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(ゴミを捨てたい)日本人は捨てられたくない −『スーパープレミアムソフトWバニラリッチ』・アポカリプス−

 

 

 

1 環境的共存

 

劇団サンプルを主宰する劇作家の松井周いわく、「人なんてゾンビと一緒でしょ」。現代人の生にはもはや、主体性もなければ行動の動機もない。ただ環境の産物として、空漠とした地図のない世界を漂うだけだ。死んだ後も生前の行いをオートマチックに繰り返すゾンビ同様、人間らしいとされる暮らしをただなぞって生きる現代人の姿を、松井は「人のまがいもの」と定義する。

 

松井 ぼくの考えでは人間は環境の産物。だから人と人が頭脳や言語でなく、ただなんとなく隣にいるから触りたい。というレベルで一緒にいる共存を肯定していくべきだと思うんです。・・・本気でぼくはこれからの時代、ゾンビ的な、環境的な、生き方を認めていく方向性に梶を切るべきじゃないかと思う。(『東京演劇現在形』p55

 

ここで推奨されるのは、必死に理を突き詰めた挙句に、個として点在するしか生きる道がなくなったどん詰まりの人間たちに向けた、もっと気楽で曖昧な「環境的共存」である。私達のイメージするゾンビは、なぜか生きていた時と同じ習慣を繰り返す。横断歩道を渡ったり、エスカレーターに乗ったり、ショッピングカートに何かを入れたりする。それは、ゾンビが考えて行動しているわけではなく、環境があるためにもたらされるのだと松井は指摘する。人間もゾンビのような感覚で生きているのではないか。多くの人間がこれをネガティブな方向で捉えるのに対して、松井は前向きな思想として評価する。環境的なつながりの中で、なんとなく隣にいる人同士が肯定しあう、気楽で曖昧な「環境的共存」など果たして可能なのだろうか。

 

 

 

 

2 コンビニの商品が恐れるドメスティックな競争

 

人々が同じ空間を共有しながら、環境的共存に適した連帯が生まれづらい現代日本特有の環境は、劇団チェルフィッチュの『スーパープレミアムソフトWバニラリッチ』(2014年)という演劇の中に現れている。チェルフィッチュを主宰する劇作家、演出家の岡田利規は、その舞台をコンビニエンスストアに設定した。

作品中では、日本のコンビニという環境を通して、都市に生きる現代日本人の共存可能性が示されている。登場人物は、コンビニの店員、店長、スーパーバイザー、客間で全ての人間が環境依存的で、受動的な存在であるかのように描かれる。そして、次第に都市に暮らすそのような日本人の姿が、コンビニの棚に陳列される商品とも重なりあい、環境的共存に潜む問題が明らかになっていく。

コンビニと日本の都市生活、両者のどこに類似があるのだろうか。例えば、『スーパープレミアムソフトWバニラリッチ』において、岡田が設定した100平方メートルという架空のコンビニの大きさとそこに陳列される2500もの商品は、東京という都市における土地の狭さや密集した人口を想起させる。そして、コンビニという箱を都市に見立てるならば、そこに存在する商品は日本人の姿を表象しているようにも見えてくる。もちろん、そこでは市場経済の影響を受け、持ち場である棚(=社会的役割)における有益性に応じて、商品(=人間)の入れ替えが活発に行われている。企業内において人的資本としての「賞味期限」が過ぎてしまったり、また隣に並ぶ類似した人(=商品)との争いに敗れることがあれば、市場のダイナミズムによって商品が廃棄場へと流されていくのと同じように、現代人は元々の居場所を失ってしまう。そのような状況が、コンビニ(=都市)という箱の中で24時間続いている。

コンビニの商品を人に置き換えたとき、最も現代人の姿に近いものは、商品の入れ替えが活発に行われ、賞味期限や消費期限を持った「お惣菜」ではないだろうか。2017年現在、日本では「中食」が流行している。居酒屋に行く代わりにコンビニで安い酒とつまみを買う「宅飲み」の流行に続いて、外食はしないが自炊もせず惣菜のテイクアウトを好む「中食」ブームがやってきた。事実、「中食」文化にいち早く目をつけ惣菜コーナーの充実に舵を切ったセブン–イレブン・ジャパンは、競合するローソンやファミリーマートが営業減益となる一方で、2017年に営業最高益を更新している(朝日新聞DIGITAL、2017年10月13日)。

セブン&アイ・ホールディングスの社長、井坂隆一が「利益率の高い惣菜の開発をよどみなく続ける」というように、今後のコンビニ市場では、中食文化に関連した惣菜コーナーの充実が鍵になる。人気のない惣菜は次々に新商品に取り替えられていく。中食のブームは、一気に惣菜の流通、入れ替わりのスピードを加速させた。長い経済不況から抜けきれない日本社会では、今後人的資本のサバイバルも同様に、さらなる激しさを増していく。コンビニに並んでいる商品のように、インターネットの情報管理による絶え間ないフィードバックの影響を受け、市場にとって必要とされない人間はかつての持ち場から姿を消していく。

そのように、人口が密集し、市場の中で似た者同士の人間たちがサバイバル椅子取りゲームを繰り広げている日本の大都市。そこでは、緩やかな繋がりの中で、大衆がお互いをなんとなく認め合うような余裕、姿勢を持つことは難しくなっている。他者との環境的共存がプラットフォームの力により達成されたように見えても、実情では未だ厳しい競争社会に晒され、共存に向けた余裕を持つことができない大衆の姿が顕在化してきている。同じ箱の中で隣の他者とぶつかり合うそのような状況が、『スーパープレミアムソフトWバニラリッチ』によって描かれる。

 

 

 

 

 

3 コンビニの商品が恐れるグローバルな競争

 

コンビニに並ぶ商品が日本の都市に生きる人々を表象するならば、『スーパープレミアムソフトWバニラリッチ』においては、商品のグローバル市場との関係についても考慮せねばならない。

岡田が名付けた「スマイルファクトリー」という店名もまた、日本人の特性を象徴している。それは日本人が、サービス業においてスマイルの徹底を半ば矯正されているという安易な了解にとどまらない。何故ならば、日本のそのようなスマイル文化が、「スマイルファクトリー」というカタカナ言葉を用いて日本人の間で表現されることはほとんどないからである。

ここでの「スマイルファクトリー」という言葉は、むしろ海外の視点から日本文化を眺めたときの感覚に近いものである。そしてこれは、実は外国人が日本人を揶揄するときにも用いられる言葉でもある。いくつもの海外公演を経てグローバルな感覚を養った岡田利規の、「外から目線」での命名の結果が「スマイルファクトリー」という言葉に表現されている。

日本人にとって「笑顔がサービス業の基本」だと半ば宗教的に信じ込まれていることは、言うまでもないだろう。しかしながら、そこにしばしば現れるのは、強制的に作られた笑顔である。ビジネスにとっては有益かもしれない、作られた笑顔の製造を徹底してきた日本人は、ビジネス以外の場においても無意識にそんな作り笑顔を露呈してしまう。

歪んだ笑顔が特に現れ、コミュニケーションの齟齬を生んでいるのは、日本人が外国人と会話する場面においてである。例えば、政治、経済、ビジネス、どのフィールドにおいても、日本人が外国人と会話をする時、目立ってしまうほどにとにかくニコニコと笑い続けている様子がしばしば見受けられる。英会話の教室にはマナーとして「笑顔を作るあまり外国人に失礼のないように」という注意が存在するくらい、とにかく日本人は「笑顔」を対外的なコミュニケーションに活用する。

海外で英語が上手く話せない日本人の姿を見ても、それは明らかである。外国人が対話相手を理解するためにもう一度意味を聞き返したり、自分なりの方法で対話の距離を詰めようとする一方で、日本人には「スマイル」を用いて対話を遮断し、なんとかその場をやり過ごそうとする人達が圧倒的に多い。歪んだ笑顔を必死に作りながら、相手への印象を悪くしないように努めながらも、むしろそのような遮断的に引きこもるコミュニケーションの仕方こそが、海外のマナーにおいては失礼にあたることが多いというのが皮肉である。

そのような日本人の姿を揶揄するジョークも当然存在する。

 

Japanese people can laugh 3 times at one joke.

The first time when they hear the joke.

The second time after learning what it means yet still they don’t understand it.

The third time when they google it and understand the joke.

 

(日本人は同じジョークで3度笑う。1度目は聞いた時に、意味はわからないが人に合わせて笑う。2度目は意味を聞いた時に、まだ理解はしていないが、教えてくれた人のために笑う。3度目は意味を自分で調べて理解した時に、家で笑う。)
 

「スマイルファクトリー」という名称は、「スマイル」を用いた、そのような日本的なコミュニケーションの遮断的な側面をも暗に示唆している。そしてそれは、人的資本の観点から見た、グローバルな労働環境における日本人の低調さをも意味するのではないか。国別英語能力ランキング「EF EPI」や、非英語圏出身者に対する英語力判定テスト「TOEFL」においても、未だにビジネスレベルの英語を用いることのできる日本人の数は、先進国と比較すればもちろん、アジアでも最低レベルである。その場しのぎの「Smile」を大量に製造することで国際的なコミュニケーションをないがしろにしてきたツケが、今になってやってきているのだ。

グローバル市場においては、他国の優れた商品が市場に大量になだれ込んでくる。そのとき、日本で製造され、日本で流通するドメスティックな商品(=日本人)は、スマイルを用いてそれらの商品へ表面的なウェルカムの姿勢を見せながら、本音では同じ土壌に立つ覚悟があるのだろうか。インターネットや書物を通して、文字や映像から海外文化が流入することはあっても、コミュニケーションにおける直接的で身体的な異文化理解が日本人には欠けている。どこか冷めていて、引きこもりがちで、遮断的な歪んだ笑顔をとにかく製造することが、異文化コミュニケーションにおいては最後の砦になっている。スマイルを製造することで困った時間をやり過ごせると思っているからこそ、日本人は無邪気に明るく振舞うことができる。そのような多くの日本人大衆にとって、今の時代に外国人と同じ棚(=労働環境)に陳列される覚悟を持つのは難しい。「スマイルファクトリー」という言葉は、そんな日本人の、潜在的な怯えの感情をも想起させる。

コンビニに並ぶ商品は、ほとんどが日本産のものである。演劇の中でもドメスティックブランドの積極性は強調されている。現実には、自社製造自社流通を心がけるコンビニ各社は、もちろん経済的な利益を考慮してロジスティック(Supply Chain & Management)を練っている。しかしながら、その様子に「スマイルファクトリー」という、グローバルな視点を内包する言葉が重なったとき、私達はコンビニの棚に並ぶ商品を見てグローバル市場での日本人の力の無さを思い起こし、岡田利規のこの命名に共感するのだ。日本人にとってサービス業における笑顔が重要だという意味以上に、グローバル規格に満たない商品(=日本人)の不安と、グローバル市場での暗い未来、国際的コミュニケーションの脆弱さを示唆するのが、「スマイルファクトリー」という店名である。

 

このように、岡田が『スーパープレミアムソフトWバニラリッチ』で描くコンビニにおいては、日本人の「環境的共存」が、様々な人々を見かけ上同じ棚(=環境)に収めながらも、その裏で複雑な問題を孕んでいる様が明らかになる。中食文化と惣菜コーナーの充実が商品の消費、流通を早めさせている現状において、私達は演劇の中にドメスティックな市場の激しさを思い起こす。さらに、「スマイルファクトリー」という店名が浮かび上がらせるのは、作られた笑顔によって海外文化との深いコミュニケーションを阻害する日本人ならではの特徴であった。コンビニにおいて、国際的な商品との共存が進まない状況もまた日本人の国際市場での立ち遅れを想像させる。

国内市場でも、人口が飽和する都市の中で類似する人間に社会的立場を狙われ、さらに海外の市場の存在に「スマイル」を活用して見て見ぬ振りをすることも許されなくなるのであれば、コンビニの棚に並ぶ商品(=日本人)が今恐れているものとはなんだろう。恐れているからこそ、日本人の視界から、思考の中から欠落しているものはなんだろう。

 

それは、ゴミ箱の存在である。

 

 

 

 

 

4 コンビニの商品が本当に恐れるもの=ゴミ箱

 

『スーパープレミアムソフトWバニラリッチ』では、舞台上から、コンビニにあるはずの「ゴミ箱」が取り除かれている。

劇中では、コンビニの機能を無料で使おうとする消費者の姿が描かれ、それを教育しようとする店員までもが現れる。トイレを借りに来ても商品は何も買わない登場人物が、最後はトイレを貸してもらえないという場面で作品は幕を閉じる。岡田利規は、今作品においてこのような消費者の存在に自覚的であり、観客は演劇を通して消費者側の倫理を考える。観客に自覚を促すように、岡田はコンビニ機能にただ乗りする消費者の姿に照明を当てる。

それならば、これと同じ文脈で語られるべき消費者の類として、ゴミを捨てて何も買わずに帰る人々の存在が描かれても不自然ではない。家庭ゴミをコンビニに捨てて帰る彼らは、何の商品も購入せずに漫画を立ち読みし、トイレを使用するような消費者と同じで、コンビニの機能に「ただ乗り」している。

なぜ岡田利規は、ゴミ箱を舞台に再現しなかったのか。それを考える前に、日本の都市におけるゴミ箱を取り巻く状況を整理してみたい。コンビニにゴミを捨てて帰る消費者の存在は、日本社会や東京の「リアル」を考える上で重要な意味を持っているからである。

他の主要先進国と比べて、日本の都市風景に圧倒的に欠けているもの、それは路上に設置されるゴミ箱の存在である。例えばカナダのトロントなどでは、ダウンタウンでなくとも、ほとんどの通りにはおおよそ200メートルおきにゴミ箱が設置されている。ストリートカーやバスの停留所にも必ずゴミ箱があり、ゴミを回収するシステムが都市の中で整備されている。一方で、例えば東京では、通りを歩いていても路上に面した公共のゴミ箱を見つけることは困難を極める。その代わりに、モノに溢れた日本の都市に生きる私たちの目の前には、コンビニに付属したゴミ箱が現れる。

日本人は、都市にゴミ箱を持たない代わりに、コンビニでもらえる、ビニール袋という持ち運び式の小さなゴミ箱をも活用する。ゴミ箱を見つけるまでの間、日本人はゴミをビニール袋の中に隔離して持ち運ぶ。そしてコンビニが用意した小型ゴミ箱に入れられて、都市のゴミは再びコンビニの大きなゴミ箱へと戻って来る。コンビニのゴミ箱がなければ、現代人の都市生活のリアルは基盤の一部を欠くことになる。コンビニというのはまさに都市の穢れを考える上で核となる存在であり、同時にそこに付随する現代人の倫理が問題となるのだ。

現在、コンビニのゴミ箱に家庭ゴミを捨ててそのまま帰っていく消費者の姿が問題になっている。駐車場を持つコンビニでは、ゴミを捨てるためだけにそこへ立ち寄る車の姿もしばしば目撃されているし、徒歩でコンビニへやってきては、ゴミを捨てて帰って行く消費者の姿も当然のように存在する。そのコンビニで購入したものをゴミ箱に捨てる分には問題ないのだが、家庭ゴミを持ち込む行為は本来「不法投棄」に該当する。しかしながら、そのような不法投棄は一向に止む兆しを見せず、コンビニ経営者は今でもゴミの持ち込み問題に苦労し続けている。世界を見渡しても、ゴミ箱を求めてコンビニへやってくるのは日本人だけなのではないだろうか。

そして、ゴミが招く衛生問題や、勝手にゴミだけ捨てていく横柄な消費者への対応を行うために、実際に多くのコンビニが「ゴミ箱を店内に設置」する試みを始めている。皮肉なことに、この変化は、コンビニ経営者側に難しい経営判断を強いるような状況を生み出している。なぜなら、ゴミ箱の有無が売り上げに直結する場合も存在するからである。コンビニのフランチャイズ店舗開発業者は、しばしば店外のゴミ箱が集客の大事なツールになっていることを指摘する。客はゴミを捨てるついでに、次の買い物をする。ゴミ箱の店内設置が客数の低下を招いたことで、ゴミ箱を再び店外に戻す大手チェーンも存在しているのだ。(日刊ゲンダイ、2015年11月22日)

ゴミ箱を撤去すると、売り上げが下がる。これは、ゴミ箱が客を呼んでいると言い換えることもできる。おそらくここには、人に見られていないところではゴミの無断廃棄ができても、いざ店員や他の客の目前ではゴミをただ捨てて帰ることに倫理的な戸惑いを感じる、日本人の特徴が表れているのだろう。ゴミ箱が店内に置かれるだけで、コンビニに立ち寄らない消費者がいる。そして、コンビニにゴミを捨てに来ることで、ついでに他の商品を買っていくような大きな群衆の姿までもが明らかになっている。

そのために、多くのコンビニは今でも困難な経営判断を迫られている。好ましくない消費者をゴミ箱で釣り、他の商品を買ってもらうことで売り上げを伸ばしていくのか。倫理的な基準を第一に考え、店員の立場から迷惑な客を正していこうとするのか。以上のように、ゴミ箱を巡る問題は、コンビニを取り巻く諸状況の中でも明らかに重要なウエートを占めているのだ。ゴミ箱はコンビニと都市、日本人の関係に潜む「リアル」を掘り起こす切り口でもある。

 

 

 

 

5 穢れ、風景、主体性

 

それでは、なぜ岡田利規の『スーパープレミアムソフトWバニラリッチ』には、コンビニとゴミ箱のリアルが描かれなかったのか。この問いに戻るとしよう。

まず、ゴミ箱が劇中に描かれなかった理由として考えれられるのは、岡田がゴミ箱を初めから店の外にあるものとして捉えていた可能性である。100平方メートルのコンビニ「店内」を舞台にした『スーパープレミアムソフトWバニラリッチ』では、当然コンビニの入り口付近(だが店外にある)にあるゴミ箱の存在は舞台セットから排除される。

しかしながら、これまで述べてきたように、ゴミ箱は店内にも置くことができる。そして、コンビニにおけるゴミ箱の役割は非常に大きい。劇中に電光掲示板で示されるような「コンビニのサービス」に含まれるものであると言っても過言ではないだろう。むしろそのサービス、役割が肥大して暴走し、制御が効かなくなっている状況である。そのようなコンビニのサービスとしてのゴミ箱機能を、岡田が意図的に無視するだろうか。

そこで次に考えられるのは、岡田を含め、多くの日本人の頭の中から、ゴミ箱という存在自体が消されてしまっている可能性である。なぜ日本人はゴミから距離を置くのか。そもそも、ゴミというのは汚れたものであり、自分のすぐそばに置くことへの抵抗を示すのは多くの人にとって当たり前である。それが行き過ぎると、ゴミの存在までもが頭の中から遠ざけられてしまう。

哲学者の梅原猛は、縄文期~弥生期に生きた日本人が、「貯蔵」「財産の保有」「集団生活」を始めた頃、外的要因に対応せざるを得なくなったがために、財産である食糧を腐らせない方向へと生活を順応させた可能性を指摘する。高温多湿で食糧が腐敗しやすく、疫病が流行しやすい日本の風土では、衛生観念を徹底しなければならない。疫病患者の封じ込めや分離が行われ、生存のための協働や一致行動も正当化されやすかった。加えて日本には台風、地震、津波、噴火など自然災害が多く、備えに備えを重ねる必要があった。

衛生観念の徹底に重きを置いた発言は、社会の中で尊重されてきた。そこから日本人独特の過剰な衛生観念が誕生し、発言権から主体性も立ち上がってくる。日本人が他にもゼロリスク信仰、神経質、オーバースペック好きなど、何事も過剰な徹底に走りがちなのは、日本独自の風土に起因する。日本には伝統的に、穢れを否定し、穢れを批判する側に立つことで、自分は穢れではなく穢れてはいないと立証することのできる環境があった。ゴミ問題についても同様である。過剰な衛生環境を求めることを、潔癖という。日本人の潔癖性は、自らが穢れていないことを示すために、穢れそのものを自らと切り離す。衛生観念の徹底から主体を立ち上げるために、ゴミという穢れを、知らず知らずのうちに視野の外へと追いやってしまう。

主体としての「私」を穢れから引き離す心的な動きの存在。それでも、普通の人々にとっては訪れるコンビニは公共のものであり、店内にゴミ箱が置かれていても、実際には心理的な悪影響はほとんどないだろう。目の前の風景はただの風景であり、「私」ではないからだ。コンビニの店内にゴミ箱があろうが、一般的な仕方で主体と対象を分けるならば、その空間は「私」には含まれないのだから、負の感情は大きく生まれない。

しかしながら、岡田の場合はどうだろうか。ある世界に自分が帰依している感覚、つまり主体性というものが個人の枠に限定されず周りの環境と溶け合っている感覚は、チェルフィッチュの芝居の特徴の一つである

 

岡田 どこまでが「私」かわからないという感覚は、ぼくにとっては当たり前のこと。ぼくはいつもわりと、主体性というものに対して疑問を感じながら生きているんです。例えば、わかりやすい例に落として説明するなら、ぼくは今こうして(取材室の中の)ある風景を眺めていますよね?だけどぼくとしては、、「私」というサブジェクトが「風景」というオブジェクトを見ているという感覚より、見ている風景も全部ひっくるめて「私」という感覚の方が正しいんです。(『東京演劇現在形』p94

 

目の前の風景が「私」に含まれるからこそ、岡田は風景の中に存在する穢れとしての「ゴミ箱」を舞台から除外しているのではないか。稽古を通して何度も舞台セットを眺めるうちに、その舞台風景自体が岡田の「私」と混ざり合っていく。コンビニ店内にゴミ箱を置くこともできるのだが、結局ゴミ箱は取り除かれる。岡田の持つ主体性の感覚とその「私」からこぼれていく穢れの存在。それが演劇からゴミ箱を遠ざけ、コンビニのゴミ捨て問題を描かない『スーパープレミアムソフトWバニラリッチ』の風景を用意する。


 

 

現代人は、ゾンビのように、一度覚えた経験的習慣を繰り返す。現代人はコンビニと家を往復し、コンビニに並ぶ商品のように人的価値を評価されてしまう。岡田利規は、日本の都市における「環境的共存」の限界を、コンビニの棚に並ぶ商品を通して描き出す。そこで唯一欠けている都市のリアルがある。コンビニを経由してゴミが流通し、人の導線までもが影響を受ける都市生活の真実が描かれない。消えるゴミ箱のメカニズムに関係するのは、岡田の持つ主体性の感覚であった。目の前に広がる風景(=コンビニの店内)が「私」に含まれる感覚を持つ岡田にとっては、穢れたゴミ箱の存在は「私」から切り離される。そしてそこには、日本人が独特の風土の中で育んできた、穢れに対する文化的な感情が折り重なる。潔癖さを通して主体性を獲得する動きに、岡田の風景を含んだ「私」の感覚が合わさった時、スマイルファクトリーからゴミ箱は消えるのだ。

失われたゴミ箱、そこで欠けたリアルは、欠けているからこそ他の様々なリアルを浮かび上がらせる。都市に暮らす日本人は、国内外の市場における競争に怯えるために、敗者として行き着く先(=ゴミ箱)を恐れる。日本人が考えたくないからこそ思考から欠落するゴミ箱の存在を通して、大量の商品が狭い売り場面積に収納されたコンビニという舞台、そしてスマイルファクトリーという店名までもが繋がっていく。

消えたゴミ箱は、作品の初めから終わりまで、舞台に存在しないからこそ影響力を強め、観客の想像の中で存在感を増す。演劇を含む日本の芸術作品において、ゾンビはしばしば語られるが、ゴミの存在はあまり語られない。ゴミの存在が語られないことこそが、ここでのリアルである。現代人は、ゾンビになるよりゴミになる方がよっぽど怖いのだ。岡田利規と『スーパープレミアムソフトWバニラリッチ』は、日本の都市生活に増殖する恐怖を、徹底的なゴミ箱の不在を通して表現することに成功している。

 

 

 

 

 

参考文献

 

岡田利規『遡行 変形していくための演劇論』、河出書房新社、2013年

岩城京子『東京演劇現在形』、Hublet Publishing、2011年

梅原猛『日本の深層 縄文・蝦夷文化を探る』、集英社文庫、1994年

文字数:10118

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