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孤独な子供、黒沢清――『アカルイミライ』と「カゲロウプロジェクト」

黒沢清を特集した「ユリイカ」2003年7月号の巻頭対談に付されたタイトルは「私は絶対に成熟しない」。蓮實重彥門下の後輩である万田邦敏との対話の中で「子供じみていることを肯定する」と熱弁する彼が、同年に発表したうちの一作が『アカルイミライ』である。自身大変なシネフィル=「映画育ち」の作家である黒沢が、映画の文法からの発想を禁じてシナリオを組み立てたという今作は、「黒沢清」の全フィルモグラフィの中でもとりわけ異質なさわやかさと思春期性が焼き付けられた一作になっている。

最初に海外での評価を受けた作品がホラーやスリラーの部類に属するものであったことからそのような作家と見なされがちだが、黒沢自身はきわめて広範な主題への関心を持ち、かつ実際に様々なジャンルに分類可能な作品を撮ってきている(『トウキョウソナタ』や『岸辺の旅』をホラーやスリラーなどと言い張ることは、それこそ批評的なアクロバットを経由しない限りは難しいだろう)。しかし本作『アカルイミライ』は、そのようなジャンル意識からも縁遠い作品である。

かなり真面目に考えたのは、現代の物語として何を基本テーマにすればいいのか、ということです。〔…〕かつての映画だと、それは戦争・貧困・差別という三つに集約されます。〔…〕日本でも解消されたわけではないですが、表面上はなくなってしまいました。

〔…〕現代の東京のような大都市に住む人間に共通した何かが起こるきっかけを探っていって、辛うじて見つかったのは「孤独」でした。戦争・貧困・差別と比較するとかなりせこい問題で、すごい事件は起きないかもしれませんが、若者を行動に突き動かす大きな動機のひとつではないかと思います。

――『黒沢清の映画術』より

「映画として」どうかというメディウム・スペシフィティへの意識、あるいは「ホラー」「スリラー」「ラブストーリー」としてどうかといったジャンル性への意識よりも、ひとりの若者が行動を起こすにたる要因・事件とは何か、という「物語」や「キャラクター」への意識のほうが先立っているわけだ。後年にも写真技術の祖であるダゲレオタイプに憑りつかれた青年の姿を通して、映画を撮り続ける自分自身に対する批評的な視線を内在させた『ダゲレオタイプの女』のような作品を撮っているように基本的には「映画」に対する自己言及的=批評的な気質を持つ作家である黒沢清が、「物語」や「キャラクター」にフラットに向き合ったという意味で特異点的な『アカルイミライ』は、「映画」も数ある「映像」のひとつとして扱われるソーシャルネットワーク/ウェブプラットフォーム以降の新たな映像環境――渡邉大輔の言葉を借りれば「映像圏」――におけるクリエイションのあり方に共振するポテンシャルを持っているように感じられる。

日本においてアマチュアの動画クリエイターを多数生んだウェブプラットフォームといえばまずニコニコ動画の存在が挙げられるだろうが、中でもボーカロイドによる楽曲のミュージックビデオは、4~5分程度の楽曲に簡易な映像(静止画をスライドショーのように表示するだけのものも多い)を付加し、歌詞を書いた文字とキャラクターのレイアウトで物語を語るような独自の形式を発展させている。この先鞭を付けたのが、じんによるミュージックビデオの連作「カゲロウプロジェクト」である。

(プロジェクト全体のテーマソングとして位置付けられている楽曲「チルドレンレコード」のMV)

2011年に第一作である「人造エネミー」が投稿され、第三作である「カゲロウデイズ」が100万回再生(当時)を記録する大ヒットに。その後も連作として投稿が続き、楽曲をまとめたアルバムの発売やじん自身の手による小説化など様々なメディアミックス展開が行われた。基本的な物語の骨子としては「メカクシ団」という、幼少期に発現した超能力ゆえに周囲から疎まれていた子供たちの擬似家族的な共同体をコアにした群像劇なのだが、決してメンバー全員が一枚岩というわけではなく、それぞれの過去には深く立ち入らないスタンスが貫かれていることもあり「ひとりひとりは、どこまで行っても孤独である」という透徹した視線は全編の基調をなしている。また構成上の特徴として、一本の大きな物語の軸はほのめかされつつも完全には示されず、あるシーンやキャラクターごとの心情を切り出した楽曲が、時系列を解体した上で提示されていくという方法論が挙げられる。各人の心情や過去はあくまで楽曲単位で描かれ、ユーザーがそれを組み替えることで全体像が把握されていくという構造と、「ひとりひとりは、どこまで行っても孤独である」というテーマ性がパラレルになっているのである。

「映像圏」的な環境においては、その長さにかかわらず映像というのは単体でのコンテンツであると同時にそれが紐づけられているネットワーク、他の映像との関係性によって新たな意味を立ち上げることになる。一方で映画という表現形式は明確に始まりと終わりがあり、上映時間の約120分間を画面の前にいることを観客に強いるものである。とりわけ映画館で映画を観るという体験は、そこに来ている名も知らぬ自分以外の観客が「同じもの」を観ている、というある種の共同体意識に支えられているものであって、「本当は異なるものを見ている」という当たり前の事実は、まさしく黒沢が師事した蓮實重彥の有名な問いかけ「何が見えましたか」に代表されるような批評的身振り、画面の前を離れての言語的な交感によって初めて知覚されるものであろう。では、オーソドックスな映画のスタイルで、その内部にある映像だけで、「映像圏」時代の私たちの「孤独」の感覚にシンクロする作品を作ることは果たして可能なのだろうか? この問いに対して先駆的な回答を示したのが、『アカルイミライ』という作品だったのだといえる。本作はオダギリジョーが演じる「仁村」のモノローグから始まる。

昔から、俺は寝るとよく夢を見る。/それは、いつも決まって未来の夢だった。/夢の中で、未来は明るかった。/希望と、それから平和に満ち溢れていた。/だから俺は眠るのが楽しかった。/ついこの間までのことだ。

彼がどんな夢を見ていたのか、そもそもそれは本当に未来予知だったのかということは、最後まで明らかにされない。一度イメージカットのようなものが入ることには入る。それは突風吹きすさぶ廃墟の街を、仁村がひとり歩いていくようなイメージで、彼が精神的に依存していた浅野忠信が演じる「守」との別れを経験した後に表れるから、「ついこの間までのことだ。」という台詞=言語のレベルで素朴に考えれば、その「事件」を境に仁村の見る夢が変質したと考えられる。しかしその証拠もまた、映像のレベルには決して存在しないのである。「何が見えましたか」という蓮實の問いに立ち戻るならば、このモノローグは無時間的な場所に置かれており、その声を聴いた私たちが見る映像=『アカルイミライ』という映画の本編こそが、仁村の見た夢のイメージそのものだと考えるべきだ。繰り返しの鑑賞を前提とすれば、この仁村のモノローグを起点として、一種のループ構造が生じているといえる。未来予知というものが現実には決して不可能なように、映画を観るという体験も、一度として同じものはない(繰り返し同じ映画を観てしまうのは、まだそこに「見えていない」ものがあると信じられるからなのではないか)。映画館という空間も、「観客」という無名の共同性の下に統合されているようでいて、初見の人間もいれば、何十回目、何百回目の鑑賞だという人間もいるだろう。私たちはひとりひとりが異なる時間のループを生きており、それこそが「ひとりひとりは、どこまで行っても孤独である」というテーゼの正体である。それを擬似的にシンクロさせてみせるのが、ニコニコ動画のコメント機能というアーキテクチャや、Twitterのタイムラインという仕様なのであった。『アカルイミライ』は「映像圏」時代以前の作品ではあるが、「未来」という題材とモノローグを効果的に使うことによって、あくまで劇場公開の映画という枠を崩さずに、「孤独」というテーマを本質的に扱うことに成功している。

『アカルイミライ』のエンドロールには、ロックバンド・THE BACK HORNによる主題歌「未来」が流れる。今作をループ構造を持った映画だと捉えるならば、エンドロールに流れるこの楽曲は「終わり」であり「始まり」の符牒でもある。しかし映画から切り離したひとつの楽曲として見た場合、ループの入口にはつながらず、別の「未来」への通路を開く鍵にもなりうるだろう。「カゲロウプロジェクト」のじんはTHE BACK HORNからの影響を公言している。その出会いのきっかけは、彼がストーリーテラーとして影響を受けた小説家・乙一の同名作品を映画化した『ZOO』(2005年)の主題歌を、THE BACK HORNが手がけていたからなのだという。『アカルイミライ』がその後も続いていくTHE BACK HORNと映画作品とのコラボレーションの始まりだったことを考えると、黒沢清が『アカルイミライ』にTHE BACK HORNを起用しなかったら、「カゲロウプロジェクト」は生まれなかったかもしれない……ということは言える。しかしそのような紋切型の「物語」以上に感動的なのは、じんが図らずも黒沢と似たような作家としてのスタンスを表明しているという事実である。

〔…〕大人になると、音楽にしても、どうしても“ファッション”として聴いてしまう感覚があるんですよ。つい「これをしている自分が格好いい」というステータスで考えてしまう。でも、自分が子供の頃に音楽を聴いてた時は、そんなものではなかった。〔…〕僕としてはあの時の自分にガッと響くようなものをつくりたい。それこそ僕にとってはTHE BACK HORNがそうだったんです。10代半ばでTHE BACK HORNを聴いて、歌詞の世界観やサウンドに救われたことがあった。

(中略)

〔…〕子供が喜ぶものの方が自分は正しさを持ってる気がする。だって、大人が褒めるロックってカッコ悪く思ってしまうんです。 究極、子供が熱狂するものがロックじゃないかって思うんですよ。

――KAI-YOU.net「『カゲプロ』作者じん ロングインタビュー 「大人を喜ばせてもしょうがない」」より
http://kai-you.net/article/35324

二人に共通するのは「子供」であろうとする意思である。ひとり、またひとりと同世代の「成熟」を見送りながら、それでもそこに留まろうとするその意思は、反社会的である、という意味で確かに「孤独」なのである。彼らはこれからも「孤独」に根差した作品を作り続けるだろう。しかしそこにはロックが流れている。世代もその方法論も異なる、しかし確かに似た者同士の、「孤独な子供」たちのネットワークが存在している。黒沢清が「映画監督」である以上に「映像圏的」な作家であるとするならば、このようなネットワークの一員であるという、その意味においてなのである。

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