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観客2.0 +(観客3.0)

 

 

 

観客1.0と観客2.0

 

アニメーション研究者の土居伸彰いわく、個人作家のアニメーション作品においては、作り手の感じ取る世界のあり方が濃密に反映される。観客は、それらの作品を観るとき、作家という「私」が見た世界の内側に飛び込み、そこから世界を眺めるような経験をする。例えば、スタジオジブリの宮崎駿作品などが代表するように、世界の中にいる「私」が世界と対峙することで「私」を確立し、「私」のままで生き延びる様子が描かれる。観客は「私」に感情移入する。

21世紀に起こったこと、それは、アニメーションに眠る本質が(一義的な)象徴でもなく、作品自体が語る物語や意味を一方的に受け止めるものでもなくなって、見ているうちに視線が滑り、自分自身の記憶や認識のフォーマットの方をむしろ探らせ、もしくは無のうちに今まで見えなかった何かを見つけ、自分自身のものにするようなことを許す、空洞としてのイメージが生まれたことである。それは「私」が「私たち」になっていくその運動だ。(『21世紀のアニメーションがわかる本』p202より)

現代社会において普遍という概念の成立が難しくなる中、作品は「空洞化するか、もしくはインタラクティブに機能する接着点・中心点を無数に散りばめる」ことによって、複数の「私たち」が吸着可能になるよう性質を変えていった。土居が語るように、アニメーションの世界だけでなく、一般的な映画の世界でも、観客は「私」から「私たち」の物語への移行とともに新たな変化を遂げている。ここでは、「私」の時代の観客を観客1.0、「私たち」の時代の観客を観客2.0と名付けよう。

この命名は、2010年代に現れた観客3.0を見出すために適用される。なぜならば、観客2.0時代までの議論では、主に劇場スクリーンやテレビ画面を通して映画を受容することに重きが置かれ、Netflixなどの映像配信サービスで作品を鑑賞する観客の姿と、それに付随する作品形態の変化が語られることが少ないためである。つまり、観客3.0とは、データベース消費時代の映像観客の姿に他ならない。

 

 

 

 

観客3.0

 

サブスクリプションサービスを用いて映画を鑑賞する観客の数は見過ごすことができないものになっている。2016年現在、アメリカにおけるConnected TV(インターネットに接続されたテレビ端末)の普及率は約70%にも上る。Netflixに加えて、Amazon Prime、Huluなど日本国内でも映像サブスクリプションサービスが勢いを増している状況の中、映画館で映画を見る観客を想定するだけでは、正確な観客像を捉えることはできない。サブスクリプションサービスで映画を見る観客の数が、映画館で映画を見る観客の数を凌駕する日も来るかもしれない。そのような想定を踏まえて定義されるのが、観客3.0である。

そして、観客3.0最大の特徴とは、観客1.0や観客2.0とは異なる「まなざし」を持つことである。作家が描く「私」の葛藤の物語を受容する観客1.0にとっては、映画館のスクリーンを「見る」ことが重視される。それは作品が意味的に密度の濃い画面を表現するからである。そこにあるのは「強いまなざし」と言えよう。観客2.0は、作品中の空洞に意味を埋めていき、「私たち」の物語を創造する。そこでは、空洞化する画面に対して「見る」ことの価値は低下する。彼らが持つのは、観客1.0とは対照的な「弱いまなざし」である。それでは、観客3.0の持つ新しい「まなざし」とは一体どのようなものだろうか。

思想家の東浩紀は、ゲンロンβ19における論考『まなざしからタッチパネルへ』の中で、現代社会ではまなざしの拡散、偏在が起こるため、まなざしを一つのものとして名指すことが困難になっていると指摘する。20世紀までは、見る主体とみられる主体は同じ次元に属していた。だからこそ、見るものと見られるものとの関係から全てが考えられていた。しかしながら、現代では見るものと見られるものによる時間の共有よりも、その差異こそが価値と権力を生み出していく。例えば、現代において最も優勢な視覚メディアである監視カメラとスマートフォンは、偏在するだけでなく、ネットワークを介してデータベースに接続し、図像の共有と事後的な検索を可能にする。そして、データベースを発見するためには、タッチパネルの活用が鍵になる。見えるものとデータベースを繋ぐタッチパネルは、触覚を必要とし、先行する様々な視覚的画面にはない特徴を有する。

つまり、現代を生きる人々の生活に重要性を持って登場してきたのは、データベースへの「タッチ」という新たな「まなざし」であり、東はそれを重要視しているのだ。近代では写真や映画を世界を捉えるためのツールとして活用していたが、ポストモダンにおいては、世界をタッチパネルとして捉えることができる。普通に「みる」のではなく「データベースに触れる」ことが「まなざし」として機能する。そしてこの考えは、観客3.0の議論にも共有することができる。

PCに映画をストリーミングする観客3.0は、画面をタッチ(クリック)することで映像をまなざし、様々な可能性を切り開いていく。観客3.0は、映画の言語(音声)を変換することで、例えば同じ映画でも雰囲気の異なる作品にすぐに変換してしまう。2時間の映画を、20分毎の細切れの映像作品の集合体に変えてしまうこともできる。そして何より、PC画面上にはストリーミングサイト以外の情報、リンクが共存しているために、観客は映画の合間にニュースを読んだり、音楽を聴いたり、映画鑑賞とは全く別のことを行うことができる。映画出演者や映画批評などを調べながら作品を見ることで、もともとの映画を軽々と「分解」していく。映画を見ている最中に、Twitterなどを通して他者とのコミュニケーションを図ることもできる。

観客3.0とは、データベースから好きな映像作品を選び、言語や音声の選択をしながら、時間を止めたり巻き戻したりしながら、作品を鑑賞する観客のことである。そこに関係するのは、視覚と触覚の存在である。映像作品の映される画面を見るだけでなく、画面をタッチすることを通して彼らは観客体験を獲得していく。そのような新しい「まなざし」を持つ現代的な観客の姿を観客3.0として定義し、以降の分析を行っていく。

 

 

 

 

 

スパイダーマンは非リアからリア充へ、戻ってきたヒロイン

 

では、サブスクリプションサービスで展開される、観客3.0時代の映像作品の特徴とは、いったいどのようなものだろうか。観客1.0に対応する作品1.0、観客2.0に対応する作品2.0と共に比較検討する。作品1.0や作品2.0を取り上げるのは、作品3.0が成立するための土台を確認する目的に加えて、それらが観客理解を巡る大きな流れの上に存在していることを示すためでもある。サブスクリプション限定の配信作品の数が急速に増えている中で、その新しい流れを示すためにここで分析対象に選択するのは、アメリカのマーベルが発表する映像作品である。

マーベルの映像作品は、コンセプトに「マーベル・シネマティック・ユニバース MCU」を置いていて、これは文字通り、代表的なマーベル作品の主要キャラクターや作品世界がそれぞれリンクし合うという意味である。「現代のネットワーク技術は、映画やドラマなどの膨大かつ多様なコンテンツから、作品という確固としたまとまりや固有性を失わせ、フラットな単一のプラットフォームの上に断片化し、あいまいなまま均一に乗せてしまう」。批評家、映画史研究者の渡邉大輔は、マーベル映画における無数の共有世界設定やスピンオフの隆盛が、ポストメディウム環境のどこまでも続くフラット性や混淆性を前提とした新しい状況の現出だと解釈する。このように、ポストメディウム環境をリアルタイムで追随するマーベル作品を通して、新しい観客像を考える。マーベルの作品世界には、観客1.0から観客3.0までの議論を貫く線が存在しているということも明らかになるだろう。

 

・作品1.0 初期『スパイダーマン』シリーズ(200220042007

・作品2.0 『アメイジング・スパイダーマン』シリーズ(2012.2014

 

初期『スパイダーマン』シリーズにおいて重要なのは、「<仮面>と<素顔>の対立」という主題である。シリーズの主人公であるピーター・パーカー(スパイダーマン)は、冴えない化学オタク青年<素顔>でありながら、遺伝子組換えを施されたクモに噛まれたことで驚異的な身体能力を持つ覆面ヒーロー<仮面>になってしまい、その二面性に終始悩み続けることになる。ピーターは、大きな力を得てしまったがゆえに、その事実を周囲の友人や恋人にも打ち明けることができない。旧三部作では、視覚的にはスパイダースーツの有無によって判別される主人公の二面性が、私的な日常や感情と、公共的な責任や主体性という二つのペルソナに置き換えられ、その狭間で苦悩する主人公の「緊張に満ちたズレと葛藤」の物語が描かれる。

そして、映画評論家の藤井仁子が論考『デジタル時代の柔らかい肌』の中で鋭く指摘するのは、その仮面と素顔の対立の物語が、まさに表象においても、デジタル映像とアナログ映像の対として象徴的に体現されているという点である。すなわち、旧三部作におけるスパイダーマンの身体とは、映画による表象の2つの位相−アナログ(=<素顔>)と、デジタル(=<仮面>)のせめぎあいの中に存在していた。<仮面>から独立して<素顔>のアイデンティティを打ち立てようとすることに、ピーターは失敗する。私たちは、その試みに対応する倒錯した映像の連なりとして、旧三部作を捉えることができるのだ。そこでピーターの「私」の分裂の物語へ引き込まれる観客にできることは、観客1.0的な作品受容となる。

渡邉大輔は論考『ディジタル・ヒーローの倫理的身体 マーベル映画とディジタル表現のゆくえ』において、藤井が提示した「<仮面>と<素顔>」の対立を発展させている。デジタルとアナログの関係が「私」の葛藤に対応するような作品1.0の特徴は失効していく。2010年代のシリーズに一貫して顕著なのは、旧三部作に見られた抑圧や分裂、葛藤のモチベーションの徹底的な不在である。

アンドリュー・ガーフィールド演じるピーターは、冴えない高校生のモデルを踏襲しながらヒロインとはすぐに恋仲になり、予期しない力をもたらされたヒーローとしての自らの境遇に深く苦悩する姿も垣間見せない。物語の中盤ではヒロインにあっさりとスパイダーマンとしての能力を明かしてしまうし、スパイダーマンの格好のまま彼女を外に連れ出したりもする。要するに、『アメイジング・スパイダーマン』におけるピーターはかなり「リア充」なのである。「仮面と素顔の対立」の主題は失効し、2000年代を通じて議論されてきたデジタルとアナログの表象的葛藤の崩壊が、作品を通してまざまざと炙り出される。

観客2.0時代を代表する一連のMCU映画では、様々なヒーローや登場人物たちが、物質的なモビリティを欠いたイメージを繰り広げる。彼らは大規模な戦闘に巻き込まれても決して深く傷つくことがない。渡邉は、マーベル映画のヒーローたちを決して「傷つかない/死なない身体」の持ち主たちだと指摘する。これは、藤井がかつて指摘した「指標性の危機」の問題とも重なる。指標とは、もともとC・S・パースが行なった記号の3つの分類法のひとつであり、「弾丸の穴」のように「その意味がその指示対象に対する物理的関係(現実との繋がり)によって成立している記号」を意味する。デジタル映像が主流になると、映画のリアリズムやその存在論的条件を、写真映像の指標性に還元することは困難になっていく。デジタル映像に呼応して、指標性に基づかない動く映像としてのアニメーションというジャンルが存在感を増してきたのもそのためである。

観客2.0時代のヒーローの「不死性」が意味するのは記号的な交換可能性である。私たちは、CGによって強化され、決して死ぬことのないデジタルヒーローの姿を通して、画面における「空洞性」を目撃する。過剰なまでのCGの氾濫は、画面における指標記号を奪い、そこにある現実を「取り替え可能」なものにしていく。空疎だけが空洞を生み出すのではない。CGイメージの氾濫はただそこにある空洞を隠しているだけであり、観客は画面の登場人物の指標記号的空洞に自らの視点を埋め込み、分散させていくことができるのだ。CG表現はむしろ空洞の存在を際立たせる。死なない、傷づかないキャラクターだからこそ、取り替え可能性を持って、観客の「まなざし」は画面の中に入り込んでいく。『アメイジング・スパイダーマン』シリーズはまさに、観客2.0を生み出す作品なのである。

このように、マーベル世界におけるヒーローと作品の在り方は、観客1.0時代から観客2.0時代への変遷に呼応している。

 

・作品3.0 『ジェシカ・ジョーンズ』シリーズ(2015、2017)

 

それでは、サブスクリプション時代のマーベル作品とはどのようなものだろう。観客3.0の前に現れたのは、幽霊的なヒーローであった。

2015年以降、マーベルはNetflix限定の配信サービスにおいて、いくつものドラマ作品を発表している。代表的なものが『ジェシカ・ジョーンズ』(2015)だ。ジェシカは、ニューヨークで探偵事務所を営む、元スーパーヒーローの女性である。子供時代に交通事故にあった事がきっかけで怪力とジャンプ力に目覚めた。その後、能力を活かしてヒーローとして活動していたが、超能力犯罪者キルグレイブによって誘拐、洗脳され、殺人を強要されるなどの心理的な拷問を受ける。彼から解放された後も、ジェシカは激しいPTSDに悩まされ、常に何かを警戒するような表情を浮かべている。

自らの身体に傷を負いながら、テクノロジーに彩られた表象とともに超能力を用いる敵を倒していくジェシカ。マーベルコミックス原作では、彼女は実はピーター・パーカー(スパイダーマン)の同級生である。科学オタクのピーターに片思いしていた影のヒロインこそがジェシカであり、ジェシカはピーターでさえ注目できないほどの地味な少女であった。彼女が告白しようとしたその日にピーターは蜘蛛に噛まれ、彼はスパイダーマンとしての道を歩んでいく。その後悪の手により洗脳されたジェシカは、アイアンマンやスパイダーマンが率いるアベンジャーズに戦いを挑まされ、生死を彷徨う重傷を負うのだ。ジェシカはいま、悪の洗脳を振りほどき、交換不可能な身体とともにニューヨークを守るヒーローの役目を務める。ジェシカ・ジョーンズは、マーベルシリーズの歴史の中で一度消え、再び蘇ってきた幽霊的なヒーローなのである。

映画の指標性とCGの盛り上がりが生み出すせめぎあいの中で忘れ去られたジェシカ・ジョーンズは、交換不可能な身体を持った存在として、観客3.0向けのアーキテクチャに現出する。この作品で注目すべきは、派手なVFXが少なく、コスチュームを着るキャラクターもいないということだ。ジェシカ自身の格闘シーンは、殴る蹴るなどの極めて指標記号的なものであり、そこに派手なテクノロジーは介入しない。そして、物語の展開を見ても、現実にいるのではないかと思わせるサイコパスの犯罪者がスーパーパワーを獲得し、被害拡大の防止にジェシカは奔走することになる。つまり、テクノロジーを駆使して画面に表現される敵たちを、素手で倒していくジェシカの姿が物語を通して描かれていく。ジェシカは、マーベル作品の中でも「傷つくヒーロー」なのである。

『ジェシカ・ジョーンズ』に登場するルーク・ケイジ、彼もまた指標記号的な肉体のぶつかり合いを通して悪をなぎ倒すヒーローである。Netflix限定ドラマシリーズとして、彼専用の新たな物語『ルーク・ケイジ』(2016)までもが制作されている。ルーク・ケイジもまた、その怪力や回復力と裏腹に、普通の人間と同じ内臓を持っている。さらに付け加えるならば、Netflix限定ドラマシリーズ『デア・デビル』(2015)は、スパイダーマンのように仮面で素顔を隠し、肉体に傷を負い続けながらニューヨークを守るヒーローの姿を描いている。彼もまた、毎回の戦いで重傷を負うあまりに、身体をいくらか守る防具を自ら開発することになる。『デア・デビル』に関しては、2003年に一度映画化されたものが再度ドラマシリーズとして復活しているということも見逃せない事実である。

2015年以降のマーベル作品に現れる、ジェシカ・ジョーンズを中心とするヒーローたちは、戦いで必ず傷つき、深い心の傷にも悩み、自らの肉体を一度きりの交換不可能なものとして所有している。それは、CGテクノロジーから遠ざけられた指標記号的な戦いにも表象される。ここでは、観客が自らをはめ込むことのできる空洞はほとんど見受けられないのだ。

 

 

 

 

 

 

なぜジェシカ・ジョーンズは身体に傷を負うのか

 

映画館ではなくNetflixに現れる新たなマーベルヒーローたちは、なぜ傷つき、交換不可能な肉体を酷使するのか。その理由は、観客3.0の在り方と関係している。

観客3.0が依存するのは、サブスクリプションサービスの用意するアーキテクチャである。観客3.0は、ここで様々な「まなざし」を表現する。字幕や音声の変換、停止や早送り、巻き戻し、さらには他ウェブサイトとの同時並行利用、Twitterによる他者との交流などがそれだ。このような観客3.0の「まなざし」に耐えるために、映像作品は変化する。具体的には、「私たち」を作るような空洞を残した作品から、再び「私」を残したまま他者を巻き込み、ドライブしていく作品への変換がそこで起こっている。作品が空洞化すると、観客3.0の多様な「まなざし」が表現されるアーキテクチャの上で、その作品は瓦解してしまう。映像作品の意味が「まなざし」によって分解され続けると、基本的なストーリーラインからも観客はかなり遠ざけられる。それによって、映像作品の魅力も減少する。だからこそ、観客3.0のまなざしに耐えるために、作品は積極的に空洞化することができなくなる。

先に述べた通り、CGテクノロジーの入れ替え可能性が担保していた身体の空洞性は、指標記号に依存した入れ替え不可能な身体の登場により縮減していく。不安定な大陸プレートの上で出現する耐震構造のように、サブスクリプションサービスというアーキテクチャが誘発する「不安定」な映画鑑賞に対応して、指標性に溢れた入れ替え不可能な身体が現れる。これが2010年代の新しいまなざし、テクノロジーに対応した観客3.0の前に現れる表象なのである。だからこそ、ジェシカ・ジョーンズは何度も大きな怪我をする。

土居は、世界との対立を感じなくなった現代の人間にとっては、デジタル由来の表現こそが合っているのだと指摘する。

個が作り出す独特のリズムなどというものは、めんどくさくて疲れてしまう。それは、自分とは違う誰かの存在を感じることだからだ。ただただ、漂白された「私たち」のリズムが永遠に続けばいい。・・・・・・アニメーションはかつて自分自身の成立のために観客を必要とした。届いて初めて完成となった。だから、依存しているとさえ言って良かった。自分のアイデンティティを必死に定めて、わかりやすい記号として観客にすりよって、媚を売っていた。だが今では、そんな必要はない。ただアニメーションはアニメーションでいるだけで、何かを意味しようとする焦燥感にもかられずに、ただ、自分自身でいればいい。そうすれば、観客の方が求めてくれるのだ。無のままで、空洞のままでいるだけで。(『21世紀のアニメーションがわかる本』p201~202より)

このような土居の見解に対して、そこに観客3.0の不在を見る筆者は反対の意を唱える。現代人が疲れるのは、むしろ「決断疲れ」をする時だ。観客は、作品の空洞化がもたらす膨大な選択肢を目撃することになる。Netflixで映像作品をコマ切れに見るからこそ、空洞性に晒された中で生じる決断疲れは軽減される。さらに、観客3.0は果たして、土居が唱えるような観客2.0的な作品を「自然に」求めるのだろうか。データベースの海の中では、ただ受容されるのを待つだけの作品は勝手に情報の波に飲まれ、観客の目に届くことはない。土居が、作品の変化とは「人間自体の性質の変化と無関係ではない」と断言するように、むしろ空洞の中で生きる人々の苦しみこそが顕在化しているのが現代社会である。空洞性から離れた、芯の通った「私」性のある作品こそ、莫大なデータベースの中で観客3.0の目に止まるのだ。この「私」性とは、作家の意図だけではなく、登場人物そのものの「私」性でもある。

2015年以降のマーベルドラマシリーズの成功は、その事実を証明している。ジェシカ・ジョーンズだけでなく、ルーク・ケイジも、デア・デビルも、大きな反響を受けて次々に続編シリーズが展開されている。そして、2018年公開の『アベンジャーズ』新作では、キャストやスタッフによって、アベンジャーズと呼ばれる超人ヒーロー軍団のうち、誰かの死が予告されているのではなかったか。

 

 

 

 

 

亡霊たちのカムバック

 

このように、観客3.0時代における映像作品では、交換不可能な身体と指標記号性に支えられた「私」の物語が再帰する。それは、観客3.0の持つ新しい「まなざし」に耐えうる強度を獲得するためである。

交換不可能な身体も、指標記号性も、かつてはテクノロジーの隆盛によって一度姿を消したものである。ピーター・パーカーの前から消えたジェシカ・ジョーンズとともに、全てはもう一度、亡霊のように現在の世界へと戻ってきた。考えてみれば、観客3.0もまた、亡霊の再来ではなかったか。私たちは、観客3.0の存在を踏まえて、そもそも映画館で映画を見るということが当然だという視点をも考え直さなけばならない。

そもそも、映画を見ることが映画館へ行くことを意味するようになるのは、1905年頃のことであった。1895年からの10年近く、映画はもっぱらヴォードヴィル劇場などで他の催し物と共に、添え物的に上映される存在にすぎなかったのである。映写機を一台しか用意することのできない常設映画館では、フィルムのかけあいの間、ピアノの生伴奏とともに、歌の内容を映像化した情景スライドや歌詞スライドが描写され、それに合わせて歌手が美声を披露したり、観客全員で合唱したりするということが頻繁に行われた。ヴォードヴィル劇場ではあくまでもライヴパフォーマンスが主だったのが、常設映画館では逆にライヴパフォ—マンスが従の立場に置かれただけである。実際に映画館からライヴパフォーマンス性が真に駆逐されるには、1980年以降のシネマ・コンプレックスの隆盛を待たなければならない。そして、映画はまた、「私物化」されるものでもあった。1940年代に流行したサウンディーズと呼ばれるジュークボックス型の映画鑑賞は、見知らぬ観客と時間や場所を共有することを部分的に免除した上、上映時間が短かったためにホームライブラリーとの相性も良かった。

このように、映画と観客の関係を現代から遡っていくと、現在の映画館文化が誕生する前から、映画と観客は当然存在していたことがわかる。観客3.0を通して私たちに示されるのは、テクノロジーの発展と映画館文化の隆盛によって歴史から消されることになった古き「観客体験」が、新たなテクノロジーとともに再び舞い戻ってきているという事実である。

映画館に行かずして、他の出し物と並行して、私物化された映画を見る。これは、サブスクリプションサービスを用いて、他のウェブサイトを周遊しながらデータベース上の映画を見る、観客3.0の行為に近いものである。つまり、観客3.0とは、観客1.0が生まれる前、映画館文化の隆盛により観客の立場から脱落してきた亡霊たち(観客0.0)のカムバックとして捉えることができるのだ。

 

 

 

 

観客の再発明

 

観客の再発明は、私たちの視界から隠れたいくつもの幽霊の存在を認識することによって達成される。

かつて、写真映像を軸とした作品1.0からCG主体の作品2.0への移行の中で消えていったのは、映画の指標性であった。それは、素顔と仮面の間で悩む非モテのピーター・パーカーが、スパイダースーツを当然のように着こなすリア充のピーター・パーカーへ変化していったことに重なる。そして、2015年以降、サブスクリプションサービスにおける映像作品製作をリードするマーベル社は、かつてピーター・パーカーの物語で忘れ去られたジェシカ・ジョーンズを蘇らせる。再帰する亡霊は、ニューヨークの街を守る新たなヒーローとなる。

私たちもまた、国内での観客1.0と観客2.0を踏まえた映画論に忘れられがちな、観客3.0の存在を意識しなければならない。観客3.0は、観客1.0の持つ「強いまなざし」、観客2.0の持つ「弱いまなざし」とは異なる「触覚的なまなざし」を持っている。そして、この観客3.0は、映画館文化の隆盛によって忘れ去られたかつての観客像(観客0.0)の再帰でもある。彼らは映画を私物化し、他の楽しみと並行させて受容する。ジェシカ・ジョーンズのような亡霊を再び映像作品の中に召喚するのは、幽霊的な観客が手にした「新しいまなざし」に他ならない。ニューヨークの表舞台で活躍するヒーローの姿だけでなく、裏路地にひっそり暮らしている影のヒーローの姿を認識するためには、観客3.0の存在を無視することはできないのだ。

そもそも、私たちには、観客2.0や作品2.0のことだけを考慮して現代の観客の「再発明」を唱えることは難しい。なぜならそれは、渡邉や土居など、1980年代生まれの同世代の論客たちによって、「すでに発明された」「現代の」観客像だからである。その観客2.0は、今もメインストリームの中にいる。映画館での映画鑑賞はなくなる兆しを見せていないし、空洞化する画面もそこに見られるはずだ。土居の「空洞化」議論を異なる角度から証明しても、それは「更新」であり、「再発明」にはならない。ならば、いま観客の「再発明」に必要なものとは何だろう。それは、観客2.0に、サブスクリプション時代の観客3.0を加えた観客像を立ち上げることである。

新たな観客像は、マーベルの作品群が用意する「作品2.0+(作品3.0)的世界」の中に、すでに現れはじめている。CGに彩られた超人(スパイダーマン、アベンジャーズ)と傷つく身体を持つヒーロー(ジェシカ・ジョーンズ)が、ニューヨークを守るために共存する。これまでの観客2.0論に加えて、実際にいまマーベルが作品3.0の中に呼び寄せている幽霊の姿を捉えるならば、そこには観客2.0と観客3.0が共存する世界が開かれる。

忘れ去られてきた幽霊たちの再帰を意識し、議論に組み込んだものこそが、現代の新たな観客論である。未来の観客像は、観客1.0から観客2.0への変化だけでは捉えきれない。観客の再発明とはすなわち、観客2.0+(観客3.0によって達成される。

 

 

 

 

 

 

 

参考文献

 

土居伸彰『21世紀のアニメーションがわかる本』、フィルムアート社、2017年

東浩紀「観光客の哲学の余白に 第7回『まなざしからタッチパネルへ』」、『ゲンロンβ19』所収、2017年

藤井仁子「デジタル時代の柔らかい肌『スパイダーマン』シリーズにみるCGと身体」、『入門・現代ハリウッド映画講義』所収、2008年

渡邉大輔「ディジタル・ヒーローの倫理的身体『マーベル映画とディジタル表現のゆくえ』」、『ユリイカ第46巻第5号』所収、2014年

『クライテリア2』、クライテリア編集部、2017年

『ユリイカ 第46巻第5号』、青土社、2014年

加藤幹郎『映画館と観客の文化史』、中公新書、2006年

 

 

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