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思い出をめぐる消費−クラウドファンディングと新しい創作姿勢− 

 

 

SNSと自己承認欲求

 

2010年代の文化を語る上で、Twitterやfacebookなどソーシャルメディア(以下SNS)の存在は重要である。アメリカで誕生したSNSは2000年代から社会に広まっていくが、iphoneを始めとするスマートフォンの爆発的な普及によって、2017年現在多くの人々の生活に欠かせないものになっている。ICT総研の調査結果(2016年8月)によると、2017年には、日本でSNSを使っている人口の数はおよそ7000万人と予想されている。これは、国民の2人に1人以上がSNSを利用していることを意味する。

このSNSは、「自己承認欲求」の問題と深く結びついている。SNSは主に、自身が興味を持っていることや他者に伝えたいことを表現したり、発信する場として用いられていて、ユーザーの多くは、SNS上に出来上がる自分の肖像をより良く見せようとする。出かけた先の料理やスイーツをSNSにコメント付きでアップしたり、記念日や特別なイベントなどもネット上の他者の目の届く部分に記録しておく。

マズローの5段階欲求説では、「承認欲求」は、生理的欲求、安全欲求、社会的欲求の次に位置付けられ、最後の5つ目には自己実現欲求が置かれている。安全で豊かになった現代の日本社会において、高次の承認欲求が求められていることは言うまでもないだろう。「社会的に評価されたい、人から認められたい」というその気持ちに拍車をかけるエンジンとしても、SNSは機能しているのだ。

かねてから当たり前に存在していた現代人の「自己承認欲求」は、2000年代にSNSの登場とともに誇大化し、2010年代になってSNSが完全に人々の生活に根付くと、その成長を止める気配がない。

作家の朝井リョウは、SNSを利用する就職活動生の自己承認欲求の行方を『何者』(2012年)というタイトルの作品に託した。朝井リョウが同作をもって戦後最年少の直木賞受賞作家になったということよりも、1989年生まれの彼がこの時23歳であり、同作品に紛れもない若者の、時代のリアルを注入しているという事実に目を向けたい。

精神科医の斎藤環は、『承認をめぐる病』において、現代人の身の回りで起こっている現象を「承認欲求」という切り口から分析した。人に認めてもらいたいという気持ちに過度にこだわると、様々な病理が発生してしまう。現代のカルチャーや事件を反映したこの論考が出版されたのが、2013年である。

2012年のベストセラーには、学校法人ノートルダム清心学園の理事長である渡辺和子が書いたエッセイ集『置かれた場所で咲きなさい』がある。人生を歩んでいれば「こんなはずじゃなかった」と思う事態は次々に起こる。その時、「ここではないどこか」へ逃げ出すのではなくて、与えられたポジションで咲いてみなさいという進言の数々は、多くの人々の承認欲求を満たす言葉のようにも聞こえる。実際には、置かれた場所での向き合い方として、自分が置かれたくない他の場所の粗探しをする振る舞いばかりが現実的に目立つのではないだろうか。置かれた場所で素直に枯れてしまう人々も少なくないはずだが、とにかく「そこの場に居続けること」を正当化し、安心感を与えてくれるという点において、同書が多くの人々に求められたのにも納得がいく。

これらの作品が示唆するのは、2010年代の前半には、誇大化する「自己承認欲求」の問題が、社会に顕在化しているということだ。そして、2017年現在の日本社会を見てみても、この「自己承認欲求」は未だに議論されている問題であり、2010年代を語る上で欠かすことのできない事象であるということは言うまでもないだろう。

ここでは、「自己承認欲求」が2010年代にとって重要なテーマであることを踏まえて、多数の「自己承認欲求」を抱えた社会が、どのようにコンテンツを変化させていくのかに注目してみよう。承認をめぐる問題が人々にどのような消費をもたらし、その消費の仕方がどのようにコンテンツの制作現場に影響を及ぼしてきたのか、そのことを考えていきたい。

「自己承認欲求」は人々にSNSのさらなる使用を促し、そのSNSの使用が人々に「思い出」消費を促す。そして2010年代後半になると、「思い出」消費は作家の姿勢やコンテンツの在り方までも変えていく、という一つの現実が思考の過程で見えてきた。

 

 

「思い出」が価値を持つ

  

「思い出」消費とは何か。例として「思い出」という言葉を当てはめているが、ここには「体験」や「物語」、「コミュニケーション」のような言葉が当てはまることもある。ここで主張したいのは、人々がお金などの物質的な価値よりも、「思い出」などの目に見えないような価値を重視する傾向が強まったということである。人々は「思い出」が手に入る消費方法を好むようになった。

「思い出」消費は以前にも、もちろん2000年代にも存在した。これを加速度的に流行させたのは、やはりSNSの存在だ。例えば、インスタグラムには写真とともにユーザーの「思い出」が表現される。「インスタ映え」という言葉が意味するのは、人々がむしろ「思い出」を求めて行動し、「思い出」として価値がありそうなものをSNSに取り上げている様である。

コンテンツに対するお金の払い方、つまり消費の側面からもこの問題を考えてみたい。インターネットの出現以降、多くの消費者は「作品」にはなかなかお金を支払わなくなったが、「思い出」には支払うのだ。

インターネット上にはYoutubeの動画など無料のコンテンツが溢れているし、価格が上がり続けている小説などの作品はそもそも水や食料のような生活必需品でもないため、人々が作品にお金を払う機会が少なくなってしまうのも仕方のないことなのかもしれない。

では、人々はなぜ「思い出」には依然としてお金を支払うのか。

これは、観光地にあるお土産店がなかなか潰れないこととも関係している。観光客は、観光地でその体験を「思い出」に残すためにお土産を買う。この「思い出」を求めての消費は、消費者個々人に応じての「必需品」を導く。そのような可能性を、私たちはお土産から見出すことができる。

例えば、世界各国にチェーン展開するスターバックスコーヒーが、同サイズのマグカップを各都市限定のデザインとともに観光客向けに展開していることも、2010年代の新しい消費者真理を捉えているのではないだろうか。

この「思い出」消費は、ジャンルの枠を超えて様々な芸術の場に拡散している。

文学の世界では、2010年代になり、「芥川賞」と「村上春樹」が大きな2大柱として「思い出」消費を支えている。毎年2回、「芥川賞」は文藝春秋社により発表されるが、メディアの過熱ぶりを見ると、もはや「文学イベント」としてブランド化された芥川賞という一面を隠すことは難しいだろう。芥川賞が発表される度に、受賞作家はマスコミで取り上げられ、普段本を読まないような多くの人々が受賞作品を求めて書店へ足を運ぶ。芥川賞は、読みやすいエンターテインメント作品とは異なり、読者にある程度のリーダビリティが求められる「純文学」の賞であるにも関わらずだ。芥川賞だから買おう、といった消費者心理は、受賞作品の大きな売り上げと、それと対照的な、「この作品何が言いたいのだかわからない」という否定的なAmazonレビューの数々が示している。

芥川賞をめぐる市場の流れをさらに大きなものにしたのが、お笑い芸人の又吉直樹が『火花』をもって同賞を受賞した事実である。普段なかなか本を読まない読者にとっても、又吉の親しみやすいキャラクターと共に、「芥川賞」はさらに身近で近づきやすい存在になった。「普段あまり本は読まないけれど、又吉さんが書いた芥川賞の『火花』は買った」というSNS上の書き込みは、読者が「思い出」消費として、流行の『火花』を手に取ったことを示唆するだろう。

文学の世界を見渡すと、もう一つの大きな「思い出」消費の存在にも触れないわけにはいかない。それは、村上春樹作品をめぐる「お祭り(イベント)」の存在である。村上作品の熱心な読者ファンが発売日の前夜から書店の前に列をなし、発売と同時に喜びを放出し合うカウントダウンイベントが現在ほどに盛り上がるようになったのは、2009年の『1Q84』からではなかったか。

この「祭り」の風景は奇しくも、アメリカのApple社が発売するiphoneなどの商品を購入するために消費者が徹夜で列をなす光景に似ている部分がある。もちろんそこにはいち早く商品を手にいれたいという衝動もあるのだろうが、その徹夜で並ぶというイベント性に惹きつけられている人々も多いのではないだろうか。事実、最前列に並ぶ数十人にメディアがインタビューすると、彼らが「最初に入店する集団に与えられる、Apple店員とのハイタッチ」を楽しみに並んでいるという事実が明らかになる。

2016年、映画『ラブライブ!』を何度も何度も見に行く観客の姿がメディアで何度も取り上げられた。彼らが欲したのは映画の内容そのものだけではなく、映画限定グッズや「このタイミングで映画館で映画鑑賞する」という体験でもあった。クリアファイル(全10種類のうち1種類)が付属の前売り券、クリアポスター(全9種類のうち1種類)が付属の前売り券、特製大型タペストリー付属の前売り券など、多岐に及んだその映画券を、全て手に入れようとする猛者も数多く現れた。結果、映画の興行はもちろん大成功を収める。

AKB48がCDにイベント握手券を付属し、売り上げを伸ばすという試みを2000年代からすでに行なっていて、CDを大量購入するファンの存在から、ラブライブ!のようなマーケティング手法を思いつくことは難しくはなかった。しかしながら、「実際に聞くことのない余りCDの転売」のようなイベント付随の問題が、ラブライブ!の場合では「スカスカの映画館」という現象となって生じることが考えられた。グッズを手に入れた以上、何度も同じ映画を見にいくことは時間の無駄と考える人々がいてもおかしくはないだろう。上映当日にグッズを手に入れても、映画の直前に帰ることは可能なのである。

この映画『ラブライブ!』現象の特異な点は、そのような状況でもファンの多くが何度も繰り返し、時には数十回以上も映画鑑賞を遂行した点にある。背景には、やはりファンがライブに繰り返し足を運びたくなるような心理とお祭り感、すなわち今回限りの「体験」=「思い出」を経験するために、ファンも面白がって映画鑑賞に参加したことが考えられる。現実のアイドルを応援するために何度も同じライブに足を運ぶファン心理が、映画館という場所に移されたのである。

このように、「思い出」を求める消費の形態は、産業の壁を超えて様々な作品と繋がっていった。

これから取り上げる1つの作品は、「思い出」消費の次にやってくる消費形態を、制作時点から予め意識している点で新しい。2010年代前半の承認をめぐる問題を乗り越え、マーケティング色を初めから内包したその作品は、興味深い考察対象となり得る。

「思い出」消費は、出版業界に関していえば、これまではあくまでも外側からのアプローチ、つまりすでに存在する作品に対し、作品の内容には干渉しない場所から「思い出」の色付けをすることに頼っていた。これを担うのは主に、出版社や書店、広告代理店の仕事であった。しかしながら、2016年になると、「思い出」色を意図的に獲得しようとする作品が出現した。

それが、奇しくも『火花』を書いた又吉直樹と同期のお笑い芸人、西野亮廣により生み出された絵本『えんとつ町のプペル』である。『えんとつ町のプペル』が生まれる背景には、しっかりと時代の意識やシステムが息づいているため、この作品は未来のコンテンツ論を考える上でも、重要な鍵となる。序論の最後に、本論を組み立てる上での土台にもなる『えんとつ町のプペル』について、その制作過程から紹介したい。ここで重要なのは物語の内容ではなく、作品の制作背景である。

 

 

『えんとつ町のプペル』:クラウドファンディングにおける「思い出」の交換

 

『えんとつ町のプペル』は、西野が30人以上のクリエイターとともに作り上げた絵本である。2016年に出版されると、2017年5月の時点で発行部数が30万部を突破している。

fieldcasterjapanが開催する西野のトークイベントによると、制作にあたって彼がまず考えたのは、絵本を分業制で作ることができないのかという問題である。

小説は別として、映画やアニメなどは分業制で作られる。監督、音声、美術という大きな括りだけでなく、映画には激しいアクションシーンを得意とするスタントマンがいたり、アニメでは背景を描くのが得意なアニメーターがいたりと、制作サイドの人間それぞれの専門性が局所で活きるように、全体の企画は構成される。

絵本業界にも、人間を描くのが得意な作家、森や街などの背景を描くのが得意な作家などが存在しているにも関わらず、実際には、「絵本は1人の絵本作家の手で作られることが当たり前」とされている状況が日本国内には存在している。

これはなぜか。その最大の理由は、絵本の制作規模にあるだろう。数万部が刷られ、数十万部の売り上げを目指す小説や実用書のようなジャンルと比較しても、数千部の売り上げを持って大成功となる絵本の世界は、明らかに市場規模が小さい。市場のサイズが小さいということは、それだけお金の周りも小さくなるということであり、一つの絵本を作るにあたって多くのスタッフを雇うことが難しくなるというわけである。

ここで、作品の質を落としたくない西野は、「分業制」で一つの絵本を作ることにこだわり続けた結果、制作費を他のチャンネルから用意しようと企む。それが、クラウドファンディングだ。

goo国語辞書によると、クラウドファンディング(Crowdfunding)とは、プロジェクトのための資金を調達できない個人・団体が、ソーシャルメディアをはじめインターネット上で企画内容と必要な金額を提示し、広く支援を呼びかける手法である。少額の資金提供者を多く集めることによって、目標額の達成を狙う。現在日本でも、業界大手のreadyforやCAMPFIREなどから、ユーザーにとっても慣れ親しみやすいサービスが展開されている。readyforにより日本初のクラウドファンディングサービスが提供されたのが、2014年11月のことである。

このクラウドファンディングという仕組みを通して、西野は『えんとつ町のプペル』の制作費を集めることに成功した。制作費を集めることを目的にした1度のクラウドファンディングだけでも、3293人が参加、1013万1400円をいう金額が集まっている。個展開催に関しては、6257人の参加から、4637万3152円ものファンドが集まった(西野亮廣公式LINEブログより)。

クラウドファンディング参加者は、決められた金額を振り込むことで、西野の絵本づくりや絵画展を支援する。金額ごとの見返りに、西野からのサービスが付与される。ここで西野は、焼き芋大会やカレー大会を含む限定イベントへの参加権など、「思い出」を交換している。

お金やモノとしての商品の代わりに、「思い出」を提供することで「交換」が成立する。これが2010年代後半の消費文化の一つの潮流なのである。

そして、このクラウドファンディングの裏側には、制作費だけではなく、絵本の売り上げを高めることまでも考慮した西野の戦略が存在した。クラウドファンディングは、本の売り上げを伸ばすことが難しくなった時代に、読み手を作り手に巻き込む仕組みとしての本質を明らかにしていく。

人々は、作品にお金を払う機会は少なくなってきているが、「思い出」や「体験」にはお金を払う。裏を返せば、クラウドファンディングを通して、『えんとつ町のプペル』の制作費を支援してくれる人々、彼らが制作に携わったという思い出を持つ時、思い出としてその作品を買うはずであると西野は考えたのだ。

事実、『えんとつ町のプペル』の制作費を支援した多くの人々は、絵本を購入した。『えんとつ町のプペル』は、クラウドファンディング参加者の存在を通して、発売1ヶ月半前にAmazon絵本ランキングの1位を取得する。「売れている」という既成事実が初版の売り上げを伸ばす爆発的なエンジンとしても稼働し、絵本はそのままベストセラーとしての勢いを保ち続けることになる。

そして、「思い出」交換のマーケティング面までを考慮して作られた作品は、これまで通常の販売体制では困難とされていたことまで可能にしてしまった。

それが、コンテンツの無料化である。

西野は、2017年1月19日、『えんとつ町のプペル』をインターネットサイト、Spotlightにて無料公開する。なぜ彼はこのような行動を起こしたのか。

無料公開時に西野は、約2000円という絵本の値段が子供にとっては高すぎるからだという理由を述べているが、これにはどうやらそれ以外の理由があったようだ。fieldcasterjapanが開催するトークイベントでの西野の発言を参考にすると、「小さな子供に絵本を読む親たちは、スマートフォンで読み聞かせはしない」ということが絵本無料公開の大きな理由である。

スマートフォンを通して無料のコンテンツが手に入っても、その小さな画面を通して子供に絵を見せたり、同時に読み聞かせを行うことは難しい。やはり「子供への読み聞かせは、絵本を手に持って行うことが健全であり支持される」との洞察のもとに、西野は無料公開を決断した。無料コンテンツがあったところで、絵本としての『えんとつ町のプペル』を、マーケティング面でのコア層となり得る親達は購入するのである。

絵本は、基本的には子供向けに作られている。書店においても、絵本のほとんどが子供向けのコーナーに配本されている。絵本は、子供との相性によっては、短い期間に繰り返し何度も読まれることがある。それを踏まえて、小さな子供の親達にとっては、絵本の内容を家庭からスマホを通してチェックすることができれば嬉しいのではないか、という想像力も同時にここには存在しているのだ。

そのため、この場合、インターネット上での絵本の無料公開はむしろ商業的にもプラスに働く。絵本のデータをカラーコピーして自作の絵本を作ってしまうような読者も中にはいたかもしれないが、実際にこの新しい試みはさらなる商業面での成功を促した。

このコンテンツの無料化を通して私たちが得ることのできる視座は、「思い出」という切り口を後から見つけ出すことで、一度金銭的に溶解した商品の価値を再生産することの可能性である。

作品にはもともと、お金と結びついた「定価」があった。しかし、承認欲求とSNSの普及から「思い出」消費が促進される社会において、この「定価」の輪郭は次第にぼやけ始める。人々はお金によって決められた価値を元に交換を行うだけではなく、「思い出」を代用してそれぞれのニーズを満たすようになった。「思い出」の交換がしばしば行われる時、もはや金銭を用いない無料コンテンツの流通までが行われるようになる。

その時、商品としてのモノの価値を再生産するためには、他者にとって適切な「思い出」となり得る切り口を見つけ、そこに商品を配置すれば良い。「思い出」消費の面白いパターンだ。「思い出」は商品から価格を奪い、どんどんお金の価値を失くす。しかしながら、「絵本というモノが小さな子どもへの読み聞かせには必要」なために、無料で手に入るスマホ版コンテンツよりも、金銭的な価値を持った絵本版コンテンツが売れるのだ。

流通までをデザインすることは、今の時代における「作る」に含まれる。西野のクラウドファンディングを利用した取り組みからは、未来の創作姿勢とその可能性を垣間見ることができる。マーケティング面での工夫を制作段階から内包した作品は、クラウドファンディング隆盛のインターネット社会において、ますます増えてくるだろう。

 

 

ここまでの議論をまとめよう。

人々は、クラウドファンディングなどを通して「思い出」を交換し合う。金銭的な価値の代わりに「思い出」が代用されるだけではなく、そこでは金銭的な価値そのものが「思い出」を経由して溶解することもある。そしてまた、その「思い出」から再び金銭的な価値が生まれることもある。そこでは個人の趣向や目的に応じて、目まぐるしい「価値の変換」が行われている。

お金と「思い出」との間で行われる、複雑な価値変換のキャッチボールの中で、いかにして作品は姿を変えていくのか。『えんとつ町のプペル』は一つの例だが、出版業界が積極的に異業種の作家に創作を求めている以上、新しい創作方法も生まれてくるはずである。そして、インターネット市場の存在がコンテンツの変化に深く関与するであろうことは言うまでもない。

2000年代後半からSNSの登場とともに肥大化し始めた自己承認欲求は、2010年代前半のさらなるSNSの発展を経由し、「思い出」コンテンツの隆盛をもたらした。そして、2010年代後半を見れば、クラウドファンディング上において人々はそれぞれの価値判断を尊重し、「思い出」の交換をはじめている。その結果、「思い出」の交換を初めからマーケティング戦略に取り込んだ作家や作品が登場し、作品の流通方法までもが変化していく。

ここから先の章で述べるのは、主に2016年以降に「思い出」を巡るコミュニケーションの影響を受けて生まれた作品群の考察とその批評である。2010年代におけるインターネット社会と人々の生活の変化が、作家や作品にどのような変化を及ぼしたのか、詳細に記述する。その過程で、お笑いや音楽など、異業種を同時並行的にこなす作家の存在が数多く見受けられたのは興味深い。例えば2017年7月には、ロックバンド、アジアン・カンフー・ジェネレーションの後藤正文が、本人演奏の読書用アンビエントミュージックCDをつけた短編小説『YOROZU妄想の民俗史』を出版している。「思い出」を重視する消費社会を注視した今回の試みが、結果的に今日的な精神の表れを捉え、2010年代を貫く社会の様相を切り開くことを願う。

美術評論家の黒瀬陽平は、著書の『情報社会の情念 クリエイティブの条件を問う』の中で、ソーシャルゲームの世界において、表層であるインターフェースのデザインなどは、かなりの程度深層であるプラットフォームの運営方法、つまりデータマイニングの結果によって決定されることを指摘している。「作者」によって与えられるクリエイティビティよりも「環境」によって与えられるクリエイティビティの動きがが目立つようになってきている時代の中で、クラウドファンディングが創作に及ぼす影響については、特に考察を重ねたい。

 

 

 

 

参考文献

 

朝井リョウ『何者』(新潮社、2012年)

斎藤環『承認をめぐる病』(日本評論社、2013年)

渡辺和子『置かれた場所で咲きなさい』(幻冬舎、2012年)

又吉直樹『火花』(文藝春秋、2015年)

村上春樹『1Q84』(新潮社、2009年)

西野亮廣『えんとつ町のプペル』(幻冬舎、2016年)

後藤正文『YOROZU妄想の民俗史』(ロッキング・オン、2017年)

黒瀬陽平『情報社会の情念 クリエイティブの条件を問う』(NHK出版、2013年)

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