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『君の名は。』論:私たちが見失った身体と、「幽霊」としてのリズムについて

なぜ(三葉の身体に入った)瀧は三葉の乳房を執拗に揉みしだくのか?
それは本来自らの身体には存在しない器官であるからであろう。あの行為によって、彼は本来あるべき「自分の身体」の感覚を探そうとしているのかもしれない。

『君の名は。』は〈見失われた身体〉を探す物語である。
それは2010年代が、コミュニケーションメディアによって〈身体の見失われた〉時代であるがゆえに必然である。

新海誠作品は、コミュニケーションメディアによって作り出される人間同士の独特の距離感に忠実に世界観やテーマを設計していると言っていい。たとえば2002年の『ほしのこえ』においては、携帯メールが物語において大きな役割を果たした。それは遠く離れた場所にあっても文字を伝えるが、伝送時間にはラグがあり、リアルタイムではない。宇宙航行による時間のズレ(ウラシマ効果)を物語の主軸に据えたのは、その誇張的な表現であった。
携帯メール以来のコミュニケーションメディアの革命をもたらしたのは、言うまでもなくスマートフォンである。iPhoneが発売されたのは2007年だが、この年に公開された『秒速5センチメートル』は、それを予見するかのように「手紙」というアナクロなコミュニケーションメディアへと遡行していた。その後、異世界を舞台に「鉱石ラジオ」が重要な役割を果たす『星を追う子ども』、そもそもメディアに頼らずある時・ある場所に意中の人が必ずやってくるということを頼りに「待ち合わせ」を重ねる『言の葉の庭』という2作品を挟んで、ようやく『君の名は。』は制作された。

『君の名は。』にはスマートフォンの画面が多く登場する。それは身体の入れ替わった瀧と三葉がお互いに連絡を取り合うための手段として、端的に描かれる。
気になるのはスマートフォン独特のユーザーインターフェース(たとえばカレンダーアプリの「めくり」など)が、わざわざアニメーション表現として描かれている点である。インタラクション研究者の渡邊恵太によれば、iPhoneのユーザーインターフェースの優れた点とはその「自己帰属感」にある。デスクトップPC上におけるカーソルやハンマーなどの物理的な道具と同じように、ある目的のために実際に使ってみることでその存在を意識しないようになる(=透明になる)のである。

カーソルは人の手の動きと連動して動き、自己帰属感をもたらすものだ。同じ画面上で動くグラフィック、たとえばダウンロード時に表示されるプログレスバーの動くグラフィックには自己帰属感は生まれない。そういうものとは違う存在なのだ。
この理解なしに、iPhoneの画面がダイナミックに変化することをアニメーションとして捉え、iPhoneよりもっと動かそうとアニメーションを導入してしまう事例をよく見てきた。しかしこれは、自己帰属感や透明性を得るどころかその逆であり、人はそのアニメーションの最中には操作できず、その時間は、ハイデガーの言う道具的存在から事物的存在になってしまうのである。

――渡邊恵太『融けるデザイン』

ユーザーの「動かす」という行為なしに生じてしまう動きは、自己帰属感を阻害し「他者性」を孕んでしまう。「他者を感じる動きは「アニメーション」であるし、アニメーションの語源である「アニマ」「アニミズム」という語の持つ生命感は、自己帰属しない動きの中に現れる」(『融けるデザイン』)。アニメーション作品を鑑賞するという体験は、この意味でどこまで行っても他者性にまみれる体験である。観客は画面を見つめることしかできない(そこにインタラクションは生じない)のだから、どんなに共感的な物語を描いたとしても私たちの「いま、ここ」の身体感覚からはズレていく。

スマートフォン時代においては、通信技術の発達によって文字メッセージが届くまでのラグはほとんど感じずに済むようになった。しかしその代わりに、インタラクションの生じない視覚表象であるアニメーションと、それを見つめる観客自身の身体感覚とのズレは強調されるようになる。ここに至って、「(コミュニケーションメディアのもたらす)距離感」の変化に敏感な作家と定義された新海誠は、「(アニメーションとそれを見つめる)身体感覚のズレ」に敏感な作家であると再定義されることになる。『君の名は。』が「身体の入れ替わり」という現象をドラマの主軸に据え、田中将賀・安藤雅司といったスタッフを起用しキャラクターの「身体」を肉感たっぷりに描いたこと。それはiPhoneのユーザーインターフェースに代表される、身体と視覚情報との境界を融解させる「アニメーションのようであり、アニメーションでない」エフェクトに取り囲まれた現在の状況に対する、アニメーション作家としての応答だったのだといえる。

 

『君の名は。』がスマートフォンのユーザーインターフェースをアニメーションとして描いたことは、それを見ている私たちの身体が「そこ(画面の中)にはない」という感覚をよりいっそう強調するということを先に見た。しかしこの映画においては、もうひとつ注目すべき〈見失われた身体〉がある。

それは山口智史の身体である。

「誰だよ?」と思われる方も多いかもしれない。彼は本作の全編の音楽を担当するロックバンド、RADWIMPSのドラマー……として、バンドの公式サイトのプロフィールにもクレジットされている人物である。しかし『君の名は。』以降の彼らの肖像は常に、野田洋次郎、桑原彰、武田祐介の三人によって構成されている。山口だけがそこにいないのである。真相をいえば彼は2015年に持病の悪化により無期限の休養に入った。彼自身は脱退を申し出たというが、他のメンバーがそれを固辞したことで、クレジット上は在席扱いとしつつ、サポートドラマーを迎えるという形でバンドは活動を継続している。

複数のインタビューに目を通す限り、『君の名は。』の音楽制作のオファーがあった時点で山口の離脱は決定的なものになっていたようである。事実、サウンドトラックアルバム『君の名は。』のドラムのクレジットにも山口の名前はない。
単純にソングライティングだけを期待するのならば、バンドのすべての楽曲を作詞作曲するボーカルギターの野田洋次郎に依頼をすれば良い。しかし、新海――というよりこの場合は間を取り持ったプロデューサーの川村元気と言うべきだろうが――は、最終的に「RADWIMPS」に音楽の制作を依頼した。そもそも、バンドに映画音楽の制作を依頼するということは、メンバー内のディスカッションやセッションによる化学反応、いわゆる「バンドマジック」を期待してのことだろう。しかし新海が以前から好んで聴いていたというRADWIMPSの音楽――そこには常に山口がいた――とは、現在のバンドの体制は変わってしまっている。ドラマー不在の、「RADWIMPS」であってそうではない音楽。それを起用したことによって、結果的にどのような効果が作品にもたらされたのだろうか。

バンド音楽においてドラムが担う「リズム」というファクターは、時間芸術として映画を捉えた際に、唯一音楽と直接的な接点を持つことができるファクターである。また、基本的に画面の前に拘束され、能動性を奪われる観客という存在にとっても、視線を動かしたり、指でリズムを刻んだりすることで唯一能動性らしきものを発揮することのできる局面である。つまり透明な存在として措定されていた「観客」という存在が、「リズム」という局面においてはその身体性を復活させるということだが、前述したようにそのリズムを担っているのはRADWIMPSの正式メンバーではない=「RADWIMPS」の肖像には映らないサポートドラマーであり、しかし山口の名前も憑依しているという、一種のハイブリッドな「幽霊」的存在である。観客として『君の名は。』が刻むリズムに同調するということは、この「幽霊」性に自身を同調させていくということである。それは具体的な対象として「入れ替わり」の相手が存在する瀧と三葉の関係とは対照をなす関係である。アニメートされた瀧と三葉の身体は、動けば動くほどにその(観客にとっての)「他者性」を際立たせる。その二人が「入れ替わり」によって築く特殊な関係にも、私たちが入り込むことのできる隙はない。徹底された観客の身体の拠り所のなさ。それを山口智史の不在という事実がもたらす「幽霊による/としてのリズム」が受け止める――私たちの身体の居場所は画面の中に「見えない」が、「幽霊=リズム」としてそこに存在を許されるのである。

 

2010年代は〈身体の見失われた〉時代である。「ない」ものに名前を与えることなどできない。「21世紀初頭の身体表象」に与えられるべき適切な名前は、ない。それでもなお「身体」を作品中に出現させようと試みるのなら、それは徹底的な(身体の)不在によって、逆説的に表現されなければならない。その徹底の度合い(と、それを裏面から支える「幽霊としての身体」の存在位置の保証)において、『君の名は。』という作品は優れていたのだと言えるだろう。

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