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汝の愛する人を憎みなさい。

 

 

黒沢清は、愛を描く作家である。近年の彼の日本映画作品において、その特徴を述べるならば、それは物語の中で中心的な役割を持つ夫婦の関係が、半ば破綻していることにある。例えば『岸辺の旅』(2015年)では、夫の優介が死んだ後に幽霊として妻の瑞希の元に帰ってくるのだが、その時瑞希は、なぜ優介が自らの元を去ったのかを理解していない。優介は別の女性と浮気までしていた。続く『クリーピー』(2016年)では、高倉夫婦の妻・康子が夫に対して夫婦生活の破綻を訴えかける場面がある。最新作の『散歩する侵略者』(2017年)においても、妻・鳴海が夫の浮気を取り上げ、過去の夫婦生活の破綻を主張する。

2015年以降に製作されたこれらの作品は、幽霊、サイコパス、宇宙人と三者三様に異なりながらも、不気味な存在が物語に登場するという点で共通する。そんなジャンルの異なる「来訪者」たちが出会うのは、夫婦関係に問題を抱えている1組の夫婦なのである。本論考では、不気味な「来訪者」が夫婦の関係を変化させていくという観点から、2015年以降の黒沢作品が統合される様を示していく。

その時に重要となるのが、なぜ「来訪者」は夫婦関係に変化を加えることができるのか、という点だ。それは彼らが不気味だからという単純な理由に止まらない。そこには、3組の夫婦が欠いていた「愛」を再帰させる一貫したメカニズムが存在する。そして、映画作家黒沢清は、「愛」の再帰をどのように描くのか、3つの作品を通してその手法をアップデートし続けているのである。

 

 

 

 

岸辺の旅 不気味な幽霊の来訪

 

まず『岸辺の旅』で描かれる1組目の夫婦関係は、どのように変化していくのか。

『岸辺の旅』は、3年間行方不明となっていた夫の優介がある日ふいに帰ってきて、妻の瑞希を旅に誘う作品である。その時、優介は幽霊の姿で登場する。夫婦の旅は、優介が失踪してから帰宅するまでに関わってきた人々を訪ねるもので、空白の3年間を辿るように旅を続けるうちに、瑞希は彼への深い愛を獲得していくのだ。

再度確認しておきたいのは、瑞希はこの「来訪者」となった優介と旅に出るまで、なぜ彼が瑞希の元を離れたのか理解していなかったという事実である。つまり瑞希は、人間として生きていた時の優介から発せられるネガティブな感情の現出に気づくことができていなかった。なぜ瑞希はそれに気づくことができなかったのか。

一つの答えを考えるならば、それは瑞希に、優介に対しての憎悪が足りていなかったためではないだろうか。社会学者の大澤真幸は、『憎悪と愛の哲学』の中で、「憎悪と愛とは不可分」であり、「もし真実の愛というものがあるとすれば、それは憎悪とともにある愛だけだ」と主張する。

日本人は、しかるべき相手に謝罪や反省を求めない。日本人は、他者に対し、自分があまり恨まないので、誰かが自分を恨んでいるのを自覚しにくいのだと大澤は続ける。例えば、原爆問題。もし日本人が、原爆投下に関してアメリカに強い憎悪を抱くならば、それと同じような憎悪を日本人に向ける人もいるのだということに思い到りやすい。アジアの国々、とりわけ中国人や韓国人から、かつての侵略戦争に関係する問題で謝罪を求められると、ひどく当惑したり、中には逆ギレする日本人がいる。彼らは、自分が恨んでいないからこそ、他人が自分を恨むことが赦せない気分になるのである。

裏返せば、相手に対してきちんと憎悪の念を持つことができる時、私たちは相手の想いを想像し、愛で応えることができる。キリストの言葉もまた、憎悪と一体化する愛の存在を明らかにするものである。キリストによる命令「汝の敵を愛せ」を文字通り解釈し、この命令を裏返すならば、そこに「愛する人を憎め」というメッセージが現出する。「憎悪と一体化している愛だけが、ことを成し遂げることができるとキリストの命令を解釈する時、この2つの言葉は同じことを言っている」のだと大澤は指摘する。

黒沢清は、この「憎悪と愛」の関係、憎悪が愛をもたらす様を『岸辺の旅』の中で表現している。今作品において、優介と瑞希が抱き合う場面が3回だけ存在する。3回目は当然、物語終盤の2人のラブシーンにおいて描かれるのだが、実はそれ以前の2回の抱擁は、憎悪という共通性の元に繋がっているように見える。

1回目の抱擁の場面。それは瑞希の部屋に優介が現れ、立ち去ろうとする優介に瑞希が「待ちなさいっ」という、夫婦にしてはやや強い言葉を浴びせる直後の場面である。瑞樹が優介の姿を久しぶりに目撃した時、彼は土足で家に上がり込んでいた。瑞樹はそのことに不快感を覚える。そして、しばらくして優介は再度部屋に現れた時、彼はまたしても靴を履いたままである。瑞樹はそれを注意した後、感極まって彼に抱きつくのである。瑞希が優介に抱きつくまでの心理を誘導しているのは、土足で上がり込んだという事実が生み出す小さな憎悪である。

次に、2回目の抱擁の場面を見てみよう。旅の途中、バスの中でふとした時に2人は優介の浮気について話し出す。そこで深刻さを見せる瑞希と楽観的な優介は対立し、怒りの末に瑞希は突然バスを降りてしまう。その後、瑞希は優介の浮気相手である松崎朋子の職場を訪れ、彼女もまた既婚者だったことを知り、「浮気」という現実を前にしてさらに憂鬱な気分になってしまう。その後部屋に帰った瑞希を出迎えたのは優介だった。そこで2人の2回目の抱擁が行われる。ここでも、2人の抱擁が起きたのは、瑞希が優介に対して憎悪の感情を持った直後の場面である。

幽霊として現れる優介との旅の中で、瑞希は、この「来訪者」に対し時に憎悪の感情を持つ。憎悪を持ったすぐ後の場面で2人は抱擁するのである。幽霊となった「来訪者」も瑞希にとっては優介なのであり、「来訪者」へ憎悪を向ける体験を通して、瑞希は生きていた時の優介に向けても愛を育むことができる。

夫婦同士の間で憎愛が生じる時、その憎悪はどこかからやって来た「来訪者」によってもたらされる。それが黒沢清の表現する憎悪と愛の関係である。ただ単純に愛を現出させるのではなく、愛の芽生えに「憎悪」を関与させ、それを「来訪者」に持ち込ませる手法こそが、映画作家黒沢清の演出を形作るのである。

『岸辺の旅』においては、妻・瑞希の前に夫・優介が幽霊として「来訪」する。その「来訪者」が瑞希に対して「憎悪」を伝授することになる。私たちがここで考えなければならないのは、今作における「来訪者」とは夫婦にとっての「完全なる第3者」ではないという事実である。憎悪は夫婦の外から持ち込まれない。物語では、あらかじめ瑞希のことを理解している優介が幽霊となって現れただけであり、「来訪者」は死者といえどもどこか日常の色を強く宿している。

それでは、この「来訪者」が夫婦からみて完全に他者であり、その「来訪者」が憎悪をもたらしにやってくる場合、夫婦の愛にはどのような帰結がもたらされるのか。黒沢清は、続く作品『クリーピー』において、第3者的な「来訪者」と夫婦の憎愛の接続を試みることになる。

 

 

 

 

クリーピー 不気味な人間の来訪

 

元刑事の犯罪心理学者である高倉と妻の康子は新居に引っ越す。新しい隣人の西野は暴力的なサイコパスであり、彼の猟奇殺人に夫婦は巻き込まれていくこととなる。高倉は、かつて起きた日野市一家失踪事件との関連から西野の正体に迫るが、西野の悪巧みに屈した康子は覚せい剤の餌食となり、彼女は西野に精神をコントロールされてしまう。西野のやり口とは、覚せい剤を用いて一つの家族を崩壊させ、殺人を済ませた後にその家の主人になりすますものであった。

この作品でも、私たちは、西野を高倉夫婦の人生に対する特殊な「来訪者」とみなすことができる。なぜなら、西野は自らが成り替わる家族を求めて、「コの字型」の集落へやってくるサイコパスであるからだ。その地に後から引っ越してくる高倉夫婦も「来訪」しているように見えるが、西野は一般家庭の中へ入り込み猟奇殺人を行うこと、つまり「来訪」それ自体を実存的に含んでいる人物なのだ。

そして、『クリーピー』においても、夫婦の関係が問題を抱えていたことが示される。物語の中での康子は、気遣いを大切にする典型的な日本人として描かれる。彼女は他者に向けて憎悪の感情を向けることがない分、他者から向けられるネガティブな感情にも疎い。夫である高倉は犯罪心理学に長けているため、妻の康子でさえも他者として客観的に見ている節がある。彼はまた、刑事時代に起こした不祥事の影響で感情の起伏を閉ざしながら生活していた。そのような状態において、高倉もまた、康子に憎悪の感情を向ける機会を持たない。つまり、この夫婦の間には憎悪の感情が存在せず、それを土台にした愛が存在していないのである。

第3者的な「来訪者」である西野はそこにつけ込んでいく。物語の序盤で、康子が唯一怒りや激しさを表現するのは、西野との不愉快な会話の後で手作りのチョコレートをゴミ箱に思いきり投げ込む場面であった。思えば最初の出会いから、西野は康子に対してネガティヴな印象を投げかけ、康子はそれに小さな憎悪という形で反応していたのだ。「来訪者」の行動によって康子の「憎悪」が誘導される。

ある日西野は、康子に対して、「自由になりたかったんじゃないですか?」「ご主人と僕とどちらが魅力的ですか?」と声をかける。この時点ではまだ、康子が自身の意思を持って西野から離れなかったのかどうかは描かれない。しかしながら、直後の場面において、覚せい剤の影響が現れつつある康子は、高倉に対して「不満なんかないよ。ただわからないの。もう全部」という強い言葉を投げかける。そして物語の終盤には、康子を救うため西野の宅内へやって来た高倉に対し、「私もうとっくにあきらめちゃってたのよ、色んなこと。せめて引っ越しでもしたらいいことあるんじゃないかなと思ってたけど」という決定的な言葉までも発するのだ。この言葉から、康子が、高倉に対して潜在的に持ちえたかもしれない憎悪の感情を、これまで抑え込みながら生活し続けてきたことが明らかになる。

高倉と康子の間にある愛は、互いに対する憎悪の感情を抑制することによって成り立っていた。そう考えるならば、康子は、自身が西野に対して憎悪の感情を持ってしまったことを自覚したが故に、彼に取り入る隙を与えてしまったのだと解釈することができる。つまり、そこで康子が「直感的に」「魅力を感じ」たのは、西野に向けた憎悪の感情なのである。

康子は憎悪に魅力を感じている。それでは、夫婦にとっての第3者的な「来訪者」が憎悪の念をもたらした時、その第3者は愛を獲得することができるのか。『クリーピー』においては、その可能性は結実しない。康子が魅了されているのは、西野ではなく、西野がもたらす憎悪自体であるからだ。

今作品において、憎悪は一体どのようにして愛と結びつくのか。夫婦間にも愛はもたらされるのか。『岸辺の旅』から引き継がれた問題設定を大きく展開させるのは、物語後半における康子の行動である。

高倉が西野に激しく迫った時、康子は自らの夫の腕に、覚せい剤を打ち込む。憎悪と愛のメカニズムで解釈するなら、康子はこの行動を通して、高倉に憎悪を伝授するのだ。過去のトラウマから、心を閉ざしたような生き方をして来た高倉にとって、妻である康子に裏切られたという決定的な事件は、彼が彼女に向けて憎悪の念を抱くに足る瞬間となる。康子がここで行ったのは、「来訪者」の「憎悪をもたらす」という役割だけを引き受けることであった。

『岸辺の旅』において、幽霊という「来訪者」が夫婦間に憎悪をもたらすような効能を、西野というサイコパスの「来訪者」はその語りや覚せい剤を持って代用する。しかしながら、西野から憎悪を伝授された康子は、愛の方向を西野に向けることはしなかった。なぜ康子は夫に覚せい剤を打ったのか。それはまず、夫に対する憎悪をすでに表明した彼女が、夫を愛することを決めたからである。そして、自身が西野によって憎悪をもたらされたようなやり方で夫に憎悪を与えようとするならば、彼女にできるのは、その「来訪者」の実利的で人間的な能力を借りることに他ならない。そうして彼女は、高倉を自身と同じ状態にまで落とし込むのだ。

だからこそ、その後に起こる一つの場面では、夫婦の間に深い愛が生まれているように見える。自身が受け取ったビスケットを、撹乱状態のまま寝ている高倉の口に運ぶ康子にはある種の清々しさが現出する。それは、彼女が高倉に夫婦間に蓄積していた負の感情をはっきり言えたからだけではなく、そこに憎悪に裏打ちされた深い愛が芽生え始めているからである。互いのことを憎みあうことができたからこそ、康子も夫のことをこれまでよりも深く愛することができる。

 

ここまでの議論をまとめよう。黒沢清が、うまくいかない夫婦の関係を作品内で描き出す時、そこには不気味な「来訪者」の存在が見受けられる。「来訪者」は夫婦間に深い愛をもたらすため憎悪を伝授する役割を担うものであり、黒沢清は2015年以降に製作した2つの作品を通して、日本人がうまく理解できていない「憎悪と愛」の真実を描き出した。

『岸辺の旅』においては、死んだ夫の優介が幽霊的な「来訪者」となることで、妻の瑞希に憎悪がもたらされ、それを媒介にして夫婦間に愛が生まれた。『クリーピー』においては、夫婦と憎愛の関係はさらに複雑化する。確かに、もともと憎悪が生じる瞬間が存在せず、夫婦間の関係が上手くいっていなかったことが明らかになる点では、『クリーピー』は『岸辺の旅』に類似する。しかしながら、ここで「来訪者」は夫婦とは異なる第3者として現れる。西野は康子に憎悪を授け、康子はその第3者の言いなりになってしまうのだ。そして、康子と第3者的な「来訪者」との間には愛が生まれないことも見逃せない。なぜ愛が生まれないかといえば、康子自身が夫に対して、「来訪者」のように、憎悪を伝授する存在として振る舞うようになるからだ。自ら憎悪を与えた夫との間に、彼女は愛を見出すことになる。

それでは、この第3者的な「来訪者」とは、愛を獲得することができない存在なのか。さらに、この「来訪者」が逆に夫婦の役割を奪ってしまうならば、どのような事態が生じるのか。そこで「来訪者」が第3者性を保ちつつも夫婦のどちらかに成り代わったとすれば、夫婦の愛はいかに展開するのか。黒沢清が最新作で試みるのは、『岸辺の旅』と『クリーピー』を通して描かれた、夫婦 − 憎愛 − 「来訪者」の問題設定をさらにハイブリッドに押し進めることである。

 

 

 

 

 

 

散歩する侵略者 不気味なエイリアンの来訪


第3者としての「来訪者」が夫婦関係に侵入する物語が描かれる。それが『散歩する侵略者』だ。数日に渡って行方不明になっていた夫のシンジは、妻の鳴海に病院で対面する。その時シンジは、鳴海がこれまでに共に時間を過ごした「真治」ではなく、宇宙からの侵略者によって、彼自身の身体と意識を乗っ取られている状態である。雑誌を逆さまに見ていたことを鳴海に注意されたシンジは、自らが宇宙人であることを観客に示唆する言葉を映画の冒頭で投げかける。「それは怒ったということですか?謝りましょうか?ごめんなさい」。「敬語やめて」と鳴海は怒る。

ここで、鳴海がシンジに対してごく小さな憎悪を向けることに注目することはできるが、より重要なのはシンジの言葉の方だろう。なぜなら、彼ははじめから、日本人的な憎悪対処方法をインプットされているかのように見えるからだ。相手が憎悪を持っているかどうかははっきりとはわからない、わからなくてもとりあえず謝れば良い、だから相手が憎悪を持っているかどうかはそこまで重要にならない。怒られる前に謝るという行為を通して、自分に向けられた憎悪自体の存在感を奪ってしまう。シンジは宇宙人であり様々な概念を持っていないことは明らかなのだが、他者からの憎悪をよく理解していない典型的な日本人のようにして、シンジは物語に現れる。この作品においてもまた、憎悪と愛のメカニズムが関与している可能性が、冒頭から観客に示されるのだ。

病院から出た後、駐車場に停めた車に向かう途中で、鳴海からまた別の憎悪がもたらされる。真治が勤務する会社の女性と旅行に行っていた事実が明かされる。そのことに鳴海は怒る。「真ちゃん、私を裏切ったの?」「夫婦だよね?そんなんとっくに終わってるよ」と彼女が言葉を発する時、中身が宇宙人のシンジはそれが何のことかわからないが、観客には夫婦の関係が決して良好ではなかったことも示唆される。

ここまで述べてきたように、シンジは宇宙からやってきたエイリアンであり、真治と鳴海の夫婦にとっては第3者的な「来訪者」である。そうでありながら、シンジは真治を乗っ取ることで、夫婦関係においては夫として行動していくことになる。『岸辺の旅』と『クリーピー』をハイブリッドに融合した今作品においては、夫婦の役割を担う第3者的な「来訪者」は、愛を獲得することができるのか。物語を先に進めよう。

物語では、日本に3体のエイリアンが来訪し、地球侵略に向けて情報を集めるために、地球人の言葉の元にある「概念」自体を奪っていく。自宅に戻ったシンジもまた、他2体のエイリアンと同じように、鳴海の目を盗んで近所を散歩しながら概念を集めていくことになる。鳴海は、夫が元の夫ではないことを半分馬鹿にしつつ、彼の言う通りに、概念を集めるためのガイド役を引き受ける。

夫婦が揃って教会を訪れる重要な場面がある。鳴海が教会の空気の中で一人佇んでいる間、シンジは子供達に「愛」とは何か訪ね、それを理解するために、神父からは「愛」という概念を奪おうとしていた。神父は「愛」について雄弁に物語るのだが、彼から概念の奪取を試みた後、協会を出てシンジが発した言葉に耳を傾けたい。「全然ダメだった」。それに対し、鳴海が「愛なんて簡単にイメージできないよ」と返す。つまり、周りの人に対し「寛容であり、親切であり、妬まず、自慢をせず、礼儀正しく、おごらず」にいることを求める日本人の神父は、愛についてイメージできていなかったのである。このシーンは、地球が侵略されることを悟った鳴海が、シンジに自らの「愛」という概念が奪われることを願う後の場面に繋がっていく。

シンジは、神父から愛の概念を奪うことはできなかった。しかしながら、その後に訪れる場面において、シンジが鳴海に対し、小さな愛を芽生えさせているような時間が存在する。宇宙人2人から逃げることを決心したシンジと鳴海、そこでシンジは自分が乗っ取られる前の「真治」なのか、宇宙人が成りきる「カセシンジ」なのか、もう分からなくなっていることを告白する。そして、鳴海と一緒に生活をもう一度やり直したいと願うのだ。なぜ鳴海と共に人生をやり直したいのか。鳴海を前にしてシンジとしてのアイデンティティが揺らぎ、彼に「真治」の影響が宿り始めているというのは、それは愛の概念を持たないシンジの中に、鳴海への愛が、真治を通して浸透してきているということではないのか。鳴海に対して小さな愛を感じたからこそ、彼女と一緒に人生をやり直したいとシンジは発言したのだ。

そしてホテルの中に入った2人。首を絞めて殺してくれという鳴海の懇願をシンジは拒否する。それならばと、宇宙に持ち帰る地球人の遺産として「愛」を自分から受け取ってくれと鳴海は願う。「愛っていう概念を奪わないと、人類を誤解したまま」だとシンジに伝える。彼女から愛の概念を奪ったシンジは「うわー何だこれ、すごい」とよろつき、鳴海は「あっ わたしもう奪われた?本当に奪ったの?」という反応を見せる。シンジには「全部違って見える」が鳴海には「何も変わらない」という状態がもたらされる。

今作においては、鳴海から「愛」の概念を受け取った宇宙人のシンジが、同胞にその「愛」を共有し、地球侵略が取りやめになったというのが、考えられる一般的な作品解釈である。第3者的な「来訪者」は、とうとう愛を獲得するに至るのだ。しかしながら、今作品を前2作と同じ文脈の中で捉えてきた私たちには、物語はまた別の表情を見せることを示したい。

前2作との比較を行った時、今作品において起こっている重要な変化とは、憎悪をもたらすはずの「来訪者」がエイリアンであり、憎悪や愛といった概念自体を元々知らなかったという点である。シンジはその何も知らない姿勢を通して、鳴海に小さな憎悪を誘発させる「来訪者」なのであった。憎悪を知らないまま憎悪を誘導するそのような「来訪者」を前にして、私たちには新しい解釈の可能性が開かれる。そして、その新たな解釈はもちろん、黒沢作品の特徴である憎愛のメカニズムと結びついていなければならない。

まず、シンジが「憎悪に結びつかない愛」を、すでに獲得していた可能性から振り返りたい。鳴海との共同生活を送る宇宙人の「カセシンジ」には、地球人の真治の何かが浸透し、両者が入り混じったような状態が保たれていた。シンジはシンジのまま、鳴海と一緒に人生をやり直したいと発言する。そして、物語冒頭の会話はどうだったか。「それは怒ったということですか?謝りましょうか?ごめんなさい」と言葉を発するシンジに欠けていたもの、シンジがきちんと理解できていなかったものとは、「憎悪」の感情であった。

ここで浮かび上がるのは、シンジが鳴海から「愛」の概念を奪おうとした時、そこで彼が奪ったのは、愛の裏返しでもある「憎悪」の感情だったのではないかという解釈である。愛を究極にイメージした鳴海の中に無意識に存在したのは、憎悪と一体化した愛であり、宇宙人はその深みを増した「愛−憎悪」こそを理解した。人類の歴史に積み重なった深い憎悪を知ったことで、愛を真に受容し、宇宙人は侵略を取りやめたと私たちは考えることができるのだ。

概念を奪われた直後、何が起きたか理解できていない鳴海の様子は、彼女が憎悪と繋がった深い「愛」を持ちながら、愛と憎悪が繋がっていることには自覚的でなかった証拠のようにも見える。彼女は「愛を奪われる」と思っていたのに、実際に奪われたのは憎悪である。だから彼女は何かを奪われた気がしない。しかしながら、憎悪を奪われた鳴海は映画の最後に無表情を保った状態で現れる。地球に残ったシンジが「ずっとそばにいるよ 最後まで」と心の声で呟くとき、鳴海の目には涙が浮かんでいる。これは彼女の中に、憎悪と一体化しない愛が残っている証なのである。

このようにして、『散歩する侵略者』は、エイリアンが、憎悪と一体化した愛を獲得する物語なのだと理解できる。第3者的な「来訪者」としてやってきたエイリアンは、自らを憎ませ、人間に「憎悪に支えられた愛」を獲得させるだけではなく、真治や鳴海から、憎悪と一体化する愛を獲得するのである。

しかしながら、シンジが「愛−憎悪」を獲得することと引き換えに、妻の鳴海からは憎悪が引き抜かれてしまった。だからこそ、ここでは「来訪者」に憎悪と一体化した愛がもたらされても、夫婦間にはそのような深い愛が生じないということに注意しなければならない。第3者的な「来訪者」は、パートナーとの双方向的な関係性の中でそれを持つことが許されない。

 

 

 

 

 

憎愛をもたらす第3者的「来訪者」の正体

 

黒沢清は、第3者的な「来訪者」による「愛−憎悪」の不能を一貫して描き続ける。人間夫婦によるそれは成就することがあっても、不気味なものとして現れる第3者的「来訪者」には憎悪と一体化した愛はもたらされない。彼らは人間に憎悪を伝授することで、夫婦間の関係を修復させるにも関わらず、自らはそのような夫婦になることができないのだ。

『岸辺の旅』において、「来訪者」に対して憎悪の念を持つことになった瑞希は、死んでしまった優介との間に深い愛を実らせる。「来訪者」の役割とは、登場人物に憎悪を与え、より深い愛へと向かわせることにあった。ここで幽霊的な「来訪者」の役割を担った優介は、初めから夫婦における片側の存在として描かれる。

この『岸辺の旅』を発展させた先に、「来訪者」が夫婦とは異なる第3者的な存在である場合、その深い愛はどのようにしてもたらされるのかという問題設定が生まれる。黒沢がその可能性を模索したのが『クリーピー』である。

『クリーピー』においては、サイコパスの「来訪者」西野が、高倉夫婦の前に現れ、まず妻である康子に憎悪の念を抱かせる。夫婦の間に欠如していた憎悪に魅力を感じた康子は、西野の手に落ち、覚せい剤を打たれてしまう。しかしながら、そこで康子は西野という「来訪者(=人間)」の特徴を利用して、夫に対しても憎悪を伝授するのである。妻に裏切られ覚せい剤を打たれた夫との間に、憎悪と一体化した愛が浮かび上がり、康子は夫の胸で泣き叫ぶラストに向けて、憎愛の正体に迫っていく。ここで、第3者的な「来訪者」は愛を獲得することなく、夫婦の妻・鳴海は「憎悪を伝授する」役割を西野から奪い、自らの手で夫との間に憎悪と一体化した愛を獲得するのであった。

はたして、第3者的な「来訪者」は愛を獲得することができるのか。そして、その「来訪者」が夫婦の役割を奪ってしまった場合どのような帰結がもたらされるのか。その問題設定を描き出したのが『散歩する侵略者』である。

エイリアンであるシンジは、妻の鳴海との共同生活を通して感情を形成していく。そして、乗っ取られた人間「真治」の持つ愛までもが、エイリアンのシンジに浸透してくる。真治と鳴海もまた、深刻な夫婦間の問題を孕んでいたことを思い出すならば、ここでの愛は憎悪とは結びついていないものである。シンジが愛を深く理解するのは、鳴海から憎悪の概念を受け取る時だ。そこで憎悪と愛は一体化する。このように、『散歩する侵略者』では憎愛が「来訪者」を突き動かし、「来訪者」こそが変化していく様子が描かれる。これまで物語に登場し、憎悪を伝授して夫婦間の愛を現出させてきた「来訪者」は、最新作において、夫婦に変化をもたらすだけでなく、むしろその変化の「受け手」となることによって、深い愛を獲得するのである。

第3者的な「来訪者」は、彼自身が「愛−憎悪」を獲得しながらも、それを夫婦で達成することはできなかった。『岸辺の旅』が触れずにいた第3者的な「来訪者」の可能性を描き、『クリーピー』が描けなかった第3者的「来訪者」の恋愛関係を、『散歩する侵略者』は鮮やかに表現する。しかしながら、その引き換えとして、前2作が成立させていた夫婦間の双方向的な憎愛関係を欠落させるのである。*(図表 2015年以降の黒沢清作品の特徴)

以上のように、映画作家黒沢清は、2015年以降に発表した3つの日本映画作品において、憎愛をめぐる問題を夫婦と「来訪者」というフォーマットの元に一貫して表現し、段階的にアップデートし続けている。

最後に、これまで触れてこなかった一つの疑問を提示したい。なぜ黒沢は『岸辺の旅』以降、「来訪者」の役割を夫婦にとっての赤の他人(第3者)に求めたのか。今のところ、その答えはまだ描かれていないように思える。しかしながら、憎愛をもたらす第3者的「来訪者」の存在にこそ、黒沢清という作家の深みが真に現れているのではないか。黒沢は次第に何かに近づいているのだ。次回作における表現を楽しみにしつつ、その機会には再度の考察を行いたいと思う。2010年代末、不気味な存在は昇華する。

 

私が来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。私は敵対するために来たからである。(マタイによる福音書10章34-35節)

 

 

 

 

 


 

 

 

*図表 2015年以降の黒沢清作品の特徴

 

  夫婦の憎愛 来訪者は夫婦になるか 来訪者の第3者性 第3者的な来訪者の憎愛
岸辺の旅
クリーピー
散歩する侵略者

 

 

 

 

 

参考文献

 

大澤真幸『憎悪と愛の哲学』、角川書店、2017年

文字数:11408

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