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ポスト・トゥルースと文化論について

1章1

まず最初に、2017年9月に起きた一つの「事件」について論述する。
それは、われわれ現代の日本人が直面している文化的課題の一端を示し、それが思いがけず身近な存在であることを例証するためである。

9月末頃、テレビアニメに関する一つのニュースがネット上を駆け巡った。
人気テレビアニメシリーズである『けものフレンズ』の2期制作において、1期の監督であった「たつき」の降板騒動である。ことの発端は、25日にTwitter上でたつきが投稿した一文であった。

「突然ですが、けものフレンズのアニメから外れる事になりました。ざっくりカドカワさん方面よりのお達しみたいです。すみません、僕もとても残念です」
たつき/irodori @irodori7

この投稿は30万回以上リツイートされ、Twitter上を中心として大きな反響と憶測を呼び、2日後の27日には、『けものフレンズプロジェクト公式サイト』上にて『「けものフレンズ」の映像化プロジェクトに関するご報告』と題した経緯報告がなされることとなった。また、同時期に展開されていたコラボレーション企画である日清食品『どん兵衛×けものフレンズ』ならびにJRA『ウマのフレンズ』公式ウェブサイトにおいても、本件に関するコメントが掲載されるなど、同作のファンおよび同IPのステークホルダーを巻き込み波紋を呼んでいった。

この「事件」の経過が非常に奇妙であり、また興味深いものであった。また同時に、この「事件」は現代における文化的課題を象徴しているように思われたため、私は本件に関しての考察を行う。

あらかじめ宣言しておくが、本論はこの「事件」の当事者であるたつきや、原作者の吉崎観音、アニメの制作会社であるヤオヨロズ、プロジェクトを統括していたKADOKAWAらに対して擁護ないし批判を行うものではない。この「事件」を発端としてネット上を中心に現れた種々の言説について考察を行うものである。

またその上で「事件」の当事者たちに対する私見を書くならば、本校執筆時点(2017年10月初旬)においては議論に足る情報が未だ揃っていないものと考える。なぜならば、ネット上に散見された「リーク情報」と称する匿名掲示板への書き込み等が信頼に値しないことは言うまでもないが、冒頭に記載したたつきの投稿やその他当事者の書き込みについては、私人の見解として行われた不確かな印象論と捉えることもでき、また、公式サイト上の経緯報告についても、「炎上」している状況下では事態の沈静化を優先するものと思われ、客観的事実や、降板の意思決定に携わった直接の関係者の意見を正確に反映したものとは考えづらいからである。
また、たつきを擁護する論拠の一つとして「けものフレンズの成功の功労者に対して配慮すべきである」という主張も散見された。たとえば以下のようなものである。

「コンテンツの創造主として、原作(者)は絶対的な存在だ。吉崎氏の優れた世界観設計やキャラクター造形があってこそ、アニメ『けものフレンズ』は生まれたからだ。しかし、奇しくもソーシャルゲーム終了という憂き目にあった直後に、放送開始となったアニメこそが、コンテンツとしての『けものフレンズ』を生き返らせたのもまた事実だ。」
https://news.yahoo.co.jp/byline/matsumotoatsushi/20170926-00076202/

こういった主張は直感的には同意可能だが、だからといって、私人や制作会社による知財の勝手気儘な利用を必ずしも正当化するものではない。

どういうことか。まず、同IPのような中規模以上のコンテンツ事業は基本的に投資事業となる。そしてその多くが失敗し、大きな損失を産む。しかしその中で、わずかながら成功するコンテンツが生まれ、失敗した作品群の損失を補填する。無論、コンテンツの成功/失敗は必ずしも予見できるものではなく、よって、いくつかのプロジェクトが平行して進行することとなる。つまり、複数のプロジェクトを運用し、成功した利益で失敗の損失を補填する。コンテンツビジネスはその繰り返しである。そこでもし「功労者」の専横を許すならば、産業構造自体の破壊を免れない。
ここまでをまとめると、この「事件」そのものに対して何か判断を下すには情報不足であり、散見される擁護や批判も無根拠であると私は考える。そしてこれを判断するために必要となるのは、関係者間においてどういった契約が書面で行われたかであり、それはおそらく永遠に公表されない情報であるのだろう。

以上、長い前置きとなってしまったが、本論に戻ろう。

 

1章2

本件の特異な点として、まず「テレビアニメシリーズ」の「監督」の降板がこれほどの話題となった、ということが挙げられるだろう。従来において、アニメシリーズの監督の進退についてこれほど議論されること自体がなかった。例えばアニメ作品の表象において大きな影響のある声優の交代については類例がある。しかしそれらの類例を含めても特異なのは、Twitter上での支配的な論調が、たつきに対して同情的であり、プロジェクトを統括していたKADOKAWAに対して非常に批判的なことである。これは、2016年に行われたアイドルグループ・SMAPの解散に際してのジャニーズ事務所への批判と共通する傾向である。
先ほどに述べたが、現在公開されている本件にまつわる情報は少なく、倫理的ないし法的に事態を論じるにはあまりにも不確かである。それにも関わらず、以上のような論調が数多く散見され、憶測を混ぜながら議論が展開されている。
ここから推察できるのは、本来裏方であるはずのたつきに対するファンの認識が、従来アイドルに対して行われてきたような偶像崇拝的な毛色を帯びているということである。また同時にKADOKAWAに対しては、権威的ないし官僚的な性格を持ったビッグ・ブラザーを思わせる抽象的な存在として論じられていることも指摘できる。

・けもフレ、たつき監督が降板「カドカワ方面からのお達しみたい」 売れると主導権争い、の指摘が : J-CASTニュース https://www.j-cast.com/2017/09/26309552.html
・けもフレ騒動でトレンドが操作? 拡散する「圧力説」にTwitter広報「ありえません」 : J-CASTニュース https://www.j-cast.com/2017/09/27309636.html
・ドワンゴ、ニコニコニュースのランキング操作疑惑について、「誤解を与えた」と謝罪 運用ルールに基づくものだったと説明 – ねとらぼ http://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1709/27/news093.html

 

1章3

なぜこのようなことが起きたか。それを端的に表しているTwitter上の一つの投稿がある。

「個人的にKADOKAWAとヤオヨロズとたつき監督の件についてはここら辺が共感した」
ゆらぎちゃん@色彩団団長 @yrg__
https://twitter.com/yrg__/status/912711800520564736

これはTwtter上で1万4000回以上リツイートされた投稿である。そこに掲載されたスクリーンショット画像の内容は、主にたつきを擁護し、KADOKAWAないしヤオヨロズを批判した発言となっている。しかし一見して分かる通り、これは憶測を多分に含んだ発言者の私見であり、論理的には議論に全く値しないものである。それにも関わらず、14000リツイートという少なくない反応を呼んだ要因としては、投稿の本文中にも示されているように、『共感』というキーワードが関連してくると考えられる。

つまり、この「事件」に対して行われたネット上の人々の数多くの発言は、客観的事実や論理的判断ではなく、「共感」という感情によって引き起こされているということである。

ここで何人かの読者は、現代の世界的思潮を象徴する一つのキーワードを思い出すかもしれない。
2016年、イギリスのEU離脱やアメリカでのトランプ政権樹立に関する議論のなかで、「ポスト・トゥルース」というキーワードが注目された。ポスト・トゥルースとは、「世論形成において、客観的な事実より、虚偽であっても個人の感情に訴えるものの方が強い影響力を持つ状況。事実を軽視する社会。」(以上の説明はコトバンクを参照)のことである。
けものフレンズに関する今回の『事件』は、EU離脱やトランプ政権樹立に比べて極めて矮小な例ではあるものの、国内におけるポスト・トゥルース的世界観の浸透を強く印象付けるものであった。

2章

1章では、ネット上の炎上事件を例にわれわれが生きる現代での課題としてポスト・トゥルース的世界観を提示した。これが文化論においてどういった意味を持つのだろうか。文化論の歴史を参照することでその問題の本質に迫りたい。

なぜ文化は論じられるのか。
文化論の歴史は浅く、かつては政治論や経済論といった古くから存在する諸論に対し、見落とされてきた要素を補完するためのものであった。
イギリスの歴史学者ピーター・バークは、その著書『文化史とは何か』(2004)において、文化史研究の論述を1800年から開始し、その古典的な傑作として、1860年に刊行されたヤーコプ・ブルクハルトの『イタリア・ルネサンスの文化』と、1919年に刊行されたヨハン・ホイジンガの『中世の秋』の2つを挙げている。すなわち、他の諸論とは独立した学問としての文化論の歴史は、わずか200年程度なのである。また、ブルクハルトが「私にとって背景が主要な関心事である。そしてそれは文明史によって与えられる。私はそれに身を捧げようと思う」と書いたように、当時の文化論は歴史学者の主観的な興味から起こったものであり、あくまで文化は世界史の「背景」として捉えられるものであった。

それが20世紀に入ると様相が変わってくる。その端緒となったのが明治維新である。中世までの時代、国家間戦争は国境の隣り合った国同士で行うものであり、ヨーロッパと中国といった遠く離れた文化を持つ国家間同士の交わりは通商に限られたものであった。それが近世に至るとヨーロッパの勢力は急伸し、列強国として他の文明を侵略する立場となる。その時代、スペインのピサロがインカ帝国を滅ぼしたように、あるいは大英帝国がアヘン戦争で中国を圧倒したように、文明間の交わりは軍事力を原因として非対称なものであった。それが日本が非西洋圏として初めての近代国家として台頭すると、文化の遠く離れた国家同士が初めて対等の立場で同盟し、あるいは敵対するようになっていく。そうした時代において、文化論は次第に二つの立場によって推進されることとなる。

一つ目は、ある共同体に対して共同体自身の文化を論じ、その特異性ないし優位性を語ることで、郷土愛や民族愛を育てようとする立場である。代表的な例としては本居宣長の『馭戒慨言』や志賀重昂の『日本風景論』、九鬼周造の『「いき」の構造』、谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』などが挙げられるだろう。

もう一つは、ある共同体に対して異なる共同体の文化を紹介し、相互理解に役立てようとする立場である。新渡戸稲造の『武士道』と岡倉天心の『茶の本』などはそれに類せられる。

この二つの立場は、現代においてますます重要になってきている。なぜか。その一端を示しているのが、アメリカの政治学者サミュエル・ハンティントンの『文明の衝突』論である。ハンティントンは以下のように主張する。
冷戦時代においては、政治やイデオロギーによって国家間の協力関係や敵対関係が決まっていた。アメリカを中心とする自由主義圏、ソ連を中心とする共産圏、そして独裁主義による第三世界の人々、といった具合である。それが90年代以後に出現しつつある世界においては、国々は政治やイデオロギー、あるいは経済的繋がりではなく、文化によって類別される。共通する文化を持つ国々は、互いに信頼し、連帯する傾向にある。それにより、世界政治は文化によって再構成されつつある。

同様の理論を展開するのはハンティントンだけではない。チェコスロバキアの民主化運動の指導者であり、のちにチェコ共和国の初代大統領となったヴァーツラフ・ハヴェルは「文化と文化の対立が増大し、それがかつてないほどの危険性を帯びている」と言った。また、経済学者であり、欧州委員会の委員長を勤めたことでも知られるフランスの政治家ジャック・ドロールは「未来の紛争は経済やイデオロギーではなく、文化的な要因によって誘発されるだろう」と予測している。

つまり、文化を論じることは国家間のパワーバランスに直接的な影響力を持つ。これは実に危険なことである。これまでも、例えば宣長や重昂らの文化論は、戦時はナショナリズムに結びつき、作者の望む望まないに関わらず利用されてきた。また、ナチスドイツはナショナリズムを推進してユダヤ人への殺戮を正当化した。しかし、これらの例における文化的要因は一つの国内に限ったものであり、日独伊三国同盟などの国家間協定は、政治的あるいは軍事的な利害関係によるものであった。それが現代においては、文化的繋がりが国境を超えた力を持ちつつある。

それでは、現代の文化論はすべからく危険なのだろうか?火薬のように管理し、なるべく触れず、丁寧に扱うべきであろうか。

私は、この二つの立場ではない、もう一つの立場に文化論の可能性があると考える。
それは、先の二つの立場の人々にも共有可能であり、おそらくは、もっとも古くからある立場である。すなわち、自分たちが生活する世界をより深く理解したい、という欲求からくるものである。
この3つめの立場については、後ほど詳述する。
続いて、前述の二つの立場とその課題に対し、これまでどのような対処が試みられてきたかを振り返り、結論を導いていくための補助線としたい。

3章1

こういった問題はこれまでどのように対処されてきたか。
まず最初に、文化の衝突に対して古より行われてきたもっとも原始的な対処法を紹介する。
続いて、20世紀の2人の人物を取り上げ、文化的課題に対する争点を整理していく。

もっとも古くからある手法は、敵対する文化勢力を軍事力によって滅ぼすというものである。日本国内におけるその最初の例が、物部守屋の乱であろう。

日本と大陸との間には古来より多くの往来があったため、仏教が日本に初めて伝わった時期は定かではない。一般に仏教公伝が起きたとされているのは欽明天皇の代であった。
欽明期には神代より続く物部氏、大伴氏、中臣氏といった豪族が力を持っていたが、渡来人に通じ勢力を急速に拡大していったのが蘇我氏である。蘇我氏の棟梁であった蘇我稲目は「西蕃諸國一皆禮之 豐秋日本豈獨背也(西方諸国がみなこれを信仰しているのに、日本だけがなぜ背けるでしょうか)」と論じたが、物部尾輿らは古来の日本神を奉じ、廃仏を主張。これを機に蘇我氏と物部氏は信仰を論点として緊張関係を深めていくが、その結果として起きたのが、日本最初の宗教戦争とも言うべき丁未の乱(物部守屋の乱)である。
蘇我馬子率いる仏教勢力は物部氏を滅ぼし、大和朝廷を手中に収めた。その結果、蘇我氏の庇護のもとで鞍作止利をはじめとする仏師たちにより止利様式と呼ばれる仏彫刻様式が発達する。それは中大兄皇子と中臣鎌足によって大化の改新が起こり、蘇我氏が滅ぼされるまで続いていった。

このように、文化勢力の衝突は権力闘争と容易に結びつき、破壊的結果をもたらす。類例には、古代ヨーロッパのキリスト教世界におけるアタナシオス派とアリオス派の武力衝突などが挙げられ、その多くが宗教を軸に展開されていることが特徴である。

そして言うまでもないが、これは文化的衝突の対処としてもっとも避けなければならない手法であろう。

3章2

続いて、20世紀の2人の作家を参照し、その手法を振り返る。
一人目は、日本の小説家の坂口安吾である。

坂口安吾は、太宰治と並んで戦後の無頼派を代表する作家である。戦前にはフランスのファルス(風刺的喜劇)的作品『風博士』によって認められ作家となったが、戦後は独自の道徳論である『堕落論』と、その実装としての小説『白痴』が文壇に大きな衝撃を与え、時代の寵児となった。その坂口が、戦時中の1942年に発表したのが『日本文化私観』である。

『日本文化私観』は、まずブルーノ・タウトの日本文化私観を引き合いに出すところからはじまる。タウトはドイツ出身の建築家であり、ナチスの迫害から逃れるため1933年に亡命、3年半滞在した。その滞在期間のなかで、桂離宮をはじめとする日本の伝統建築に注目し、絶賛。国内外にセンセーションを巻き起こした。坂口の『日本文化私観』というタイトルは、タウトがそれ以前に著した同名の日本文化論のタイトルの借用である。そのこと自体、タウト流の伝統を重視した文化史観に対する皮肉である。
坂口は、タウトをはじめとする、アーネスト・フェノロサやラフカディオ・ハーンなど、西欧出身の日本の再発見者たちを「権威」として信奉し、それに無批判な日本人たちを挑発する。そして坂口は、タウトが「俗悪」と評した、伝統の失われた東京の都市文化を称揚するのである。
坂口はこう主張する。「法隆寺も平等院も焼けてしまつて一向に困らぬ。必要ならば、法隆寺をとり壊して停車場をつくるがいい」。タウトが「伝統」と呼んでいるものは、必ずしも現代において必然的なものではなく、ただ、過去のその当時において必要とされていたものであった。よって、現代において選択肢があるならば、伝統など無視して有用なものを選択すれば良い。

こういった坂口の主張は、伝統一辺倒であった当時の思潮において鮮烈な批判となるものであった。しかし、「文化ではなく有用性によって判断する」という思想は現代においては、社会のもう一つの課題の類型を示している。それは、ハイデガーが1963年に「技術論」によって指摘したゲシュテル(総駆り立て)である。

ハイデガーによると、近代の資本主義社会においては、技術が人間を生産に駆り立て、強制的な徴発性を根源に持つ体制となる。つまり、全てが有用性に巻き取られてしまう社会である。
ゲシュテルに対抗する後進の試みとして、「有用性」ではなく「無用性」に着目した活動があり、それについては後述するが、ここまでの総論として、坂口の文化論を無批判に現代に適応することは、殊更に危険であり、慎重でなければならないだろう。

 

3章3

二人目は、ドイツ出身の劇作家であるベルトルト・ブレヒトである。

ブレヒトは第二次世界大戦後の演劇界において大きな影響力を持った劇作家である。ブレヒトはドイツに生まれ、10代の頃より劇作と並行して劇評を執筆。その急進的な思想のため当時より多くの反発を招いた。20代に入ると、1922年初演の『夜うつ太鼓』が出世作となり知られるようになる。1930年代にヒトラー率いるナチスがドイツを掌握すると、ユダヤ人である妻を伴って亡命。その後各国を転々としていった。ブレヒトはその障害のなかで、慣れ親しんだ日常的な事物を奇異で非日常的なものとして表現する「異化効果」などさまざまな演劇理論を生み出した。その主要なものひとつが「叙事演劇」である。

叙事演劇とはどういうものか。ある日、街灯で交通事故が起こった。その目撃者は、後から集まってきた野次馬たちに、ときには身振り手振りを加えながら「説明(デモンストレーション)」する。演劇とはこのデモンストレーションのようなものであるべきだ、というのが叙事演劇の考え方である。20世紀初頭の演劇界は社会主義リアリズムが主流となっており、コンスタンティン・スタニスラフスキーの「俳優の仕事」を教科書として、役者が「役になりきる」ことを重要視していた。そして舞台の「上演(リプレゼンテーション)」とは、戯曲に書かれた出来事を舞台上で「再現」するものであった。
また、アリストテレスは『詩学』のなかで、悲劇を「(観客に)恐怖と同情の念を起こさせ、最後にそのような感情のカタルシスを起こす」ものだと規定した。
そんななか、ブレヒトは役者が役と別人であることを隠さず、舞台と現実が別物であることを隠さなかった。出来事の「再現」は、その登場人物の心情を追体験することには役立つが、その出来事に対して客観的な考察を行うには適さない。ブレヒトは自分が「反アリストテレス」的であることを標榜し、「情緒的なものを一切狙わない演劇」としての叙事演劇を目指した。それにより、出来事に対しての客観的考察を観客に強制するのである。

このブレヒトの態度に対して反発を示したのが、日本のアングラ演劇の旗手であった寺山修司である。寺山はブレヒトの理論に則りながらもそれを揶揄した戯曲「巨人対ヤクルト」を書いた。その主張は、例えば野球の試合のようなものを「説明」として復元することはできず、よってその考察を観客に委ねることもできないというのである。これは寺山らしいウィットに富んだ主張であり、突っ込みどころも多いが、その論旨は有効である。

以上、ここまで紹介したように、文化的課題に対していくつかの提案が為されてきた。しかしそれらの提案も批判にさらされており、課題は残っている。
これからが本題である。次の章からは、これまでの話を集約しながら、20世紀の日本の民俗学を参照することで、これからの日本文化論がどうあるべきか結論を出していく。

 

4章1

現代の文化論はどうあるべきであろうか。
それに踏み込む前に、多少長文となるが、われわれ住む世界の成り立ちについて詳述し、結論に進むための補助としたい。なお、これは長文であることに加えて、本論に対して補足的な内容であるため、結論を急ぎたい方は読み飛ばしていただいても構わない。

われわれが住む宇宙が誕生したのは、138億年前のことである。
現在主流となっている宇宙論において、138億年前まで宇宙は存在しなかった。同様に、時間と空間も存在しなかった。宇宙が生まれる瞬間までにそこに何があったのかは、未だ分かっていない。われわれが知ることができるのは、宇宙の始まりからほんの一瞬を過ぎた後からの時間である。
宇宙が生まれて、0.000000000000000000000001(10の-24)秒たったとき、インフレーション膨張と呼ばれる宇宙の膨張が終わった。インフレーション膨張は、宇宙のはじまりのとき、急激なスピードで宇宙空間を膨張させた現象である。相対性理論においては、あらゆるものの速さは、光の速さを超えることができない。しかしインフレーション膨張は、光を超える速度で宇宙を膨張させた。こうやって誕生し、インフレーション膨張を経て成長した宇宙は、高密度で、熱い世界であった。
この時点の宇宙に存在するものは、素粒子だけである。。銀河や星どころか、元素そのもの存在しない。中学の頃の理科科目を思い出してほしい。物質を構成するものは元素であり、元素を構成するものは、電子と原子核だ。原子核を構成するものには、陽子と中性子がある。陽子の個数によって、その原子が水素なのか炭素なのか、あるいは鉄なのかという元素の種類を決める。生まれて0.000000000000000000000001(10の-24)秒後の宇宙には、この陽子と中性子すらも存在していない。
陽子と中性子が生まれたのは、宇宙の誕生から0.000001(10の-6)秒後のことである。
クォークと呼ばれる素粒子は、お互いに引き合い、繋がろうとする。宇宙の温度ががあまりにも熱いとクォーク同士繋がれないが、宇宙の温度は2兆ケルビンを下回ると、クォークは三つ集まり、ハドロンと呼ばれる粒子に封じ込められる。そうして生まれたのが、陽子と中性子である。
そして、陽子と中性子、そして電子が繋がり合い、僕らの知る元素が生まれている。それは、宇宙の誕生から3分後のことである。陽子と中性子が一つずつ結合して、重水素の原子核が生まれた。陽子一つは、水素の原子核となる。水素や重水素の原子核同士は、核融合を起こしてヘリウムの原子核を生んだ。
この時代の宇宙は真っ暗である。宇宙はまだ熱く、電子は原子核と結合できずに宇宙を自在に飛び回っていた。電子と原子核が完全に分離した状態をプラズマという。このプラズマが光を遮っていたのだ。
宇宙空間を光が自在に飛ぶようになったのは、宇宙の誕生から38万年が経った頃である。この間に宇宙は少しづつ冷えて、電子と原子核が結合できる温度になった。そしてプラズマの中の電子と原子核が結合し、原子が生まれ、宇宙は晴れ上がった。この、宇宙が晴れ上がった瞬間の光は、現在も観測することができる。これを宇宙マイクロ波背景放射という。
宇宙の誕生から1億年が経つと、星々が生まれ始める。最初の星は、水素とヘリウム、あとは僅かな軽い元素しか含まない澄んだ星であった。宇宙が生まれた当初、宇宙に存在する原子は、水素とヘリウム、そして他のわずかな軽い原子だけであった。現代に置いても、宇宙の星々を構成する物質の存在比は、水素が90%近くに対し、ヘリウムが10%、酸素が0.2%、炭素が0.1%、その他は、全て合わせて0.1%以下となっている。炭素や酸素、鉄といった原子が生まれるのは、もう少し時間を経た後である。

宇宙で最初の星が誕生してから数億年経つと、星々が集まり原始的な銀河が形成され始める。銀河と言われて馴染みがあるのが、天の川銀河やアンドロメダ銀河に代表される渦巻き銀河だろう。数万光年、数十万光年の直径を持つ、巨大な螺旋状の銀河だ。しかし、100億年以上前の宇宙にそのような銀河は無い。原始宇宙に存在するのは、星々がいびつな形に集まっただけのものである。大きさも数千光年と小さい。宇宙の誕生から50億年程経つと、銀河同士が集まって成長し、直径1万光年ほどの銀河が現れ始める。天の川銀河のようなきれいな渦巻き状の銀河が現れるのは、宇宙の誕生から100億年程過ぎた頃からの、比較的最近のことである。
こういった、昔の星や銀河は、高性能の望遠鏡を用いることで今日でも見ることができる。光の進む速度は一年に一光年なので、例えば10億光年先にある銀河は10億年前の姿を映している。現在観測されている最も古い天体は、128億光年先にある、すなわち128億年前の銀河である。

この時代の宇宙にまだ生命の陰は無い。
時代を経るにつれて、宇宙に存在する元素の構成比も変化していく。恒星はその内部の高温、高圧のなかで、水素を核融合させヘリウムを生み出す。この核融合によって恒星は光を放つ。僕らが普段目にしている、太陽や、夜空の星々の輝きがそれである。こうやって宇宙に存在する水素の存在比はへり続け、ヘリウムの存在比は増え続ける。

そして、星にも寿命がある。星は、生まれては死んでいく。恒星の燃料である水素が減って巨大な体積を支える力が減ると、重力によって恒星は圧縮される。圧縮されると温度が高まり、また核融合が加速される。これを繰り返して、星は成長し、死に向かっていく。
この星の成長の過程で生み出されるのが、酸素や炭素といった、より重い原子である。宇宙の始まりに水素とヘリウムが生まれたのと同じように、恒星の中の高温、高圧の中で陽子や電子が融合していく。
中学の頃に学んだ、原子の周期表を思い出してほしい。現在、118種類の原子が発見されている。その中で水素やヘリウムといったごく軽い原子を除けばと、これらは137億年の長い宇宙の歴史の中で、一つづつ生み出されてきたものである。新しい原子を生み出す工場となるが、星の内部の高温,高圧の環境である。
ここから生み出された原子は、次の世代において、さらに重い原子を生み出すための材料となる。
原子の種類は宇宙の成長とともに増えていくのである。

星は生涯の最期に超新星爆発を起こし、自分を構成していた水素やヘリウムを、そして、自分が作り出した新たな原子をまき散らす。こうしてまき散らされた星の残骸が、新たなる星を生み出す材料となる。

星が生まれ、超新星爆発を起こして死に、その残骸がまた次の星を生み出す。これを繰り返して、星々は新たな原子を生み出しながら成長していく。現在の太陽系は、第3世代の星にあたる。
太陽系が生まれたのは宇宙が誕生してから90億年ほどが経った頃であった。
太陽系のある天の川銀河系は、直径10万光年ほどの渦巻き状の銀河だ。天の川銀河にもっとも近い別の銀河系は、200万光年先にあるアンドロメダ銀河だ。こちらの方は直径20万光年と推定されている。

そして、天の川銀河の渦巻きの一本の腕の端に太陽系がある。
宇宙の中の星の無い領域には、水素原子を主成分とする雲が漂っていることがある。これが星間雲である。その中でも特に密度が高く、多様な分子が存在する領域は分子雲と呼ばれる。
天の川銀河の中心から28000光年離れたところに、この分子雲があった。
45億年前、その近くで一つの星が死に、超新星爆発を起こしたのだ。この衝撃を受けた分子雲に揺らぎが起こり、分子同士が集まって、収縮を始めた。数十万年が経って分子雲の密度が十分に高まってくると、熱を発し始める。そして、分子雲の中心に、重力による収縮と熱による内部からの圧力が均衡した、1000度程の熱を持った球体が出来上がる。
これが、太陽の原型、原始太陽である。
原始太陽は、現在の太陽よりも遥かに大きかったが、質量は小さく、温度も低かった。この原始太陽は、ガスが降り積もって1万年程で壊れ、さらに収縮を始める。この収縮が進むと、大量のガスがぶつかり衝撃波を放ち始める。そして、衝撃波がさらにガスを熱し、原始太陽は現在の太陽の数十倍の明るさで輝き始める。この状態は、原始太陽が周囲のガスを吹き飛ばすまでの100万年間続いたと言われる。
こうやって原始太陽の質量は現在と同じ量までになる。大きさはまだ現在の数倍程度大きく、内部の温度も400万度程度と低い。これからさらに収縮を続けていく。収縮を続けていくと見た目の輝きは失われていくが、内部では圧力が高まっていき、温度も高くなっていく。
そして、内部の温度が1500万度に達すると、水素が核融合を始め、太陽は再び輝き始める。これが、現在までに続く主系列星としての太陽の誕生の瞬間である。誕生したときの太陽の明るさは現在の80%ほどで、今も日々明るさを強めていっている。

太陽の内側から数えて3番目にある惑星が地球である。
水素とヘリウムで作られた太陽と異なり、地球は酸素、ケイ素、アルミニウムや鉄で出来ている。

地球に最初の生命が生まれたのは、その誕生から7億年後のことである。
そして、生命誕生から38億年後の地球に住むのが、我々である。

未来の世界はどうなっていくだろうか。

現代から3万年が経つ頃には、次の氷河期が地上に訪れると考えられている。その氷に覆われた地表に、まだ人間達が住んでいるのかは分からない。また、そのときにはまた新しい、人間と同等の知能を持った動物が地球を支配しているかもしれない。

数千万年以内には、巨大な隕石が地球に衝突するだろう。6500万年前に恐竜を滅ぼしたようなものである。

統計的に、1億年に1回程度の頻度で地上の生態系をリセットするような隕石が落ちている。さらに10億年が経ったころには、太陽が今よりずっと明るくなり、地球の海は蒸発してしまうだろう。地球は現在の金星のような灼熱の星になる。こうなってしまうと、人間と同程度の賢い動物が地球に現れることは、もう二度とないだろう。

50億年が経つと、もう空に金星や水星の姿を見ることはできない。これらの星は太陽に飲み込まれているか、太陽系の軌道を外れて、宇宙を彷徨うことになっている。

63億年が経つと、太陽の中心部から、太陽のエネルギー源である水素が失われる。すると太陽は赤色矮星となって、急激に巨大化する。それから段々と小さくなっていくが、73億年後には、今度はヘリウムが核融合を起こして、太陽はその歴史上最大の大きさにまで膨張する。これは、現在の地球の公転軌道を覆い尽くすほどの大きさだ。しかしそれから1000万年程すると急激に小さくなって、白色矮星となる。

輝くガスに包まれた地球程の大きさの白い星、それが太陽の最後の姿である。

そのころには、地球も金星や水星と同じように、太陽に飲み込まれるか、軌道を外れて宇宙を彷徨う星となっていると考えられる。もちろん、その地上に生命の陰は無いだろう。

 

少し時間は遡るが、現代から30億年後には天の川銀河とアンドロメダ銀河と衝突し、新しい銀河を形づくる。お互いに周りを2,3度回りながら、数十億年かけて混じり合っていく。それぞれの銀河の中心にあるブラックホールが合体して、巨大な銀河が完成する。そうやってできる巨大銀河が完成することには、太陽系は銀河の端まで飛ばされていると考えられる。そしてその銀河もいつしか乙女座銀河団に飲み込まれ、さらに乙女座銀河団すらも、髪座銀河団に飲まれていく。このような銀河同士、銀河団同士の合体は、宇宙の至る所で起こっていく。そして、銀河の中の星々も、あるものは寿命を迎え、あるものはブラックホールに飲み込まれ、数を減らしていくだろう。そして、星をつくる源である星間ガスは失われ、新たな星が作られることはなくなっていく。

 

銀河は合体し、星々は失われ、数百億年の後には、だだっ広い宇宙空間に巨大な暗い銀河がぽつりぽつりと浮かんでいる状態となる。そして宇宙は膨張し、銀河同士の距離は離れていく。

 

そして、100兆年が経つ頃には、全ての恒星は失われ、暗い白色矮星や中性子星、そしてブラックホールだけが残っている。この白色矮星や中性子星も少しづつ失われ、100京年後、宇宙には巨大なブラックホールと、宇宙に散らばる分子や原子、素粒子だけが残った、真っ暗な世界が訪れる。
物質は原子からできており、原子は陽子と中性子、電子からできている。そして、陽子と中性子は、それぞれ3つのクォークと呼ばれる素粒子から出来ている。宇宙が始まった直後に素粒子が集まって陽子と中性子が生まれたようが、陽子と中性子は、ごく稀に壊れて、また素粒子に分解される。そしてその壊れた陽子や中性子は、再び元に戻ることは無い。この現象は今も、宇宙の始まりからずっと起きているが、起きるのがあまりにも稀なので、気にすることはない。しかし、この宇宙から少しづつ、ほんの少しづつ、陽子と中性子、すなわち、物質が消えているのである。
そして、10の36乗年後にはこの宇宙から、全ての陽子と中性子が壊れて、消え去るものと予測されている。もちろん生命も残っておらず、恒星も、惑星も、何一つ存在しない。この宇宙には、僅かな素粒子と、巨大なブラックホールだけとなる。
そのブラックホールすらも永遠ではない。少しずつ蒸発し、質量が失われていく。
そして10の100乗年後には最後のブラックホールも消滅し、宇宙は素粒子が散らばるだけで一切の活動の無い世界となる。

以上が現代の宇宙観であり、われわれの住む世界の実像である。

これは、思想的にも一つの世界観を示している。それは、絶え間なく前進していく世界ではなく、期限付きの、将来的な滅亡を前提とした世界観である。

しかしその中で、一部の勇気ある人々は世界の延命のために努力をはじめていることも見逃せない。その代表格と言えるのが、イーロン・マスクの「スペースX」事業である。
冷戦の時代、ソ連とアメリカの宇宙開発競争は、国家の威信の依代として推進されてきた。それに対しマスクは、「スペースX」が「マルチプラネット世界」を迎えるためのものであると強調する。「マルチプラネット世界」とは文字通り複数の惑星にまたがった世界であり、マスクはそれを推進することで、来るべき地球の滅亡に備えようと主張するのである。
マスクは「マルチプラネット世界」を実現するため、2020年代中に有人のロケットを火星に送り、現地での植民を開始するという目標を掲げている。現在はその半ばであるが、スペースXに対してGoogleやアップルをはじめとする超優良企業の社員たちが次々と移っていることも特記すべきだろう。

以上のように、産業界においては世界の破滅を直視し、それを阻止しようという具体的な動きが存在する。その点において、文化論においてはどうあるべきであろうか。

2章で示したように、文化論は国家間のパワーバランスに影響力を持つ。そして、現代人が直面する様々な課題を改善し、解決に導くことができるのである。その視座に立った上で、以後の議論を進めていきたいと思う。

4章2

ここで、戦後の歴史学において登場した「ミクロストリア」の概念について参照する。この後に詳述する、民俗学についての議論を発展させる補助とするためである。

ミクロストリアとは、イタリアの歴史家カルロ・ギンズブルを中心に展開されていった、境界などがはっきりと定義された小さな単位を対象とし、集中的に歴史学的な調査・記述を行う研究法である。ギンズブルグは小論『緯度、奴隷、聖書』の中でミクロストリアを以下のように説明する。「より少なく知ることによって、わたしたちの探求の範囲を狭めることによって、わたしたちはより多くのことを理解する希望をもつ。この認知上の移動はカメラのレンズの拡大と圧縮にたとえられてきた。このアプローチをミクロストリアと呼んでよいのかもしれない」。どういうことか。

ギンズブルグの理論は、ドイツの文学研究者であるエーリヒ・アウエルバッハに着想を得ている。アウエルバッハは1953年に発表した『ミメーシス』の中で以下のように予言する。「諸々の戦いの下層で、あるいは戦いを通じて、いまや経済的・文化的な平均化のプロセスが進行しつつある」。それから現代までを通じて進められてきたグローバリゼーションのなかで、アウエルバッハの予言は現実のものとなっている。アウエルバッハはその潮流の中においては、、グローバルなプロセスを帰納的に再現することのできる具体的な細部を探し求めなければならないと信じていた。

ギンズブルグもアウエルバッハに倣い、「細部によって全体を理解する」という視座に立って歴史論を展開していった。

ここで一部の読者は、「細部に注目する」というくだりから、20世紀の日本において行われていた一つのアプローチを想起するかもしれない。それは、考現学である。

考現学は、柳田國男の門人であった今和次郎らを中心として、1920年代頃に誕生した学問である。ここで宣言しておくと、私は現在における文化論の可能性をこの考現学に見出している。そしてそれは、2章で取り上げた「自分たちが生活する世界をより深く理解したい、という欲求からくる」文化論の立場と関連するものである。どういうことか。

 

それを順を追って確認していくため、今和次郎の師である柳田國男が起こした民俗学について、詳述を行いたいと思う。

 

4章3

柳田國男は少年時代より文学を志し、20代に入ると田山花袋、国木田独歩らとロマン主義的な詩集である『抒情詩』を発表するなど詩人としての活動を行った。しかし間もなく当時の自然主義や私小説の思潮に反発して文壇から離れると、専門としていた農政を通じて民衆の生活への関心を深めていく。その結実として1910年に発表したのが『遠野物語』である。『遠野物語』は、 遠野地方の土淵村出身の民話蒐集家であり小説家でもあった佐々木喜善より語られた、遠野地方に伝わる伝承を柳田が筆記、編纂する形で刊行され、日本の民俗学の先駆けと評されている。その後、関東大震災をきっかけとして「本筋の学問のために起つ」と決意した柳田は、南方熊楠や弟子の折口信夫らとともに民俗学を確立していった。

初期の柳田の研究対象は、『遠野物語』に代表されるように地方の山に住む「山民」に関するものであり、神秘性を持った対象であったが、弁証法によって常識的な考察を行うのが常であった。現代においても、柳田の著作の中でもっとも広く知られているのは『遠野物語』であろう。しかしのちの柳田は『山の人生』を最後に「山民」研究に見切りをつけ、平野部の農民たちの生活こそが日本人の思想の源流であるとした「常民」研究に移っていく。

考現学の創始者である今和次郎は、若くして柳田の薫陶を受け、その山民研究を手伝った。しかし、今は関東大震災をきっかけとして柳田と袂を分かつこととなる。民俗学と考現学はどのようにして別れていったか。それを確認するため、柳田の弟子の中でもっとも高名な存在であり、柳田と並ぶ民俗学の巨人である折口信夫の仕事を振り返っていく。

4章4

折口信夫は最初国文学を学び、中学校教師を務める傍ら独学で文学を起点とした古代研究を勧めた。そのなかで柳田國男を知り、柳田の主催する雑誌『郷土研究』に論文を投稿、認められ、柳田の高弟となる。晩年の折口は数多くの弟子を取り、共同生活を行った。また、釈迢空の筆名でアララギ派系詩人としても活動したことも知られている。

「折口学」と呼ばれる折口流の民俗学は、弁証法的に論理立てしていく柳田流の民俗学(柳田学)と趣を異にするものである。柳田が山民研究を断念したのは、資料不足によりその民話研究の結論が心理学的な推測とならざるを得ないからであった。しかし折口は、柳田が忌避した心理学的な推測、すなわち直感を恐れず、むしろその直感を推し進めることによって論理を展開していった。

折口の仕事は多岐にわたるが、その代表的なものが「まれびと」研究である。「まれびと」とは、神によって遣わされ、神の言葉を現世に伝える存在である。それが神事においては巫女であり、ナマハゲに代表される地域の鬼や妖怪たちである。無論、ナマハゲは村の若衆が仮装したものである。しかし、暗黙の了解においてそれは形式的には秘匿され、人々はあくまで鬼として接するのである。時代が下ると、「まれびと」たる巫女たちは世俗化して白拍子などの芸人となり、その性的な要素を強めて遊女へと繋がっていく。そのため、折口が言うには、賎たる遊女には巫女的な聖性があり、また同時に、聖たる巫女には「神の妻」として仕える遊女的賎性があるというのである。折口学を特徴付けるのは、このアミニズム的な直感に立脚した聖と賎の二重性であった。

柳田、折口らの民俗学は戦後の1960年代に至って再評価を受けることとなるが、それと同時期に起こったアングラ演劇の潮流において、唐十郎、寺山修司らその担い手たちが試みたのは、近代市民社会のリアリズム演劇を信奉する戦前からの旧派に対して、近代以前の神秘的あるいは不条理な原始性を、非リアリズム的に現実に重ね合わせることであった。そしてそれは、折口の手法と一致するものである。

 

4章5

いよいよ、今和次郎について詳述していこう。

今ははじめ東京美術学校で図按を学び、卒業後、早稲田大学建築科の佐藤功一のもとで助手として働いた。25歳の頃に佐藤の紹介で柳田國男に出会い、その図按の腕を評価され、スケッチ担当として柳田のフィールドワークに同行することとなる。今は柳田のもとにいた時期、当時すでに江戸期からの趣を失いつつあった民家をスケッチし、その画集兼評論である『民家図集』『日本の民家』を著した。その今の転機となったのが、先に触れたように、関東大震災である。関東大震災で今は被災し、住んでいた家屋は全壊。借家に住むこととなったが、そのなかで今が注目したのは、上野公園や日比谷公園などに避難した市民が廃材で建てた仮住居(バラック)群である。今はそのバラックをスケッチし、あるいは写真に撮り歩いた。続いて今は、吉田謙吉をはじめとする美術学校の出身者たちとともに「バラック装飾社」を立ち上げ、被災した喫茶店や食堂などに対し「バラックを美しくすること一切」を請け負う活動を行った。間もなく復興が進んでバラック装飾社が落ち着くと、今の活動は民俗学から離れて考現学的なアプローチとなっていく。今は考現学をはじめた動機を、ごく控えめに以下のように述べている。「坪内先生や島村先生たちの舞台計画を手伝わされていたし、吉田君も舞台の仕事をやっていて、脚本のト書きに出てくる小道具には考古学の書に出てこないものがある。現在でも50年、100年後のために残しておけば助かる。目の前にいる人々の生活や風俗の記憶を克明にやってみよう、と始めた」。

今らが調査したのは、当時西洋化の中心であった銀座から、下町である本所・深川貧民街、東京郊外など数多く、その調査対象も多種多様であった。例えば「銀座のカフェー服装採集」「歩道の歩行者数分布」「某食堂の椀の欠け方」「丸ビル モダンガール散歩コース」といったものである。その成果は『考現学入門』『考現学採集』にまとめられているが、その内容は一見してユーモラスでありながら、表層のみを切り取られ、文脈と分離され、数値化され、無感情にすら感じられるものである。
表層だけを切り取った無感情さは、今の考現学に通底する視線である。
1970年代に入ると、考現学に着目しその手法を取り入れた後継者たちが登場する。それは赤瀬川原平の「超芸術探査本部トマソン調査センター」であり、藤森照信の「建築探偵団」であり、その二つが合流した「路上観察学会」である。

ここで、「超芸術探査本部トマソン観測センター」について簡単に紹介する。
「超芸術探査本部トマソン観測センター」は、赤瀬川原平が発見し理論化した「超芸術トマソン」を探査・研究する団体である。「超芸術トマソン」とは何か。簡単に言うと、「不動産に付属し、まるで展示するかのように美しく保存されている無用の長物」のことである。赤瀬川によって発見された最初のトマソンは「純粋階段」と呼ばれるものであった。四谷本塩街の祥平館という旅館に付属し、路上から階段に登ることができるが、登った先には何もなく、ただ下り階段が続くのみである。赤瀬川はそこに作為なき芸術としての「超芸術」を見出した。そして、読売ジャイアンツから高額の報酬を与えられながら、空振りを繰り返すばかりでチームに貢献できないでいたゲーリー・トマソン選手にちなみ、「超芸術トマソン」と名付けられた。

「超芸術探査本部トマソン観測センター」「建築探偵団」の他に、考現学的手法を用いた芸術家は前衛の行き詰まりと呼応して次々と生まれていく。井出建、松山巌、元倉眞琴の3人グループである「コンペイトウ」、大竹誠、中村大助、村田憲亮、真壁智治の4人グループである「遺留品研究所」、マンホールの蓋に注目した林丈二、『珍日本紀行』を著した都築響一、アトリエ・ワンと黒田潤三のグループ「メイド・イン・トーキョー」、そして「クソゲー」「ゆるキャラ」などを発見したみうらじゅんなどである。

彼らの試みに共通するのは、世界の細部、それも表層を追い続け、これまでも目の前に横たわりながらも不可視であった、不合理・不条理の地層を表出させ、笑い飛ばすことである。そして、彼らの活動の動機となっているのは、同様の考現学的手法で彼らを批判した中川理も述べているように、「おもしろいから」、すなわち2章で述べた「自分たちが生活する世界をより深く理解したい、という欲求からくる」文化論の立場である。

これはアウエルバッハ・ギンズブルグの「細部によって全体を理解する」の実践でありながら、折口・寺山らによる世界の多層化と思想的に重なり合うのである。私は、今の、赤瀬川の、藤森らの考現学的活動に共鳴する。表層を切り取り、世界を多層化していく、これを現代において推進することが現代における文化論に必要なことである。

 

以上が、一つの結論である。

しかしここで、1章の話題を振り返っておきたい。ポスト・トゥルースである。

表層を切り取り世界を多層化することは、ポスト・トゥルースの世界において危険でもある。『けものフレンズ』の「事件」においても、これまで隠されてきた地層が突如として表出し、その地層が力を持ってしまったことで起きたとも解釈できる。
つまり、世界の多層化は賢者の運用においてのみ役立つのである。

では、どうするべきであろうか。
ここから先の議論は、論理的弁証に基づかない私の直感に過ぎない。

私は、赤瀬川や藤森が実践しなかった、あるいは見落としていた、今和次郎の考現学の重要な手法に注目する。それは、数値化である。
今は銀座の調査において、当時流行しているとされていた洋装のモダンガールが、数値的にはわずか1%に過ぎないことを発見した。我々は、目立つものに注目し、それを主流だと考えてしまうものなのである。
私は、ポスト・トゥルース的世界観も、考現学的調査と数値化によって抵抗可能なものだと考える。それは一見地味なものであるが、今の銀座研究を初めて読んだとき、その数値の怜悧さと意外性に感動し、おもしろさを感じたのである。

今和次郎は、銀座を行く人々を数えながら何を感じていただろうか。
私はそれが、フェイクを暴きトゥルースを導き出す、厳密でありながらも神秘的な数値のおもしろさであると信じている。

文字数:20047

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