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成ることのなかったものたちの祝祭について

 

新しい天使(アンゲルス・ノヴス)と題するクレーの絵がある。そこにはひとりの天使が描かれていて、それは自分が凝視しているものから、いままさに遠ざかろうとしているかに見える。眼は大きく見開かれ、口は開かれ、翼は広げられている。

歴史の天使はこうした姿をしているにちがいない。歴史の天使は顔を過去のほうへと向けている。わたしたちの眼には出来事の連鎖と見えるところに、かれはただひとつの破局を見ている。たえまなく瓦礫のうえに瓦礫をつみかさねては、かれの足もとに放りだしている破局をだ。できることならかれはその場にとどまって、死者を目覚めさせ、打ち砕かれた破片を集めてもとどおりにしたいと思っている。だが、エデンの園から吹いている強風がかれの翼をからめとり、そのいきおいが激しいために翼を閉じることがもうできなくなっている。この強風はかれが背を向けている未来のほうへと、かれをとどめようもなく吹き飛ばしてゆく。そうしているうちにかれの眼の前では、瓦礫の山が天にとどくほどに高くなってゆく。

わたしたちが進歩と呼んでいるものは、まさにこの強風なのだ。

(ベンヤミン『歴史の概念について』、pp.54-55)

 

 

 

むかしの自分の写真、しかも物心つくまえの、記憶がおぼつかないころの写真を見るときに、不思議な感覚を覚えることはないだろうか。そこに写っているのはわたしである。けれど、自分の記憶にはいないわたしだ。それは、ふだんほとんど会うことのない親戚に久しぶりに会うときの感覚と似ている。そのひととわたしのあいだにはつながりがある。しかし、そのつながりは理屈を通して掴めるだけで、感覚的には距離を感じてしまう。まるで、赤の他人と会っているかのように。幼少期の自分の写真というのも、このような親しみと隔たりが入り混じった感覚をもたらす。それはおそらく、その写真の持つイメージが自分という輪郭の外にあるものであり、その輪郭が持つ確かさを揺らがせるからだ。

自分が自分であること。これをもう少しなじみのある言葉言えば、アイデンティティである。Identifyという言葉がなにかを定義するという意味を持つように、わたしであるということの確かさを感じさせてくれるのは、いまの自分と、記憶のなかにいる過去の自分を同一のものとして、一本の線を描くようにつなぐことができるからだ。わたしというひとりに人間が、過去から現在まで持続的に確かにいること。記憶にもとづいた時間の継続が、そのことを支えている。つまり、わたしがわたしであるためには、わたしに関する記憶が重要なのだ。しかし、ひとは当然かつて経験したことのすべてを記憶することはできない。記憶のなかからこぼれ落ちる出来事がある。むしろ、わたしの記憶のなかに残ることよりも、忘れられ失われる出来事のほうがはるかに多いはずだ。写真は、そのような失われる出来事を保存するものでもある。だから、ひとは旅行先などで写真を撮る。しかし、記憶を思い起こす助けとなるような写真、記憶に残るイメージと紐づいている写真というのは、さきに書いたような不思議な感覚をもたらすことはない。それは記憶を思い起こさせることで親しさを感じさせるに過ぎない。むしろ、わたしが感覚において捉えているわたしの外部にある事実性をとどめた写真、記憶にはない自分が生きていた――赤ん坊のわたしのような――という事実を閉じ込めた写真が、不思議な――そしてある意味で不気味な――感覚をいまのわたしに与えてくる。

それはさながら、瓦礫の山を前にしたときに訪れる印象のようだ。瓦礫は時間の外にある。いままさに造られていく建物は、進歩や成長という前進する時間とともにある。廃墟は、終わりへと向かう下降形の進行のなかにある。そして瓦礫は、そのすべての外にある。重機や爆発物によって家屋やビルが解体されることからもわかるように、瓦礫を生みだすのは瞬間的な断絶だ。わたしの記憶にないわたしをとどめた写真の持つイメージが、自覚的に認識することのできるわたしから断絶しているように。

そのように考えると、人間と建物はとても似ている。わたしというひとりの人間は、成長という進歩によっていまここにいるような姿を成している。そして同時に、その進歩には必ずしも含まれない、いまのわたしにつがなることのなかった過去のわたしが無数にいる。そのような失われた無数のわたしが、瓦礫なのだ。

そのような、形を成すことのなかったものたちについて考えるとき、なにかに「成る」ということの孕む暴力性が感じられてくる。「成る」ということはある程度のまとまりを持った輪郭をなすということだ。そして輪郭のあるところには必ず、その枠に含まれない外部が存在している。瓦礫は、まとまりのなかから追い出された、「成る」ことのできなったものたちの集合だ。

この「成る」ことにつきまとう息苦しさ。これはもしかすると非常に個人的な問題なのかもしれない。しかしいま東京という街に暮らすことには、どこかこのような出口の見えない行き詰まりのなかに身を置くことを、必然的に強いられることへつながるっているように思う。東京は、たくさんの瓦礫を生み出しながらも、それを通り抜けて、なにかに「成る」ことを強いられている。どういうことか。

 

 

この国では、20歳をむかえた人たちを成人と呼ぶ。この年齢が、大人と子どもを分けるひとつの基準になっている。生まれてから20年という年月を経て、そのひとはなにかに成ったことを認められる。そうであれば、21世紀の東京も、2020年という歳を迎えることで成熟すると考えられるのかもしれない。そしてそのことを祝すかのように、2020年の東京には祝祭が用意されている。

2020年にやってくる東京オリンピックは、いわば21世紀における東京の成人式だ。町のいたるところで再開発が進み、世界中からやってくるひとびとに向けて、世界に飛び出しても恥ずかしくないような大人の都市に成るために、東京は成長している。

そのこととあわせて、いま東京ではたくさんの瓦礫がうまれている。国立競技場の建設だけではなく、渋谷の駅前など、さまざまな町で再開発が進んでいる。新しく生まれ形をともなう建物たちの背景には、無数に生み出された瓦礫がある。しかし、あくまで2020年にあらわれる東京の姿、その風景のなかで主役になるのは、成就した新しい建物たち、なにかに「成る」ことができたものたちだ。「成る」ことのできなかった瓦礫たちの居場所はそこにはないのかもしれない。しかし、ひとりの人間において、記憶のなかに残ることのない時間のほうが、確かに覚えていることよりも膨大であることと同じように、2020年の東京という姿に「成る」段階で、その完成された形に直接結びつくことのなかった要素たちこそが、2020年にあらわれる東京の姿を強く規定するのではないだろうか。そのような、影に隠れるなにかに「成る」ことのできなかったものたちが集まる部分においてこそ、本質が現れるのではないだろうか。

オリンピックが、成るものたちのための祝祭であるならば、その裏にある成らざるものたちのために祝祭にこそ、眼を向ける必要がある。

 

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