印刷

バカにされがちだけど大切な気晴らしの類について

 

 

 

カナダ人のインストラクターは、動作を行う僕たち二人に向けて、さっそく指導を始めた。

 

Well,, Hold on, Just concentrate on keeping the form, and repeat it.

(よし、じゃあフォームを綺麗に守ることを意識して、繰り返してみて。)

Good good. Breath in deeply, exhale when you push it. You should hold on abdominal pressure and you can relax other parts.

(うん、グッド。深く呼吸を吸って、力を入れるときに息を吐き出す。腹圧は保ったまま、他の部分はリラックスさせるんだ。)

We need to concentrate on the part which is necessary. That’s important.

(必要な部分だけに集中したいから、余計な部分を使わないように。とにかくそれが大事。)

Keep your cool. Then let’s repeat the form again.

(気持ちが落ち着いたら、もう1セット繰り返そう。)

Relax. Make use of gravity. You need to be conscious about it.

(重力をうまく利用して。重力への抵抗を意識してみて。)

 

そのとき、ベンチプレスの重りを下ろしたウラディミルが、両手の指でマークを作りながら僕に向かってこう言った。

Hey Kazuki. This sounds like Japanese – ”Budou”, Eh?

What’s the difference between?

(カズキ、なんか日本の武道(っぽいやつ諸々)みたいだよな。あってる? ていうか違いはなんだよ)

 

僕は答える。

”Budou” is treated as something important and valuable to tell. Workout is not.

(そういうのは重要で語るべきものみたいに扱われてる。筋トレは違うね。)

 

 

 

1 退屈にどう立ち向かうか

 

今もまだ消費の時代だ。僕たちの生活は、本来需要のないものにまで囲まれている。それは、僕たちが必要以上に商品を購入してしまうからである。美術評論家のジョン・バージャーがいうように、広告は、「より多くの商品を買うことで自分自身または生活を変えなさい、と僕たち一人一人に提案」してくる。僕たちは、商品を買うことで自分を理想に近づけるのだと広告に扇動され、市場で様々なモノやサービスを購入しまう。消費は、モノではなくて人々の観念に訴えかける。だからこそ消費は終わらない。どこまで消費しても満足を得ることができないために、人々の消費はさらに大きく、過激になっていく。そして、消費の横に寄り添うのが、退屈の問題である。

哲学者の國分功一郎によれば、現代社会において、本来人々が退屈から逃れるために行う「気晴らし」は、うまく作用していない。國分は『暇と退屈の倫理学』の中で、ハイデガーの言及する退屈の第二形式を例に出し、消費が氾濫する時代に気晴らしの可能性が失われてしまうことを指摘する。

退屈の第二形式とは、「退屈と気晴らしとが独特の仕方で絡み合った状態」である。具体的には、例えば、気晴らしをするために参加したパーティの中でも、私たちは退屈する。気晴らしを欲しているにも関わらず、いつのまにか退屈がせり出してくる。気晴らしの中で退屈してしまっているという状況は、現代社会の様々な場面で多くの人が経験する事例ではないだろうか。そして、気晴らしに入り込んだ退屈から逃れようとして、私たちは「決断」へと向かってしまうのだが、その決断はさらなる退屈を生み出していく。ハイデガーの議論では、私たちはこの退屈のループから抜け出すことができない。國分は、ハイデガーの議論に対して、「贅沢」や「浪費」の可能性を説くのであった。

贅沢とは浪費することであり、浪費するとは必要の限界を超えて物を受け取ることであり、浪費こそは豊かさの条件であった。 現代社会ではその浪費が妨げられている。人々は浪費家ではなくて、消費者になることを強いられている。物を受け取るのではなくて、終わることのない観念消費のゲームを続けている。 浪費は物を過剰に受け取ることだが、物の受け取りには限界があるから、それはどこかでストップする。そこに現れる状態が満足である。(『暇と退屈の倫理学』増補新版P355より)

現代社会と消費によって引き起こされる「疎外」を克服するためには、「物を受け取る」しかない。物を受け取れるようにすることが贅沢への道を開くのだと國分は主張する。ここでいう物を受け取るとは、何か楽しみを感じる事例から思考を強制され、それによって「とりさらわれる」ことを意味する。以下で具体的に説明しよう。

退屈の第二形式の中に含まれる「気晴らし」を十分に深く享受することが、國分の議論では鍵になる。そのためには、環世界とハイデガーが述べる「とりさらわれ」の関係を理解しなければならない。例えば、ハイデガーは、蜜を求める衝動に駆り立てられているミツバチが、餌によって「とりさらわれている」と言う。「とりさらわれる」とは、何らかの衝動によって駆り立てられるということだ。「環世界」は、理論生物学者のユクスキュルの言葉で、人間の頭の中で抽象的に作り上げられた客観的な世界ではなく、「それぞれの生物が、一個の主体として経験している、具体的な世界」を指す。

人間は一般に、動物よりも「とりさらわれる」頻度が多い。人間は、動物と比較して、一つの物事や行動に駆り立てられるよりかは、様々な選択肢の中からその都度夢中になる対象を選択する。例えば、蜂は蜜を求めるという衝動の停止と解除にほとんどの時間を「とらわれて」いるわけだが、人間は作曲の勉強をするだけで次の日には異なる音楽鑑賞を楽しむことができる。人間は「自由」を持ち、高い環世界移動能力を持っている、と言い換えることも可能だろう。動物は一つの環世界に「とらわれて」いるのだから、根本的に人間だけが退屈するのだとハイデガーは主張した。「とらわれ」とは、衝動によって突き動かされることを意味する「とりさらわれ」とは異なり、一般には「軽度の麻痺」などを意味する。ハイデガーは、「動物は恒常的に一種の麻痺状態にいるようなものであり、特定のシグナルを受け取ってそれに答えるという仕方でしか生きていないと言いたい」のである。「環世界」を頻繁に移動する人間は、動物よりも対象に張り付く能力が低いということもできるかもしれない。だからこそ、その隙を消費社会に狙われて、退屈のループに巻き込まれてしまうのである。

しかし、それでも私たちはしばしば退屈する。なぜなら、人間は高い環世界間移動能力を持っているからだ。何かにとりさらわれても、すぐにそこから離れてしまう。環世界に何かが「不法侵入」しても、すぐさまそれを習慣によって見慣れたものにしてしまう。 ならばどうすればよいか。より強いとりさらわれの対象を受け取れるようになるしかない。習慣化によってすぐさま対応できる「不法侵入」ではない何かにとりさらわれるようになるしかない。(『暇と退屈の倫理学』P364より)

退屈のループから抜け出すために國分が導く一つの答えは、「僕たちに思考を強いるものや出来事を楽しむこと」である。楽しみながら、思考の強制を体験しなければならない。楽しみ、思考を強制されることを通して、人々は環世界に「不法侵入」してくる新鮮な何かを、見慣れたものにせずに受け取ることができる。動物のように、身の回りにある対象に駆動され、とりさらわれるようになる。

しかしながら、ここで一つの疑問が生じる。果たして多くの人々は、以上のような人間的な「とりさらわれ」を自覚的に経験することができるのだろうか。確かに、國分の主張する手法はすべての人々に開かれていて、実行可能なものである。一方で、物事を楽しみ、思考の強制を体験するためには、國分も述べているように、そのための「訓練」が必要になるものだ。國分が例に出す哲学者のジル・ドゥルーズであれば、彼の愛する映画の世界に深く入り込む事は容易いかもしれないが、反知性主義やPost−truthといった言葉が氾濫する現代社会では、知識を持ち芸術などに開かれた価値観を持つ人々よりも、単純に経済市場の中で人文知から離れた「動物」的な人々の方がその存在を目立たせている。彼らはドゥルーズのように、環世界への「不法侵入」を可能とする何かを「待ち構える」ことなど容易にできるのだろうか。

國分の論を受けて、私たちは、人間的なとりさらわれを促進するだけでなく、非人間的な、動物的なとりさらわれの可能性を模索する思考のベクトルを持たなければならない。ある程度の「訓練」が必要な洗練された「浪費」への道を開くことに加えて、もう一つの、取り掛かりやすく持続的な「浪費」の回路を用意する必要がある。

 

かくして、筋トレの哲学は始められるのだ。

 

 

 

2 筋トレの哲学 導入編

 

そもそも、なぜ筋トレについて考えるかといえば、実際に身体を鍛える人々の数が格段に増えてきたからでもある。ジムの増加や筋トレの流行などは、人文業界で活躍する人々がほとんど目を向けないからこそ、ここで一度現実を見つめることに意味があるのではないだろうか。

経済産業省の特定サービス産業動態統計調査によると、フィットネス市場は確実に拡大方向にある*1。フィットネス業界の年間売上高は2000年の約1730億円から、2016年には3000億円近くと倍近くに拡大している。大手のフィットネスクラブの売上高も増加傾向にあり、例えば東京都内で見かけることの多いTIPNESSを運営する(株)ティップネスの売上高は、2011年度の約316億円から2015年度には約363億円に、「結果にコミット」という独特のCMで有名なRIZAPは2013年度の約51億円から2015年度には約196億円へと拡大している。確実に筋トレ人口は増えていて、筋トレは現代人の「気晴らし」になっている。

一般的に、筋トレ(筋力トレーニング)とは、骨格筋の出力・持久力の維持向上や筋肥大を目的とした運動の総称である。筋トレは、主に自分の憧れる身体や健康を獲得するための行ないとして、ワークアウトとも呼ばれる。それは、重力に逆らい重りを持ち上げることで、新たな筋肉の生成を導いていく行為である。様々な種目に適したフォーム「型」が存在し、初心者はその「型」を繰り返して身につけた後、それぞれの身体にとっての最適なフォームに少しずつ変形させていく。武道でいう「守破離」の考えに非常に近いものがある。

人々が筋トレを始めるきっかけは、多くの場合、消費社会の影響を受けている。6つに割れた腹筋と、大きく張り出した大胸筋を持った男性や、引き締まったウエストラインに長い足を持った女性が掲載された広告を、誰もが目にしたことがあるのではないだろうか。筋肉質な身体を持ちたいと思ったり、それによって異性からモテたいなどと考える人々にとって、商業的な広告は非常に効果的である。

興味深いのは、このように「消費」を入り口として人々を誘い込む筋トレの過程の中で、人々は筋トレという気晴らしを「消費」から「浪費」の体験へとシフトさせていくことである。どういうことか。

筋トレはそもそも「浪費」的である。腹筋や大胸筋など、実際に消費的なアイコンとなる筋肉は身体の一部分であるのにも関わらず、筋トレを始めた人の多くは、ジムに備えられた器具を周りながら、身体すべての筋肉をつけようとする。例えば首回りの僧帽筋や、肩の後ろの三角筋後部などは、それを持つことで洋服の着こなしなどを不細工にしてしまうこともある。不細工になることがわかっていても、欲していなくても、人々はそれらの筋肉を鍛えてしまう。

なぜかといえば、鍛えたい主要な筋肉を鍛えるとき、トレーニーはその周りの補助筋も同時に増やしてしまうからである。補助筋を鍛えることがなければ、理想のイメージに近づくための筋肉を鍛えることが非常に難しい。つまり、広告のイメージが持つ主要筋を獲得するために、「浪費」とわかっていながらも、「浪費」的に補助筋を鍛えなければならないのだ。例えば、ベンチの上に仰向けに横たわり、バーベルを胸の上から空に向かって垂直方向に持ち上げる「ベンチプレス」と呼ばれる種目がある。これは、広告が宣伝によく使う大胸筋を鍛えるためのトレーニングであり、運動のスタートポジションに重りを安定させるためには腕や肩の力も必要とする。それらの力がなければ、運動を開始することができず、大胸筋も鍛えられない。大胸筋を鍛えたい人にとっては、腕や肩を鍛える行為は必要のない「浪費」でありながら、消費社会から得た理想のイメージを求める過程で「浪費」を通過しなければならないのである。しかしながら、それゆえに、人々が「浪費」を楽しむ回路も生まれてくる。

加えて、筋トレを浪費的なものにしている要因として、筋トレが「力果てる」まで終えられない性質を持っていることが挙げられる。筋肉を限界まで疲れさせ追い込まない限り、新たな筋肉は効果的に生成されない。筋肉のつくメカニズムを考えてみても良い。私たちは、どれだけトレーニングをしようが、それに比例してどれくらいの筋肉がつくかは厳密にはわからない。食事やカロリーなどが関係するのはもちろん、筋肉のつき方にも個人差があるからだ。他人が効果的だと主張するメニューを同じようにこなしたからといって、自分にとって効果的なトレーニングになるとは限らないのである。筋トレをする際には、各々が自分自身の身体と会話することが求められ、その都度自分にあった筋肉成長の仕方を模索していかなければならない。もちろん、体調はその日の体力、神経の消耗具合によっても変わるため、多くの人々が「筋肉が疲れ果てるまで鍛える」ことを、トレーニング完了の目安にする。

そうなると、人々はますます「浪費的に」筋トレを行っていくことになる。目的以外の筋肉も鍛えること。必要以上に追い込み、限界まで消耗すること。「浪費とわかっていても浪費を楽しむこと」こそが、筋トレ成功のカギであり、ゲームの魅力となる。消費社会の広告を入り口に筋トレを始めた人々は、いつの間にか「浪費」のゲームへと導かれるのである。

かつて、哲学者のジョルジュ・バタイユは、『呪われた部分』の中で、消費について、経済市場の中で意味が通っているConsommation(消費)には、原義としてのConsumation(比較のため〈消費〉と表現する)があることを指摘した。バタイユは、人間という存在自体が一種の「豪奢な焼尽(燃焼)」であり、〈消費〉とは本来「生の充溢と歓喜の直接的な享受」の位相でなければならないと述べた。社会学者の見田宗介もまた、『現代社会の理論』の中で、バタイユ的な〈消費〉のあり方、消費の原義を取り戻す必要性を、「消費社会の転回」として肯定的に表している。燃え尽きることで、生の喜びを享受することが消費の原義ならば、筋トレはまさに、消費を入り口にして〈消費〉を体験するのだという見方もできるかもしれない。

ここまで、筋トレの流行と、筋トレが消費のゲームから浪費のゲームへと転移する可能性を述べてきたわけだが、再び元々の議論に接近しようと思う。僕たちは、國分やハイデガーの議論を受けて、気晴らしや退屈の関係について考察してきたのであった。動物的な気晴らしの回路を用意するために、筋トレの可能性を整理してみよう。

筋トレが用意する「型」や継続のしやすさ(=持続性)は、芸術や生活の細かな機微に興味を持たない動物的な人々をも、奥行きのある気晴らしの中に誘い込むことができる。異性への感情、身体への美意識などを介在させた、文字通りの動物的な「とりさらわれ」がそこにはある。動物的な回路の存在によって、人間的なとりさらわれに導かれない人々の多くを包括することが可能になるならば、僕たちの退屈への抵抗は力強さを増す。

消費や広告を入り口としながら、真似ることが簡単な「型」が用意されている筋トレにおいて、人々は「浪費」の扉の前で立ち止まることができる。そこで気晴らしを始めてしまえば、消費社会の中で他の何かにとりさらわれることも少ない。なぜ筋トレが見慣れたものにならないかといえば、それは一度の行いが〈消費〉されるまで終わらず、中途半端に消費して終えることが難しいゲームだからだ。筋トレを通して、人々は「浪費」にとことん付き合い、「浪費」を楽しむ過程に巻き込まれる。

しかしながら、そもそもボディビルダーでもない限り、僕たちは筋肉をつけることだけを目的にして「浪費」に一生寄り添い続けるわけではない。人々が筋トレという「浪費」に付き合ってしまうのは、さらに重要な原因があるからだ。筋トレは、動物的で身体的なとりさらわれの回路となるため、気晴らしとしての強烈な魅力を持っている。そしてそれは、死に大きく関係する。

 

 

 

* 筋トレと死って関係するの?

 

筋肉と死の組み合わせ、それぞれが隣り合わせで語られることに、いまいち納得がいかない人も多いかもしれない。しかしながら、鍛え上げられた身体が死に近接する様は、僕たちも生活の周りにもありふれている。

例えば、東大寺南大門を守る金剛力士像。運慶の作った2体の力士像は、大きな筋肉を身にまとっている。阿吽の阿は「生」、吽は「死」を表し、一対の力士像がそれぞれ阿と吽の役割を持つ。そもそも、神聖な場所を守るためというだけならば、筋肉は必要ない。日本には多くの寺や神社が存在するが、多くの場合狛犬が守護の役割を任されている。にも関わらず、運慶の造形した身体は、金剛力士像として、生死の境目を表現する地に、筋肉を介在させている。

映画『ターミネーター』シリーズにおけるアーノルド・シュワルツェネッガーの身体は、非人間的なものとして物語に登場する。彼はロボットであるために、拳銃で撃たれただけでは死ぬことができない。愛する女性とその子供を敵から救った後に溶接炉の中に入り込むことで、彼はようやく死ぬことができる。そこで描かれるのは、死への近接、渇望であり、ターミネーターを演じるシュワルツェネッガーの身体を、肉体の一部を覆った機械以上に目立たせるのは、彼の持つ筋肉でもあった。『ターミネーター』は、筋肉とともに表現された非人間的な身体が、死への近接を求める物語とも読むことができる。

身体を通して死への近接を目指す職業も存在する。例えば、舞踏家だ。映画監督の押井守と、舞踏家の最上和子は、『身体のリアル』の中で、死を含んだ身構えの可能性を説いている。押井は、空手を10年以上経験して培った身体感覚を自らの作品表現に生かしていることを述べた上で、以下の最上の言葉に深く同調する。

最上 できるだけ死がいっぱい欲しい。自分の身体のなかに死をいっぱい入れたいという感じですかね。自分の身体のなかに死をいっぱい入れるというのが、すごく生きることをちゃんとしてくれるというのかな、死を生と分けちゃうから恐怖として襲ってくるわけなんだけど、それを自分の生のなかに取り込むことによって、区別しなくてもいいというか。(p100より)

舞踊家が舞台に上がるためには、死人のような身体をも表現しなければならず、そのために最上は、「身体が感情と結びつき、思った通りに動かせる」ように稽古を重ねている。舞踏家は、大きさを目立たせる表層筋を鍛えない代わりに、深層筋を重点的に発達させている。彼らの緻密な動きは、精神や感覚と結びついた、筋肉のコントロールによって可能となっているのだ。

筋トレをする際にも、速筋だけを動かす、深層筋だけを動かす、と言った手順を数多く踏むために、筋肉への神経回路が発達する。狙った筋肉や関節だけを動かせるというのは、鍛錬によって神経回路が太くなるためである。普段は大きく目立つ筋肉を育てているつもりでも、筋肉に結びついた神経回路も一緒に発達してしまう。神経回路を充実させるという行為は、舞踏家が死を表現する際に目指す稽古のベクトルとも重なっている。意外にも、舞踏家が死を身体表現の中に取り入れようとするような仕方で、筋トレを通過した身体も出来上がっていくのだ。

筋肉や筋トレが死の影を多少なりとも宿しているだろうことは、日常生活の中からある程度予測できる。ここからは、筋トレの死への近接について、「気晴らし」の観点を取り入れながら、もう少し深く考えてみたい。

 

 

 

3 死の渇望と身体

 

そもそも、なぜ人々はこんなに筋トレを求めているのか。先に答えを述べるならば、そこには「死への渇望」があるからではないだろうか。そして、死への近接こそ、究極の「気晴らし」なのである。

気晴らしの例として、なぜ人々がジェットコースターに好んで乗るかを考えてみよう。人々がコースターに乗りたがるのは、それが猛スピードで高いところから落ちるという臨死体験にも近い身体感覚をもたらすからではないだろうか。また、なぜ人は自殺するのか。自殺は、人生への退屈から導かれる究極の決断、もっとも重たい「気晴らし」の一種だと考えることができる。富士の樹海と多数の絶叫コースターを持つ富士急ハイランドが隣接する事実をふまえれば、そのような死への身体的な引力が存在することもイメージできる。人々は、気晴らしのために死への近接を必要とするのだ。

そして、筋トレは、ただの気晴らしではなく、持続的な死への近接を可能にするのだとここで言い換えることが可能になる。筋トレがジェットコースターのような極端な刺激をもたらすかといえば、そうではない。しかしながら、筋トレの過程で、僕たちは常に危険と隣り合わせである。自分の体重を超える重りを、自分の頭の上で振りかざす。例えば、肩の靭帯を痛めるなどして身体に一生続く不自由を被ることもあり得れば、頭や顔の上に重りを落として、生命を危険にさらす可能性もある。僕たちは、筋トレを通して地味に、じんわりと死の影に近接するのである。加えて、筋トレは一度筋細胞を破壊し、そこから超回復(修復時に、元にあった状態よりも筋肉が増えること)による筋肉増強を図る試みである。そのため、トレーニーは常に筋細胞を破壊していく必要がある。生命活動に支障のない範囲で細胞を破壊しながら死に近接し、気軽に、手軽に行える筋トレだからこそ、その気晴らしは「持続的な」試みになり得るのだ。

身体的に死に近づくことが究極の気晴らしであるならば、筋トレもまさに同じ文脈で語られるべきだ。そのように考える上で手助けになるようなデータが存在する。筋トレの流行もまた、人々が身体的な体験を通して死への近接を欲している証拠ではないだろうか。日本人の自殺者総数が1997年から1998年にかけて24391人から32863人まで増加し、2010年まで3万人規模を保ったまま、その後徐々に数を減らしていることに注目してみよう。最近の自殺者数の大きな減少は、2015年の24025人から2016年の21897人という数字にも表れている*2。

単なる運動ではなく筋トレを主とするトレーニングジムの最大手・ゴールドジムが日本第一号店をオープンしたのが1995年。そこからゴールドジムの事業規模は拡大し、現在日本全国に50店舗以上を構えている。筋トレの需要拡大は1990年代後半から増加する人々の自殺願望と比例する。そして、昨今に筋トレが大流行するタイミングもまた、自殺者数の減少期に重なる。これはあくまでも仮定でしかないが、死への近接を求める人々に対して、筋トレという気晴らしを推奨するのは、ある程度の効果を期待することができるのではないか。究極の気晴らしを求める人々に対し、自殺ではなく、「持続可能」な試みを提案するのであれば、筋トレは良き選択肢となる可能性を持っているのだ。

僕たちは、動物的で身体的な気晴らし、浪費のゲームとして筋トレを楽しむことができる。そして筋トレは、死への近接において、身体が求める「究極の気晴らし」の役割までも安定的に引き受けることを可能にする。世の中には、身体的に死への欲求を持ち、死に引き付けられる人々がいる。ジェットコースターなどで死に近い体験を楽しんだりすることのできる人もいれば、他の何かにとりさらわれることができずに死の引力に負け、自殺の道を選んでしまう人もいる。人が生きるためには、死によって完全にとりさらわれてしまってはならない。死にとりさらわれる身体的な欲求を、部分的に、持続的に満たすことができるのが筋トレという気晴らしである。

 

 

 

退屈から逃れるために、僕たちは何かに深く「とりさらわれ」なければならない。人間的なアプローチとしては、物事を楽しみ、思考し、とりさらわれることを訓練によって「待ち構える」姿勢が有効となる。日常に溢れた楽しみを開拓し、贅沢に浪費することによって、僕たちは気晴らしを享受し、退屈のループから脱出することができる。

しかしながら、多くの人々が人間的な贅沢のアプローチを容易に獲得できるわけではない。それは、「消費社会に対しての抵抗」から生み出されるアプローチである。多くの人がドゥルーズのように、例えば文化芸術に対して「待ち構える」ことは難しい。経済市場の効力を受けて、多くの人間はもはや「動物」のように振舞っている。

ならば、消費社会を利用し、そこから浪費への回路を用意するアプローチを考えてみてはどうか。消費社会の広告を逆手にとって、浪費への入り口とする。それは、人間的な浪費を楽しむことが難しい、動物的な人間たちに向けたもうひとつの道筋である。彼らが気晴らしを享受するために、筋トレは効果的な選択肢になり得る。筋トレはそもそも、浪費的な性格を持っている。果てるまで人々に浪費を続けさせるその特徴は、バタイユが言及したような原義としての〈消費〉、「燃焼的」な性格に近いものがある。

また、人は身体現象として、究極の気晴らしとして、死への近接を求めてしまう。人間は、生の中に死を取り入れて生きていく。死を身体的に感じることが、退屈に対する究極の気晴らしであることは、ジェットコースターなど臨死体験的アトラクションの存在からもわかる。しかしながら、死への近接は常に死にとりさらわれる危険を伴っており、自殺を招いてしまう可能性も含んでいる。

疲れ果てるまで自らの筋細胞を破壊し続ける筋トレは、死に近接する危険味を持ちながら、生命活動に支障のない範囲で続けていくことができる気晴らしである。自殺者数が増え始めた1990年代後半に本格的なトレーニングジムが日本にやってきて、多くの人々に受容された。ここ数年における筋トレの大流行は、奇しくも自殺者数の減少と一致している。僕たちの身体が死に対してなにか特別な磁場を持っていて、死に近づくことが有効な気晴らしとなるのであれば、安全な範囲で行える筋トレは、現実的で有効な解決策となる。

人間的な回路と、動物的な回路、気晴らしと繋がった「とりさらわれ」の回路を多様に充実させ、分厚くすることによって、僕たちは退屈から逃れることができる。筋トレなら、消費社会を避けたり、環世界にとりさられるための訓練など必要ない。むしろ、消費社会の流れに身を任せて、浪費の楽しみにたどり着くことができれば良い。浪費のゲームを楽しみながら、究極の気晴らしでもある死の渇望へと近接するその試みは、退屈にうまく立ち向かえない人々が手にする一筋の希望である。

 

 


 

本文における筋力トレーニングについての理論や知識は、福永哲夫『筋の科学辞典−構造・機能・運動』を参考にしている。

 

*1 https://cl-souzoku-tokyo.com/media/2017/06/07/fitness/より

*2 厚生労働省統計 http://www.mhlw.go.jp/file/05-Shingikai-12201000-Shakaiengokyokushougaihokenfukushibu-Kikakuka/0000144490.pdfより

 

 

参考文献

 

福永哲夫『筋の科学辞典−構造・機能・運動』、朝倉書店、2002年

ジョン・バージャー『イメージ』、PARCO出版、1986年

國分功一郎『暇と退屈の倫理学』、太田出版、2015年

見田宗介『現代社会の理論−情報化・消費化社会の現在と未来−』、岩波書店、1996年

押井守、最上和子『身体のリアル』、KADOKAWA、2017年

 

文字数:11618

課題提出者一覧