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目を閉じた先ー『おかえりなさい、うた』

筆者は月に一度、とある地下にあるギャラリー兼ライブスペースで映画鑑賞を開催している。地下空間の端と端には、やたらとデカいウーファーが転がされ、天高3Mほど、むき出しの配管に吊るされたプロジェクターから、日頃は壁に直書きのグラフィティの展示をやっているために何度も塗り直された白壁に映像が投影される。その日の観客の持ち寄った映画を、Youtubeで予告編をかけ、その日一日観たい映画を決めていくのが主流になっている。ここでは、飲食はもちろん、喫煙、私語や絶叫も大歓迎、床に敷いた粗末な絨毯の上で寝転がり、眠っていい。映画と映画の間には映画について観客同士あれこれと語り合い、DVDやNETFLIXのおかげで、もう一度観たいシーンだけ見直すこともできる。こんなにリラックスした映画鑑賞体験は、滅多にないだろう。かつて映画館では1日中同じ映画が3度4度と入れ替えなしにかかっており、一日じゅう映画館にいてよく、持ち込んだ弁当を食べてタバコを吸うことができ、とかく好きなように過ごすことが許されていた。

 

3Dや4DX、爆音、ライブビューイングなどアトラクションとしての上映が、鑑賞の選択肢として入り込んできた近年、映画鑑賞はますます、観客の身体に映画以上の刺激を与えるもの、そして起きていなければならない、席に拘束されていなければならないという緊張を与えられるものになっている。この鑑賞方法は、映画を視覚と聴覚とのやりとりから、全身の感覚、空間へのアプローチと観賞体験を拡張する一方、常に観客の身体に緊張をもたらし続けるために、映画鑑賞そのものが充実したものになることとは反対に、かえって妨げているのではないか、と考える。

 

『光りの墓』に代表されるアビチャッポン・ウィーラセタクンの長編映画は、タイの政治に対してのメッセージ性が込められているが、その中にアビチャッポンの映画に通底する宙空に浮いたようなストーリーの枝葉に分かれていくような映像の挿入、映像のループがいつの間にか観客を眠りに誘う。実際に映画館の椅子の上で、筆者とその友人はすっかり眠りと目覚めの間を彷徨っていた。眠ると記憶が定着するというが、アビチャッポンの映画は長回しの映像と繰り返されるシーンについてあれやこれやと考えているうちに、うたた寝をもたらしたにも関わらず、それぞれの情景が脳裏に焼き付いて離れない。アビチャッポンは、うたた寝のような眠りにおいて観る〈夢〉について以下のように語っている。

私にとって夢というのは、究極の映画ですね。生理学的には人間の脳は何か情報を整理しなくてはいけなくて、そのプロセスの中で夢を見ているんですけど、常に夢は受動的なものです。そういう意味では、映画館の椅子に座って見ながら受けとめる映画も夢と似ていると思うんです。

CINRAインタビュー アピチャッポンはなぜ世界から絶賛される? その特殊な才能を探る

『アピチャッポン・ウィーラセタクン 亡霊たち』

 

しかし〈夢〉を歓迎する一方、〈夢〉と映画の違いについてアビチャッポンは、

ただ、夢と映画の大きな違いは、映画はどうしても切り取られたフレームの中でしか見られないということです。実際の夢は360度開かれていますよね。だから、もしかしたら今後VRのような技術がもたらすものというのは、今まで夢に追いつけなかった映画が、だんだん夢に近づいていくことにあるのかもしれない。

またVRについて、

自分の作品でも使いたいと思っているんですけど、まだ今の段階では技術的には未発展なので、しばらくは様子を見ています。もしかしたら、私の究極的なアート作品は、視覚ではなく脳に直接刺激を与えてイメージを投影させるものかもしれません

と述べている。アビチャッポンは夢のように、「視覚ではなく脳に直接刺激を与え」るイメージ、そしてそれはスクリーンやディスプレイといったフレームに収まりきらない全方位的なイメージを最上位においている。そしてそれは、VRのような技術進歩によって、今後映画鑑賞の選択肢に入り込んでくるだろう。

 

しかしアビチャッポンが語る〈夢〉という映画の究極形態をVRなしに(VRがこれほど普及していなかった頃に)実現している映画がある。

それは生西康典演出の『おかえりなさい、うた』である。

『おかえりなさい、うた』は、2010年「第2回恵比寿映像祭」に参加、東京都写真美術館で上映され、2013年渋谷アップリンクでの「生西康典の仕事2008-2011」での再上映が行われた、音のみの映画である。筆者はアップリンクでの再上映を鑑賞した。上映は、座席に座り、しばらくすると上映空間は完全に暗転し、全身が闇に包まれる。目を開けていても閉じていても変わりのない闇が広がり、その闇に全身が包まれているような感覚になり、身体を支えている椅子だけが、唯一、重力と空間の存在を確認させてくれる。

闇に包まれると同時に映画が始まると、夏の山の中にいるような音や子供の声、水の音や楽曲らしきものが聞こえてくる。その音は、飴屋法水や山川冬樹、かわなかのぶひろなど、音楽や演劇、美術、映像といった様々な芸術に従事するアーティストが提供している。そのためか、映画中に聞こえる音は断片として聞こえ、ほとんどが音楽として設えられたものではない。それは、どちらかといえば、映画よりも、演劇のように、生身の人間や舞台上の物質とスピーカーから交互、同時に聞こえてくる音が醸し出す臨場感に似ている。実際、『おかえりなさい、うた』において、生西は、映画監督ではなく、構成・演出という立場をとっている。

闇を前に、最初は目を凝らして空間を見ようと緊張し、集中していたが、闇に慣れてくると、うつらうつらと眠りの世界に誘われていった。そしてアビチャッポンの鑑賞時以上に、目覚めている状態と眠っている状態の境目がわからなくなってくる。闇の中で演出された音たちは、筆者の記憶にはないどこかの情景を勝手に生成し、アビチャッポンの映画に出てくる宙空にうかんだストーリーの枝葉であるシーンのような映画を見せてくれる。これは幻覚だ、それもとてつもなく遠いところに連れていかれるような幾何学的・サイケデリックな幻覚ではなく、子供の頃に見た田舎の景色のような、身近で懐かしい幻覚を見せてくれた。

もちろん鑑賞時に幻覚剤を服用していた訳ではないが、過去に見た景色や、過去に見た作品のものではない映像が変わるがわる目の前に、そして全方位的な自由度を持って立ち現れた。

音のみ、の映画は、サイレントからトーキー、サラウンドと映像のために音を充実させるよう発展してきた映画とその歴史すらも逆転させ、音を主役にする試みである。この映画の典型を大きく超えた『おかえりなさい、うた』がもたらした映像は、3Dや4DX爆音、ライブビューイングなどアトラクションとしての上映や、はたまた眠りという生理現象を引き起こす映画でもなし得なかった、何よりもリラックスした状態の身体に働きかける最上の臨場感を生んでいる。この映画についての考察を深めることは、今後の映画、そして映画鑑賞において、新鮮さをもたらすきっかけになってくれるに違いない。

 

 

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