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ナショナルな存在の住まいについて−ミアレ的クール・ジャパン戦略の継承−

 

 

言語は原・詩作である。この原・詩作において、一つの民族が存在を詩作する。その逆に、一つの民族は偉大な詩によって歴史に参入するが、その偉大な詩が、その民族の言語の形成を開始する。ギリシア人は、ホメロスによって、この詩を創造し、経験した。(『形而上学入門』(1953)、GA40,180)*1

「言葉は存在の家である」と、かつてハイデガーは述べた。ハイデガーにとって、原・詩作から生み出される言語を通して開示されるのは、民族にとっての「存在」である。「存在」は、その民族に属する人々の思考、事物の表象の仕方を規定する。

 

 

1 ハイデガーと祖国的な言葉

 

民族と「言語」、「存在」の関係を捉えたハイデガーの存在論は、現在のグローバルな世界環境が整う以前に打ち出されていた。そして、ハイデガーが依存するのは、各国固有のナショナルな言語である。思想家の東浩紀も、『存在論的、郵便的』の中で、「後期ハイデガーは言語のみに、それもギリシア語とドイツ語を中心とする特定の語彙の解釈のみに依存して思考を進める。これは通常、哲学の神秘思想化、あるいは解釈学化(あわせればカバラ化)と見なされている。」*2と述べている。

ハイデガーは、偉大な詩人の「詩作」を契機として、「民族」の「言語」の原型が生み出され、それに伴って「民族」にとっての「存在」が開示される瞬間、言い換えれば、詩的言語の存在開示的な働きがあらわになる瞬間に焦点を当てる。例えば、ヘルダーリンの詩作を解明することで、ドイツ民族にとっての存在開示的な働きを探求したのである。また、人々の日常感覚に密着している「母語」と「詩作」との関係は、1950年代後半以降、主としてハイデガーのヘーベル論においてもテーマ化される。そこで重要になるのは「母語」の役割である。普段から母語を「聞く」ことによって、言語は語り始める。そして、母語に対応しながら人間も語ることができるようになる。

 

言語は、しかしながら依然として、諸民族や諸部族が歴運的にその内に生み入れられ、その内で育ち、居住する、その都度の言語である。同様に、故郷なるものもこの地上にはない。故郷はその都度ごとのこの大地であり、それ自体として運命である。言語は、その統べること、及び本質=現成から言えば、その都度、ある故郷の言語、郷土的に目覚め、両親の家という住処(Zuhause)で語る言語である。言語は母語としての言語である。(『言語と故郷』(1960): GA13,156)*3

 

ハイデガーは、人々が日常的に慣れ親しみ、故郷を現前せしめている「方言」に焦点を当て、その方言の本質を独特のメロディーに即して詩作するものとして詩人を位置づけている。存在の家となる「言語」とは、郷土的に目覚める「母語」において、存在の住処となることができるのだ。確かに、ハイデガーの思考は世界に幅広く応用されるべき「哲学」でありながら、同時にその語彙における接続範囲をギリシャとドイツのみに狭めてしまう。

では、言語から生まれ、言語に住み着く存在というものの例として、たとえばナショナルアイデンティティの形成に注目するのはどうだろうか。母語や方言も関係してくるのはもちろん、この見地からは、国民という「存在」を経由することで、ナショナルな言語の適用範囲を世界中に押し広げることができる。

そもそも、なぜ今ハイデガーを語る必要があるのか。課題に応えるためなどといった淡白でつまらない理由からではなく、20世紀を代表する大哲学者ハイデガーの言説を応用しながら自由に発想を進めることが許されるならば、そこに何か生産的な価値を見つけ出すべきだろう。具体的には、この機会を活用して、日本政府が取り組んでいるグローバル戦略の読み替えを行いたい。

本論考では、ナショナル・アイデンティティに注目することで、「存在」が故郷から生まれる詩作的な「言葉」に住みつこうとする様や、それに当てはまらない事象を提示する。ハイデガーのいうような祖国的な「方言」を跳躍させ、新たな「存在の家」の可能性を模索することが必要になる。そもそも「言葉は存在の家である」のかどうかも、現在のグローバルな世界では未知数である。ナショナルな見地からの検討を進めつつ、最終的には考察を一気に西欧の枠組みを飛び越えた視座まで拡大する。ハイデガーの哲学には、言語と存在という枠組みを通して、ナショナルとグローバルの関係を考え直すきっかけが眠っているのである。

そのためにまずは、母語や方言を用いた言葉が存在の家になるのかどうかを、ナショナルアイデンティティの観点を通して再考することから始める。検討場所は、もちろんギリシャやドイツ以外の地に転移させる必要がある。ハイデガーの見抜いた世界の心理は、彼の「方言」論に含まれない土地でどのように機能していたのだろうか。続けて、私たちが生きる日本という国についても、ナショナルアイデンティティという存在の成り立ちが、言語を家にしているのかどうかを確認する。ナショナルな見地からハイデガーの言説を検証しつつ、その後に展開するグローバルな議論を通して、現在の日本文化を取り巻く状況に新たな視座を与えることを目指す。

 

 

 

2 アメリカ人の家

 

「故郷」を現前させるために国民の詩的な「方言」を活用してきたのが、アメリカ合衆国ではないだろうか。アメリカは独立宣言という「言葉」によって生まれた国であり、アメリカ人はもともと17世紀末に新大陸にやってきた入植者だ。そのように考えるならば、アメリカにおいて、新たな「方言」が存在を形作る上での求心力を持ち得たことは想像しやすい。ハイデガーによれば、「言葉」は「存在によって呼び求められ促されかつ存在にもとづいて隅々まで接合されて組み立てられた存在の家」なのであり、その「住まい」の中に人間は住むとされる。アメリカは多様な人種が入り乱れる国家であり、人々のアイデンティティを国体に結びつけるために、家としての「母語」を必要としたのである。「アメリカ人」としての全体像、イメージを形成する役割を担ったのは、果たしてどのようなテクストだったのか。

たどり着く一つの可能性は、アメリカ建国の父とも呼ばれる、ベンジャミン・フランクリンの書いた『フランクリン自伝』である。アメリカの理想像を考える際、彼の自伝が含んだ13の徳目が後世まで深くその影響力を残したことは、英米文学者の巽孝之が『アメリカ文学史−駆動する物語の時空間』の中でも語っているように、有名な話である。アメリカ人が、理想を求めて「自己変革」を試みる際、アメリカ人のテキストを通して自己同定することに他ならぬ執着を見出す民族であることも、巽は同著において指摘している。

フランクリンの13の徳目は、節制、規律、決断、節約、勤勉、誠実、正義、中庸、清潔、平静、純潔、謙虚という自己管理のための要素を含んでいる。フランクリンは毎日、これらの項目を守れたかどうかを確認していた。彼は、まず自分の外側に理想的なアメリカ人としての自己を形成するための言葉を用意し、その言葉に自己の生活を近づけようとしたのである。『フランクリン自伝』を読んだ多くのアメリカ人もまた、フランクリンの姿勢を追うことで、理想的なアメリカ人のイデアを探し求めた。祖国的な文脈から生まれた13個の言葉の家に住むことが、アメリカ人にとっての存在の証となった。アメリカ人の実体、存在は、13の複数化された家=「言語」に住まうことによって形成されていったのだ。

そして、経済が大きな成長を迎える中で、フランクリン的な徳行への信仰を変えたのは、スコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』が代表するジャズ・エイジの時代であった。もし真面目に商売をすることが過度な富を導くならば、それはフランクリンがあげた13の徳目における「節制」との矛盾を引き起こしてしまうではないか。金儲けと徳業倫理はもはやワンセットにはならず、それらの二律背反に引き裂かれた人物をフィッツジェラルドは作品を通して描き出す。『グレート・ギャツビー』の主要人物の一人、ジェイ・ギャツビーも当初はフランクリン精神の素朴なる体現者であり、惨めな貧乏白人という幼少期の現実を変えるため、読んでいる小説の空白に、徳目チェックリストを書き込んでいた。彼は次第に、富と欲望によって生を謳歌する人間へと変わっていく。フランクリンの13の言葉を理想的なアメリカ人になるための家としてきた人々は、ジャズ・エイジを通して13の徳目という言葉の家を出ることになってゆくのだ。

横山タスクも(「自己啓発する国−アメリカ文学における「らしさ」とは何か」『クライテリア2』所収)の中で、フランクリンの13の徳目から『グレート・ギャツビー』への接続を指摘している。フィッツジェラルドの物語を通して、「成功するために自己を厳しく管理するという旧来のフランクリン的世界に雌伏しながらも、やがてその節制し多くは求めないという倫理を破り、欲望によって生を謳歌する新しいセルフ・メイド・マン」がアメリカに生まれたのである。

重要なのは、理想像に近づくために言葉を自ら選び実践するセルフ・メイド・マンの土台を、フランクリンが用意したという事実である。アメリカは「他のどの国よりも、自らが用意した言葉の世界に生きている民族であり、そのために自らに用意された言葉としての自己啓発を必要とする民族である」のだから、セルフ・メイド・マンの時代になっても、言葉を存在の家にする伝統は引き継がれていく。アメリカ人のとっての決定的なステレオタイプ、それは自らを理想に近づける言葉、徳目を取捨選択して実践していくセルフ・メイド・マンの姿勢であり、それはアメリカ建国の父ベンジャミン・フランクリンに起源を持つのである。

ハイデガーの言葉にならうならば、アメリカ人という「存在」が祖国的な母語に支えられた「言語」を呼び込み、その中に住みながらアメリカ人という「存在」を確立させていく伝統が見受けられる。アメリカにおいては、ハイデガーの哲学はフランクリンの徳目からセルフ・メイド・マンの時代に至るまでに、独自の変化を遂げてきた。

2018年現在を見れば、国内の状況は変化している。アメリカ人らしさを確立するために固有の言語を求めていた人々も、建国から240年以上経つと、もはや言葉だけに依存することもない。国内に入り乱れる白人以外の多くの人種にとって、アメリカ人である理由は、「そこに生まれ」「アメリカ人の遺伝子を継承し」「英語を話す」ことなどにもっぱら依存するしかない。アメリカ人という「存在」が先にあるからこそ、「呼び込み」がなくとも、後から「言葉」が「存在」に付着していく。言葉は存在の家であるだけでなく、言葉は当然のように存在を家としてみなしている。

そのような状況がありながらも、アメリカ人が新しい国を形成する過程で、言葉に頼りつつアメリカ人としての輪郭を形作ってきたという伝統は、存在感を失うことはないだろう。言葉は存在の家であり、だからこそアメリカ人は、アメリカ人としての歴史を築くことができた。後述するように、その伝統的なマインドセットは、彼らの文化的なコンテンツの中に残り続けているのである。

 

 

 

3 ミアレの空間に日本人は住まう

 

西欧や北米を離れた東洋の島国において、ハイデガーの語る「言葉は存在の家である」という命題は、国民の意匠を創造するにあたって何か関係のあるものなのだろうか。例えば、歴史を通してアメリカと密接な関係を築いてきた日本においては、言語と存在、ナショナルアイデンティティの関係はどのように展開されるのか。

日本における日本人らしさは、言語によって形成を導かれるわけではない。日本人は言語に頼るというよりも、むしろ他の形態を家にして存在を確かなものに変えてきた。宗教学者の中沢新一は、著書の『アースダイバー 東京の聖地』の中で、日本人は言葉によるのではなく、空間の造形を通して、日本人としての思想を表現してきたと論じている。

日本人は、内苑の森という外の世界の影響が及んでこない自由な空間を確保することで自然の知性をのびのびと活動させ、人口と自然の入り混じったハイブリッドな空間を見出し続けてきた。例えば明治神宮では、設計施工から建築素材、そこに植えられる樹木の種類に至るまで、全てが「純国産」にして「国粋」でなくてはならないとされた内苑に対し、外苑においては、絵画館のデザイン、そこに収蔵された絵画の数々、銀杏の並木道、陸上競技場や野球場などのスポーツ施設に至るまで、全てが「西洋や資本主義に向かって開かれている」。

中沢曰く、この構造は、日本人の心の自然体の構造をそのまま表現したものである。内苑と外苑の二元構造のうちに現れているものは、「ミアレ」の原理と呼ばれる。「ミ」は美称、「アレ」は物事が世界に顕現してくることを表し、ミアレは事物の生成を意味する。

 

世界の本質は、見える世界の表面にさらされているのではなく、外から見ればとざされている、見えない空間に隠されている。その閉ざされた見えない空間から、存在の世界に向かって、神々はあらわれ出ようとする。そのとき、聖なる力のミアレが起こるのである。・・・内苑の幽から外苑の顕へ。隠された状態から顕現された状態へ。神話から歴史へ。このミアレの構造を空間で表現したのが、明治神宮の二元論である。内苑のあらわす幽の空間と、外苑に実現された顕の空間は、はじめから一体でなければならない。外苑なしの内苑も、内苑なしの外苑も考えられない。(『アースダイバー』)*4

 

このような発想こそ日本人が代々受け継いできた知性であり、古代の古墳時代からそれは一貫している。内部からやってくる自然の力が最大限に活きるように、外部の人工的な力を利用して場を整える。日本人としての意匠は、この内と外の空間に挟まれたインターフェースの調整に強く関連するのである。自然の力を生かすため、中間のインターフェースを分厚く充実させる強い伝統が存在するために、日本人的な意匠は言語には頼らない。

むしろ、環境に合わせて「和」という漢字が後から当てはめられるようになった。現在、「和」という言語は、日本人の意匠を象徴する言葉の代表格にもなっている。現在を生きる日本人が、自らの日本人的な存在のルーツを実感としてどこに持っているかといえば、日本をイメージさせる言語に多くを頼っているということもできるのかもしれない。実際にそのような状況を物語っているのは、現在の日本政府や多くの企業が推進する空疎な「クール・ジャパン」戦略である。

 

 

 

4 ミアレ的クール・ジャパンの発掘

 

2018年現在、日本的であるということは、「せいぜい江戸時代ぐらいに固まってきた意匠に限られてしまって」いる。日本の文化は、東アジアの島国に集積してきた多様な伝統の中で時間をかけてつくられてきたものであり、元々が極めて動的、可塑的で、少しも固まったものではないからだ。

江戸時代から固まってきた日本人的な意匠というものをファサードに貼り付け、記号化しているのが今の「クール・ジャパン」を取り巻く状況である。政府主導の試みは、記号操作によって日本を「商品化」しようとする。流行が顕著な建築を例に取っても、建築家自身が「これは和風です」と語るとき、実際には記号として日本的ということがすぐにわかるような視覚的意匠を、ファサードに立てているだけなのである。日本的な意匠は、そこでは日本的と思われる言語を家にして存在し、ファサード頼りの空疎な「クール・ジャパン」戦略が展開されていく。

このような状況に対し、言語に頼らず、自然と人工のインターフェースに存在の家を求める本質的な意匠は、実は現在の「クール・ジャパン」戦略の中にも生き残っている。取り上げたいのは、漫画やアニメコンテンツだ。「クール・ジャパン」を促進する日本政府は、世界市場と比較した際の漫画アニメ文化の先進性、洗練性を意識して推薦しているのかもしれないが、古代の視点から人気コンテンツ作品に照明を当てることで、日本人的な意匠、日本人らしさがそこから強く浮かび上がってくる。

『ドラゴンボール』、『ナルト』、『ワンピース』、類似する作品をあげていけば枚挙にいとまがないのだが、これらはどれも少年ジャンプから発信され、日本を代表する漫画アニメとして海外で受容されている作品である。諸外国での人気も高く、「クール・ジャパン」を支える漫画アニメコンテンツの先駆けとしても筆頭格である。

以上の作品に共通する表現とは何か。『ドラゴンボール』のキャラクターは、自然の中にあるエネルギーを気として集め、戦闘に生かしていく。孫悟空の必殺技、元気玉はまさにその気の集合体である。忍者であるナルトは、強敵に立ち向かうために、仙人である師匠から自然エネルギーの活用法を学ぶ。エネルギー源であるチャクラは、自然の力を吸収することでさらに強まる。『ワンピース』の世界には、制御の難しい自然の魔力を宿した「悪魔の実」が存在し、それを食べた者たちの戦いが展開される。人間の理解を超えた自然との間のインターフェースを修行によって洗練させていく様子が、これらの作品群に共通する特徴として見受けられる。

さらに付け加えるならば、文芸批評家の横山宏介が(「あの夏ぼくたちは魔物使いだった−ポケモンからみるビフォー=アフターゼロ年代」、『シミルボン』所収)*5の中で取り上げているような、「使役」を含んだゲームコンテンツ群にも類似した特徴が垣間見える。『ポケットモンスター』や『ドラゴンクエスト』では、ゲームプレイヤーが「野生」の魔物(モンスター)を獲得し、使役しながら同時に「育成」させていく。『遊戯王』のようなカードゲームにおいても、魔物を使役しつつ、火や水、光などの自然の力をうまく活用することこそがゲームを有効に進める鍵となる。そのようなモンスター達は、人間と自然の間に立ち、様々な技や能力を覚えながら成長していくのだ。ここでも、モンスターの使役によって自然との間のインタフェースを分厚く充実させていくこと、つまり「ミアレ」の洗練が重要になってくる。

日本人としての意匠、自然と人間とのインターフェースを分厚くすることで存在を確固たるものにしていくあり方は、明治神宮のような貴重な「建築」だけに出現するのではない。それは今も、中沢が批判する「クール・ジャパン」の展開の中にも、形を変え、現代風に受け継がれているのである。もちろん、現代を生きる日本人の多くがそれを日本人的な意匠として理解しているのかどうかは甚だ疑問である。しかしながら、日本人としての存在を確立するために、ミアレ的なインターフェースの在り方が日本産のグローバルコンテンツ内に無意識にも受け継がれているという事実は価値を導く。

以上のように考える時、なぜ日本の漫画やアニメがアメリカを中心とする諸外国で好意的に受け入れられるのかという疑問に対して、一つの可能性を示唆することができる。ナショナルアイデンティティを確立するため言語を存在の家にしてきたアメリカにおいて表現されるヒーローの姿を思い出そう。DCコミックやマーベルに現れるアメリカ生まれのヒーローは、「正義」や「悪」、「資本」といった言語を存在の足場とする。これはフランクリンやフィッツジェラルドの時代を経て根付いたナショナル・アイデンティティの継承である。そんなアメリカ産のヒーロー達は、国際市場によっていち早く世界中の人々に届けられた。

翻訳などの作業を経てからその後に発信される日本の漫画・アニメコンテンツが、アメリカのヒーローと比較しても世界中の人々の目には異色に映ったのはなぜか。そこにはナショナルアイデンティティの住処として、異なる種類の「家」に住む人々への新鮮な眼差しがあるのではないだろうか。だからこそ孫悟空やナルトは国際的な人気を獲得するのである。自然と人工のインターフェースという日本的な意匠が、アメリカ的なグローバルコンテンツに囲まれる中で輝きを放つ。本文においてアメリカの事例に字数を割いたのは、世界市場の先乗りに成功したアメリカ産のコンテンツがある種のグローバルスタンダードをすでに形成しているためである。

逆に、「和」などの文字や言語を通して「クール・ジャパン」を表象することは、日本の独自性を伝えるためには不適切なアプローチとなる。外国人がその言語を好むとき、それは文字のデザイン性などを評価しているのであり、「言語を通して国民の意匠を表現する」といった点では西欧やアメリカとフォーマットを同じくするために、国際視点から見た時の新鮮味が生まれない。もし仮に日本政府が「クール・ジャパン」を今後も推進していくのであれば、日本文化の独自性を言語の中にではなく、ミアレ的インターフェースの動態の中に捉えていくべきである。「和」の意味について説明するよりも、言語から離れた存在の自由な気風を意識的に伝えていくのが新しい「クール・ジャパン」戦略となる。

 

 

ここまで、ハイデガーの議論を通して「クール・ジャパン」の読み替えを行ってきた。ハイデガーのテクストが転移的に影響を及ぼしているアメリカの例を検討すると、日本的な意匠やコンテンツがいかに異質なものなのかが明らかになる。その独自性は、「言葉を存在の家にしない」ことに起因するのである。

グローバルな市場において、『ドラゴンボール』や『ナルト』が「正義」や「友情」といったキーワードで囲まれることがあっても、それらのコンテンツは決して諸外国のコンテンツ群と比較した際の独自性を失わない。「言語」に頼らないミアレ的なインターフェースは本質的にナショナルなものであり、ミアレの思想を取り入れた多くのスタジオジブリ作品なども、海外で高く評価されている。

言語を家とする存在にとって、インターフェースを家にする存在の物語は非常に魅力的に映る。言語を存在の家としない日本的なインターフェース的意匠の中には、ハイデガーの西欧的な想像力を超えた可能性が眠っているのだ。ここで言葉は存在の家にはならず、存在は「ミアレ」という「動き」の中に宿っている。古代建築を通して受け継がれてきた伝統は、現代の漫画やアニメなどのコンテンツに水脈を移した。

私たちは、この状況をさらに上手く活用するべきであろう。現在、世界中に画一化した影響を与えるアメリカ合衆国のナショナルアイデンティティにおいて、言葉は存在の家としての実質性を失ってきている。言語を存在の家にしてこなかった日本人の芸術は、多くの外国人の感性に訴えかける絶好の機会を前にしているのだ。日本思想の本質に寄り添ったクール・ジャパン戦略は、言語を存在の家としないことにより、アメリカ的でグローバルな消費者に向かって、独自の魅力を実装することができる。

自らの姿を見直し、言葉を中心に組み立てられたコンテンツと、言葉を支えにしないナショナルアイデンティティに意識的に隣り合い、堂々と立ち振る舞う。その時、クール・ジャパン戦略を支える日本的なミアレの動態は、一段と輝きを増す。

 

 


 

*1 『危機の詩学−−ヘルダリン、存在と言語』p615より

*2 『存在論的、郵便的』p238より

*3『危機の詩学−−ヘルダリン、存在と言語』p617より

*4『アースダイバー 東京の聖地』p183より

*5 「あの夏ぼくたちは魔物使いだった−ポケモンからみるビフォー=アフターゼロ年代」、https://shimirubon.jp/columns/1687399

 

 

参考文献

 

マルティン・ハイデッガー『「ヒューマニズム」について』(渡邊二郎訳)、1997年、ちくま学芸文庫

東浩紀『存在論的、郵便的』、1998年、新潮社

仲正昌樹『危機の詩学−−ヘルダリン、存在と言語』、2012年、作品社

巽孝之『アメリカ文学史−駆動する物語の時空間』、2003年、慶應義塾大学出版会

フランクリン『フランクリン自伝』(松本慎一、西川正身訳)、1957年、岩波文庫

横山タスク「自己啓発する国−アメリカ文学における「らしさ」とは何か」、『クライテリア2』所収、2017年

中沢新一『アースダイバー 東京の聖地』、2017年、講談社

横山宏介「あの夏ぼくたちは魔物使いだった−ポケモンからみるビフォー=アフターゼロ年代」、『シミルボン』所収、2017年、https://shimirubon.jp/columns/1687399

 

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