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精霊の介在−『グレート・ギャツビー』『騎士団長殺し』論

 

この論考では、『グレート・ギャツビー』と『騎士団長殺し』という2つの作品に中沢新一の「三位一体モデル」という理論的な補助線を導入して、両作品の比較検討を試みている。熱い鉄板に対峙するハンバーグにもつなぎが必要なように、第3項としてのつなぎの存在を実際の文学作品の中に探求する。

かつて中沢は、中間としての第3項を組み入れ、二元論の落とし穴を回避するために用いた「三位一体モデル」の中で、キリスト教の三位一体を「父=社会的な法」「子=幻想力」「聖霊=増殖力」と概念化している。例えば、父と子を媒介する聖霊を、資本主義の「貨幣=資本」に当てはめると、それが放っておくと無限に増殖していくものであること、そしてその結果現れるのはバランスを著しく欠いた社会、世界であり、それゆえに三位一体の再確認が重要なのだと彼は主張する。今回の論考では特に、精霊の「時には絶え間ない増殖により世界を暴走させ、また別の時には二項の間に立ち、世界に調和とバランスを生み出す」媒介者としての役割に注目したい。

 

1 増殖する媒介者

 

『グレート・ギャツビー』(The Great Gatsby)は、アメリカの作家F・スコット・フィッツジェラルドが執筆し1925年に出版された小説である。登場人物の一人ニック・キャラウェイは、かつてニューヨークで過ごした狂乱の1920年代を回顧し、当時の様子を語り始める。ニックはそこで、毎晩のように豪華なパーティを開く大富豪でありながら、その正体は謎に包まれているジェイ・ギャツビーと出会った。ニックから読者に語られるのは、一途な恋愛に身を捧げながらも数々の不幸に見舞われ、誰からも悲しまれることなく孤独に死んでいったギャツビーの波乱の人生である。

また、伊豆大和『フィッツジェラルドの長編小説』によると、実際にフィッツジェラルドが、冒頭にてニックをアルコール中毒に悩む退役軍人とし、カウンセリングの過程で彼に思い出話を始めさせる、といった設定を持っていたことを述べておきたい。これは、バズ・ラーマン監督による2013年のアメリカ映画『華麗なるギャツビー』でも演出されている設定であり、今回はこの「未来のニックが、ギャツビーとの過去の影響を受けて疲弊している」という前提に立ち、考察を進めていきたい。

村上春樹は、『グレート・ギャツビー』について、川上未映子とのインタビュー集『みみずくは黄昏に飛び立つ』の中で、『騎士団殺し』との類似に言及している。

村上 「私」という一人称の語り手がある程度、『グレート・ギャツビー』の語り手でもあるニック・キャラウェイのようなポジションになるであろうことは、当然意識していました。 

         (村上春樹、川上未映子『みみずくは黄昏に飛び立つ』)

ここで話題になっている『騎士団長殺し』は、新潮社から2017年に発行された、村上春樹の14作目の小説である。物語は、主人公である「私」が、妻と別居してから元の鞘に戻るまでの期間についてこれから語っていくと読者に宣言することによって始まり、過去の出来事を振り返る回想形式になっている。乱暴に要約をするのならば、当時36歳の画家である「私」が、大きな試練を経て再生し、家庭を取り戻す話だと言ってもよいかもしれない。小田原市郊外の山中に建つ一軒家が主な舞台となるが、ここは、高名な日本画家である雨田具彦のアトリエ兼住居だった場所であり、その家に越してきた「私」は、そこで様々な不思議な出来事に遭遇するのだ。物語に大きく関わるのは、その家の屋根裏で見つけた雨田具彦の未発表作「騎士団長殺し」と、谷をはさんで向かいの山に建つ白い邸宅に住み、ジャガーに乗る白髪の中年男、免色渉である。

確かに、『グレート・ギャツビー』においても、ニックが住む家から港を挟んだ向こう側の邸宅にギャツビーが住んでいるように、両作品の間には類似が存在している。さらに、「三位一体モデル」を用いるならば、両作品の類似は3つの要素から整理されることになる。二つの物語に共通するのは、世界①とそれに対峙する主要人物②に加えて、もう一人の主人公といってもよい、筆者とは別の語り手③が物語中に存在することである。

例えば、『グレート・ギャツビー』の場合、①世界②ギャツビー③ニック(語り手であり、ギャツビーと世界との媒介者)という構図を作ることができる。世界に対峙するギャツビーの物語から生まれるダイナミズムを、読者に対し増殖させる役割を持っているのはニックであり、ニックはギャツビーの運命を横から見守る。ニックがそこに「媒介者」として存在することで、読者は豪華な暮らしの果てに散っていくギャツビーの生き様にある種の美しさや輝きを見出し、彼を孤独なまま風化させずに記憶の底へ残そうとする。しかしながら、ギャツビーを差異化させる存在でありながらも、ニックの未来に待っていたのは彼がその「媒介者」という役割の過剰な増殖を許してしまった結果であり、過去においてきてしまった自らの影からの支配でもあることを忘れてはならない。

『騎士団長殺し』においても、免色と私の関係性を「三位一体モデル」や『グレート・ギャツビー』の構造になぞらえるのであれば、①世界②免色③私のような配置を見出すことができる。しかし、ここで注目すべきは、私は、免色の物語にコミットし、彼の「媒介者」になることを迷いながらも引き受けるが、小説の展開は次第に、その「第3項としての私」の物語から私自身が世界へ対峙する物語、具体的には雨田具彦の絵をめぐる物語へと重心を移していくことだ。そのとき、免色や秋川まりえは、世界と私とのバランスに影響を及ぼす「媒介者」の役割を受け入れ始める。

ちなみに、「私」のところへ免色が自分の肖像画を描いてほしいとやってきた時、免色の欲する「交流」についてこんなことを言っているが、ここでの彼の言葉は、「媒介者」としての双方向的な働きかけが意識されているようにも聞こえる。

「お互いの一部を交換し合うということです。私は私の何かを差し出し、あなたはあなたの何かを差し出す。もちろんそれが大事なものである必要はありません。」

(村上春樹『騎士団長殺し』)

『騎士団長殺し』の中で描かれているのは、登場人物が他の誰かのために「媒介者」の位置に存在しながら、同時に彼ら自身の人生も柔軟に進めていく様子である。私も免色も秋川まりえも、他者が自分の人生へ介入することに結果的に感謝し、その後も生活を続けていく。逆に言えば、他者の「媒介者」になることを引き受けず、自分の物語を生きるだけでは何か問題が生じるのではないだろうか。その可能性を、私たちは『グレート・ギャツビー』や『騎士団長殺し』の中で捉えている。自動車事故を含む秘密を一人で抱え込んだことが後の死亡事件に繋がったのだから、もしギャツビーがニックに全ての秘密を打ち明け、「媒介者」としての立場を獲得していれば、彼は死を免れていただろう。免色もまた、私と会う前から秋川まりえの生活を人知れず覗けるような住所を手に入れていたのだから、免色が私の「媒介者」になっていなければ、強引な仕方で秋川まりえを手に入れようとしていたかもしれない。そんな仮想現実的な不安も免色は述べている。

また、登場人物が他者の物語を「媒介者」として単に生きるだけでも、物語は彼らに暗い未来を提示する。実際に私が、免色との出会いを発端とする一連の出来事が妻との復縁の鍵になったと述べているように、私がもし免色の依頼だけに尽力し、雨田具彦の絵を巡る物語に立ち向かっていなければ、私は妻との縁を戻すことができなかっただろう。

登場人物たちを深刻な失敗から遠ざけている要因の一つに、この「媒介者」という第3項の存在がある。登場人物が主体的に世界に対峙し、世界に重心をかけていくための柔軟性を「媒介者」の存在が保証している。登場人物が世界との拮抗の中で人生のバランスを失い、何か大きな損失をもたらさないようにするためのセーフティーネットが用意される、と言っても良いかもしれない。そこに「媒介者」が存在することで、「媒介者」自身はその役割が増殖していくことに気をつけなければならないものの、作品世界には安定がもたらされ、死を迎えるギャツビーのような登場人物に対しても、孤独に負の遺産を持ったまま消えていくことを妨げようとする力が働いている。

 

2 分裂する作家

 

そして、ここまで語ってきた2つの物語には別の角度から眺めた、もう一つの表情がある。そこでは「媒介者」の役割は変わってくる。これまでの議論では、ニックとギャツビー、私と免色が全くの他人であることを根拠に論を展開させてきた。しかしながら、果たしてそれぞれのペアが元々は一人の人間だったとしたら議論はどのように変化するだろうか。

スコット・フィッツジェラルドが、彼らの分身として、分裂する「一人称」を存在させたという話がある。つまりこれは、『グレート・ギャツビー』なら、ニックもギャツビーも、フィッツジェラルドという一人の人間の分身であるということを意味する。フィッツジェラルドの人生を辿ると、世界恐慌が訪れる直前のきらびやかなニューヨークで、彼が妻や友人たちとの豪遊を楽しむ一方、生活費を稼ぐために短編を書いたり、長編を手がけるにはわざわざヴァカンスをとって執筆に集中する環境を整えたりしていたことがわかる。そして彼は、そのような分裂するアイデンティティに迷いを感じ、結果として出来上がったのが、ニックとギャツビーという2人の登場人物とも言われているのだ。妻や友人たちと豪遊するフィッツジェラルドをギャツビーとし、ひっそりと文学に向かい合うフィッツジェラルドをニックに置き換えて作品を捉え直すことで、これまでの「媒介者」の議論は新たな可能性を提示する。

村上春樹が『みみずくは黄昏に飛び立つ』の中で述べていた類似性の存在を信じるならば、村上春樹と『騎士団長殺し』に関しても同様の解釈ができる。例えば、一つの読み方として、文学や思想から離れ、インターネットを使って株式と為替を動かしながら、グローバル資本主義の世界で立ち回っていく仮の村上春樹を免色とし、真摯に芸術に向かい合おうとする村上春樹は「私」だと、読者は作品から読み取ることができないだろうか。

『グレート・ギャツビー』との類似を辿るならば、フィッツジェラルド文学との関連性から免色もまた仮の村上春樹の姿なのではないかと考えられる記述は、物語中にいくつも見受けられる。例えば、免色はいつも銀色のジャガーのスポーツ・クーペに乗っているが、ギャツビーは銀色のシャツ姿でしばしば物語に登場しているし、免色が「左利き」なのも、ジャック・クレイトン監督で1974年に制作された映画『華麗なるギャツビー』の中で、ギャツビー役を演じたロバート・レッドフォードが左利きだったからではないか。そもそも、豪邸にたった一人で住む素性も職業もわからないミステリアスな大金持ちという免色の設定は、ギャツビーと瓜二つである。私とニックとの関係は、前出の引用の通りである。

するとどうだろう。『グレート・ギャツビー』『騎士団長殺し』のどちらの作品も、分裂した作家がもう一人の自分の「媒介者」になる物語だという可能性が色濃く浮かび上がってくる。両作品の相違点を見るならば、フィッツジェラルドにとっては、分裂した自己は最後まで分裂を保つ一方で、村上春樹にとっては両者が次第に結びついていくような印象がある。そこに関連するのは、私と免色の間に存在し、ニックとギャツビーの間には存在しなかった、互いの「媒介者」になるための双方向的な働きかけであろう。

この「媒介者」の役割は登場人物や、また一般的な読者のためではなく、作家自身を対象の範囲に置いていると考えられる。例えば、『騎士団長殺し』という作品は、常に何らかの分裂を抱え込む作家にとって、「芸術以外の活動を媒介し、増殖させる芸術家」でありながら同時に、「芸術家の活動を媒介し、増殖させる一般的な生活者」の側面を自我の中へ確保しておくことの肯定になっている。物語の中で非日常を描き出す作家の、一般的な人間としては文学から離れたアンビヴァレントな生活があり、実際にフィッツジェラルドは分裂するアイデンティティに悩んでいた。『騎士団長殺し』は、村上春樹がそのような分裂を肯定し、乗り越えていこうとしている物語のように捉えることができる。

登場人物の一人、雨田具彦の息子である雨田政彦の存在を考慮するならば、彼の存在もまた、仮の村上春樹の姿であるように映る。彼は主人公の美大時代からの友人であり、芸術の道から離れた後は広告代理店に勤務していて、シングル・モルト・ウイスキーを手土産に持ってくるような人物だ。彼が好むシーヴァス・リーガルというウイスキーは、ストラスアイラという、スコッチウイスキーのメッカともいえるスペイサイド地方にある最古の蒸留所で作られている。村上春樹も、著書の『もし僕らの言葉がウィスキーであったなら』において旅のテーマを「ウイスキー」とし、スコットランドのアイラ島及びアイルランド各地を巡り、行く先々で飲むシングルモルトのウイスキーや蒸留所の話を取り上げているので、雨田政彦の中に村上春樹の影を感じる読者も少なくないはずだ。

雨田政彦もまた、私の「媒介者」となって、精神的に疲労する私を励ましたり、父である雨田具彦の人生を語ってくれたりするのだが、作家それぞれに不均衡をもたらす要素が2つ以上存在するという多様性の担保も『騎士団長殺し』は提示していると言える。ここで大事なのは、その要素がいくつあるのかではなく、要素同士が有機的な相互関係の中で「媒介者」を引き受け合うことである。作家を構成するいくつかのアイデンティティが、「自立」と「媒介」を並行しながら存在することで、作家の中に荒ぶる、分裂する一人称起源の不均衡は静まっていく。私性を少なからず投影せざるを得ない作家にとって、アンビヴァレントな自己に対しての、迷いや肯定を表現するためのツールとなることも、分裂しながら媒介する一人称、つまり世界と向かい合う作家個人にとっての第3項の特徴である。

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