあれ本当に「兄」なのかも疑わしい人物が「約束」の事実を持ち出したところで、普通であれば受け入れがたいだろう。それでも乙坂がタイムリープをすることを選択したのは、隼翼が、友利が信頼を寄せる数少ない人物のひとりだったからである。友利は乙坂が「ここにない世界」の記憶を受け取る以前から、自分たち能力者を守る学園を作った人物として、隼翼に全幅の信頼を寄せていたのだ。ここでひとつの仮説が成り立つ。乙坂がタイムリープをするという選択をしたのは、隼翼との「約束」を守ることでこうした「相互信頼のネットワーク」に参入したいという思いが働いたからなのではないか。

「約束」は「信頼」の証としてある――このことは乙坂と友利の間で交わされた「約束」について考える上でも重要である。
乙坂が好きだと告げる友利は、「絶望の淵から乙坂を救った」友利ではない。にもかかわらず目の前の友利のことを好きだと言うとき、乙坂の中にあるのは「ああいう状況ならああいう行動をとるような人物だ」という、友利奈緒という「キャラクター」への信頼である。ここで思い返されるのはやはり東浩紀の論である。東曰く、あるキャラクターがそのキャラクターとして存在しているのは、そのキャラクターに関する二次創作が存在しているという事実に拠っている。これを「キャラクター」から「固有名」一般に敷衍すれば、固有名を介してあらゆる「Xは~である」が言いうるということこそが、固有名にとって重要だということになる。固有名=キャラクターとは「~であったかもしれない」という「可能性の幽霊」に取り憑かれているものとして、そもそも存在しているのである。
乙坂と友利の関係は、この意味で非対称な関係である。それは乙坂がタイムリープ能力という、何度でも試行可能な能力を持つがゆえに、ゲームの「プレイヤー」と「キャラクター」の関係にもなぞらえられるだろう。実は告白の時点で乙坂はタイムリープ能力を使えなくなっているのだが(テロリストによって片目を潰されている。両目に光が射すことが発動条件のため使用できない)、それも主体的に選んだものではない。だからこそ旅の途中で治癒能力を獲得した際も、「この目は治さない。タイムリープ能力は使わない」という決断を下すのである。もし再びタイムリープ能力を手にしたなら、友利をかばって命を落とした熊耳を助けることができたかもしれないにかかわらずだ。それは熊耳の命と友利との約束を、単純に天秤にかけたわけではない。「プレイヤー」と「キャラクター」の関係ではなく、対等な立場で約束を交わしてくれた友利との信頼関係を守るため、ひとりの「人間」であることを自ら選択したということなのである(作品外の視点から見れば、最終的に乙坂が記憶を失うのも「プレイヤー視点」が存在したという痕跡すら消し去る狙いがあったのだと解釈できる)。

 

4.

愛を育む時間と、対等な人間同士の信頼関係。この二つを生み出すものとして「約束」を「家族」概念の中に組み入れることは、東浩紀の提唱する「家族の哲学」を拡張することにもつながるだろう。東の「家族の哲学」は新しい「家族」概念を考える上での三つの特徴を「強制性」「偶然性」「拡張性」に求めているが、このうち「偶然性」こそは『存在論的、郵便的』『ゲーム的リアリズムの誕生』『クォンタム・ファミリーズ』と、複数の著作にまたがって展開されてきた東の思想の核心に通じている。

世間では「子どもは親を選べない」と言ったりするが、それは哲学的には不正確である。子はたしかに親を選べないが、そもそもほかの親を選んだら自分が自分でなくなるのだから、その想定には意味がない。ほんとうの意味で「選べない」、すなわち偶然性に曝されているのは、むしろ親のほうである。ぼくたちはみな、出生のときに巨大な存在論的抽選器を通過している。ぼくたちのだれひとりとして、生まれるべくして生まれた必然的な存在はいない。ある親からある子どもが生まれることには、じつはなんの必然性もない。みな親から見れば偶然なのだ。この点において、すべての家族は本質的に偶然の家族である。言い換えれば、家族とは、子の偶然性に支えられたじつに危うい集団なのである。*4

東の「家族の哲学」は「子として死ぬだけではなく、親としても生きろ」という一文に集約される。つまりここで言う「偶然性」とは、あくまで「親」の立場から見た「子」という存在の偶然性なのである。この「偶然の子供たち」の問題は、前節でも触れた「固有名」と「キャラクター」の問題に重なっている。語弊を恐れず言えば、東にとって「子」とは「キャラクター」と等価なのである。それを端的に示しているのが、『Charlotte』の麻枝准がシナリオを手がけたゲーム『CLANNAD』をアニメ化した作品、『CLANNAD AFTER STORY』(2008年)について述べた以下のテキストである(なお、アニメ版のシナリオには麻枝は直接関わっていない)。

ぼくの考えでは、もともとマルチエンディング・ノベルゲームでは(そして本当は、ぼくたちが生きているこのリアルな世界においても)、「トゥルー」エンドなどというものはありえない。渚と汐を失った人生も、渚と汐と幸福な家庭を築き上げた人生も、ともに朋也にとっては真実でしかありえない。不幸な人生にも幸福な人生が可能性の芽としては畳み込まれており、またその逆もある、というのがマルチエンディング・ノベルゲームが提示する世界観なのであり、それは原理的に、「主人公が努力すれば幸せを摑むことができる」という通常の物語とは異質なものです。

したがって、CLANNAD AFTER STORYの最終2話で、朋也がある一方の人生から別の一方の人生に突然にジャンプしたとしても、それはまったく原作の世界観を損なわないとぼくは考えます。そして逆に、放映直後のエントリでも書いたように、あの最終話が単なるハッピーエンドだとも思わない。というのも、あの最終話を観たあとでも、ぼくたちは渚と汐が死んだ「別の世界」を忘れてはならないはずであり、そしてその忘却不可能性はアニメ版でもしっかり演出されていたと思うからです。汐はCLANNADでは、救われていると同時に救われていない。*5

熱心な東浩紀読者なら、「渚」「汐」という名前が『クォンタム・ファミリーズ』にも転用されていることにお気づきだろう。「朋也」とはこの物語の主人公、「渚」とは妻となるヒロイン、そして「汐」とは朋也と渚の間に産まれた娘のことである。原作『CLANNAD』はプレイヤーの選択によって物語が分岐していくタイプの「マルチエンディング・ノベルゲーム」で、それをテレビアニメという一本道の物語に再構成するにあたって上述したような表現がなされていた。東が言っているのは、ゲームでは描かれていた「複数の可能性」がアニメでは直接的に描かれていなかったとしても、そのような可能性は常にすでに存在している、そしてそのような想像力を呼び込む契機となるのが、「汐」という固有名なのだ、ということである。

東の「家族の哲学」において「愛」の問題が語られうるとすれば、「子」の偶然性=キャラクター性を媒介にして、「ここにない世界」に思いを馳せよ、そうした可能性の総体に対してこそ「愛」を差し向けよというものになるだろう。しかしこれはなかなかに特殊な感覚であろうし、何よりそこには「時間」の位相が欠けている。繰り返すようだが、「愛」は「時間」の中でしか生まれない。そして相互の信頼関係がなければ、誰かと「ともにある」時間も始まらないのだ。「愛する」「信頼する」という動詞はまさに『中動態の世界』で触れられていた「(「愛しい」「信じよう」という気持ちが)心のなかに現れることこそが本質的」な動詞であろうし、こうした感覚をベースとする家族観を「中動態的家族」と名付けてみてもよいだろう。それは小室哲哉が、あるいは友利奈緒が直面する、「記憶を失った恋人(妻)と、どのような関係を築いていくべきか」という問題にも、幾ばくかのヒントを与えてくれるものであるはずだ。かつて交わした「約束」と、それによって与えられた「時間」。その中で育まれた「愛」は、確かにそこにあるのだから。

 


 

*1: 小室の発言に関しては、「音楽ナタリー」に掲載の記事「小室哲哉、涙の引退会見「悔いなし、なんて言葉は出てこない」」を参照。
https://natalie.mu/music/news/265902

*2: J. R. サール著、坂本百大・土屋俊訳『言語行為 言語哲学への試論』(勁草書房)より。

*3: 立川健二・山田広昭著『現代言語論 ソシュール,フロイト,ウィトゲンシュタイン』(新曜社)より。

*4: 東浩紀著『ゲンロン0 観光客の哲学』(ゲンロン)より。

*5: 「東浩紀の渦状言論 はてな避難版」に掲載の記事「汐は救われているのか」より。
http://d.hatena.ne.jp/hazuma/20090317/1237217360

 

【参考文献】

東浩紀『ゲンロン0 観光客の哲学』(ゲンロン)

東浩紀・國分功一郎・千葉雅也「東浩紀の11年間と哲学―『クォンタム・ファミリーズ』から『存在論的、郵便的』へ」(「新潮」2010年7月号掲載)

國分功一郎『中動態の世界 意志と責任の考古学』(医学書院)

立川健二・山田広昭著『現代言語論 ソシュール,フロイト,ウィトゲンシュタイン』(新曜社)

J. L. オースティン著,坂本百大訳『言語と行為』(大修館書店)

J. R. サール著,坂本百大・土屋俊訳『言語行為 言語哲学への試論』(勁草書房)

 

文字数:9390

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