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理想と破壊、そして相即――「肯定の音楽」としてのポップス考

僕が作る音楽は、マダムが「ちょっと音楽を聴きにいこうかしら」って足を運ぶ集会みたいな感じだと思っているんです(笑)。〔…〕そういう感覚って、やっぱり音楽には必要なものだと思うんですね。〔…〕それはちょっとハードルが高いもので、単純だったりわかりやすいエンタメではないですけど、でも自分でお金を払ってなにかを観るっていうのは、本来そういうことだと思うんです。

CINRA.NET「実験性とポップスを両立する、蓮沼執太のスタンス」より
https://www.cinra.net/interview/2014/01/14/000001

このように語っていた音楽家が全編を自ら歌い上げたボーカルアルバムを作り上げたことは、やはりひとつの事件であった。蓮沼執太『メロディーズ』(2016年)。そのタイトルが示す通りメロディに重きを置いた本作は、音楽誌のディスクレビューで「例えば小沢健二や星野源の如き品の良い人懐っこさ、ポピュラリティーが備わっている」などと書かれるほどだ*1。しかしこれは蓮沼執太という音楽家の「転向」を示すものだろうか? 確かに近年ではNegicco(アイドル)や赤い公園(ロックバンド)など、いわゆる「ポップス」と呼ばれるフィールドで活躍するミュージシャンのプロデュースワークを手がける機会も増えている。しかし一方で大人数を率いての「蓮沼執太フィル」での演奏活動や一般市民参加型のワークショップ、ギャラリーでの展示作品制作や舞台芸術とのコラボレーションなど「現代音楽」「現代美術」の文脈で捉えたほうがよいであろう活動も(むしろ中心的に)行っている。ここで浮かび上がってくるのはひとつの命題だ。すなわち、音楽における「ポップス」とは何か。

インディーズで好きだったバンドが、メジャーデビューして「ポップになった」と、否定的な意味合いで用いられることがよくある。この場合の「ポップになった」とは、「音楽性」ということにかかっているだろう。たとえば楽音を持たないノイズミュージックを「ポップ」だと考える人が少ないだろうということは、(それを実際に聴いたことのある者には)きわめて直感的に理解されることである。かようにポップ「ではない」音楽性を列挙することは簡単に思えるのだが、どのような音楽性が「ポップ」なのかと問われれば、すぐに答えるのは難しい。強いて言うなら「間口の広さ」を意識したアレンジやメロディ、ということになるのだろうか? 間口が広いということは、何者をも排除しない気質を持つということである。ある時代、ある集団に特有の気分を、否定するのではなく肯定する音楽。ひとまずそのように「ポップス」を定義してみよう。

 

「理想」――シティポップの場合

一昨年〜昨年にかけて、「シティポップ」という語がにわかに耳目を集めた。音楽の好みが細分化され、「日本人“みんな”が聴く音楽=Jポップ」が成立しなくなったと言われて久しい現在、なぜ「シティ」ポップは成立する(と信じられた)のか。烏賀陽弘道『Jポップとは何か』によれば、Jポップという言葉が生まれた80年代〜90年代には日本中を「自己愛ファンタジー」が覆っていたという。高度経済成長を経て物質的には満たされたという認識が広まり、「精神的豊かさ」を求める志向が強まった果てに「自己表現ブーム」が到来したのだと。すなわち(そんなものは無いにもかかわらず)「あるべき自分」を見つけ出さなければならないというオブセッションに取り憑かれていた、その処方箋となる「商品」としてJポップが消費されたというのだが、しかしそうした自己の存在にまつわる不安の多くは、SNSの登場によって解消されたといえる。無造作に事実としての「つながり」を可視化するSNSは、「本当の僕」のことは誰もわかってくれない……などといった存在不安を(少なくとも部分的には)解消せしめたと言えよう。それは言い換えれば、音楽によって肯定されるべき単位が、「僕」から「僕」を含んだ交友関係=人と人とのつながりに拡張されたということを意味する。アイデンティティの帰属先が「本当の僕」から「コミュニティ/クラスタ」へと移行したのである。

シティ=街のメタファーは、この移行に合致するものである。実際、音楽性は個々ばらばらであったこの「シティポップ」リバイバルを担ったバンドの一群は、自分たちのいる「いま、ここ」を肯定するという気分によってのみ共通性を持っていたように思われる。その代表格とされたSuchmosからして、<cityじゃなくtownだろ>(「Pacific」)などという言葉で、自身の属するコミュニティ(地元である茅ヶ崎・湘南エリア)を肯定しているのだ。シティポップが新しい時代のJポップだといえるのなら、「J」が指し示しているのは「JIMOTO」なのかもしれない。それはヒップホップのいわゆる「レペゼン」文化に象徴されるような、「リアル」な苦境に満ちた「地元」とは異なり、幼少期の輝かしい思い出も織り交ぜられた、桃源郷のような世界としてある。「シティ」とは現実に存在する特定の都市を指すのではない。そうした無数の「JIMOTO=ユートピア」が重ね合わされた、「理想の街」の謂いなのである。

 

そうした「理想の街」を、かつて人為的に作り出そうとした企業グループがあった。作家・辻井喬としての顔を持つことでも知られる「文人経営者」、堤清二が率いたセゾングループである。1973年、渋谷公園通りに「渋谷PARCO」をオープンさせたことを皮切りに、堤によって「時代の精神の根拠地」との理念が掲げられたセゾン美術館や書店のリブロ、CDショップのWAVEをオープンさせるなど多角的に文化事業を展開。糸井重里によるコピー「おいしい生活」に代表される広告・イメージ戦略も手伝い、渋谷という街そのものを最先端の文化拠点としてプロデュースした。当時同グループの系列会社の社員として勤務していたライターの永江朗によれば、それは「壮大なる同床異夢」だったのではないかという。「堤/辻井と彼のまわりに集まってきた、スタッフやクリエイター、芸術家、批評家、観衆、そして消費者、すべてが、《セゾン文化》の名のもとで、少しずつ違った夢を見ていたのではないか。そして、誰もが自分こそがほんとうのセゾン文化を知っている、と思っている」*2――。

 

「破壊」――欅坂46の場合

そんなセゾン文化が作り出そうとした「理想の街」、渋谷をモチーフのひとつとして、デビュー時から活動を展開しているグループがある。

欅坂46である。

3rdシングルのタイトルは「二人セゾン」。「セゾン」にはフランス語で季節という意味もあることを考えれば深読みにすぎないともいえるが、デビュー曲「サイレントマジョリティー」のMVが渋谷の再開発地域を舞台としていること、またセンターを務める平手友梨奈のソロ曲として「渋谷からPARCOが消えた日」という直球そのもののタイトルを冠した楽曲が発表されていることから、同グループがセゾン文化とそれが作り出そうとした「渋谷」のイメージを借りて何かしらのメッセージを発しようとしていることは明白である。

ブロガーのマーガレット安井はこのことについて、欅坂46の由来となっている六本木の実在の地名、けやき坂がやはり再開発地域であることから、堤清二/セゾングループが作り出した渋谷という街を「親」、彼女たちの名前の由来であるけやき坂(六本木)を「子」と見立て、「世代交代をテーマにしたアイドル」なのだと位置付けている*3。また、音楽ジャーナリストの柴那典は(歌詞だけでなく文化的なフォーマットを作り出そうとしている、という意味で) プロデューサーである秋元康が 「平成の堤清二になろうとしているんじゃないだろうか」と指摘する*4

しかし筆者の考えはそのいずれとも異なる。PARCOに象徴される、セゾン文化が作り出そうとした街が、徹底的に人の想念によって編み上げられた街(永江の言葉を借りれば「壮大な同床異夢」)であるということ、その圧倒的な「非存在の存在感」を秋元康が認めたからこそ、欅坂46というプロジェクトの舞台に選ばれたのではないだろうか。

「なぜ、欅坂46が爆発的に売れたのか?」/正直に言えば、それは僕にもわからない。〔…〕「サイレントマジョリティー」の歌詞の世界観やミュージックビデオのパフォーマンスで、“反逆のアイドル”、“笑わないアイドル”と呼ばれるようになったが、それも、狙ったわけではない。/オーディションの最終選考に残ったメンバーが、みんな大人しくて、どちらかと言うと、暗い印象があったのと大人や社会と接することを拒否しているような“引きこもり感”があったから、「君は君らしく生きて行く自由があるんだ 大人たちに支配されるな」という歌詞が浮かんだのだ。言わば、当て書きである。

読売新聞「【秋元康コラム】欅坂46が売れた理由」より
http://www.yomiuri.co.jp/entame/ichiran/20170501-OYT8T50003.html

欅坂46はアイドル=偶像である。もちろん彼女たち一人ひとりは等身大の悩める少女であれ、ひとたびステージ上に上がった瞬間から「内面」は消去されて扱われる。“反逆のアイドル”などと呼ばれ、「ROCKIN’ON JAPAN」に平手友梨奈の長文インタビューが掲載されるなど、かつてロックバンドが担っていた役割を求められているようにも見える彼女たちだが、その本質はやはり空虚なゼロ記号である。
しかし、だからこそ同じく実体のない「理想の街・渋谷」を相手取ることで、純粋な破壊のエネルギーを結晶させることができたのではなかったか。ロックバンドという「個」が「体制」に反旗を翻すという物語は、どうしてもそのバンド自身の主張、政治性を孕んでしまう。しかし破壊する側もされる側も同様に実質を持たないのならば、後に残るのは純粋な破壊のベクトルだけだ。

秋元の言によれば、欅坂46は社会や既存の秩序を破壊することをコンセプトとしているわけではない。むしろ破壊すべきとされているのは、「大人や社会と接することを拒否しているような“引きこもり感”」を抱えているとされる、他ならぬ彼女たち自身なのである。
等身大の少女としての「個」を破壊し、一度ゼロ記号たるアイドルに同化することで、新しい自分へと生まれ変わっていく。自己否定を経ての、自己肯定。ここには単純な現状肯定ではない、破壊を経たからこそ立ち上がる「肯定」の形がある。

 

一方、かように強固な「非存在の存在感」を打ち立てたセゾン文化から派生し、現在に至るまで独自の存在感を放っているブランドがある。

無印良品である。

いまや国内外に合計870店舗(2017年11月現在)を構えるこのブランドを規定するのは、圧倒的な肯定の哲学「これ“で”いい」である。「これ“が”いい」などといった形で、商品を押し付けることをしない。主体性を消費者の側に投げ返している、ということだ。堤清二によれば、それは「アメリカ的豊かさの追求」と「ファッション性の追求」という、二つの大きな「体制」に対するアンチテーゼだったのだという*5。「個」を抑圧しようとする力への抵抗と言ってもいいだろう。ファッション性を排し、「無印」のロゴをあえて戴き、現状を支配するものの破壊を試みる……「サイレントマジョリティー」なる楽曲とともに世に現れた欅坂46の存在に、非常に近しいコンセプトを感じさせないだろうか。

 

「相即」――蓮沼執太の場合

しかし無印良品はそこには留まらない。バブル崩壊=セゾングループ解体と前後して株式会社良品計画として独立した無印良品は、さらに「肯定の哲学」を深化させていく。

その哲学を一言で表すのが「相即」という言葉だと言えるだろう。2000年より現在に至るまで、無印良品の多くのプロダクトのデザインを手がける深澤直人が自身のデザイン哲学を語る際に参照する言葉である。
もとは仏教用語であるこの語は、「万物が互いに他の全事物を含み込んで一体として存在している」ことを意味する。そこから転じて、深澤はデザインが行為に相即するということを、「人の無意識の行為に寄り添いながら、その行為にはまっていくこと」「作り手と受け手のあるいは生活者全体に共有される行為を認識して、共感の素を作り出そうとする試み」と位置付けている*6

その深澤が無印良品との仕事で最初に手がけたのが、「壁掛け式CDプレイヤー」である(そう、他でもない「音楽」を再生する装置であったのだ!)。換気扇をモチーフとしており、縦にぶらさがった紐を引っ張ることによってCDが回転=音楽が鳴り出す。空気を良くするための「(換気扇の)紐を引っ張る」という行為が、気分を良くするための「(CDプレイヤーの)紐を引っ張る」という行為と結びつく。音楽を聴くことによって変化する“気分”とは、たまに入れ換えるべき“空気”のようなものだという観点が、こうして使い手の側に醸成されるのである。

無印良品のコンセプトをより伝えるために、音楽というものは非常に重要視されている。それは無印良品が単にモノを売るだけの店舗ではなく、生活、つまり時間と空間の要素を含んだ全体をデザインしようとしているからだろう(音楽とはその両面にまたがるものだ)。公式YouTubeチャンネルではCDとして販売もされている店内BGMの一部や、様々なコンセプトムービーを観ることができる。中でも印象的なのが、無印良品が「旅」のスタイルを提案するプロモーション、「MUJI to GO」のコンセプトムービーだ。この音楽を手がけているのが蓮沼執太その人である。

実際に無印良品のアイテムを使用した際に発せられる生活音や、靴で地面を踏みしめたときの音、飛行機のエンジン音まで取り込んだエレクトロニカ作品だ。蓮沼の音楽活動のベースにあるのは学生時代に専攻していたという環境学、その中に取り入れられているフィールドレコーディングという方法論だというから、今作は企業広告用に書かれた小品にして、彼の“原点”にきわめて近い作品といえるだろう。

(引用者註:フィールドレコーディングの)その最も大きな特徴は、聴き方に影響を与えるという部分だろう。交通音、風、またはあらゆる音楽など、自分を取り巻くサウンドのフィルタリングにおける耳と心理の影響力は驚くほど大きい。〔…〕洗濯機のうなる音や列車の軋む音など、普段は平凡なサウンドだと考えられている対象や出来事に有効性を与え、ランダムな生活音の中に構造を見出すようになる。人によっては、この捉え方の変化が自分と世界との関係性を変えることになる。

Resident Advisor「フィールドレコーディング:その行為と可能性」より
https://jp.residentadvisor.net/features/2807

引用したのはオンラインミュージックマガジン「Resident Advisor」のフィールドレコーディングに関する記事の一部だが、「(音楽を通して)聴き手と世界との関係性を変える」というところに、「相即」の考え方にきわめて近いものがあることに気付くはずだ。蓮沼は聴き手の聴覚に相即する音楽を制作することによって、聴き手一人ひとりの中に世界と関わる新たな仕方を目覚めさせる。そうした姿勢は観客参加型の演奏を取り入れた「蓮沼執太フィル」の以下のライブ映像からも見て取ることができる。(※2018年2月現在、当該動画は削除済)

その「世界との関わり方を目覚めさせる」志向が蓮沼自身にも向いたのが、全編を自らが歌い上げたアルバム『メロディーズ』なのだと言えるだろう。一見シンガーソングライターのアルバムのような装いを持つ今作だが、インタビューによれば特に歌を通じて「伝えたい想いや思想」があったわけではなく、いくつかある音楽の作り方の中から、今回は「自分の声から作る」ということにチャレンジしてみたのだという。

蓮沼執太フィルで作品を作ったのだけではなくて、同時期に展覧会をやったり、舞台の音楽を作ったり、いろんなコンテクストで活動していたので、「自分は何なんだろう?」ということを考えるタイミングではありました。それが去年ニューヨークに行ったことで自分のコンテクストがだいぶ整理されて、すんなり曲を作れるようになったのは確かです。だから今回はホントに、楽器も持たず、ただマイクを置いて、録音ボタンを押して、歌うというところから作りました。

CINRA.NET「「自分で歌う」を選んだワケ 傑作を生んだ蓮沼執太インタビュー」より
https://www.cinra.net/interview/201602-hasunumashuta

常に他者や環境との相互作用の中で音楽を捉えてきた蓮沼が「自分自身」に向かう契機となったのが、「ニューヨークに行った」こと、すなわち「移動する」ことであったというのは非常に示唆的である。蓮沼はまた別の場所で「アーティストは都市だろうが、自然だろうが、自国だろうが、異国だろうが、場所に関係無く独立した形で活動できるように変化していくのかもしれません。少なくとも僕はそうありたいと思っています。定住も移動も関係なく、「個」として強いアイデンティティを独立させておくように。」*7と書いているが、これは「いま、ここ」を理想化しそして破壊する、シティポップや欅坂46が体現していた「個」のあり方とは対極的なものである。「理想の街」を形作る人と人とのつながりはいつか変質するものだし、それを破壊し新しい「個」を打ち立てたところで、その場所に留まったままでは「あの頃はよかった」式に新たな現実とのギャップを生み出してしまう。この円環ゲームから脱け出し揺るぎない「個」を確立するためには、移動し、周囲の環境を変え続けることで「世界」と「私」との関係性それ自体を変化させ続けていかなければならないのである。

 

「私」“が”「世界」を認識するという主観‐客観認識モデルから、「私」“と”「世界」との関係性を問題にする認識モデルへ。前者におけるポップスとは、それを通して「世界」を肯定するための「楽曲」や「アルバム」というパッケージとして存在していた(ゆえに商品=モノとしても流通できる)。蓮沼の音楽においてそれが「ポップスである」ということは、「私」と「世界」との関わり方そのものが「ポップス」なのだ、ということである。これは商品=モノとしての「ポップス」のあり方を否定するものではない(「私‐商品‐世界」というのも、確かに関係性の一つであるのだから)。しかしこのような見取り図を描くことで、録音作品/非録音作品、パッケージ化作品/非パッケージ化作品といった区別を超え、より広い視野で音楽における「ポップス」とは何かという考察を深めていくことができるだろう。この意味において蓮沼執太が最も先端的な「ポップス」作家のひとりであることは、もはや誰にも疑い得ないはずだ。

 


 

*1: 「Mikiki」掲載(フリーマガジン「bounce」より転載)のディスクレビューより。
http://mikiki.tokyo.jp/articles/-/10295

*2: 永江朗『セゾン文化は何を夢みた』(朝日新聞出版, 2010年)より。

*3: 「音楽だいすきクラブ」掲載「欅坂46論 第1章 なぜ欅坂46は渋谷を歌うのか?」より。
http://ongakudaisukiclub.hateblo.jp/entry/2017/06/20/180001

*4: 「cakes」掲載「渋谷に炸裂する現代最強の詩人・秋元康のセンス」より。
https://cakes.mu/posts/15323

*5: 堤清二, 三浦展『無印ニッポン――20世紀消費社会の終焉』(中央公論新社, 2009年)より。

*6: 後藤武, 佐々木正人, 深澤直人『デザインの生態学―新しいデザインの教科書』(東京書籍, 2004年)より。

*7: 「FT Focus ’17」掲載「現在地」より。
http://www.festival-tokyo.jp/17/ft_focus/china_music/

※:削除された動画に映っていたのは、2014年、KAAT 神奈川芸術劇場ホールで行われたプログラム「作曲:ニューフィル」での演奏である。内容の詳細は、「ele-king」に掲載の綾門優季によるレビューを参照のこと。

 

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