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ジャパンブルーに宿る藍色の揺らぎ

 

 

日本文化論は果たして成立し得るのか。

美術批評家の黒瀬陽平が『ゲンロン』誌で連載している「他の平面論」によれば、日本文化論はいつも、文化的外圧に対する「受容史」として記述されてきた。そして、「構築」と「生成」の弁証法において、外からやってくる文化的外圧は「構築」的な文化であり、日本文化は「生成」的なものであるとされる。また黒瀬は、受け入れと持ち出しの美術史という観点から、岡倉天心の日本とインドにおける循環などにも注目している。村上隆の「スーパフラット」におけるアメリカとの関係や、『五百羅漢図』におけるアジアとの関係も含めて、日本文化を「受け入れ」の側面だけではなく、議論が不足しがちな「持ち出す」ことについての視点を導入している。

現在、日本から世界に持ち出されている、もしくは持ち出されようとしている日本文化に注目してみると、その一つに「ジャパンブルー」が挙げられる。

「構築」することが難しい日本文化の「生成」、そして海外文化の「受け入れ」や、その裏返しにある日本文化の「持ち出し」という視点に注目しながら日本文化論の記述を試みるならば、「ジャパンブルー」は適当な考察対象となり得るのだろうか。

 

 

 

「SAMURAI」「BLUE

 

2018年、ロシアにてサッカーW杯が開催される。日本代表は伝統的な「ジャパンブルー」と呼ばれるユニフォームに身をつつみ、予選を戦い続けてきた。だが、なぜ日本代表は、代々青いユニフォームを公式に採用しているのだろう。

2014年開催のブラジルW杯において、本大会で着用されたホーム、アウェー2種類のユニフォームの中に、「ブルー」を使用している国は19カ国にのぼる。その中で、国旗にブルーが含まれていないにも関わらずその色を用いている国は、日本だけである。そして、日本代表は1936年のベルリンオリンピックから、ブルーをベースとしたデザインを採用し続けている。

2009年10月19日、日本サッカー協会が男子サッカー代表の新しい愛称を発表した。それが「サムライブルー」である。新しい呼び名に関して、サッカー日本協会の公式発表は以下の通りだった(JFA公式サイトより)。

日本代表のチームカラーである「BLUE」。それは「SAMURAI」の遺伝子の込められた「BLUE」であり、これこそが世界に伍して戦う日本代表チームのオリジナリティです。

国旗にはない「青」の由来は、はっきりと規定されていない。しかしながら、ここで「BLUE」が「SAMURAI」のイメージと結び付けられている事実は注目に値する。一見無関係に見えるこの2つの言葉には、「ジャパンブルー」生成の歴史において結びつくべき必然性が存在するからである。

 

 

 

藍色の溢れる国

 

日本人が古くから馴染んできた藍色を「ジャパンブルー」と名付けたのは、明治8年、日本政府に招聘された英国人化学者ロバート・W・アトキンソンである。東京開成学校の教授でもあった彼は、講演の中で、「日本においては、藍を染料となし、これを使用するの量極めて大なり、けだし、他国人の初めて日本に来るものも、全国いたるところ青色衣装の悲ざるなきを見て、これを知るべきなり」(『Fashion Dream』より)と語り、のちに『藍の説(ジャパンブルー)』(宮崎道正訳)という論文をまとめている。

明治23年に来日したラフカディオ・ハーンも「東洋の土を踏んだ日」(『小泉八雲作品集』森亮訳より)というエッセイの中で、「青い屋根の下の家も小さく、青い暖簾を下げた店も小さく、青い着物を着て笑っているひとも小さいのだった」という類似の記述を残している。

なぜこれほどまでに、日本に藍色が溢れていたのか。

日本における藍色普及の歴史を見てみると、日本では古代社会から、山藍による藍摺(山藍の葉を擦り付ける手法)が存在していた。この山藍の色は悪霊から身を守る神聖な色と考えられており、染色家の村上道太郎は『色の語る日本の歴史』の中で、弥生時代後期の倭国の女王卑弥呼が魏王に贈った品物の一つに、「赤と青(藍)の混じった絹布」の例をあげている。

藍染の青は、藍白、瓶覗(かめのぞき)から浅葱、藍、縹(はなだ)を経て褐(かち)色、紺などと濃くなっていく。褐色の由来は、藍をよく染み込ませるために、被染物を臼で「褐つ」、すなわち褐(つ)いたことから付けられた名であると言われている。平安後期になると、宮廷人たちを彩った華麗な色彩は影を潜め、武家社会を象徴するような重厚な色合いの時代になっていく。色名の「褐」は「勝ち」に通ずるため、縁起を担いで、祝賀の際や武具の染めに用いられたが、常に生死を賭して戦う武士たちは、鎧兜や直垂(ひたたれ)などにこの褐色を用いるようになった。明治後期の日清、日露戦争の際にも縁起を担いだ褐色が好まれ、「軍勝色」という色名で流行した。褐色の藍は、武士の生死をかけた大切な色であったのだ。

江戸時代には、徳川幕府が町人の経済的台頭を恐れて数多くの「奢侈禁止令」を発令し、町人による絹、錦などの染色を禁止した。そのため町人たちは藍染木綿の縞の着物を着ざるを得なかった。また農民たちも、藍染の木綿や麻の野良着を着用するのが常であった。藍は丈夫で汚れが目立たず、強い臭いを発するため、蝮や害虫から身を守ってくれるという利点もあった。さらに、藍染木綿は洗えば洗うほど色が冴え、保温効果があったため、職人たちの労働着としても普及し、やがて商人の暖簾や風呂敷、布団、手ぬぐいにまで広まっていった。

こうして、街には数多くの「青屋」や「紺屋」と呼ばれる染物屋が登場した。江戸後期になり、町人たちが経済的に自立してくると、支配階級の武士に対して強い対抗意識が生まれ、自らの行き方を「いき」という美意識にあてはめ、茶、鼠、藍、黒などの地味色をすっきりとした「いき」な色として好んだ。特に藍色は「いき」色として愛好され、日本全国に普及していったのである。

「ジャパンブルー」という言葉がアトキンソンによって語られた時、明治の街並みに青色が溢れていた背景には、以上のような、古代社会から連なる藍染の伝統と江戸時代における爆発的な藍色の普及が関係している。

 

 

日本文化論の議論の文脈において考えるならば、「ジャパンブルー」は以上のようにして国内で「生成」されてきた。

「ジャパンブルー」の起源を探れば、藍染にたどり着く。初めに言及した、サッカー日本代表のユニフォームに使用される「ジャパンブルー」「サムライブルー」の由来もまた、藍染から「褐色」「軍勝色」が生まれ、「SAMURAI BLUE」へと変化したものだと言うことができる。藍染由来の「ジャパンブルー」の伝統は、サッカー日本代表のように、日本から世界へ発信されようとしている。岡山県倉敷市で生産され、海外でも販売されている桃太郎ジーンズの「ジャパンブルー」もまた、同じ文脈で語られうる例の一つだろう。

しかしながら、「ジャパンブルー」の中でも、世界で特に高い評価を受けている文化作品に関しては、また異なる観点から議論を進めなければならない。国内で「ジャパンブルー」と呼ばれるものと、世界で「ジャパンブルー」と認められるものの間には、確かな違いが存在する。世界で高く評価される幾つかの「ジャパンブルー」は、伝統的な藍染文化の土台の上に、海外からの文化の「受け入れ」を持って新たに「生成」され、作品の海外への「持ち出し」を経て「ジャパンブルー」と名付けられるような性質を持っているのである。

日本文化論の議論に戻るならば、「構築」ができない日本独特の土壌を意識し、「受け入れ」と「持ち出し」の過程から「生成」されるものは、より日本文化論の対象として語られるに耐えるものとなる。では、世界で高く評価され、真に日本的な性質を持った「ジャパンブルー」とは一体どのようなものなのか。

 

 

 

浮世絵とプルシアンブルー

 

1704年から1710年にかけて、ドイツ・ベルリンで染色・塗料製造に従事していたディースバッハと錬金術師デイツペルが、フローレンスレーキという赤い顔料を作ろうとした時、偶然にも青色の色材(フェロシアン化鉄)が発見された。これが俗に言う、ベロ藍(プルシアンブルー)である。1807年、オランダ船の船員の脇荷としてベロ藍は長崎へ持ち込まれた。1820年以降に安価のベロ藍などが入ってくるようになってから、浮世絵にも頻繁に用いられるようになったと言われている。

江戸時代の浮世絵では、元来、青を表現するのに「蓼藍」や「露草」から採取される青を使用していたが、耐久性が弱く色褪せが激しいため、青を使った表現は少なかった。他に清々しい青色を出すには、中東産の高価な鉱石が原料の「ラピスラズリ」が必要で、それを用いることができるのは将軍大名の御用絵師などに限られていたため、大衆的な浮世絵にはとても使えなかった。

ベロ藍が広まるのと同時に、それまで美人画と役者絵が本流だった浮世絵に風景画が増え始める。『東海道五十三次』『名所江戸百景』などで風景画を確立したのが歌川広重である。広重は版木を斜めに切る「ぼかし摺り」の技法で藍色を水平線や空など背景の一部に使い、画面に引き締まった鮮やかな印象を与えた。

海や川の表現でも藍色は巧みな効果を発揮した。葛飾北斎は『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』で、逆巻く荒波を白と藍のコントラストでダイナミックに描く。発色が強くインパクトの大きいベロ藍は、風景画の点景にうってつけだった。ベロ藍を水で溶いて塗布してみると、透き通るような、明るく美しい青が紙に出る。北斎は、このベロ藍を、植物繊維から採れる濃い藍と掛け合わせた。北斎によって、輪郭線を墨ではなくベロ藍で描くことを指示された画面は、質感が軟らかくなり、明るくよく映えるようになった。「冨嶽三十六景」では、植物繊維の出す深い藍色と透明感あるベロ藍がうまく配合されている。

「ヒロシゲブルー」と呼ばれる歌川広重の藍色の美しさは、19世紀後半のフランスに発した印象派の画家たちや、アール・ヌーヴォーの芸術家たちに大きな影響を与え、当時のジャポニズムの流行を生んだ。

そして、古来からある深い藍色と海外からやってきたベロ藍をうまく掛け合わせた葛飾北斎の浮世絵、特に、『神奈川沖浪裏』は、画家のヴァン・ゴッホにも称賛されている(『ゴッホの生涯』より)。作曲家のクロード・ドビュッシーが『神奈川沖浪裏』を自宅に飾っていたとも言われているように、北斎の作品もまた、ヨーロッパで高く評価されたのである。

ヨーロッパから渡来したベロ藍は、浮世絵に彩色されて、逆に「ジャパンブルー」としてヨーロッパの人々を魅了した。この「ジャパンブルー」は、当時の江戸の街に溢れていた藍色と、海外から「受容」したベロ藍の融合によるものである。この時、前述した時代的背景もあり、広重や北斎にとってのベロ藍の「受け入れ」は精神的にさほど困難なものではなかった。

「受け入れ」と「持ち出し」、2つの文化的な表情を持つ「ジャパンブルー」の例はこれだけにとどまらない。

江戸の町人文化を継承した東京の下町に生まれ、『現代の浮世絵』を制作するなど、芸術方面において幅広く活躍している日本の映画監督に、北野武がいる。葛飾北斎らの浮世絵における「ジャパンブルー」の延長として考えられる、北野の「キタノブルー」とはどのようなものだろうか。

 

 

 

キタノブルーに宿る影

 

北野武は、1990年の『その男、凶暴につき』から、1997年のヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を獲得した『HANA-BI』に到るまで、数多くの映画を作っているが、その映像は、欧米で「キタノ・ブルー」と呼ばれて高い評価を受けた、独特のくすんだブルーの色調で表現されている。北野のまなざしは、現代の騒色と言われる極彩色の世界の基底に流れている「くすんだブルー」の存在を見据えている。グレーほど重くはなく、やや軽い印象を与えるそのブルーは、虚無的な現代人の心象を的確に表徴する色彩なのかもしれない。実際、北野は『HANA-BI』でも、一見華やかでありながら、どこか死の影を宿している虚無的な現代人の生き様を、このくすんだブルーで描いたのである。

この「キタノブルー」の生成過程を考える上で重要視したいのが、太平洋戦争後のアメリカ支配の影にあった、日本社会の憂鬱との関係である。

美術批評家の椹木野衣が、『震美術論』の執筆前、かつて「悪い場所」という言葉で日本の文化的土壌を象徴したように、太平洋戦争後の日本社会では、アメリカの影響を避けて独自の文化を構築させていくことは非常に困難であった。文化を受容する背景が、江戸時代の日本とは当然異なっている。

北野武もまた、東京都足立区に生まれ下町で暮らしながら、アメリカの影響を「受容」していった。北野が少年時代を過ごしたのは、日本がGHQの統制を受けていた1950年代である。電車の中で小さな自分に飴玉をくれたアメリカ兵に対して、縮こまっているように見えた実父の姿が、現在の彼の作品にも影響を及ぼしている。

注目すべきは、北野がアメリカに対して、抵抗とは異なる個人的な角度から愛情を持たざるを得なかったことだ。アメリカのポップアート、特にアンディ・ウォーホルの作品は彼を刺激したし、ソニー・ロリンズやマイルズ・デイヴィスを好んで聴いていたことも、『Kitano par Kitano』の中で述べている。当時の北野の中には、日本に支配の傘を広げるアメリカに対して、その文化の恩恵を預かっている確かな自分の存在から、複雑な感情が生まれていた。

北野の映画でしばしば登場するヤクザは、日本の裏社会においてはその力を誇示する存在でありながら、アメリカという大きな力の前では、表舞台においてその存在を脅かされている存在だ。北野の映画の中でも、ヤクザの資金源を辿っていくと海外マフィアへと結びつき、日本のヤクザはそこでも控えめな力の誇示をすることしかできない。加えて言うならば、北野の描くヤクザは、しばしば社会の表舞台でも非高圧的な行動とともに描かれている。

『Kitano par Kitano』によると、北野にとってのヤクザとは、かつて父の仕事の関係で出会った優しいお兄さんのような存在であり、外見とは裏腹に柔らかな印象を持った人々であった。『ソナチネ』で現れるヤクザは、硬派な印象をもたらすよりも、時には冗談を言い合いながら、仲間内でじゃれあっている。砂浜で遊ぶシーンが特徴的だ。力を誇示せず、どこかその力を去勢されたようなヤクザの存在。ここに現れる虚無的な感情の在処を、「キタノブルー」は表象しているのではないだろうか。

太平洋戦争や戦後の日本社会において、アメリカという国家が日本を「悪い場所」にしたことには、村上隆が「スーパーフラット」において表現しているように、一定の理解が存在する。原爆投下と敗戦によってすっかり去勢された日本には、アジアとの繋がりを断ち切られ、対米関係のみでアイデンティティを構築せざるを得ない、閉鎖的な空間がもたらされた。その閉鎖性を逆手にとって、アメリカから受け入れたポップカルチャーを独自に変形し、成熟させたのが戦後のオタク文化である。その関係性を逆手にとったのが村上の「スーパーフラット」というコンセプトであった。

村上は「スーパーフラット」という「受け入れ」の美術のコンセプトを示しただけでなく、アメリカに対して「持ち出し」の美術をも展開した。「リトルボーイ」展は、日本がいかに核爆弾の被害を受けたのか、ニューヨークでの展示を通してアメリカへより直接的なカウンターを浴びせるものであった。アメリカにより更地にされた日本の文化的土壌から生まれたオタクカルチャー、アメリカの文化的影響を歪んだ形で受け継いだ日本の文化が、アメリカに対して反発をもたらすという意味でのアイロニーは高く評価された。

北野の作品においても、村上のような「持ち出し」の文化論とアイロニーを適用したい。そこに介在するものこそが「キタノブルー」なのである。彼は、「キタノブルー」と共に、現代日本の憂鬱を、去勢されたヤクザの存在を経由させて描いた。本来権力や暴力を発揮しがちな非社会的立場にいる人間が、浜辺でキャッキャと戯れていたり、お笑いコントのような活劇を繰り広げているような様に、映画をみたアメリカ人は戦後日本社会の状況を感じ取ったはずである。

そのような「キタノブルー」は、北野の映画に存在する人物や画面それ自体に、死の影として映り込む。アメリカによって去勢されている日本と、そこに生きる現代人の虚無さを、画面は鋭利に映し出している。

一見華やかでありながら、死の影を宿しているようにも見えるキタノブルーは、アメリカ文化を代表するポップカルチャーと、戦後日本社会という「悪い場所」の狭間で生まれた。いくらそのブルーが明るく見えたからといっても、それは北野がポップカルチャーを愛していた影響が多少反映されるからであって、そこに相反する死の影の存在は、くすんだブルーとして同じ色の中から次第に立ち現れてくる。そして、文化的に去勢された日本人としての憂鬱が生んだ北野の芸術は、海外への「持ち出し」を持ってして真に「ジャパンブルー」の称号を与えられることになるのだ。

 

 

「ジャパンブルー」の起源を見れば、藍染の伝統に辿り着く。藍染から「褐色」や「軍勝色」が生まれ、「SAMURAI BLUE」へと変化していった。

だがしかし、日本文化論の文脈を考える場合、日本的な「ジャパンブルー」とは、むしろ海外から高い評価をされているいくつかの芸術作品に存在する。そして、そこには文化の「受け入れ」と「持ち出し」のプロセスが関与する。

歌川広重や葛飾北斎がベロ藍を浮世絵で彩色したブルーは、海外に持ち出されて「ジャパンブルー」となった。北野武は、アンディ・ウォーホルなどアメリカのポップカルチャーを「受容」しその影響を受け、戦後日本社会の「悪い場所」に去勢されたヤクザの虚無感を見出した。そして、時には鮮やかに、時にはくすんで見えるブルーに、死の影を宿らせた。キタノブルーもまた、日本文化の土壌から浮かび上がる「ジャパンブルー」として、海外に持ち出されて評価を獲得した時に誕生したのである。

以上のような、受け入れ、持ち出される「ジャパンブルー」の揺らぎの中に、日本文化論の一つの可能性を見る。

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