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「セカイ系批評」再生宣言

はじめに(ある個人史)

新年が明けた。今年2018年は、「ゼロアカ」が開催されてから10年という節目の年だ。とはいっても、そもそも「ゼロアカ」とは何かを説明しなくてはいけないのかもしれない。「ゼロアカ」は正式名称を「東浩紀のゼロアカ道場」と言い、講談社と東浩紀が共同企画した批評家輩出プログラムだ。複数ある「関門」によって批評家志望者たちがふるい落とされていく勝ち抜き制で、優勝者は初版1万部でのデビューが確約。特に同人誌を制作して文学フリマでの販売数を競った「第四関門」、審査の模様がニコニコ生放送でネット中継された「第五関門」は多大な熱狂を生んだ。審査のネット中継、ポイント制の競争システムなどその特徴のいくつかは、「批評再生」を掲げた本プログラムにも継承されている。

1988年生まれの筆者は2008年当時現役の大学生であり、参加者としてその熱狂の渦中にいてもおかしくない世代である。しかし私はその存在を約5年後まで知ることはなかった。新卒で入ったある雑誌の編集部をわずか半年で辞め、自己嫌悪と将来への不安でにっちもさっちもいかなくなっていた時期にふと再読した『ゲーム的リアリズムの誕生』(これは学生時代に読んでいた)、そこから遡る形で出会った数々のネット上のテクスト――それらは最終的に優勝者となった村上裕一の論稿を筆頭に、アニメ、ノベルゲーム、ニコニコ動画など、いわゆる「オタク文化」を対象とするものが多かった――が持つ問題意識や語り口に、純粋に魅了されたのである。

オタクというのはそもそも現実から遊離する存在だった。だからオタク論は独自の世界で、おもしろい議論が現れたのも確かです。けれどもそれは、書き手がまだ若いなど、唯物論的な条件で論者が現実から離れることが許されていたからできていただけです。〔…〕現実に直面して、そのうえで現実から距離を取るような「ゼロ年代批評の後継者」は、結局存在しなかったわけです。*1

『ゲンロン0 観光客の哲学』の刊行記念インタビューの中で東はこのように述べているが、前述したように私は「現実に直面(社会人生活のスタートに失敗)」した上で「ゼロ年代批評」に出会い、それに背中を押されて人生の再スタートを切ることができた人間である。東の望んだ「ゼロ年代批評の後継者」として、そのテクストが持つ固有の価値を再提示すべく、この筆を執っている次第である。

 

「セカイ系コンテンツ批評」とは何か――「ゼロアカ」を批評史的に位置付ける

東の言う「(あえて)現実から距離を取る」というスタンスを表す言葉として、私は「セカイ系」という言葉を選択したい。そもそも「ゼロアカ道場」の最終成果作である村上裕一『ゴーストの条件』のパッケージには、東による「セカイ系コンテンツ批評の新たな逆襲!」との推薦文が与えられていたのだった。では「セカイ系コンテンツ批評」とはいったい何か。村上は『ゴーストの条件』刊行後に行われた坂上秋成との対談の中で以下のように述べている。

〔…〕一口にゼロ年代と言っても、前半と後半ではパラダイムが全然違います。前半はニューアカの雰囲気を僅かに残した東(浩紀)さんの時代で、後半は宇野(常寛)さんの時代だった。僕が引き継いでいるのは前半の東さんの流れです。東さんから「セカイ系コンテンツ批評の新たな逆襲」という推薦文を頂いたんですが、これは、ゼロ年代の思想を『思想地図』界隈が担っていた時に、コンテンツ派とアーキテクチャ派という分け方をしていたことがありまして、そのうちのコンテンツ派の流れに則っているというくらいの意味でしょう。*2

つまり「ゼロ年代批評」という、その内容にかかわらず年代によってひと括りにしてしまう呼称から、内容による区分を施すために選ばれたのが、「セカイ系コンテンツ批評」という呼称だったのである。それは村上が自称するところの「作品の深奥から語る」というスタンス……言い換えれば「作品」に対して、「内在的に(社会やシステムなどの「外在的」な尺度に拠らずに)」向き合うというスタンスを指し示す。これは批評史的には、「「ニューアカ」の名バイプレイヤー」*3たる柄谷行人と蓮實重彥のうち、マルクス主義に着想を得るなどした柄谷の路線に対して、広義のテマティスムの実践者である蓮實の路線を志向するということだと言える。蓮實は自身初の映画論集として出版された『映画の神話学』の中で、「作品」という概念をめぐって以下のように述べている。

作品とは、それが言語を生活領域とする文学であれ、映像を糧として自己を形成してゆく映画の場合であれ、たとえそんなものがあったとしての話だが、言語文化や映像文化の引力圏の内部に用意されている強固な地盤の上にその存在を築き、たえず同じ微笑を笑いながら他者の視線の前にさらされている永遠の記念碑とはわけが違う。*4

蓮實によれば「作品」というのは自明な対象ではなく、あまねく記号、テクスト、表象――言い方は何でもよい、とにかくそういった断片的で離散的な部分によって成り立つ「文学」なり「映画」なりの総体に我々が対峙することで初めて抽出される、仮初の輪郭に与えられる名称だというのである。この抽出の過程こそを、蓮實は「批評体験」と言う。

〔…〕読んでしまったもの、見てしまったものが文学なり映画なりに対していだくこの接近不可能の意識、縮めることのできない距離の実感こそが、まさしく「批評体験」の持つ宿命的な暗さの色どりとなっているものである。*5

蓮實‐村上的な「批評」の言葉は、自明な対象としての「作品」という単位をいったん宙吊りにし、その接近不可能性の只中において紡ぎ出される言葉である。この「巨大な何物かに対する途絶の感覚」こそ、この種の批評が東によって「セカイ系コンテンツ批評」と名指された理由の一端であるといえようが、その前に改めて「セカイ系」という語の用法について検討してみなければなるまい。

「セカイ系」という言葉に通常まとわりついているイメージとは、おおよそ以下のようなものである。

「物語の主人公(ぼく)と、かれが思いを寄せるヒロイン(きみ)の二者関係を中心とした小さな日常性(きみとぼく)の問題と、「世界の危機」「この世の終わり」といった抽象的で非日常的な大問題とが、いっさいの具体的(社会的)な説明描写(中間項)を挟むことなく素朴に直結している作品群」*6

以上のような特徴に加え、その多くが主人公の「自意識(一人称)語り」と、それに対する素朴な「感情移入」を促す構造を持っていたために、妄想的で閉鎖的な性格を持つ物語類型として、ネガティブな文脈で用いられたのだった。しかしひとたび物語という「制度」を離れて、そのテクストの展開のさせ方自体に目を向ければ、そこには「日常性の言葉をもって、抽象的で非日常的な問題を語る」という、大きなポテンシャルが秘められていることに気付くことができる。ここで言う「日常性の言葉」とは、村上の「作品の深奥から語る」というスタンスに相当するものである。社会やシステムといった「中間項」の存在を差し挟むことなく、「作品」と遭遇する体験それ自体から言葉を紡ぎ出していくということ。もちろん、それをただ私的に書き連ねていては単なる妄想だ。「批評」を行う者は自らの紡ぐ言葉が最もネガティブな意味での「セカイ系」に堕してしまわぬように、蓮實の言うところの「接近不可能の意識」「縮めることのできない距離の実感」を常に保っていなければならない。「セカイ系」が「世界の危機」「この世の終わり」を描くというのは実際には逆であり、「世界」への「接近不可能の意識」により生じた緊張感、焦燥感が物語という鋳型に流し込まれることで、「世界の危機」「世界の終わり」といった表象が立ち現れてくるのだと考えるべきだろう(ここで批評とはまさに「危機=critic」の思想であることを思い出すのは、まったく正当的である)。

 

「変革の思想」としての「セカイ系」

ここまで、ある種の「批評」に「セカイ系」と冠することの必然性について述べてきたが、すでにネガティブな印象も持たれがちなこの語を「批評」一般について冠するためには、そのことが「批評」という概念そのものをポジティブにアップデートすることを示さなければならないだろう。そこで本プログラムのもうひとつの源流である「批評家養成ギブス」、その主宰であった佐々木敦のテクストを経由することにしたい。結論を先取りすれば、「哲学的「自己刷新」書」と銘打たれた『未知との遭遇』、その中で佐々木が述べる「変革への意志」を体現するものこそ、「批評」であり「セカイ系」だということになる。

さて、その『未知との遭遇』の中で佐々木は、「セカイ系」と並んでゼロ年代に流行した物語類型として「可能世界もの」についての分析を行っている。佐々木によればこの物語類型が抱える基本的な欲望とは「今ある世界とは別の世界があってほしい」というものであり、それはロールプレイングゲームにおいて端的に実装されているという。

通常、この種のフィクションにおいては、幾つかのあり得るパターンを、ひとつの設定/ストーリーの中で、何回も違った形で繰り返すことが可能です。片側の極に完全なるハッピーエンドがあって、もう片方の極に完全なるバッドエンドがあるとすると、その間のありうべき無数の可能性の中で、何度でもやり直しができる。〔…〕問題は、にもかかわらず、ひとりのプレイヤーはその時ごとに、目の前の選択肢の中から一つずつしか選べない、ということです。〔…〕あくまでも、ひとつ選んでみて、うまくいかなかったら、また別の可能性を選んで、望ましい展開やエンディングに至るまで、順繰りに試していくしかない。*7

「だとしたら、じつはこれは「現実」とそれほど変わらないのではないか。」と佐々木は続ける。繰り返される試行錯誤の果て、最終的に「この世界=現実」を強く肯定することになるというのが「可能世界もの」のプログラムであり、それは宇野常寛『ゼロ年代の想像力』で称揚された「サヴァイヴ系(戦わなければ生き残れない)」の心性にも通ずるものである(「世界」を「社会」へとダウンサイジングしてそこに相応しい「大人」になることを志向するという意味で、佐々木はこれを「シャカイ系」と呼ぶ)。両者に共通しているのは、「この」という指示語の下に「世界」なり「現実」なりを置いているという点だ。固定的で輪郭の定まった実体として、「世界」なり「現実」なりが捉えられているのである。

このような認識の下では艱難辛苦に「耐える」思想は育つかもしれないが、現状を創造的に組み替えていく「変革」の思想は育たない。ここで「セカイ系」こそを「変革の思想」を表す言葉として召喚したい。確かに一部の「セカイ系」作品には「こんな現実は嫌だ」という引きこもり的な心性が描かれていた。しかしそこから「この」現実とは「別の」現実を志向するのではなく、「現実」自体を創造的に組み換えていく志向性を読み取ることができないだろうか。「ゼロアカ道場」の第四関門にて、村上裕一と峰尾俊彦が組んで発行した同人誌『最終批評神話』に収録されたゲームシナリオライター・元長柾木へのインタビューに、「セカイ系」をかようなイメージの下で捉えるためのヒントが示されている。

個人あるいは私的領域における人間の意志あるいは認識、そういったものが、社会なんていうショボい構築物に囚われることなく、世界という普遍構造に働きかけて変革するようなお話、といったところでしょうか。で、世界に働きかけるだけでなく、できれば個人に戻ってきて自己の変革を迫られるような。かといってそれは「成長」ではない。成長というのは「社会」内部の内輪話に過ぎません。上に向かって伸びていく成長ではなく、レゴブロックみたいな組み替えとでもいうようなイメージですかね。*8

上記のような「セカイ系」観を「自己と世界を革命する物語」と要約してみせる元長は、最近でも自身のTwitter上で「セカイ系(cosmic realism)とは、登場人物(おもに主人公)が世界の観念的秩序(セカイ、cosmos)への介入可能性をもつ物語ジャンルのこと」という定義を行っている*9。ここで前提とされているのは、人間は大文字の「世界」それ自体には決して到達できず、それを支えている「普遍構造」「観念的秩序」にアクセスすることによって、間接的にのみ働きかけることができるという認識である。これが前段で示した蓮實‐村上的な「批評」のあり方に一致することは明らかだろう。我々は「世界」にたどり着くことはできないが、その接近不可能性の只中において「セカイ」(=批評文)を出力することができるのである。

 

「人間原理」と諸「セカイ」のポリフォニー――「セカイ系批評」の再生に向けて

かような「批評=セカイ」観を聞いて、「人間原理」という概念を想起される方もいるだろう。これを掻い摘んで説明すると、「宇宙が人間の立てた理論通りに成り立っているのは、そうでなければ人間が存在できないからだ」という逆転の発想で、理論と実態との整合性をとろうとする宇宙物理学上の論法のことである。理論物理学者の野村泰紀らによって日本への紹介も進んでいる「マルチバース宇宙論」も、この「人間原理」に基づいて研究が深められてきたものだ。この理論によれば、宇宙はもともと様々な可能性が量子的に重なり合ったものとして存在しているのだが、そんな中で仮初にも「この世界」が選択されている(ように思える)のは、我々が観測結果に基づいてそのような理論を打ち立てることができるという、まさしくその事実によってなのである。

〔…〕マルチバースは、ただ単に宇宙が沢山あるというぼんやりとした概念ではないということである。それは、超弦理論や永久インフレーションなどの物理学の方程式によって自然に示唆される描像であり、観測された真空のエネルギー(ダークエネルギー)の値を説明する現在我々が持っている唯一の理論として考えられているものなのである。

〔…〕一旦宇宙が沢山あることを認めてしまえば、人間原理の考え方(少なくともここで使われた意味での人間原理)は「論理を正しく使え」と言っているにすぎない。我々が説明したいのは、「我々が宇宙を観測したら極めて小さい真空のエネルギー値を得た」という事実である。この事実が理論と矛盾しないかを議論するのに、人間なり高等生命体の存在を考慮しない議論をしても全く意味がない。すなわち、高等生命体が存在し得ない宇宙が大きな真空のエネルギー値を持っていたところで、それは我々の観測と何も矛盾することはない。*10

マルチバース宇宙論は、あくまで観測結果に基づきつつも、科学者同士の議論(アーギュメント)によって深められてきた理論であるということを野村は強調する*11。このことは科学哲学者の野家啓一が提示する、「科学の解釈学」というビジョンと整合的である。このビジョンの下では、科学論文、科学「について」の言説(科学哲学)、科学者が新事実を発見するに至った伝記的「物語」……それらすべてが「世界」というテクストを織り成すものとして捉えられる。我々は「世界」そのものについて客観的な言明を与えることはできず、テクストたる「世界」を様々に解釈するのみである。野家はリチャード・ローティの思想を参照しながら以下のように述べる。

〔…〕ローティは、通約可能な「普遍的基盤」を求め、それを基礎にして「究極の一致」としての真理を目指すような哲学の活動はすでに終焉した、と宣告する。それに代えて彼が提出するのは、「さまざまな言説の間をとりもつソクラテス的媒介者」としての哲学の役割である。つまり、「共通の基盤」を捜し求めるのではなく、むしろ「異質なもの」どうしのポリフォニックな交響を享受し、一致ではなく、むしろ「刺激的で実りある不一致」を増殖させる活動こそ哲学に期待されているものなのである。*12

「哲学」を「批評」に置き換えてみれば、個々の書き手によって生み出された「批評=セカイ」が、相互に開かれたものとして存在していることを理解することができるだろう。諸「セカイ」のポリフォニックな交響、「批評」同士の相互解釈によって、「刺激的で実りある不一致」が生まれる。そうして生まれたノイズが、また新たな「批評」の契機となる。「セカイ」は複数あることで交響し、その総体として初めて「世界」が立ち上がってくるのだ。「批評はひとりでやるもんじゃない」とはこのような意味においてである。「ゼロ年代批評の後継者」は、やはり私ひとりだけではいけないのだ。こうして「批評」の再生が、いや「セカイ系批評」の再生が、いまここに宣言される。

 


 

*1: 「週刊読書人ウェブ」に掲載のインタビュー「哲学的態度=観光客の態度 『ゲンロン0 観光客の哲学』(ゲンロン)刊行を機に」より。
http://dokushojin.com/article.html?i=1253

*2: 「週刊読書人」2011年10月14日号に掲載の対談「「ゼロ年代批評」を超えて 『ゴーストの条件 クラウドを巡礼する想像力』(講談社)刊行を機に」より。

*3: 佐々木敦『ニッポンの思想』(講談社現代新書)より。

*4: 蓮實重彥『映画の神話学』(ちくま学芸文庫)より。

*5: 上掲書より。

*6: 渡邉大輔による「リアルサウンド映画部」に掲載の論稿「『君の名は。』の大ヒットはなぜ“事件”なのか? セカイ系と美少女ゲームの文脈から読み解く」より。
http://realsound.jp/movie/2016/09/post-2675.html

*7: 佐々木敦『未知との遭遇【完全版】』(星海社新書)より。

*8: 最終批評神話編『最終批評神話』に収録のインタビュー「法・倫理・社会を超えて――元長柾木インタビュー」より。

*9: 元長柾木 (@motonaga_masaki) の2017年12月17日のツイートより。
https://twitter.com/motonaga_masaki/status/943115198537220096

*10: 野村泰紀『マルチバース宇宙論入門 私たちはなぜ〈この宇宙〉にいるのか』(星海社新書)より。

*11: 「現代思想」2018年1月号に収録のインタビュー「量子的マルチバースと時空間概念の変容」より。

*12: 野家啓一『科学の解釈学』(講談社学術文庫)より。

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