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媒介者の発見、あるいは時空間を超越する経験について ~『2010年代の想像力』序章

人間の想像力が10年スパンで変わることなどありうるだろうか? ありうる、とするのが「~年代の想像力」などと言う際に無意識に前提とされている立場だが、確かに10年前にはその後の人間の想像力に作用する巨大なプロダクトが誕生していた。

それがスマートフォンとTwitterである。

前者は2007年に初代のiPhoneが発売されたことを、後者は2006年にアメリカでサービスが開始、2008年に日本ローカライズ版がローンチされたことを指す。これらのプロダクトは人間の想像力にどのような影響を与えたのだろうか。まずは一世代前の情報技術について、それがもたらした新たな想像力について考察した論を再訪してみよう。

90年代末〜2000年代初めは、コンピュータが一般家庭に普及した時期と重なる。その情報環境のドラスティックな変化をいち早く捉えて新たな「主体」のあり方について考察した著作が、東浩紀『動物化するポストモダン』(2001年)だ。同書によればポストモダンの新たな主体(オタク)とは、客体(表象)「そのもの」ではなくその背後にあるデータベースをも同時に透かし見ているのだという。コンピュータディスプレイを介した主体と客体のこの関係を同書では「超平面性」「過視性」といった用語で表していた。そこではあくまでディスプレイは「向こう側」にあるものを透かし見る、透明な「窓」のメタファーの範疇で捉えられていたわけである。

情報世界が現実とは異なるもう一つの空間――「サイバースペース」として存在するという考え方は黎明期のITサービスの開発を駆動したものだが、それはディスプレイの前に身体的に拘束されなければならなかったことの裏返しでもあった。当時のフィクション的な想像力は身体から精神のみを切り離して情報世界にアクセスする「サイバーパンク」に代表されるが、それも膨大な情報にアクセスすることができるという全能性を阻害する「軛」であるとして、本来先験的であるはずの身体を無理矢理に忘却しようとするものに他ならなかった。しかし、いまやスマートフォンの普及によって、ディスプレイは身体移動に伴って「持ち運ぶ」ものとなっている。デスクトップPCの時代には視野と一体化していた画面のフレームは、スマートフォン時代においてはそれを持つ自らの手と(すなわち、自らの身体が属する実空間と)合わせて認識されることになる。そうした状況においては画面に映し出された視覚的な情報のみをもって仮想的な没入感を得ることは難しい。代わりに存在感を増したのは身体移動の痕跡(位置情報のトラッキング)であったりといった「時間」にまつわる情報である。実空間での身体移動の痕跡を情報空間に重ね合わせる技術(位置情報サービス)も日常生活になくてはならないものとなったのは周知の通りである。

TwitterというWebサービスはこうした変化を凝縮して体現している。このサービスを他のソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)から大きく分かっているのは「リツイート(Retweet)」機能の存在である。個々のタイムラインはフォローしたアカウントの数や種類によって異なるが、基本的には各ツイート(投稿)にスタンプされた時刻の通りに並ぶ。しかしそこに「リツイート」機能によって再浮上させられた、遠い過去のツイートも時折嵌入してくるのだ。そうして嵌入した過去のツイートが現在時のタイムラインとシナジーを起こし、時間を超えて文脈が生成されるということがありうる。ズレをはらんだリアルタイム性――濱野智史の言葉を借りれば「選択的な同期性」*1とでも表現できる特徴だが、そこでは「人はそれぞれ異なる時間の中を生きている」という至極当然の(しかし、「時計」によって生活の大半を規定されている現代人には意識されにくい)事実が可視化されている。ソーシャルグラフという概念がもたらしたのは単に点と点をつないで得られるスタティックな図像イメージではない。複数の時間が共存しながら相互に相対化されていく――あらゆる時間が「ヴァーチャル」*2化されていくという事態なのである。

 

以下、前節までに見た2000年代から2010年代への変化を体現する、具体的な作品論に入っていく。なお本稿の目的は前節で述べた通り、この10年間のメディア環境の変化に伴い生じた「ヴァーチャル」の位相の変化を取り出すことにある。したがって宇野常寛が『ゼロ年代の想像力』で行ったようなディケイドとディケイドの間に切断線を引き、前者に属する作品を「旧い想像力」を体現するものとして切り捨てるような方法は採用しない。宇野の方法はコンテンツの内容やその消費のされ方に社会反映的なものを認める上では有効だが、本稿における「想像力」とは社会を構成する人間の側ではなく、むしろ情報技術・メディアそのものに宿っている「人間の想像力を触発する」ポテンシャルのことを指すからである。

 

2014年に放送されたアニメ『天体のメソッド』は、PCゲーム『Kanon』を代表作とするシナリオライター・久弥直樹の手によるオリジナルアニメ作品である。1999年に発売された『Kanon』はその後『AIR』『CLANNAD』『リトルバスターズ!』といったヒット作を送り出すゲームブランド、Keyの処女作でもある。しかし久弥自身は『Kanon』を最後にKeyから脱退、表舞台から姿を消し、2007年のアニメ『sola』で原案・脚本をつとめた後には再度長い潜伏期間に入っていた。その彼がさらに七年の時を経て関わったのが『天体のメソッド』なのである。つまり久弥はちょうど七年ごとにしか新作を発表していない作家ということになるが、「2000年問題」などと騒がれた世紀末に行方をくらまし、iPhone・Twitterの登場した2007年に復活、スマートフォン環境の十分に普及したさらに七年後に再度の復活というこの歩みは、情報環境の変遷に2000年代から2010年代の想像力の変遷を見ようとする私たちにとって、図らずも恰好の論述対象となっていると言えるだろう。

『Kanon』はPCでプレイするオーソドックスなマルチエンディング形式のノベルゲーム(恋愛アドベンチャー)である。まずはノベルゲームというものについて説明する必要があるかもしれない。東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生』によればそれは「デスクトップないしはノートPCによってプレイする、テキスト、キャラクターのイラスト、背景画像を組み合わせたインターフェースを持つ、小説のように読み進めるゲーム」であり、その上で重要な特性として「ウィンドウ内部の映像は、基本的に視点人物の視野と一致していると見なされている」、つまり一人称視点で物語が進行する点が挙げられている。マルチエンディング形式というのは、五人のヒロイン一人ひとりに対して異なる結末の物語が用意されているということである。プレイヤーは主人公に成り代わって画面上に表示される選択肢を選んでいき、その選択の仕方によって物語が枝分かれしていく。ノベル「ゲーム」とは言うもののこのようにその「ゲーム性」と呼べる部分は最小限であり、ゲーム史を「コンピュータテクノロジーの発展と歩調を合わせる」ものだと考えれば確かに「傍流」に位置付けられるジャンルではある*3。しかしPCそれ自体がゲーム専用のマシンではなくその他の用途を持つこと、むしろその他の用途によって生活に密着しているということを踏まえると、情報技術・メディアそれ自体の持つ人間(の想像力)への作用を見ていこうとする私たちにとって、その存在はむしろ大きい。

『Kanon』のシナリオをかいつまんで説明しよう。主人公は幼い頃を過ごした「雪の街」に七年ぶり(!)に帰ってくる。当時のことをほとんど覚えていない主人公だが、さまざまなヒロインと出会う中で、彼女らがかつて自分と交流を持っていた人物だと思い出していく。今作においてキーワードとなるのは「約束」だが、それはヒロインと過ごしたかつての記憶を取り戻すためのトリガーとしてある。そして恋愛アドベンチャーという形式がただ一人のヒロインを「選ぶ」ものである以上、主人公は一度の周回につき一人のヒロインとの「約束」しか思い出すことはない。

『天体のメソッド』は久弥いわく「久弥直樹をもう一度やってみよう」との思いで作られた作品である*4。確かに表層的なモチーフやキーワードだけをとってみても、「約束」「七年ぶりの帰郷」「北国が舞台」など、かなり直接的に『Kanon』を想起させるものがある。では、本作は『Kanon』の単なる焼き直しなのか? もちろんそうではない。いくつか違いを挙げることはできるが、何より目を引くのは舞台となる町の上空に「円盤」が浮かんでいるという設定だろう。公式サイトの「イントロダクション」を参照すると、

出現当時は世界中を大混乱に陥れたが、
そこに留まるだけの円盤への恐怖心は消え、
次第に観光地となり、徐々に人々の興味も薄れて行った・・・

とある。物語の開始時点では、すでに主要キャラクターである五人――「円盤」を幼少期に交わした「約束」によって呼び寄せた張本人たち――にとってのみ意味を持つものとなっているのである。こうした「円盤」から何かを連想しないだろうか? そう、位置情報に基づいて視覚情報を表示するAR(拡張現実)アプリケーションである。「円盤」を呼び寄せた五人にとってのみ認識可能なタグが当該のエリアに埋め込まれており、主要キャラクターである五人だけがARアプリを通じてそれを見ている、と考えるとイメージが湧きやすい。

この寓話から、「円盤」=ARアプリによって付加された情報レイヤー(以下、単に「AR」とする)が、単に視覚的な「現実」を「拡張」したものではないことが読み解ける。ARはそれを表示させるアプリがサービス終了しない限りは、位置情報に基づいていつでも表示させることが可能だ。しかしそれは実空間には対象を持たず、その場所を訪れたその時にだけ、アプリをかざすことによって可視化されるものである。このように空間的・時間的な存在の連続性を持っていない、にもかかわらずある条件の下では強い現実感を持つ、というのがAR本来の特性である。「拡張」されているのは〈いま・ここ〉に結晶化した「現実」ではなく、時間的な広がりを持った「経験」だと解するべきだろう。ここには「円盤」がある、という「約束」事を共有することによって、複数人の間で同一の「経験」を共有することができるのだ。そこには時空間を超えた人と人との連帯がある。

そして、その「複数人」の中にはもちろん私たち視聴者も含まれている。円盤を「意味あるもの」として風景の中に認めるのは、画面の外側に立つ私たち視聴者も同様であるからだ。また『Kanon』と『天体のメソッド』を比較した際に、前者の舞台は単に「雪の街」とされていたのが、後者の舞台には「霧弥湖町」という現実の「洞爺湖町」を彷彿とさせる地名が与えられているという点にも注目すべきだろう。現実の風景や建物に取材したアニメのロケ地に赴くいわゆる「聖地巡礼」という行動様式は2000年代の中頃から前面化した現象だが、それをAR的な仮想のレイヤー=「円盤」と重ね合わせてあらかじめアニメの中に織り込んだという意味で、本作の批評性は際立っている。

 

2010年代は「コンテンツ消費」から「コミュニケーション消費」へ移行したという議論がある*5。前節までの寓話はこうした図式を強化するものでしかなく、フィクションにおける「物語」「ドラマ性」の退潮はやはり疑いないところではないかと論じたくなる向きもあるかもしれない。しかしやはり「物語」への欲求は形を変えてなお存在しているということを以下に示したい。『Kanon』と『天体のメソッド』の比較は、このことについても有益な視点を提供してくれる。町口哲生は物語の進行にともなって複雑に変化していく関係性のダイナミズムを読み解く楽しみを提供する物語コンテンツについて、東浩紀の「ゲーム的リアリズム」と並置させる形で「ネットワーク的リアリズム」と名付けた*6が、『天体のメソッド』にもそのような傾向が認められるのである。

では、具体的に『天体のメソッド』における「ネットワーク」の成り立ちについて見ていこう。本作のドラマパートを担う主要キャラクターの人数は、『Kanon』のヒロイン数と同じ五人であることはすでに見た。それだけでなく、それぞれヒロインの立ち位置が明確に割り振られている。まず狂言回しである古宮乃々香だが、彼女については両親の名前に注目したい。父は「修一」、母は「花織」といい、この読みから「修一=(相沢)祐一」、「花織=(美坂)栞」と、『Kanon』の主人公とヒロインのひとりとの対応関係を見てとることは容易いだろう。母・花織と美坂栞は、「病で命を落とす(落としかける)」というところも共通している。また主人公とさしたる確執がなく、困ったときには真っ先に力になってくれるキャラクターとして、椎原こはるは水瀬名雪と、主人公に対して複雑な愛憎を抱えている戸川汐音は、主人公への(愛情の裏返しとしての)「復讐」を目的とするとうそぶく沢渡真琴に対応づけられる。

問題となるのは双子の兄妹である水坂柚季と湊太である。五人組のうち唯一の男性である湊太は、正確には『Kanon』のいわゆる「個別ルート」が存在するキャラクター……「攻略ヒロイン」とは対応していない。「円盤」という象徴的なものを敵性と見なしている点から、自らの心の影が生み出した「魔物」退治に明け暮れるヒロイン、川澄舞と柚季が対応していることから考えても、湊太に対応するのは舞のそばに常に寄り添うサブキャラクター、倉田佐祐理と考えるのが自然である。

つまり『Kanon』には唯一『天体のメソッド』に対応者を持たないヒロインがいるのだが、それこそが月宮あゆである。あゆはパッケージにも描かれている「メインヒロイン」であり、他のヒロインのルートに入る直前までたびたび主人公の前に姿を現す。というのも彼女は七年前主人公と別れた直後に事故で植物状態になっており、主人公との「約束」だけをよすがに存在している生霊のような存在だからである(とはいえ彼女は主人公に恨みを抱いているというわけではなく、むしろ主人公がたとえ自分のことを忘れてたとしても幸福に生きてくれることを一途に願っている)。いわば主人公=プレイヤーと最も強い「縁」で結ばれているのが彼女なのだが、そうした回想シーンの反復こそが「主人公=プレイヤー」図式を強化している側面があり、そのような図式から解放された『天体のメソッド』に彼女の対応者がいないのは必然の帰結ともいえるだろう。

『Kanon』から『天体のメソッド』への変換にはノベルゲームからアニメへというメディアの変換が伴っているわけだが、『Kanon』にも実はアニメ版が存在する*7。とりわけ2006年に放送された京都アニメーション版は、各ヒロインの物語を一応の結末に導きつつ最終的にあゆの物語に結実するような、折衷的な解決を図っているのが特徴的である。その最終話、アニメ化にあたって付け足されたオリジナルパートで相沢祐一と美坂栞が交わした会話は、この「変換」を考える上で示唆に富んでいる。

祐一「願いごとはひとつじゃないのか?」
栞 「その子が何を願ったかは判りません。でも、もしかしたら、その子の大好きな誰かにずっと笑っていてほしい……そんな風に願ったんじゃないでしょうか。そのためには、周りの人たちもみんな幸せでなければならないでしょう?」

アニメ版ではすべてのヒロインの頭上に「奇跡」が降り注ぐ。栞の病気は癒え、名雪の母親は事故から生還し、舞の「魔物」は消滅する。それは取りも直さずアニメ版の祐一が、すべてのヒロインに対して積極的に関わり、その問題解決に奔走したからである。彼がそのようにして「周りの人たち」の範囲を拡げていったからこそ、あゆの「祐一に幸せになってほしい」という願いがもたらす「奇跡」の効果範囲も拡張されたというのだが、しばしば視聴者からも指摘されるように、アニメ版の祐一はいささか早急に複数のヒロインの問題解決をしすぎであり、端的に言って忙しそうである(原作ゲームではひとりのヒロインの物語を終えたらリセット、セーブ地点からやり直して次のヒロインへ……という「周回プレイ」をしていたのだから、それは当然のことだといえるのだが)。

ここに至って、あゆと同様に『Kanon』に対応者を持たない、『天体のメソッド』にのみ存在するノエルというキャラクターについて考えることができる。ノエルとはその名前が示す通り人ならざる存在であり、本人の言葉を借りれば五人組が喚び出した「円盤」の現身であるという。ノエルの存在は『Kanon』原作版からアニメ版にあたってなされた変更――周回プレイをせずにすべてのヒロインを救済する――を、「主人公がせわしく動き回る」以外の形で達成しているのだ。

ノエルは一体何をしているのか。そのファンタジックな設定に反して、ノエルは時間を巻き戻したり、病を癒やしたりなどといった超常的な力を振るうことはない。ただ誰かの思いが込められたモノ――思い出の写真が収められたアルバムや、福引きで当てた星柄のクッションなど――を、他の誰かのもとに運ぶだけだ。そこで果たされているのはノードとノードを結ぶ「媒介者」としての機能である。身体は時空の一点にしか位置を持つことができず、主体的に他者との関係を作り出そうとすれば空間的に動き回る必要が生じ、その分の移動時間も費やされてしまう。アニメ版『Kanon』での相沢祐一の限界は、「ノベルゲームの主人公」という、プレイヤーと視界を共有していたからこそ得られていた全能性を手放したことで露出したものであったが、これは冒頭で述べた「サイバースペース/サイバーパンク」的想像力が、ディスプレイを「手に持つ」スマートフォン時代においてはもはや成立しづらくなったことと重なっているだろう。しかしそのような環境においてもノエルのような「媒介者」にネットワークの形成を委ねることで、主体の持つ時空間的な限界を超えられるのである。こうした「媒介者」の機能に〈準‐客体〉という呼称を与えたのは哲学者のミシェル・セールだが*8、主人公‐ヒロインという〈主体‐客体〉関係から〈準‐客体〉を中心としたネットワーク関係への展開こそ、2000年代から2010年代への「想像力のモデル」の変化なのだといえる(東浩紀がその最新の著作『ゲンロン0 観光客の哲学』でネットワーク科学に依拠して自身の哲学を練り上げていたことも、象徴的な事例として取り上げることが可能だろう)。

 

『天体のメソッド』において各キャラクター間を経巡りながらネットワークを形成していくノエルは、時空間を超えてキャラクター同士、あるいはキャラクターと視聴者の経験を結び付ける「円盤」の現身であった。いま一度反復すれば、2010年代とは全面的に浸透したスマートフォンとSNSによって、画面を見つめる「主体」と画面を通した「向こう」側との〈主−客〉二元論的な枠組みが崩れ、代わりに時空間を超える経験こそが「ヴァーチャル」なものとして認識されるようになった時代である。「ノエル=円盤」という表象は2000年代においては切断されたものとして捉えられていた「コンテンツ消費」の層と「コミュニケーション消費」の層を、互いに包摂させる象徴だと捉えられる。現在進行形で作られている様々なフィクションの中に「ノエル=円盤」に相当する存在を見出していくことは、この二層の分断をいま一度再縫合することにもつながるだろう。「ノエル」の原義はラテン語で「誕生」を意味するnatalisという語だというが、私たちはこれから2010年代に生まれた様々なフィクションを巡りながら、時空間を超越する新たな経験の「誕生」に立ち会うことになる。

 


 

*1: 濱野智史『アーキテクチャの生態系――情報環境はいかに設計されてきたか』によれば、Twitterの特徴である「選択同期」とは「基本的には「非同期的」に行われている発話行為(「独り言」)を、各ユーザーの自発的な「選択」(の連鎖)に応じて、「同期的」なコミュニケーションへと一時的/局所的に変換する」ものだとされている。

*2: ここでいう「ヴァーチャル」とは、哲学者ピエール・レヴィの著書『ヴァーチャルとは何か? デジタル時代におけるリアリティ』における整理を意識している。同書によれば「ヴァーチャル」と対立させられるのは「アクチュアル」という概念であり、両者の関係は種と樹木の関係(種の中には樹木が「ヴァーチャル」に存在している)に喩えられる。「リアル(現実的)」に対立させられる「仮想的」といったニュアンスではなく、様々な可能性がその内に織り込まれている状態、といった意味でこの語を用いている。

*3: さやわか「排除のゲーム史」(大澤聡編『1990年代論』所収)より。なお、さやわか自身は本文中でそうしたテクノロジー中心のゲーム史観からはこぼれ落ちてしまうものとして、ノベルゲームが発展させてきた物語性の追求、および(西洋圏、ひいては全世界ではむしろ本流を形成してきた)一人称視点によるゲームプレイといった特徴を積極的に取り上げている。

*4: 『天体のメソッド』イメージアルバム『ソナタとインタリュード』ブックレット所収「『天体のメソッド』の奇跡 久弥直樹×fhána対談」より。

*5: 前島賢『セカイ系とは何か』など。「〔…〕しかし、そのような物語の時代はゼロ年代後半には終わりを告げ、作品の読解、そして創作ですらも、コミュニケーションの連鎖のなかで行われる時代が到来した。」

*6: 町口哲生『教養としての10年代アニメ』より。

*7: 本文で紹介した京都アニメーション版の他に、2002年に放送された東映アニメーション版が存在する。

*8: 日本のミシェル・セール研究者、清水高志による準‐客体論の解説が簡潔にして要を得ているので引用する。「『パラジット』という著書でセールは、あるモノを媒体にして、複数の行為者たちが競合関係に置かれる状態をどう可視化するのか、という問題を考察している。――彼が例として挙げるのは、ラグビーなどのゲームで働いているボールと、それを巡って形成される選手たちのフォーメーションの関係である。こうしたゲームにおいては、ボールはそれが媒体となることによって、選手aと選手b、選手cの働きかけや相互牽制を結びつけ、また彼らの流動的な関係(ネットワーク)そのものを可視化し、体現するものとなっている」(清水高志『実在への殺到』より) このボールのあり方こそが、準‐客体的であるとされる。

 

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