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時間と空間を紡ぐ音楽、そこから生まれる新たなコンセプト

 

 

 

1 耳によらない音楽と目によらない美術を求めて

 

蓮沼執太は、「複雑かつ多層的に領域が混ざり合う」ことを音楽の特徴と考える。2014年にナディッフ・ギャラリーで行われた『無焦点 installation view』に関して、彼は以下のように述べている。

 

いわゆるインスタレーションには展示会場が開場している限り無限の時間がありますよね。だけど「無焦点」では、僕の音楽が収録されてレコードをかけ、映像を見る、という行為を鑑賞者に促しました。鑑賞者が能動的に音楽をかけたら作品が始まり、楽曲が終わったら作品が終わる。つまりインスタレーションという無限時間に対して始まりと終わりを設けさせたわけで、これは音楽的な作曲行為を意味しているんです。(『美術手帖』2015年5月、p60)

 

ここでは、蓮沼が視覚芸術と音楽の関係に意識的であることが示される。本論考でも、聴覚と視覚の間、音楽と美術の間に注目して、蓮沼執太の作品を分析したい。そこでは、彼の作品を受容する者に対して、聴衆でも観客でもなく、蓮沼自身が挙げているように「鑑賞者」という言葉を用いるのがふさわしいだろう。

インスタレーションという視覚芸術を「音楽」に積極的に取り入れ、複雑かつ多層的に領域が混ざり合うことを音楽の特徴と考えている蓮沼の作品を理解するには、音楽と美術が作品内でどのように「クロス」しているのかを分析することが求められる。では、まずどのような視点から音楽と美術の「クロス」を捉えれば良いのだろうか。歴史を見れば、音楽と美術はかけ離れた存在ではなく、両者がある共通の道筋を辿っていることがわかる。はじめにその過程を確認しよう。

若尾裕によれば、音楽には、物語性の呪縛からの解放を目指す過程が存在する。音楽における物語性は、西洋音楽史上、長く論点であり続けてきた。まずはオペラのような芝居の付属品として音楽が成り立ち、その後それは器楽中心となり、そして言葉や物語の直接的な高速から自立しようとする絶対音楽という特殊な音楽のスタイルまでもが現れる。ロマン派後期にはそれが肥大化し、一時間を超えるような交響曲が平気で作られるようにもなった。こうした絶対音楽は、理念としては物語性も筋もない、ただただ音による純粋な構築物を目指したわけだが、実際には、その構成原理は、脱却を目指したはずの演劇的構成の方法論に頼らざるを得なかった。これはまだ19世紀には物語性を超える方法論を見いだすことができなかったからに他ならない。そういった物語性からの離脱を明確に構想できるようになったのは、ジョン・ケージの『4分33秒』以後であり、音楽は徐々にその離別の方向を試行するようになる。ケージの始めた偶然性とは、物語性からの離別のための明確かつ具体的、そして簡単な方法論であった。

その後、物語性の呪縛からの解放はどこに向かったのか。続けて若尾は、音響芸術は音という時間に制約されたメディアからの離脱を目指し、視覚芸術(美術)は物体という空間制約的メディアからの離脱を目指していると指摘する。つまり、音楽は音のない音楽を、そして視覚芸術は視覚のない美術を試行していることになる。マルセル=デュシャンが概念芸術を非網膜的美術と呼んだのに対し、ゼス・キム=コーエンは前者を非内耳的音芸術(Non Cochlear Sonic Art)と呼ぶ。この耳によらない音楽と目によらない美術の交点は「コンセプト」という、時間からも空間からも解放された地点であり、現在の様々な芸術的試みはそこにたどり着くためのものであると若尾は指摘している。

なるほど、音楽と美術はともに、物語性からの離別の過程において、音楽なら音、美術なら視覚から離れたアプローチをあえて試行してきたのである。この「音を隠した音楽」と「視覚を隠した美術」は、美術と音楽をクロスさせる蓮沼執太の作品を鑑賞する上で重要な視点を提示するのではないか。そして、耳によらない音楽と目によらない美術の交点(=コンセプト)に現在最も迫っているものこそが、蓮沼執太が主宰する蓮沼執太フィルの演奏なのではないか。

蓮沼執太フィル(Shuta Hasunuma Full Philharmonic Orchestra)とは、「蓮沼執太チーム」のメンバーを中心に2010年に結成されたオーケストラの名称である。2017年現在、蓮沼執太、石塚周太、イトケン、大谷能生、葛西敏彦、木下美紗都、K-Ta、小林うてな、ゴンドウトモヒコ、斉藤亮輔、Jimanica、環ROY、千葉広樹、手島絵里子、宮地夏海、三浦千明によって構成されている。

耳のない音楽と、視覚のない美術の交わる交点(コンセプト)の存在。蓮沼執太フィルがコンセプトに迫っているというこの仮定を確かめるために考察対象として取り上げたい蓮沼執太フィルの演奏がある。それは例えば、蓮沼執太フィル・ニューイヤーコンサート2011 at VACANT (2011.1.7)、「音楽からとんでみる4」全方位型フィル(2014.4.27 atスパイラルホール)、蓮沼執太フィル LIVE Meeting Place(2017/2/25, 26 atスパイラルホール)に見られるような、演奏者と鑑賞者の距離が近い「全方位型」のライヴパフォーマンスである。そこでは、ひとまとまりになった蓮沼執太フィルの演奏者たちは、多くの鑑賞者によって近い距離でぐるっと囲まれる。

そのような蓮沼執太フィルの「全方位型」のライヴパフォーマンスにおいて、蓮沼が視覚芸術を音楽的に捉え、音響芸術を美術的に捉えている可能性に注目したい。言い換えれば、蓮沼執太フィルの演奏の中で、「はっきりと聴こえているものが生み出す、はっきりと見えていないもの」が蓮沼にとっての美術的表現であり、「はっきりと見えているものが生み出す、はっきりとは聴こえないもの」が彼にとっての音楽的表現である。そのような可能性を追求したい。そして、彼が表現する美術と音楽の間では「視覚」へのアプローチはあくまでも媒介として作用する。聴衆に効果を表すのはあくまでも蓮沼執太フィルの奏でる音である。それゆえに、蓮沼執太フィルの演奏は「音楽」という作品になる。

どういうことだろうか。演奏に現れる視覚芸術(美術)と音響芸術について、まずはそれぞれを補足説明しながら、段階を踏んで音楽と美術のクロスポイント、蓮沼の表現するコンセプトの正体へ迫っていくとしよう。

 

 

 

 

 

2 音楽的な視覚芸術

 

蓮沼執太フィルの視覚芸術とは、繰り返せば、鑑賞者にとって「はっきりと聞けるがはっきりとは見えないもの」である。そこには、音を使い視覚から隠れた美術が存在する。そして、蓮沼執太フィルの奏でる音から生まれるその見えないものとは、「熱感覚」の存在である。

熱感覚とは何か。舞踊人類学者のキャロライン・ポッターは、ダンサーの身体を例にとり、踊りにおいて最も重要な感覚として「熱感覚」を挙げている。触覚が、皮膚を通して身体と外的なものとの接触に起因する感覚であるのに対し、「熱さ」は、身体の内部と外部の両方で知覚される。この超境界的な能力のゆえに、熱感覚はむしろ嗅覚に似ているものである。

例えば、ウォーミングアップにおいて、身体内部の温度を上げることは、良いパフォーマンスを行う上で必要不可欠とされている。外的なアプローチから皮膚の温度を上昇させ、身体内部の熱が周囲の空気に発散されるにつれて、身体がより動きやすく感じられるようになる。このとき、ダンサーにとっては、この熱さの感覚は内的エネルギーの感覚であり、熱感覚を持ってして身体の準備ができていることが示されるとポッターは指摘する。ウォーミングアップが整えるのは、身体が感じる物理的な熱だけでなく、内的な「熱感覚」でもあるのだ。激しく感情だけが盛り上がるという意味ではなく、自分の内側が刺激され温まるような感覚、では、この「熱感覚」は蓮沼執太フィルの演奏からどのようにもたらされるのか。

先に挙げた、蓮沼執太フィル・ニューイヤーコンサート2011 at VACANT (2011.1.7)の様子を例として取り上げよう。演奏される楽曲は『Earphone & Headphone in my Head –EP(Philharmonic Version)』である。演奏が始まると、空間はいきなりその心地よい音色とリズムで満たされる。ベース、ドラムス、スティールパン、ユーフォニウム、ギター、ヴァイオリン、ヴィオラ、多様な音が鑑賞者の前に勢いよく出現する。蓮沼執太フィルのようにたくさんの楽器の集合体になると、オーケストラ全体が一つの楽器や生き物のようにも感じられる。演奏が始まって1分30秒程度経過すると、そこにコーラスの音色が重なり、新たなメロディラインも加わる。そこからほとんど1分単位でハーモニーは音色を自然に変えていき、鑑賞者を常に新鮮でみずみずしい雰囲気の中に取り込んでいく。同じメロディラインに戻った時でさえ、楽器それぞれの響きやボリュームが常に変化するために、そのような現象が起こる。演奏開始から5分30秒ほどの時点で、テンポも早まったりゆったりとしたり、演奏が新たな表情を見せ始めると、コーラスに続いて、様々な楽器の短かいソロ演奏が導かれてゆく。エンディングに近づくにつれ、音がどんどん盛り上がり、これが一番フルだと聴こえるところから、ここからまだいくのかというぐらい、さらに盛り上がって伸びていく。ある線を超えたところからでも、音はしなやかにどんどん伸び続けていく。鑑賞者は、その表現の幅や自由性、そして何よりハーモニーの迫力に打ち震えるように感動し、殻が破れて自分の自由自在な感覚が飛び出してくるような体験をする。生き物のようなオーケストラ、伸び続けていく音や表現の幅広さ、自由性などが聴衆を感動させる。このような演奏とフィルを取り囲む鑑賞者によって、その場に「熱感覚」は共有される。

蓮沼執太フィルが生み出す熱感覚をより具体的に捉えるために参考となるのは、聖域空間である。蓮沼執太フィルの演奏は、聖域空間に響く音に近い効果をもたらし、鑑賞者の熱感覚を現出させる。どういうことか。

ヨーロッパの教会などでは、そこに足を踏み入れただけで涙が出てきてしまうという人もいる。教会でもお寺でも、そのぐらい独特のエネルギーに満ちた、厳かで浄化されるようで、そこにいるだけで満たされるような空間。サウンドスペースコンポーザーの井出祐昭は、歴史的に長く存在し続ける、広い意味での宗教的磁場がつくられているところを、聖域空間と呼んでいる。天からの慈悲や愛が降り注ぎ、すべての人がそれに包み込まれ、優しく抱かれる空間。そこにいると、聖域空間そのものが無限に拡がる空間として昇華していくのを感じたりする。それは、音響のあり方ともとても似ているのではないだろうか。

聖域空間では、他の空間ではあまり見受けられない、少し変わった技術が用いられる。リバーブスピーカーという残響専用のスピーカーを使って、建築的な残響に電気音響的な別の残響が加えられるのだ。リバーブスピーカーは、多くの場合天井のやや後方か後方上部の壁面につけられるのだが、ここから少し時間を遅らせて残響を出すことで、微妙に残響がブレンドされ、残響に色彩感が生まれる。井出曰く、この技術を使えば、こぢんまりとした教会でも、音響的には大きな空間として現出させることができる。リバーブスピーカーから残響を出す時間を遅らせると同時に、残響を長く出し、もともとの建築的な残響とミックスさせる。そうすると、まるで大聖堂にいるかのような、大きな空間的広がりが感じられるようになってくる。ボーイソプラノやコーラスなども、無限に伸びていくような雰囲気が出てくる。

音楽が独特の環境とそこから生まれる感覚、感情を演出する。聖域空間におけるこのプロセスは、蓮沼執太フィルの演奏にも類似している。蓮沼執太フィルでも、絶妙に音がブレンドされた残響効果を生むようなスピーカーが、演奏会場に点在している。鑑賞者は、楽器そのものが生み出す音に加えて、スピーカーから流れてくる音をも同時に受け止めることになる。そしてもちろん、生き物にも例えられる多様な楽器からなる音も、それぞれの残響を共鳴させ、ハーモニーの共存を図る。見事なまでの「残響のブレンド」を鑑賞者は蓮沼執太フィルの演奏から感じることができる。

蓮沼執太フィルが表現する、大きな空間的広がりを感じさせるような音、無限に伸びていくような音は、楽器が奏でる音とスピーカーから流れる音の重なりによって強調され、鑑賞者に聖域空間にいるのと同じような印象を与える。音の伸び、表現の幅、ハーモニーの迫力を残響効果が増幅させ、独特のエネルギーに満ちた、厳かで浄化されるようで、そこにいるだけで満たされるような空間を演出する。そこで鑑賞者は熱感覚を持つのである。

 

視覚芸術における僕の表現は、空間を使った「作曲」のひとつであり、一貫して音や音楽がそこにあります。(『疾駆』、2017年4月、p97)

 

はっきりと聴こえる音楽が、はっきりとは見えない「熱感覚」を聴衆に与える。それが、蓮沼執太と蓮沼執太フィルの、「視覚のない美術」(=視覚芸術)である。

 

 

 

 

 

3 美術的な音響芸術

 

ここまで、蓮沼執太フィルにおける音楽と美術のクロスポイントを探るために、まずは美術の面から考察を重ねてきた。しかしながら、当然それは議論の片面に過ぎないわけであり、ここからはもう片面の存在、蓮沼執太フィルの音響芸術について考えてみたい。もちろん、ここでいう音響芸術とは、音が隠れた音響芸術のことである。その隠れた音は、美術(視覚)によって浮かび上がる。

蓮沼フィルの演奏の場を一つの視覚的な「展示」として見るならば、そこから見えてくるものとは、オーケストラには本来存在するはずの、視覚情報に深く関係する存在(=指揮者)の不在である。演奏者同士の間に距離が存在するオーケストラにおいて、音のズレを調整するために頼りとなる視覚情報を与えるのが、指揮者という存在なのだ。蓮沼執太フィルには、この指揮者というものが存在しない。従って、その場には視覚情報によって調節されない、細かい音のぶれが存在することになる。テンポがほんの少しだけズレる、それも演奏者だけでなく聴いているものにもはっきりと認識することができないような、非常に細かなズレである。

そして、指揮者の不在に加えて、演奏者同士の距離感も音のぶれを生み出す。音は、人間の耳の能力からすると意外に遅い。空気中の音速は秒速340メートル。井出によれば、人間の耳がどれだけの感覚なら二つの音を二つと感じられるかという限界(分解能)は、2~3msec(3/1000秒)である。そして、音楽では、元の音楽とずれた音楽が合わさった場合、3msec付近から30msec付近までは、短い音がずれて聴こえたり、干渉によって音質がシュワシュワいうように変わるくらいだが、それを越すと、時間的にずれていることがはっきりしてくる。言い換えれば、聴覚は3~30msecの制限の中で音楽のズレを認識できず、それを越すとはっきりと音楽のズレを認識する。秒速340メートルの場合、音が10メートル進むのにかかる時間は約30msecである。つまり、10メートルという距離は、私たちが様々な楽器から飛んでくる音のズレを認識するおおまかな測りとなる。蓮沼執太フィルの場合、例えば一番端の楽器と、逆側の一番端にある楽器の距離は、おおよそ10メートル前後である。つまり、私たちは、鑑賞者として立つ位置によって異なる音のズレを受け取っているが、それをはっきりと認識することは難しい、絶妙な位置で演奏を聴いているのだ。ほとんど聞き取ることのできない音のズレ。これは、蓮沼執太フィルの演奏を間近で聞くからこそ受容することができる。

指揮者の不在や、演奏位置からもたらされる、認識することが難しい音のざわめき。ギタリストの大友良英は、聴いている者にとっては、このようなズレが生まれることにより、音楽家の思惑を聴かされるのではなく、各々の中で自由勝手に音楽を創造していくことができると主張する。空間に出された音がこのようなプロセスにおいて鑑賞者の中で共振を生むとき、見たこともない音楽が現出するのだ。

この聴衆による自由な音楽の享受こそが、蓮沼執太フィルの演出する音のない音響芸術の到達点である。音のない、と言っても正確には音は確かにそこにある。しかしながら、聴衆にとっては認識できるかできないかの具合で、音はそこに存在しているのだ。ここでいうブレのような、音自体が存在感を強く示さないレベルの音楽が、音のない音響芸術の正体である。そして、その存在を鑑賞者に意識させるために、美術が効果を発揮している。

その美術的な取り組みへさらに付け加えるならば、この「展示」には、鑑賞者と演奏者間の距離の近さも関係してくる。距離が近いということは、聴衆側から演奏者の楽器もよく見えるということである。音楽ホールの座席から舞台を眺めた時、私たちは音楽に集中していて、それぞれの楽器の姿をよく見ることはない、というより詳細には見えない。楽器を間近で見せられることにより、鑑賞者が感じ取ることができるようになるものとは何か。それは、楽器が生む「ノイズ」の存在である。

楽器の音というと、いわゆる音程のある楽音だけで出来ているように思われがちだが、楽器の音色は複合的ないろいろな音で出来ている。例えばバイオリンなら、弓が弦をこする音に加えて、コーーという銅に響く音、金管楽器では唇のビィーと振動する音や、菅の中を息が通り抜ける音がある。さらに積極的なものとしては、三味線などで弦が棹にあたってベイーンと響きあう「さわり」や、撥で叩く音などがある。また、どんな楽器でも、音程や演奏方法によって楽器全体が複雑に振動し、様々なノイズを出す。楽器の音色は、音程のある元の音やその倍音、それらと一体となって変化するノイズ、そして響きなどの総体によって出来上がっていて、特にノイズは、音色や演奏の個性を際立たせて表情を豊かにしたり、深くしたりする重要な要素である。はっきりと聴こえるものだけではなく、楽器の表面を伝わっていく音、ものすごく高い方の音(高周波)など、本当に小さく精妙な音も、音色全体に大きく影響している。また、このノイズは、感情やエネルギーを感じる大きな要素ともなっている。音だけ聞いても、楽器が生み出すこの細かな「ノイズ」に気づくことはできないかもしれない。それははっきりとは聴こえないことがほとんどである。しかしながら、鑑賞者はすぐ間近に楽器を見ることで、それぞれの楽器が生み出す「ノイズ」の存在を意識の中に捉えていくのだ。

 

蓮沼執太フィルが用意した美術的な「展示」が用意するのは、指揮者なしの演奏、絶妙な距離感に設置される楽器、そしてそれをすぐ間近で取り囲む鑑賞者の姿である。そこからはっきりとは聴くことのできない音楽が立ち上がる。音のブレや、楽器のノイズは、鑑賞者が認識できるかできないかの絶妙な範囲で、鑑賞者の中を駆け巡る。大友の言葉を参照するならば、このような音響芸術により、鑑賞者は音楽家が楽譜通りに意図した音楽からも遠ざけられ、自由な音楽の創造を授けられるのだ。人々が決まった時間で音楽を受容するのではなく、もっと幅の広い、自由な時間の中で音楽を楽しむことを可能にする。はっきりと聴き取れないからこそ、認識することが難しいからこそ、その音楽的経験は深みを増すのである。

 

 

 

 

4 コンセプト

 

ここまでの議論を整理するならば、蓮沼執太フィルの演出する芸術形態には、以下の2つの手法が存在する。

①音楽的アプローチが補強する、視覚芸術

はっきりと聴こえる演奏、楽器とスピーカーによる響きの重なりが、はっきりとは見えない「熱感覚」を鑑賞者の中に生み出す。

②美術的アプローチが補強する、音響芸術

はっきりと見える楽器や、指揮者の不在が、はっきりとは聴こえない範囲で存在する音の存在を増長し、鑑賞者に音楽の「自由な創造と享受」をもたらす。

そして、①と②の両者が合わさり、昇華されたところに生まれるのが、コンセプト=蓮沼執太フィルの「音楽」という作品である。

蓮沼執太フィルの演奏を聴くとき、①、②のどちらの「効能」を聴衆は意識して受容するのか。おそらく、どちらが先に来ても、それぞれ効果的に作用する。例えば、先に①演奏の音、迫力やハーモニーに自らの「熱感覚」を刺激されれば、その後に②細かな音のざわめきを、熱感覚により拡張された感覚で自由に楽しむことができるかもしれない。

しかしながら、多くの場合、鑑賞者は蓮沼執太フィルの演奏を聴く前に、まずその演奏者や楽器の並びを目撃する。従って、細かなざわめきからなる自由な音の聴取が、クライマックスに向けた「熱感覚」の高まりを助長することにつながっていく(②→①)可能性が高いだろう。そこで最終的に得られる「熱感覚」は、①→②のアプローチを取る場合のものよりも、大きなものとなるはずである。

重要なのは、熱感覚の高まりも、自由な音の享受も、聴衆がどちらを先に受容しようが、演奏のゴールにおいて、さらなる壮大な熱感覚の高まりと、さらに自由な音楽の享受へと昇華されていくということである。視覚芸術的アプローチと音響芸術的アプローチのどちらがこの最大限の「熱感覚❷」と「自由な音楽の創造❷」に寄与しているのかと問えば、その答えはどちらも、である。だからこそ、熱感覚(❶)と、自由な音の享受(❶)、それぞれの存在が組み合わさり昇華された時に、新しい「熱感覚❷」と「自由な音楽の創造❷」が生み出されるのだ。蓮沼執太フィルが到達する「コンセプト」の正体とは、演奏の果てに待つ、この音楽と美術の昇華点なのである。

ところで、ここまでの議論は、他の音楽家の音楽演奏やライヴパフォーマンスにも当てはまるものであろうか。確かに、その特徴において幾分重なる部分はあるだろう。指揮者の不在やノイズの共鳴など、単体を見れば他の音楽家が即効演奏において試みていても不思議ではない手法である。しかしながら、蓮沼執太フィルのそのような美術と音楽を組み合わせた手法は、その他の音楽家のライヴパフォーマンスとは異なる帰着をもたらす。これまでの議論の末にたどり着いたコンセプト地点について、さらにそのイメージを膨らませ、蓮沼執太フィル作品を鑑賞する人々の「快楽」について考えるとき、その違いは浮かび上がるだろう。

鑑賞者が、熱感覚と共に自由な音楽の創造を楽しむ時、オーストリアの音楽学者ヴィクトル・ツカーカンドルの言葉を借りるならば、音はそこにあるというよりはむしろ、そこから聴衆に向かい、聴衆を貫きながら響いている。その時、聴き手の内と外は溶け合い、互いの間に一種の共有関係がもたらされる。そしてそのような音の響きは、強い快感を生む。それは身体化された快感であり、その場にいる人々によって共有される快感である。自らの身体が響きで満たされ、その響きが身体から溢れ出て、周りにある身体と互いに浸透し合う時、私たちは超越的で協働的な音楽的快楽を経験する。

音楽学者の山田陽一は、こうした快楽の在り方は、例えばジャズのセッションにおいて成功した集団的即効演奏がもたらす「共同体的エクスタシー」とは次元の違うものだと指摘する。エクスタシーとは、ギリシア語の語源を辿れば「自己の外に位置すること」、つまり「意識や正気を失うこと」を意味しているが、快楽は、エクスタシーが含んでいるような忘我や恍惚状態をさしているのではない。蓮沼執太フィルの音響に反応する身体の快楽とは、我を忘れたり、何かに心を奪われたりして自己コントロールができない状態などでは決してない。それはゆったりと、あるいは時には激しく共振しあう身体が感じ取る、意識的な心地良さであり、流れるような感覚である。すこやかでおおらかな音楽がそこにある。響きによって包まれた全ての身体は、統合され、一体化されて、一つの幸福な実在と化す。

音楽と美術のあいだ=「コンセプト」を捉えた蓮沼執太フィルの演奏は、以上のような環境を創造する。蓮沼執太フィルが表現する音楽と美術が組み合わされた表現、そしてそこから生み出される共同体的エクスタシーから離れた快楽の存在こそが、演奏をオリジナル足らしめる。

鑑賞者は、音響芸術と視覚芸術によって演出された意識的な心地良さの中で、録音してもそこからこぼれるような記録を超えた何かに出会い、関係を持つ。それを鑑賞者が感じ取ることができるパフォーマンスの環境こそが、蓮沼執太にとっての音楽と美術が重なる地点なのである。普段人々の意識からこぼれ落ちている音の存在を、かつて『4分33秒』において強調したジョン・ケージは、非物語を捉えている。物語とも人間の意思とも離れた音の存在を、彼はメディウムの録音機能に託した。対照的に、同じ「音のない音響芸術」を活用する蓮沼執太は、蓮沼執太フィルの即効演奏を通して、録音からこぼれる音の存在を汲み取る。それは、鑑賞者の意識の中にあっても録音では捉えきれないもの=「物語」である。音のない音楽と視覚のない美術の交点である「コンセプト」は、物語性の呪縛から解放された地点にあると信じられてきた。しかしながら、蓮沼執太フィルが音のない音楽を美術的に達成し、視覚のない美術を音楽的に達成するとき、そこに現れる「コンセプト」は物語性の洗練という異なる文脈に位置付けられる

 

 

 

ジョン・ケージらが試みた、物語性の呪縛への抵抗があった。音から離れる音楽や視覚から離れる美術のアプローチがその過程で生み出された。このアプローチを現代の蓮沼執太フィルの即効演奏に照らし合わせるならば、蓮沼の言う「複雑かつ多層的に領域が混ざり合う」音楽も輪郭を現す。蓮沼執太フィルの演奏は、「音を隠した音響芸術」を視覚によって補強し、鑑賞者にとって自由な音楽の享受を可能にする。そして、「視覚を隠した美術」を聴覚によって補強することで、鑑賞者に熱感覚をもたらす。こう考えるならば、耳によらない音楽と視覚によらない美術の交点(=コンセプト)も現出する。その2つのアプローチを同時に行うことで、蓮沼執太フィルの演奏は音楽と美術のクロスポイントへ迫っていくのだ。そのコンセプトと呼ばれる地点では、鑑賞者は共同体的エクスタシーとは異なる快楽、意識的な心地良さや流れるような感覚を持ち、すこやかでおおらかな演奏に包まれていく。ジョン・ケージのように「音のない音響芸術」を活用しながらも、蓮沼執太の試みは「視覚のない美術」をそこに効果的に加えることで、非物語性ではなく物語性を現出させる。物語性の呪縛からの脱却ではなく、同じメカニズムを独自にアップデートさせながら逆に物語性(鑑賞者の意識内)を洗練させる。そのような新しい可能性を秘めた芸術が、音楽と美術を紡ぐ、蓮沼執太フィルの即効演奏ではないだろうか。

 

 

 

 

参考文献

 

井出祐昭『見えないデザイン サウンド・スペース・コンポーザーの仕事』、2009年、ヤマハミュージックメディア

大友良英『音楽と美術のあいだ』、2017年、フィルムアート社

山田陽一『響きあう身体 音楽・グルーヴ・憑依』、2017年、春秋社

『美術手帖 日本のアート最前線』2015年、美術出版社

『疾駆第8号』、2017年、YKG Publishing

文字数:11177

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