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木更津キャッツアイの橋渡り

 

 

金沢での試行錯誤

 

批評とはなにかを定義せよ。

この難題を目の当たりにしたちょうどその時、ぼくは翌日に控えた旅の荷造りをしていた。目的地は金沢。3泊4日の旅の目的は、主に美術館や文豪たちの記念館を回ることであった。そして、美食の街金沢においては、旬の高級魚のどぐろとそれに合った純米酒を頂戴することも欠かせない。

そもそも批評家とは、美食家に料理を振る舞うシェフのようなものだ。自分の足で集めた食材をその品に合わせて選択し(接続)、思弁(調理)によって実食者(読者)の舌の上でどのようなハーモニーを奏でるのか、ひたすら考え抜き、一枚の皿の上で表現する。想像力の深さは、用いる火力の強さや繊細さにも繋がる。多くの場合、哲学者や思想家が発明したベースとなる調味料(概念)を応用して、新鮮な味覚を提供する。料理の味は、当然ながら美味しくなければならない。僻地に赴いて手に入れた貴重な食材の存在を世に発信する料理家もいれば、カレーうどんや納豆オムレツのように、ジャンルを越境して抜群に美味しい品々を作り出す料理家もいる。真の美味しさを求めて時に料理家同士のいざこざも起きるが、それだけ個々が求道する味がバラエティに富んでいて、「正解」というものがない懐の深い世界が料理(=批評)なのである。

現在ぼくが参加している批評再生塾という取り組みは、プロを目指したアマチュアボクサーたちが集まる、時に異種混合の公開スパーリングのような試みだと初めは思っていた。リングの周りやネット中継の前に存在する観客たちの前で、本気でスパーリングをする。現役のプロボクサーである講師が実践的なアドバイスを与えてくれるのはもちろん、参加者同士の打撃を自らの身体に受けきることによって学ぶことも多々ある。とにかくそれはリングに上がった者だけが得ることができる特権だ。しかしながら、どうやらぼくが直面したのは、ボクシングではなく、むしろ料理にその特性を似せた競技だったのである。

なんて、こんなことを書き連ねていたのでは、読者の皆さんから不愉快な目で見られるに決まっている。批評とは何かを考えていると、新幹線はあっという間にぼくを金沢の地まで運んでいた。真冬の冷たい空気の中、ぼくは金沢の中心を流れる川の上を滞在するホテルに向けて渡っていく。

川の名前は犀川。金沢平野を流れ日本海に注ぐこの川は、金沢を代表する作家室生犀星が周辺に生まれ育ち、多くの作品に残したことでも有名な川である。その日のうちに金沢文芸館へ行くと、在廊していた職員から、室生犀星を中心とした犀川の文化は、金沢では「山の手の文化」として認識されていることを伺った。なるほど、確かに室生犀星の記念館を回った後では、彼が文学という当時のハイブロウなカルチャーにいかに大きな影響を及ぼしていたのかが理解できた。芥川龍之介や川端康成など、室生犀星とともに近代文学や私小説の問題を高尚に捉えてきた作家たちの紹介が、彼の生前史を囲んでいた。

次の日、東茶屋街の方向に向けて足を進めていると、金沢の市街地を流れるもう一つの川が目の前に現れた。浅野川だ。広々と開けて、背後に雪を頂いた山脈が連なる犀川の端正な流れと比較すると、浅野川はしっとりとした雰囲気を醸し出している。この川のすぐ側にあるのが泉鏡花文学館だ。泉鏡花は、室生犀星と並んで金沢を代表する作家であり、生まれ育った浅野川周辺を作品内に多く描き出した。そして、泉鏡花文学館の職員は、浅野川周辺の文化を「庶民の文化」と紹介した。

興味深いことに、金沢は2つの川と文化によって育まれ、それぞれの文化水域を代表する2人の作家の影響が色濃く存在しているのだ。いわゆる山の手の文化を代表する室生犀星とは対照的に、泉鏡花はいわゆる社会のアウトサイダーを作品内に多く描き出すような作家であった。山に住む人々、物乞いの集団や芸人、名も無い底辺の職人は、社会の一番下の部分で細々と生きるような人々として、『蛇くひ』など、数多くの泉鏡花作品で描かれた。

鏡花の作品は、文芸の世界で批評家たちによって評価され、生き残ってきたというよりも、舞台や映画、歌謡曲で歌われるだけでなく、漫才や漫談の世界まで広がり深く結びついていた。鏡花には、社会の底辺に生きる民衆や俗な世界と関わり合い、結びつこうとする志向があったのだ。柳田国男は、鏡花のそのような姿勢を大変高く評価していた。

つまり、鏡花の創作の中にはサブカルチャーの色合いが存在し、犀星の創作には文芸の高級な香りが伴っている。室生犀星と泉鏡花、それぞれの文学は論理で語りきれない範囲を表現しようとする点では共通しながらも、「山の手の文化」と「庶民の文化」として隔てられていた。

ぼくは、批評についてこのように考える。2つの川が代表するような山の手の文化と下町の文化、それぞれの色合いを持った生活圏を認識し、両者を見渡すことのできる場所を発見する。そしてそこで思考を膨らませ、山の手から下町へ、下町から山の手へ、出前を運ぶようにして価値観を送り届けること。このような試みこそが、批評なのではないか。

インターネットが普及しリゾーム状に散らばった現代の権力構造の中で生きるぼくたちよりも、文豪たちが生きた当時の日本はより強く社会的な住み分けに影響されていた。文芸批評の世界は室生犀星を高く評価し、柳田国男などを除けば、大衆芸能に向き合ってきた泉鏡花が評価されるのは、大分後になってからのことであった。山の手を流れる川の周辺に生きる人々は、高尚な文化の中に好んで閉じこもり、そこで有名な料理店(批評家)の元に足繁く通うことで、言説を楽しんでいたのだ。

社会的な住み分けが崩れつつある現代においては、そのような文化的水域にも「誤配」を持ち運ぶことのできる可能性が増えている。山の手の料亭と下町の酒場ではない料理店から、2つの水域へ出前を運ぶことができる。どこに行っても、何を考えていても、常に選択肢はひとつではない。批評とはまず、常に自分の立つ地に複数の川が流れていること、つまり語るべき文脈が存在していることを認識する手順から始まる。そして、文化的住み分けのされた複数の水域を繋いでいくのだ。犀川に行きる人々の価値観を浅野川の文化水域に暮らす人々へ伝える。浅野川から犀川への動線も然りである。

2つの川は、論理で語りきれない部分を持つ点において共通し、それでも社会的状況によって分裂してしまうことによって、住み分けがなされているだけだ。だからこそ、2つの川を見渡せる地点に佇む批評家は、自らの作品(=料理)に2つの文化水域の味を取り入れ、世界が閉じられることのないよう、出前を運ぶようにして思考の可能性を担保し続けるのである。

そのようにして金沢の街を流れる2つの川と批評の関連性を考えていたのだが、思考の過程で、ぼくの記憶の中にはもう一つの金沢の存在が浮かび上がっていた。金沢と似た景色を持つ街が他にもあったことを思い出す。それは2013年、当時大盛り上がりを見せていた連続テレビ小説『あまちゃん』の影響で訪れた、盛岡という街の風景であった。盛岡にもまた、金沢のように市街地の中心を流れる2つの川が存在していたのだ。そして2つの川の周りには、宮沢賢治を代表する中津川系の文化、石川啄木を代表する北上川系の文化が存在した。賢治と啄木を代表する2つの川の文化圏域は、犀星と鏡花が生成した金沢の文化的景観に近いのである。

現在、新たな批評の可能性は、「転位」に宿っているとぼくは感じている。美術批評家の黒瀬陽平は、日本美術史の行き詰まりを打破するための方法として、しばしばその「転位」の方策を取る。彼が行う「転位」の効果とは、現在と類似する「あり得たかもしれない可能世界」を、時空間を超えて他の地に見出し、それを行き詰まった現在の打破に応用するような試みに見出される。例えば福島の震災関連の問題が、時と場所を越え、韓国の軍事境界線の視点から考察される。

日本美術においては、椹木野衣の「悪い場所」理論の影響を強く受けて、ローカルな日本特有の諸問題に向き合い続ける潮流が強かった。そんな状況を打破するために、黒瀬の「転位の美術史」は「内側からの視点が見失ってしまったかもしれないものを、思わぬ場所から発見し、別々の場所の、別々の風景を重ね合わせる」ことによって、「悪い場所」としての戦後日本美術史を脱構築していくのである。

このような「転位」の思考、その枠組みを様々な議論に結びつけ脱構築を促していくようなプロセスに、批評の未来も存在しているのではないか。そしてまた、「転位」の思考は、固定化された価値観に隠された可能性を再発見することにも役立つのである。

 

 

 

 

 

木更津キャッツアイの橋渡り

 

 

ぼくが批評に繋げて語りたいと思う、一つのドラマ作品がある。ここからは、その1つの作品を例に、「転位」による批評の可能性を模索してみたい。批評について考える際に参考にしてきた2つの川の問題、これはゼロ年代を代表する論考に対しても「転位」させて応用することができる。

山の手の文化と下町の文化、これらを囲む複数の川の流れが、どこにおいても可視化されているとは限らない。中には、一つの川しか存在しないことにされている場所もある。それは東京周辺の「郊外」において特に顕著に見受けられる問題ではないだろうか。

東京という強烈な存在感を持った「山の手」が構えていると、そのまわりにある県や街は「下町」としての役割を強いられてしまう。「下町」には「下町」なりの文化があるのだから、「下町」なりの文化論が語られれば良い、と考えられがちになる。ゼロ年代に入ってから、「自分の周りの世界を愛し、満足することができるのだから引きこもっても構わない」というような論調が、それに並行して勢力を強めてきた。

基本的に千葉や埼玉などの東京周辺の文化は、サブカルチャーの文脈に近づけて描かれることが多い。それらは郊外の文化を代表するものとして、しばしば作品に現れ、東京でも消費される。入江悠監督の映画『サイタマのラッパー』シリーズ、そして宮藤官九郎が脚本を執筆した『木更津キャッツアイ』シリーズなどがその例として挙げられる。

 

たまには個人的な体験を語ってみよう。実感として、「九○年代がいつ終わったか」と訊ねられれば、私は間違いなくこう答えるだろう。それは『木更津キャッツアイ』の第一話を観終わったときだ、と。*

 

『ゼロ年代の想像力』の中で90年代の終わりを高らかに宣言したのは、批評家の宇野常寛であった。宇野の見解では、宮藤官九郎が脚本を担当した今作品は、「(郊外型)中間共同体の再構成」というテーマを描き出している。1990年代に宮台真司らが示したような「終わりなき日常」に対し、木更津キャッツアイのメンバーは「充実していて終わりのある日常」を過ごしているのだと宇野は論じる。

作品を簡単に紹介しよう。物語の主人公は、木更津の商店街で稼業の床屋を手伝う20歳の青年「ぶっさん」(岡田准一)である。定職につかず、かつての高校野球部の仲間たちと草野球や酒宴の日々を満喫していたぶっさんだが、彼はある日、仲間たちと怪盗団「木更津キャッツアイ」を結成することを思いつく。愉快犯として他愛もない窃盗を繰り返しながら、キャッツアイのメンバーは青春の日々を過ごしていく。しかしながら、このストーリーの肝は、1話の最後でぶっさんが仲間たちに対し、自分がガンに冒されていることを告白することにある。バカ騒ぎの日々を謳歌しつつ、彼らはぶっさんの「死」という現実に徐々に直面していくのだ。

宇野の議論は以下のように展開される。宮藤官九郎は、郊外型の新しい共同体のもつ脆弱性を克服するために、「死」という要素を導入した。「死」という要素に正しく向き合うことで、宮藤は郊外をポジティヴに捉え直すことになる。1995年以降、セカイ系から決断主義にいたるまで長く共有されていた「郊外」への絶望、「終わりなき日常」という認識は、時間の経過や「死」から目を背けることで初めて成立した。それに対し、ぶっさんにとって、キャッツアイのメンバーと過ごした記憶は、日常の中に発生する自ら選び取った共同体がたとえ歴史から切断されていたとしても、他の何者にも変えがたい「入れ替え不可能なもの(=物語)」として機能する。だからこそ、今作で描かれる彼らのバカ騒ぎは、「底抜けに楽しいその一方でたまらなく切ない」ように感じられるのではないか。「死」に正しく向き合うことで、郊外という空間が自由に選び取った共同体に、高い強度を与えることができる。

確かに、宇野のゼロ年代批評において大きな役割を示すこの考察は、一つの『木更津キャッツアイ』論として成立している。宇野の論を受け、このようなサブカルチャー的「郊外」の深堀り、再発明こそが批評の新たな可能性に繋がるのだとしばしば強調されるようになった。しかしながら、宇野の議論は、やはり東京という山の手から木更津という下町を描いた批評に他ならないようにぼくには思えてしまう。なぜならば、そこには木更津を生きる人々のリアルが欠如しているからだ。宇野常寛の『木更津キャッツアイ』論とは、山の手と下町の隔たりをあらかじめ固定し、強調するようにして論じたために、下町を流れる川の景色を描こうとしながらそれを描ききれなかったものであるのだと、ぼくは感じている。

宇野の『木更津キャッツアイ』論を通して、ぼくたちは一方の川だけを見つめることで発生する、批評の不完全性を確かめることができる。ぼくがここで言いたいのは、批評とはやはり、複数の川の影響を見渡すようにして描かれなければならないということなのだ。そして宮藤官九郎は、2つの川を繋ぐ存在を中心に添えつつ、『木更津キャッツアイ』という物語を紡いでいた。どういうことか。

そのためにはまず、一つの重大な事実を紹介しなければならない。1997年、木更津市から東京湾を挟んで体現にある神奈川県川崎市までが15.1kmの高速道路によって結ばれた。これが「東京湾アクアライン」だ。東京湾アクアラインの開通によって、木更津−川崎間の距離が約100kmから30km、所要時間も約90分から約30分へと大幅に短縮された。アクアラインを通じて木更津から東京、品川、横浜などへ出る高速バスも15分起きに存在し、木更津に住みながらにして都市へのアクセスが劇的に容易になったのだ。

それでいて、木更津が今も「東京に一番近い田舎」のようにして存在している点が興味深い。「郊外」化計画の失敗ともしばしば語られるが、地続きに都市と繋がらないため、都市の自治体や鉄道会社が力を入れる経済活動の影響が木更津にはほとんどもたらされなかった。新たなマンションは建築されず、駅前のシャッター街はいつまでも廃墟として残り続けた。木更津は、東京都心からみた郊外である、西東京や埼玉、神奈川にある市街地とは異なる変化を遂げてきたのである。それでも東京からの「誤配」は頻繁にもたらされる。そのような不思議な環境が成立した背景にあるのは、間違いなく東京湾アクアラインの建設であった。

ゼロ年代の日々を生きるキャッツアイが描き出すのは、まさに木更津民が東京からもたらされる誤配に対し、自然に接しながら生活をしていく様子に他ならない。第1話において、キャッツのメンバーが地元のマドンナ的存在であるモー子(酒井若菜)に対し、最近どこでデートしたのか尋ねる場面がある。モー子は東京湾アクアラインの上にある「海ほたる」で遊んだことを話し、ぶっさん達も当たり前のように地元との違いを語るモー子の話に乗っかっていく。アクアラインは、すでに物語の初めから、彼らの日常の中で当然のように認識されているのだ。これ以降、物語の中で頻繁にアクアラインは登場することになる。

そして、物語の中でモー子に片思いを続けてきたのが、櫻井翔演じる「バンビ」である。彼は東京の大学に通う学生であり、普段はJR内房線を用いて通学している。そんなバンビがモー子をデートに誘った時、彼らは電車を使って渋谷まで向かう場面があるのだが、これをきっかけに、彼らは喧嘩離れしてしまうことになる。バンビの恋が成就する瞬間は、その後物語でどのように描かれるか。バンビの恋は、「相手を背におぶって端から端まで渡りきることで恋が叶う」と物語内で信じられている「赤い橋」を、モー子と渡りきった時に成就する。バンビは、「橋」を渡ることによって「終わりのない日常」を終わらせるのである。

『木更津キャッツアイ』において、そこで描かれている最も重要な存在とは、「橋」である。死ぬ間際のぶっさんが、薬師丸ひろ子演じる美礼先生との最初で最後のデートの場所に選んだのも東京湾アクアラインであり、シリーズの終盤においてキャッツのメンバーがしばしば東京へ来訪する時には、彼らは揃ってアクアラインから東京と木更津を行き来する。東京で起きた事件のために木更津を出て、都内から戻ってくると、今度は東京で起きた事件が地元で新たな火種を生み出していく。そのようにして物語は展開されるのだ。

木更津という街に生きるキャッツにとっては、アクアラインを通して東京から「誤配」がもたらされるのは当たり前であり、そのような環境の中で過ごされる青春の日々こそが、『木更津キャッツアイ』という物語の中心を彩っている。自分たちがアクアラインを通行するだけでなく、何度も何度も、そこを通って東京から物語を駆動する人物もやってくるのだ。つまりここでは、初めから「終わりのない日常」など存在しない。ぶっさんが死ぬことによって「充実していて終わりのある日常」が浮かび上がるのではない。木更津では、アクアラインが開通した1997年以降、常に都市からの「誤配」がもたらされ、それによって日常が生成変化していくのである。

それでいながら、木更津は都市にはならない、なることはできない。東京から完全に隔てられた「郊外」でありながら、都市からの誤配が常にもたらされる日々の中で、木更津の人々はどのようにして生きていくのか。「アクアライン開通による日常の終わり」こそが、宮藤官九郎と『木更津キャッツアイ』が表現した木更津のリアルなのである。

批評ということを考えた末に、ぼくはなぜ『木更津キャッツアイ』の話をここまでしてしまったのか。それはおそらく、この作品が東京湾アクアラインという大きな「橋」によって、断絶された都市と郊外という2つの「川」をつなぎ合わせているためであろう。

批評とは、2つの川の間を行き来するような行為であると先に述べてきた。そして、そこに付け加えるならば、2010年代の終わりを生きるぼくたちにとって今必要な批評とは、批評家だけが行き来してきたその道を、より多くの他者に使ってもらうことを促すようなものなのではないだろうか。2つの川を繋ぐ「橋」を作ることが、今こそ重要となる。対岸の様子を伝えるだけではなく、それを聞いた人々に自らの足で岸と岸を往復してもらえるような「橋」を作ることができるならば、世界の可能性はさらに開かれるはずである。

この「橋」を作るということは何を意味するのか。それは、「観客」や「観光客」の動きを意識した論考を生み出すことに繋がる。批評家以外にも、社会の事例を考えたり、文化芸術作品に対して思考を巡らせている人たちは大勢いる。観客や観光客が文化芸術に大きな影響を及ぼすこと、彼らの「誤配」が生み出す可能性を批評が提示することで、観客や観光客たちに自覚的に道を行き来する感覚を植え付けられるのではないか。観客や観光客も時に「批評家」になる時代なのだという感覚を、彼らの文化芸術に対する影響を踏まえた論考を通して、養生していく。「誤配」を持ち込む彼らのような存在を可視化させ、より多くの人々を対岸から対岸へ行き来させる。それが「橋」を作るということであり、批評において大きな意味を持つものだとぼくは感じている。

 

 

まとめよう。批評とは何か。それはまず、人々の生活圏を流れる複数の川を見つけることから始まる。そして、批評家は自らがこしらえた批評を通して、一つの川からまた別の川へと思考や別の世界の可能性を送り届ける。さらに、複数の川が流れる地点は、「転位」の視点を意識することによって、別の時空間からも発見することができる。類似点や相違点などを比較検討することにより、一つの地域では思いもつかなかった思考のバラエティがもたらされるのだ。

2000年代に入り、批評が2つの川の断絶を強調するために用いられる状況が増えてきた。郊外の料理の味は、郊外の味として都市では需要され好まれるようになった。しかしながら、都市と郊外、両者は本来そこまでの隔たりを持たないものではないだろうか。インターネットを通じて、ぼくたちの生活には絶え間なく「誤配」がもたらされるからこそ、「どこにいるか」はもはや重要ではなくなってきている。閉じ込められているように見える世界でも、そばに「誤配」をもたらす「橋」があるならば、人々は「終わりなき日常」という絶望を感じずに生きていくことができる。そこで決断主義的なサバイバル思考に陥ることもない。宮藤官九郎と『木更津キャッツアイ』の想像力は、放送開始時の2002年からそのような可能性を描いていたのだ。

現在の批評の役割とは、批評家だけが川を渡り、対岸の様子を伝えるだけでは済まされない。見つけられるならば見つけられるだけの複数の川の存在を可視化し、そこに多くの他者が自分の足で渡れるような「橋」を建築していくことこそが、批評家には求められている。「観客」や「観光客」にカテゴライズされる多くの人々が対岸の様子を観察し、その間を行き来することによって、世界の可能性はより大きく開かれるのだ。川同士を繋ぐ橋が、批評的想像力によって形作られる。そのとき、批評は再生する。

 

 

 

 

*『ゼロ年代の想像力』p170より

 

参考文献

 

東浩紀編『ゲンロン3 脱戦後日本美術』、ゲンロン、2016年

黒瀬陽平『転位の美術史』(『ゲンロン3』所収)、2016年

宇野常寛『ゼロ年代の想像力』、ハヤカワ文庫、2011年

 

 

文字数:9029

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