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ジミー・オルセンはなぜ死んだか?:隣人としての観客

アバターの消失

『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』(2016)で旧来のファンを最も困惑させた出来事は、冒頭でジミー・オルセンが死亡したことであろう。原作や旧映画シリーズにおいては、オルセンはコメディ・リリーフであり、スーパーマンの良き隣人であり、常人ではあるものの勇気によってスーパーマンを何度も助けた、いわば読者の分身(=アバター)であった。そのオルセンがさしたる活躍もなく「ユニバース」から消え去ってしまったのだ。もはや不要である、と宣言されるように。
この出来事はスーパーマンに限ったことではない。かつて日本の特撮ヒーローに欠かせなかった登場人物には、視聴者のアバターとなる「少年」がいた。『ウルトラマン』(1966)にはホシノ・イサム少年が、『仮面ライダー』(1971)には石倉五郎少年がいたのである。しかし、その後継作品である現代のウルトラマン・仮面ライダーシリーズには、彼らに該当する登場人物はほとんど存在しない。他の作品にも、その類例はいくらでも見出すことができよう。

かつて読者や視聴者、すなわちは観客は、ジミー・オルセンあるいはホシノ・イサム、石倉五郎となることで物語の中に肉体を得ていた。彼らはどこに消えてしまったのであろうか?

 

ランシエールの「観客」

議論を進める前に、現代における「観客」への言説について簡単に振り返っておきたい。

まず、その筆頭となるのがジャック・ランシエールである。
ランシエールは『解放された観客』(2008)の中で、プラトン以来演劇に対して行われてきた批判が「観客」の問題に帰着することを指摘する。プラトンは『国家』のなかで、「度を越して情念を掻き立てる罪」が演劇にはあると主張した。また、その700年後にアウグスティヌスは、プラトンの思想を受け継ぎ、キリスト教会による大衆演劇の全面禁止への急先鋒となった。
現代に至るとプラトンが指摘した課題に対し、ベルトルト・ブレヒトは叙事演劇を、アルトナン・アルトーは残酷演劇をもって乗り越えんとした。
しかしランシエールは、彼ら現代演劇の改革者は観客に対して、受動的態度から能動的態度へ変化することを要求することで、教師と生徒の関係を維持していることを指摘する。
ランシエールは19世紀前半の教育学者ジョセフ・ジャコトの試みを引用し、こう主張する。受動的態度は能動的態度に変化する必要は無い。どちらであろうが、知性は平等なのである。
ランシエールはこう言う。「無知な者のなかに働いている知、観客に固有な能動性(活動)を認めればよいのである。すべての観客はすでに自分が見ている物語の役者であり、すべての役者、すべての活動的人間は、自らが演じる物語の観客なのである」。

続いてクレア・ビショップは、ランシエールの議論を現代のパフォーマンスアートに繋げた。
ビショップは『人工地獄』(2012)の中で、イギリスのパフォーマンスアーティストであるジェレミー・デラーの作品『オーグリーヴの戦い』(2001)を例に挙げる。『オーグリーヴの戦い』は、1984年に起こった鉱山労働者たちと機動警察隊の衝突事件を、当事者たちとリエナクトメント(歴史的事件を衣装や小道具を揃えて再現する余暇活動)団体の協力を得て再現した作品である。同作はそのリエナクトメントパフォーマンスだけでなく、事件当時のサッチャー政権を批判した映像作品や、オーラルヒストリーをまとめた刊行物など、いくつかの関連作品が制作されたが、ビショップが評価するのはその政治的な態度の不鮮明さ、多義性である。「デラーは、労働者たちを英雄に祭り上げるというより、あらゆる状況にみられる抑圧の歴史を記述するために、彼らを中流階級の人と対峙させた」ことで、ランシエールが示した知性の平等を実装しうる可能性を、ビショップは見たのである。

ランシエールとビショップは作家と観客に対し、教師と生徒のような上下関係ではなく、作家にとっても観客にとっても未知である「第三のモノ」を得るための関係を築くべきだと言うのである。

 

ジミー・オルセンはなぜ死んだか

ここで最初の議論に立ち戻ろう。ジミー・オルセンはなぜ死んだか?
ジミー・オルセンは観客のアバターである。しかし、彼はコメディ・リリーフであり、スーパーマンの良き隣人であり、常人ではあるものの勇気によってスーパーマンを何度も助けた、理想化された観客であった。そして理想化された観客とは良き生徒のことであり、ランシエールが指摘した、ブレヒトやアルトーらと同じ壁にぶつかってしまうのである。

ここでもう一つの参照項として、ジョシュア・オッペンハイマー監督映画『アクト・オブ・キリング』(2012)を挙げておきたい。
『アクト・オブ・キリング』は、インドネシアで1965年に起きた共産党員への虐殺事件を扱ったドキュメンタリー映画である。オッペンハイマーは当時実際に虐殺を行った加害者に接触し、彼ら自身に虐殺の様子を再現してもらうことで、虐殺が起きた構造を露わにしようとした。この趣向はオッペンハイマー自身があらかじめ狙ったものではなく、当初は被害者を中心に撮影を進めていたが、政治的な都合上、結果的にそうなってしまったものであった。
『アクト・オブ・キリング』では加害者が事件を再現することで、『オーグリーヴの戦い』と同様に、オッペンハイマーも加害者自身も知らない「第三のモノ」に近づいていく。そして、それを取り巻く家族や、この映画を視聴する観客が、「第三のモノ」を得るのである。

『バットマン vs スーパーマン』におけるジミー・オルセンの死は、ランシエールやオッペンハイマーを経て実現された、理想化された観客への決別と捉えることができる。
ここで立ち現れる新たな観客とは、何者であろうか。

その結論を得るために、2010年代の映画界におけるもう一つの「ユニバース」について参照しておこう。それは「マーベル・シネマティック・ユニバース」である。
マーベル・シネマティック・ユニバースは『アイアンマン』(2008)を皮切りに、現在に至るまで17本が公開されている。ここで論点としたいのが、そのユニバースの経過時間と現実の経過時間がほぼ同期していることである。つまり、当初の2008年から10年間が経過した今、ユニバースの中でも10年が経過している。これは『男はつらいよ』などにも共通して見られることであるが、ユニバースの中の人々と我々観客は、同じ時間を生きているのである。
その最新作である『マイティ・ソー バトルロイヤル』(2017)では、侵略者としての歴史の克服と、難民問題が主題に扱われた。物語が社会問題を扱うこと自体は伝統的なことであるが、ユニバースのヒーローたちは、我々と同様に葛藤し、対立し、そして失敗するのである。画面の中のアバターを失った観客は、それらが画面の中の出来事ではなく、我々自身の世界の問題であることを容易に理解する。そして、登場人物と問題を共有し、教師と生徒ではない関係を築くことで、「第三のモノ」を得るのである。

ジミー・オルセンは死んだのではない。観客自身がジミー・オルセンになったのである。
そして、物語の登場人物たちの隣人として、現代の観客は定義されるのだ。

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