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「観客の再発明」を超えて――「ポスト観客」時代の映画と「物語」

邦画の興行収入歴代2位という記録を塗り替えた『君の名は。』を筆頭に、「アニメ映画の当たり年」と言われた2016年。それら「当たり年」の諸作品は、映画における「観客」という制度に忠実であったからこそ、多くの動員を記録したのではないか。

それらは一様に「名無し」の存在論についての物語だった。

「名無し」とは「観客」のメタファーである。映画館での映像鑑賞において、暗がりに身を潜め、能動性を奪われた存在に私たちは「なる」。眼前で展開する光景、そこにはいない存在、視点と同一化することを迫られる。そうした世界に対して無力な、何もできない存在を慰撫するような物語が展開されたのが昨年のアニメ映画群だった。

そこでは言わば「観客の再発明」が行われていたのである。

 

2016年「観客の再発明」

『この世界の片隅に』は第二次世界大戦という史実に基づいた作品だが、現実の戦争というものは、誰か特定の英雄的=固有名的な人物の活躍によってハッピーエンドがもたらされるようなものではない。そもそもタイトルからして、「片隅の、忘れられた」人々の生を描き出そうとしていることは明白である。また『君の名は。』では、主要人物である高校生カップルが、クライマックス付近でお互いの名前を「忘れてしまう」。一度思い出してから、今度こそ忘れないようにと手のひらに書き残した文字が、結局名前ではなく「すきだ」の三文字だったという徹底ぶりは、名前というものに対して何か恨みでもあるのかとすら思わせる。

アニメーション研究者の土居伸彰は「『私 VS 世界』の終わり」「『私』から『私たち』へ」といった言葉で『君の名は。』と『この世界の片隅に』の間に線を引いた。その著書『21世紀のアニメーションがわかる本』では、『君の名は。』のような作品においては主人公の視点で世界は変容していく、そこには「私」が「世界」に対峙するという構造はなく、観客は特定の「私」ではなく「私たち」という匿名性に同一化するという議論がなされているのだが、筆者には『この世界の片隅に』も、(少なくとも「『私』から『私たち』へ」ということに関しては)『君の名は。』と同様であるように思われる。

土居の主張は「主人公」の機能性の変化とも言い換えられる。「主人公」という装置はそこに憑依することで、本来「名無し」であるはずの観客が仮初の居場所を画面の中に獲得するようなものとして一般に想定されている。
しかし「主人公」とは「観客」の憑依先、器としてそれほど自明なものなのだろうか。土居は「すず」の視点で徹頭徹尾描かれているから、『この世界の片隅に』は「私」の映画なのだと言うわけだが、「すず」に自分を憑依させられない人だっているはずだし、そもそも「すず」は「絵を描く」人物として世界をそれこそ変容させるような力を持っている。「すず」が描いた絵と現実の風景の境界が消失するようなシークエンスはたびたび登場するわけだが、この時点で『この世界の片隅に』における「私(すず)」と「世界」は対立するものではなく、むしろイコールな関係である。作品世界に生きる「すず」にとって彼女の生きる世界は、私たちがこの目で目撃した通り、絵筆によって世界を描き換えることのできる(できた)世界なのである。
しかし「すず」は絵筆をとる右手を失うことで、想像力によって世界を上書きすることを止め、唯一的な「この世界」の「片隅」で生きていくことを選択してしまう。無自覚であれ「世界」への介入性を発揮していた「すず」は、右手を失って「世界」に対する無力で匿名的な「観客=私たち」に成り下がる。それが『この世界の片隅に』というタイトルが指し示すものの正体である。

そして『君の名は。』においては「主人公」がそもそも存在しない。彗星落下による人命の喪失といった作中の出来事は、超常的な力を介してすべて「なかったこと」にされてしまう。土居の著書でも指摘されているように確かに「世界」は変容しているのだが、最終的に「主人公」どころか、記名性を帯びた人間自体が消滅していると言っていい。憑依すべき記名的人物が存在しないわけだから、我々は「観客」のままである。こう言い換えてもいいかもしれない。「主人公」のように偽装されていた立花瀧(あるいは宮水三葉)がお互いの名前を忘れ、作中で起きた数々の出来事も「なかったこと」になってしまうラストシーンにおいて、我々は自らが「観客」であったことを発見する。受け手の処理が追い付かないほどの高速カット割り、ロックバンドが作曲したBGMがかき立てるエモーショナルな展開も、あなたたちは世界(この『君の名は。』という映画)に対する無力な「観客」でしかないということを暗黙裡に突き付けるものだった。『君の名は。』というタイトルには読点が打たれ、その先を問うことはない。画面の中と外、双方にただただ「名無し」の存在者=観客だけが後に残されるという作品が『君の名は。』なのである。

 

「すず」は右手を失って「観客」になる。

 

土居が提示した二つのテーゼのうち、映画館という制度と照らしたときより重要なのは「『私 VS 世界』の終わり」ということである。私たちはスマートフォンやそこに搭載された種々のアプリケーションによって、画面に映る現実をカジュアルに改変できる世界に生きている。我々にとって目に映る「世界」は、手のひらの上でいくらでも改変できるものとしてある。画面に対する介入を阻む「観客」という制度は、座席指定や暗闇という環境、「上映中はお静かに」などのマナー徹底によってかろうじて保たれている「例外的」な状況なのである。

映画館における「観る」とは、我々にとってはもはや日常生活における「観る」から重大な一部を引き算することで成り立っていると感じられる。それは「観た」映像に対して意味を付与し、他者とその意味(=視点)を共有するということである。
観ながらすぐ感想を書き込める、他の視聴者からのフィードバックがリアルタイムで得られるという体験は日常化している。テレビアニメを見ながら「実況」する、YouTube、Vine、ライブチャット……他人の視点に憑依するということ。また、その憑依する対象を次々に乗り換えていくこと。今日における映像鑑賞が、そのようなものである事実から逃れることはできない。

渡邉大輔が「映像圏」と呼ぶこのような事態を、物語構造の中に取り込むこと。それが「ポスト観客」とでも呼ぶべき新たな主体が潜在的に望む映画の形なのではないだろうか。
「アニメ映画当たり年」の翌年である今年、2017年に公開されたある作品に、そのひとつの端緒を見てみたい。

 

2017年「名無し」の反逆――「ポスト観客」時代の映画と「物語」

『劇場版 ソードアート・オンライン -オーディナル・スケール-』(以下『劇場版SAO』)は、VR技術が現在よりも少し発達した近未来を舞台にしたTVアニメ『ソードアート・オンライン』シリーズ(2012年~)の映画化作品だ。TVシリーズで描かれたのはVRMMO(仮想現実大規模多人数オンライン)ゲーム世界における主人公の活躍であったが、劇場版では小型のデバイスが開発されたことでAR技術がより生活に溶け込む形で浸透してきており、ゲームの世界でもVRMMOゲームを脅かす勢いで「オーディナル・スケール」なる「AR」MMOゲームが台頭してきているという設定である。

しかしそうしたテクノロジーへの目配せ以上に重要なのは、「『名無し』の反逆」というテーマが集中的に描かれていることである。TVシリーズではマッドサイエンティスト的な開発者の手によって「ログアウト不可能・ゲーム中での死が現実世界の死にも直結する」という「デスゲーム」に変貌した「ソードアート・オンライン」(作中ゲームの名前でもある。以下「SAO」)が、主人公・キリトの英雄的な活躍によって攻略されるまでの顛末が描かれたわけだが、その過程では数千人単位での犠牲者が出たし、英雄的に扱われたのはキリト以下ごくわずかの人間だけだった。『劇場版SAO』で暗躍するのはそんな有象無象の「名無し」のプレイヤーのひとり、エイジである。エイジは「SAO事件」で命を落とした幼馴染の少女・ユナを人工知能として復活させるため、「オーディナル・スケール」の開発者でもあるユナの父親と結託して、「SAO事件」の生き残りたち――とりわけ「攻略組」と呼ばれる有名プレイヤーたち――を、「オーディナル・スケール」内で狩っていくのだ(有名プレイヤーほど「SAO」に関する記憶が鮮明で、その記憶のパーツを集めることでかつて「SAO」に存在したユナを人工知能として複製できる……という理屈らしいのだが、詳細な技術的バックグラウンドはぼかされている)。

『SAO』は2010年代をティーンエイジャーとして過ごした世代にとって象徴的なコンテンツのひとつである。作者の川原礫が自前のサイトで連載していたものが元になっているという今作は「小説家になろう」などのプラットフォームに端を発するWeb小説ブームの先駆けとも言われ、また現実では非力な主人公がVR世界で他を圧倒する強さで活躍するという設定から、同プラットフォームにおける定番ジャンル「異世界転生」*1「俺TUEEE」*2の雛形と目されることも多い。そうしたWeb小説は『Re:ゼロから始める異世界生活』『魔法科高校の劣等生』などがアニメ化もされ人気を博した。なぜこうした作品が2010年代のティーンエイジャーに求められたかという社会学的な分析はここでは控えるが、単純に「ここではない、どこか」でなら「現実で上手くいかない自分」でも「大活躍(無双)できる」という読者の爽快感・充足感をインスタントに叶えることができるということは言えるだろう。つまり「主人公憑依型」の受容が求められていたということだが、このムーブメントの渦中にいなかった年長世代の私にとっては正直「ついていけない」というのが素朴な実感だった。

私はAR空間が劇場規模のアニメ映画でどのように描かれるのかという興味から『劇場版SAO』の上映に足を運んだのだが、そこでエイジという『SAO』本編には登場しなかった(というよりは、「名無し」のプレイヤーであったために描かれなかった)人物がキリトら主要人物を圧倒していく様に驚くことになったのである。しかもエイジの行動原理というのは、彼やその思慕するユナら「名無し」のプレイヤーたちも確かに存在していたんだという悲痛な叫びなのだ。これは完全に『SAO』ブームに乗れなかった、脇で見ているしかなかった私たちの写し絵である。さらに言うなら映画館での鑑賞というのは、上映前と上映後の喧騒もその体験の重要な一部をなしている。周りは2010年代をティーンエイジャーとして過ごしたであろう、自分よりいくらか年少の世代の学生たちばかり。耳を傾けてみると彼らは素朴に主人公・キリトの活躍を楽しみにしているようなのである。テレビアニメというのはSNSの「実況」と切り離せない。キリトが作中で「強すぎる」のはもはや一種の「お約束」で、それをネタ的にツッコミつつ楽しむ、というのがSNS上の定番と化しているところがあるわけだが、そういった無数のSNS上の「名無し」たちの声に包まれながら、私は『SAO』という作品に対して「名無し」であった、存在していなかった者としての自分の写し絵(エイジ)が名乗りを上げているのを発見する。最終的にはエイジは倒されてしまうので、従来のファンも「キリトさんTUEEE」な充足感を得て帰っていくことができたのだろうが、しかし彼(エイジ)の奮闘というのが、何か引っかかりを「SAO世代」の間に残したことを願わずにはいられない。

エイジの存在は「名無し」のSNSユーザーとして『SAO』という物語にメタな立ち位置から突っ込みを入れることを許さない。我々は名前のある存在、世界と一対一で向かい合う「個」なのであると、彼は叫ぶ。それを「テレビシリーズの劇場版」という形でやったのが何とも心憎いと思うのだ。上映中はテレビアニメのように突っ込み(実況)を入れることはできないわけだから、誰もが強制的にエイジの物語に付き合わされることになる。それは安全な「観客」として今作を観に来ていた従来のファンに、少なくない揺さぶりをもたらしたであろう。

 

エイジは無名の「観客」から名乗りを上げ、「世界」に反逆する。

 

むろん、すべてのアニメ映画がテレビシリーズを前提とすべきであるとか、SNS上での評価を先取りして組み込むことが「ポスト観客」時代の優れた映画の条件であるということが本稿の主旨ではない。ここで主張したいのは、映画館の中で身動きの自由を奪われた「観客」になるということは、「ポスト観客」にとってプラスの体験ではなくマイナスの体験であるということを映画の側が自覚できるかということである。4DXなど視覚以外の感覚に訴えかけるような体験は、もはや映画ではなく別のアトラクションであろう。そうではなく、視覚芸術としての映画という枠組みを拡張せずに、「ポスト観客」の視線に耐えうる作品を生み出すためには。「観る」という体験が根本的に変容したことを自覚した上で、それに相応しい「物語」や「キャラクター」を再発明することが必要なのである。

 


 

*1: 「小説家になろう」には「異世界転生」の外延を定めたガイドラインが存在する。
https://syosetu.com/site/isekaikeyword/

*2: 「日本語表現辞典 Weblio辞書」の当該項目など参照のこと。
https://www.weblio.jp/content/%e4%bf%batueee

 

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