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2020年への「日本文化論」

2020年、「日本文化論」は再起動する。

言うまでもなくそれは東京オリンピックによってである。正確にはその開会式/閉会式の演出によってだ。そこではその国でオリンピックという「世界的祭典」を行うことの意義というのが、当地の「お国柄」とともにプレゼンテーションされることになっている。それが歴史的客観的に見て正当性があるかどうかというのはあまり関係がない。「世界の大会を、たまたま日本で開く」*1ということでしかないのだから、なおさらその「たまたま」には必然性=物語が必要となるのだ。さしあたっては、世界中の人がそれを見て「ああ、これが“日本らしさ”なんだな」と納得できるのであればそれでよい。

ではその物語とはいかなるものか。手がかりはすでに与えられている。2016年、リオデジャネイロで行われたオリンピックの閉会セレモニー「トーキョーショー」の演出を担当したチームが、2020年のオリンピックにおいても続投することが決まっているからだ。同セレモニーにおいて音楽監督を務めた椎名林檎は、セレモニーに関して次のように述べている。

私の感じる日本の力の内訳は、辛抱強さ、探究心、身体能力。健康な心身に宿る創意工夫。例えば私たちが誇れる電車やバスの運行ダイヤの正確さをはじめとする「お待たせしない」精神。江戸前ですから。ササッと。もしかして、「外国の方が期待している」とつい考えてしまいがちな「忍法」も、からくりはそういうことなんじゃないかと。だから忍者のコスチュームを着たキャラクターを出すことなく、「忍法のような日本の技」を見せたいと思ったんです*2

ここで椎名は「忍者」のような表象ではなく、「忍法」という技……鍛錬を積むことによって身体的に蓄積される、「プロセスを省略する」という営みにこそ注目している。効率のよい身体の運用、それはあらゆるアスリートやパフォーマーが目指している境地であろうし、身体の伴わない純粋に知的な営み、たとえば複雑化した課題を論理の力を用いてより少ない手順で解決するプログラミングという営みも、「プロセスを省略する」ということの最たるものだろう。「日本的なもの」の本質とは何か、突き詰めて考えるほどに抽象度は増し、むしろグローバルな価値に漸近していく。

セレモニーにてチーフテクニカルディレクターを務めたメディアアーティストの真鍋大度は、ライゾマティクスというテクノロジー×クリエイティブ集団を率い、Perfumeのライブ演出を初めとする数々の先進的表現を手掛けてきた。しかしその歩みはいわゆるアーティストという言葉の持つ「作りたいものだけを作る」というイメージとは異なり、まず先にライゾマティクスという企業を立ち上げ、広告などのクライアントワークを受けるところから始まっている。広告というのは今回のセレモニーにもクリエイティブディレクターとして名を連ねる菅野薫も言うように、「課題解決という目的をもった表現」*3である。そもそも数学科出身という経歴を持ち、プログラマーという肩書も未だに公式プロフィールに記載している真鍋にとって、こうした広告畑の考え方は比較的馴染みやすいものだったのだろう。事実「美術手帖」のインタビューにおいて真鍋は、「メディアアート」というもの自体、作品を通して世の中に対する問題提起を行うものとしてよりも、テクノロジーの研究開発を軸に、その応用を様々な領域で行うことのできるものとして捉えているという旨のことを述べている*4

その真鍋が「メディアアーティスト」としてのDNAを受け継いでいると明言する*5人物にジョン・マエダがいる。MITメディアラボの副所長なども歴任したグラフィックデザイナーである彼は2005年に著した『シンプリシティの法則』という著書の中で、複雑化した物事をシンプルにする10の処方箋を提供している。日系アメリカ人というアイデンティティを持つだけあって、その中には日本文化について言及した記述も散見される。いわく、茶道具の中でも陶芸品というのはざらついていてシンプルとはいえない形状をしているが、それによってむしろ漆器のシンプルさは際立っていた(5. 相違)とか、寺院を訪れた際に、白い紙垂で飾られた縄で区切られた謎のスペースについて思いを巡らせたことで「空白」という概念について理解した(6. コンテクスト)とか。このように日本文化そのものを扱った本ではなく、あくまでシンプリシティという思考形態を説くためにそれらは事例として挿入されているにすぎないのだが、却ってそのことによって、本書中には記述されていない日本文化についてもシンプリシティの名の下に串刺しにできるのではないかという着想が刺激される。

たとえば、能や狂言、落語。
大掛かりな舞台装置もなく、見た目には非常に簡素なものだが、観客との共犯関係(「見立て」)の作用によって「ない」ものを「ある」ように感じさせる。

たとえば、和歌や俳句。
五・七・五のように厳密に字数が決められており、単体としてはとても短い表現だが、そうした制約によって作者のクリエイティビティが刺激される。

見た目のシンプルさに反して、その中には豊かな世界が織り込まれている。いずれも作品と観客、創作者とルールの相互作用(インタラクション)によって成り立っている表現だということがおわかりだろう。メディアアートといえばインタラクティブアート――鑑賞者の挙動が映像や音声に即時的な変化をもたらすタイプの作品*6――を思い浮かべる人も多いだろうが、ライゾマティクスやチームラボといった日本発のチームがこの領域で世界的な評価を獲得しているのも、こうした伝統と無縁ではないかもしれない。

しかし真鍋によればインタラクティブアートというのはすでに成熟期を迎えており、彼自身の関心もすでにそこから離れているのだという。真鍋が現在最も関心を持つ領域、それこそが「トーキョーショー」でもタッグを組んだダンスカンパニー・イレブンプレイとの仕事にも表れている、リアルタイムでのプロのパフォーマーとのコラボレーションである。

インスタレーションも当然好きですけど、データの観点だと、観客が入って完成する体験型インスタレーションで得られるデータより、プロのパフォーマーが躍るデータのほうが質が良くて面白いんですよね。〔…〕イレブンプレイのような身体のプロがいると、従来はインスタレーションに落とし込むしかなかったテクノロジーのアイデアも、身体表現の限界を追求するという課題に結び付けることができるので、ゴールが明確になる*7

ここでも「より困難な課題を解決する」というモチベーションが見て取られ、実にプログラマーらしい思考だといえるが、そうして出来上がった「トーキョーショー」のプログラムは、熟練したダンスの技能も持ち合わせず、そこで行われているプログラミング技術の内実も知り得ない我々の目には、いったいどれだけの訓練と複雑な処理が存在しているのか、想像はできるけれども理解はできない――複雑さを極めたものになっている。少なくとも和歌や能、茶の湯や禅にはあった、観客の自由な想像を促す余白はそこにはないと言っていいだろう。

 

 

したがって我々が2020年より先の「日本文化」をより正確に言葉にするためには、「プロセスの省略」「シンプリシティ」という観点からさらに一歩先に進まねばならない。ここでも手がかりとなるのは「トーキョーショー」クリエイティブチームに参加した人物の言葉である。演舞の振付だけでなく、ショーの総合演出も担当したイレブンプレイ主宰の振付師・MIKIKOは次のように語る。

オリンピック・パラリンピックのセレモニーで「いままで見たことが無いものって何かな?」って考えた時に、登場するダンサー達が一糸乱れず踊って見せるのって見た事ないな、と思ったのです。沢山のダンサーが楽しそうに踊っているのはいままでも見ていましたが、角度が正確に揃っているダンスを披露されたことはないな、と。なので、日本人の性格の様な几帳面なダンスを見せたいと考えました*8

つまり時間の正確さ、同期性というのがかのショーのダンスパフォーマンスにおける要であり、「日本らしさ」の核として捉えられていたのだと。このMIKIKOの発言と照らし合わせると、椎名林檎が挙げていた「私たちが誇れる電車やバスの運行ダイヤの正確さ」も、「お待たせしない」という「精神性」の問題としてではなく、ルートや車両の運用を最適化するという「技術」の問題として捉え返されることになる。

2017年現在において人々の時間感覚に最も訴えかけるテクノロジーといえばやはりソーシャルメディアだろう。Twitterにおける「タイムライン」という言葉が象徴的だが、各々が標準時というものを共有し、その通りに動くという近代的な労働観を生み出した観念は、誰もが各々に最適化された複数のタイムラインにまたがって生きているという現実が可視化されている現在、実質的には建前以上のものではなくなっている。にもかかわらずリモートワークというのは一向に普及せず、過酷な通勤を強いられているというのがこの国の現状としてあるのだが、そのことは「時間の同期性」をテクノロジーや身体的な修練によって実現できることこそが「日本らしさ」であると世界に喧伝していくにあたっては、笑えない冗談にしかならないだろう(オリンピックの会期中には数多くやってくる外国人観光客が、通勤ラッシュに巻き込まれるということも当然考えられるのだ)。

今後3年弱の間に我々は、「時間の同期性」を「日本文化」の中心として位置付け、それを「精神性」ではなく「技術力」によって実現していくということを肝に銘ずる必要がある。繰り返すようだが、それはリオデジャネイロオリンピックの閉会式で「日本らしさ」の象徴としてすでにプレゼンテーションされてしまっているのだ。ヒントはいくらでも転がっているように思える。たとえば、かつて濱野智史によって「擬似同期」と定義付けられた、ニコニコ動画のコメント機能に見られた純日本産の特性。もっぱらエンターテインメントコンテンツの臨場感を高めるために活用されたこの特性だが、たとえばリモートワークを実現するにおいても有効な活用ができないだろうか*9。あるいはLINE TAXIのような、ウェブテクノロジーを活用した交通機関利用のサービスも、電車移動に対するオルタナティブな選択肢として普及すると良いだろう。定刻通りにやってくる電車の運行を讃え、そのダイヤに自らの生活時間を同期させるよりも、各々が主観的な時間を生きていることを前提に、それらを選択的・擬似的に同期させる方策を練るほうがよほど現代的だし、技術的にはすでに可能になっている。足枷になっているのは「辛抱強さ」を美徳とするような、「日本かくあるべし」という「精神性」や「習慣」の存在なのである。

2020年、「日本文化論」は再起動する。
しかしそれはあくまで課題を最短ルート・極小の工程で達成する、「技術」の問題として扱われなければならない。
より多くの「日本らしさ」が、オリンピック開幕までの間に具体的な仕組み・サービスとして「実装」されることを望む。

 


 

*1: 「nippon.com」に掲載のインタビュー「東京五輪「予告編」に込めたメッセージ:クリエーティブディレクター、佐々木宏氏」(http://www.nippon.com/ja/people/e00112/)より。

*2: 朝日新聞社によるインタビュー「媚びないおもてなしを 椎名林檎さんが思う東京五輪」(https://sportsbull.jp/p/165209/)より。

*3: 「美術手帖」2017年1月号内の特集「Rhizomatiks 世界に誇る”フルスタック”集団 ライゾマティクスのすべて」に掲載のインタビューより。

*4: 前掲書に掲載のインタビューより。

*5: 前掲書に掲載のインタビューより。

*6: 「artscape」内の辞典「Artwords®」の項目「インタラクティヴ・アート」(https://goo.gl/2BriyW)より。

*7: 前掲書に掲載のインタビューより。

*8: 「SENSORS」に掲載のインタビュー「リオ五輪閉会式 真鍋大度・MIKIKOが語る”8分”の舞台裏」(http://www.sensors.jp/post/rio-manabe-daito-mikiko.html)より。

*9: 濱野によれば、電話やチャットといった手段によるコミュニケーションは「その相手の「現在」に突如として参入してしまうというその特性から、接続を開始する際の心理的コストが高く」、さらに「同期的コミュニケーションが成立している間、基本的に他の人とコミュニケーションをする機会は奪われる(そしてその機会を相手から奪ってしまう)という意味で、いうなれば「機会コスト」も高くつく」。これらの「真性同期型」コミュニケーションにおいて発生するコストを、Twitterやニコニコ動画などに見られる「擬似同期型」コミュニケーションは削減することができるのだという。「ワイアードビジョン アーカイブ」に掲載の論考「濱野智史の「情報環境研究ノート」第5回「疑似同期型アーキテクチャ」と「真性同期型アーキテクチャ」」(http://archive.wiredvision.co.jp/blog/hamano/200706/200706210340.html)参照。

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