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國分功一郎は孟子を通過して演劇へとむかう

1、

國分功一郎はドゥルージアン(ジル・ドゥルーズの研究者)として知られている。國分の研究者としてのスタート地点はバールーフ・デ・スピノザであったが、ドゥルーズがそもそもその哲学を形成するのにスピノザから多大な影響を受けていたため、國分がドゥルーズを論じるという状況は、彼のキャリアが始まった時点で潜在していたとも考えられる。それでは、いまの國分がこののちどういった題材を論じる/論じざるをえないか、すなわち現在の國分にどのような潜在性がやどっているのかをここでは考えてみたいと思う。結論を先取りすれば、國分は今後、古代ギリシャの言語や思想だけでなく、古代中学哲学について論じざるをえなくなるはずである。

そのことを考えるために、國分が「紀伊國屋じんぶん大賞2018」で1位を獲得し、その受賞に際して寄せたコメントを参照する[i]。そのなかで國分は、『中動態の世界』において〈意思〉にかんしては一定のページ数を割いて論じたものの、〈責任〉については多くを語っていないと振り返る。しかしながら、出版されたのち受け取ったさまざまな感想を通して〈責任〉の概念について考えるヒントをもらったと言い、その考えをラフスケッチのようなかたちでコメントのなかに記している。少々長くなるが、該当部分をコメントより引用する。

 

この本では意志と一体となった責任の概念を論じています。しかしそのような責任は責任の堕落した姿ではないでしょうか?なぜ責任を英語でresponsibilityと言うのか?なぜ責任が応答responseと切り離せないのか?責任が応答と切り離せないとすれば、それは自分の目の前で起こったことや自分が知ったことへの応答としてあることになります。

たとえば強盗に襲われた旅人が身ぐるみを剥がされ、半殺しにされたまま地面に横たわっている。誰もその人を助けようとしない。けれども、通りかかったある人物がその人を気の毒に思い、介抱し、宿に連れて行って、宿代まで代わりに支払う。その人はこの旅人を前にして何か応答しなければならないものを感じたからそうしたのでしょう。義の心と言ってもよいのかもしれません。ここには責任の原初形態とでも呼ぶべきものがあります。

それに対し、意思と一体になった責任とは、応答すべき立場にあるにもかかわらず応答しない人に対して、意思という概念装置を使って強制的に応答させる、そのような責任のことです。それは責任の原初形態からはほど遠い、その堕落した姿なのです。ですが私たちは責任というと、まずそのような責任の姿を思い浮かべます。ですから『中動態の世界』もそれを扱いました。しかし、責任はそのようなあり方にとどまるものではありません。

 

上記の議論では、〈責任〉は二つのタイプに分類されている。一方は〈堕落した責任〉であり、もう一方は〈原初的な責任〉である。〈堕落した責任〉は、窃盗などの罪を犯した人物に適用される〈責任〉であり、外部から付与されることで生じるものである。國分が『中動態の世界』で〈意思〉とワンセットであると論じた〈責任〉はこちらに属する。一方、〈原初的な責任〉は、ある状況に際して突発的に生じる感覚であり、その時点においてはそれが〈責任〉だと自覚されることすらない。この〈責任〉は、〈意思〉がなくても生じる。少なくとも、〈責任〉が〈意思〉に先立って反応responseとして存在している。

このようにまとめたとき、〈原初的な責任〉の説明を、どこかで聞いたことがあると感じるひともいるのではないだろうか。

 

 

2、

目の前に、いまにも井戸のなかへ落ちそうになっている子どもがいる。このような場面に出くわした人はだれしも、その子どもが落ちないように助けるはずだ。その行動は、正義を実践するために子どもを助けるべきだという思考や、子どもを助けることによって自分になにかしらの利益がもたらされるという打算に先立って行われる。それゆえ、人間の性質は本来的に善である[ii]

これは、古代中国の思想家孟子がとなえた〈性善説〉の議論である。窮地にある子どもを反射的に助けてしまうというこのエピソードは、〈原初的な責任〉を説明するために國分が述べた例と類似している。そうであれば、孟子が〈性善説〉で展開する議論を応用することで、いまはまだラフスケッチにとどまる〈原初的な議論〉を発展させることが可能だと思われる。

孟子の議論をもうすこしたどってみよう。孟子は人間の性質は本来的に善であるとした。しかしわたしたちが本質的に善の性質を持っているのなら、なぜひとはときとして他人を傷つけてしまうのだろうか。孟子は現実にはそのような状況があることも受け止めたうえで、思考を展開している。人間の本質は善だ。しかしそれは、あくまで素質として備わっているに過ぎない。それゆえ、生まれ落ちたのちにさまざまな経験をするなかで、その素質が歪められたり失われたりすることがある。ひとが誰かを傷つけてしまうのはそのためである、というのが孟子の主張だ。孟子は、そのような歪められる以前の〈原初的な善〉を植物の芽に喩えている。人間は善という芽を持っている。しかしその芽が育つためには、適切な環境と手入れが必要である。だから人間は、生きているなかで出会うさまざまな出来事を通して、つねに芽を育てていく必要がある。

さきほど、國分の議論において〈原初的な責任〉/〈堕落した責任〉という軸を設定した。これに対応させるかたちで孟子の善の理論を整理すると、〈原初的な善〉/〈成長した善〉という軸をつくることが可能である。井戸に落ちそうな子どもを反射的に助けようとする心が〈原初的な善〉、そのような善を育むことで獲得されるのが〈成長した善〉だ。しかしここで、違和感を覚える読者もいるだろう。それはおそらく、〈原初的な責任〉と〈原初的な善〉の対応は理解できるが、〈堕落した責任〉と〈成長した善〉を対応されることに疑問を持つからだ。

その違和感は、じつは國分が〈責任〉の一解釈としておこなった〈堕落した責任〉という呼称を発展させることができる。どういうことか。

國分の言う〈堕落した責任〉の内容をもう一度検討してみよう。その責任は、「応答すべき立場にあるにもかかわらず応答しない人に対して、意思という概念装置を使って強制的に応答させる」というものである。この構図において責任という概念は、応答すなわち反応responseすべき人物が反応を起こさないがゆえに、〈意思〉という概念によってある意味で強制的に〈責任〉を発生させている。そこにおいて堕落という形容詞において就職されるべきなのは、〈責任〉ではなくそれを求められている人間のほうだ。

それゆえ、國分の言葉を補うとするなら、それは〈堕落した(ひとに対して働きかける)責任〉だと言える。このように考えると、〈堕落した責任〉と〈成長した善〉には対応関係が見出せる。さらに、〈堕落した責任〉は、〈原初的な責任〉だけではとらえられない〈責任〉の当事者へとアクセスするための発展形態であると考えることも可能である。

いささか用語が乱雑になって来たので、ここでいちど〈原初的な責任〉と〈原初的な善〉、〈堕落した責任〉と〈堕落した善〉をそれぞれひとつにまとめようと思う。〈原初的な責任/善〉は、どちらも感情的な反応がともなうものである。それゆえ、〈情緒的責任〉と呼ぶことができる。それに対して、〈堕落した責任〉/〈成長した善〉は、〈情緒的責任〉を起点に発展することでかたちづくられる。それゆえ、〈知性的責任〉と呼ぼう。

しかしここで、國分と孟子のまえにひとつの大きな壁が現れてくる。〈情緒的責任〉において例に出されていたふたつのエピソードをここで思い出してほしい。國分が例示していたのは、目の前にいる傷ついたひとである。そして孟子が例にあげたのは、目の前で井戸のなかへ落ちそうになっている子どもである。つまり、〈情緒的責任〉は基本的にいまここの目の前にいる人物に対して生じる概念だと考えられる。そうであるならば、〈情緒的責任〉とそれを起点とする〈知性的責任〉はどちらも、過去や未来といういまここにはいないひとたちに対する責任を考えることが不可能なのではないだろうか。

國分功一郎と孟子を通してここまでなされてきた言語をめぐる思索は、ひとつのアポリアに直面した。responseとしての責任はきわめて実践的な〈責任〉概念の解釈である。しかしそこを出発点にすると、未来や過去の人々に対する〈責任〉を想定することができなくなってしまう。ここでわたしは、未来・過去への〈責任〉について考えることを正義化のように振りかざすつもりはまったくない。とうぜん、そんな〈責任〉を考えない自由は認められるべきだ。しかしそうであるならば、そういった〈責任〉を考える自由もまた認められるはずである。

このさきに進むためにはなにが必要か。いわゆる言語というもので表しきれないなにかがあるとき、人間はそれを文字以外のメディウム、たとえば絵や音によって、表象をおこなってきた。いわば、芸術言語とでも呼びうるものである。〈いまここ〉だけでは触れられないような〈責任〉にアクセスするための芸術言語、それは演劇である。

 

 

3、

「演劇は、現在形の芸術である」。演劇ジャーナリストの岩城京子は、『日本演劇現在形』の序論でこのように述べている。このテーゼだけを見ると、さきほどおこなった「いまここ以外の〈責任〉にアクセスできるのが演劇だ」という主張と対立するかのように感じられるが、岩城が序論のなかで展開している議論は、むしろその主張に大きな示唆を与えてくれる。

『東京演劇現在形』では8名の演劇作家が、現代日本の「いま・ここ」を敏感に察知し創作行為に反映させている人物として紹介されている。

 

細かい点ではあるが、岩城が本書のなかで、「いまここ」ではなく、「いま・ここ」や「いま」と「ここ」というかたちで、〈いま〉と〈ここ〉を分けて考えてる点が非常に重要である。岩城は演劇について、以下のようにも述べている。

 

演劇はその性質上、「ここ」という特定の空間に、特定の演者と観客の身体が、共に在ることを要請するメディアである。[iii]

 

演劇は〈ここ〉に根ざしている。いまとここを区別するのは、空間の問題だ。いまにおいては、空間の存在は必ずしも問題にならない。テレビを見ているいま、本を読むいま、ネットに接続するいま。いまは絶えず生成されることがあり、そこにおいて空間の持続性や、ひとつの場における時間の継続は問題にならない。しかし、ここという観念が成り立つためには、あるひとつの空間的に限定された場においてその空間に対する認識が持続する必要がある。わたしが劇場という「ここ」に根ざすためには、劇場外での時間やインターネットの時間が介入することなく、劇場という空間のなかでのみ流れる時間の持続がなければならない。

〈ここ〉に縛られた演劇、という言い方をすると、なおのこと、なぜ演劇がいまここではない責任についてアクセスできるのかという疑問を感じるだろう。そのことを考えるためには、発想を裏返す必要がある。演劇において、ここにおける俳優の身体や舞台上の出来事はまぎれもなく存在してしまっている。そこには、確実にここがある。しかしその一方、演劇を観る観客はここで起きる出来事以上のことを舞台上に見ている。

演劇において強力なここ性がありつつも、それがフィクショナルな体験でありえるのは、こことは異なる時間や空間が想像力によって舞台上にオーバーラップしているためである。

そして演劇あるいは演劇的想像力というのは、古代中国哲学においても重要な観点として存在していたのである。孔子によってその議論は展開されている。

マイケル・ピュエットによれば、中国の思想家は「世界とは断片的でわずらわしい遭遇がえんえんとつづくもの」であり、「人間の性向は、他者に感情的に反応することだ」と考えていたようである。この世界や人間に対する認識は、「大きな物語の終焉」や「動物化」といったキーワードで論じられるポストモダン的な状況との類似性を感じさせるものであり、そのこと自体とても興味深いが、本論の趣旨からは外れるので深追いはしない。ここで重要なのは、そういった世界と人間に囲まれたなかを生きるために孔子が用いた〈礼〉と〈仁〉という概念である。

〈礼〉は、人間が他人と接したときにどうしても発してしまう感情(これは、良いものも悪いものも含む)を、ふさわしいかたちに磨き上げるためのものである。ただ感情がもたらす反応に従うだけでは、やはり人間同士は衝突してしまう。それを避けるためにひとは、たとえば初対面のひとに対しては丁寧な言葉遣いをするといった、無意識の状態とはすこし異なる振舞いをする。この振る舞いがいわば〈礼〉だ。ピュエットは、このような〈礼〉による行為を〈かのように〉振る舞うことと呼んでいる。あるべき行動を〈かのように〉実践することで、感情にもとづいた粗雑な振る舞いはしだいに修正されていく。この再帰的なプロセスが〈礼〉の効力である。そしてピュエットが〈礼〉において見出す〈かのように〉振る舞うという行為は、きわめて演劇的な振る舞いだ。ここにいるわたしが、〈いまここ〉にはいないだれかを、そのひとがそこにいる〈かのように〉演じる。

演劇においては、〈いまここ〉の身体と出来事は確固として存在している。だから、そこでは〈情緒的責任〉の発生する余地がある。しかし、その〈情緒的責任〉の対象となる俳優は、〈いまここ〉の身体をともなうと同時に、〈いまここ〉にはいない人称を役というかたちでともなっている。このような二重性をにおいて、〈情緒的責任〉と〈知性的責任〉は〈いまここ〉ではない時間軸に到達することが可能になるのではないだろうか。

 

 

 

[i] 以下URLを参照。

発表!!紀伊國屋じんぶん大賞2018――読者と選ぶ人文書ベスト30 | 本の「今」がわかる 紀伊國屋書店
https://www.kinokuniya.co.jp/c/jinbun2018/

[ii] 本論において記述する孟子および孔子の議論や主張に関しては、マイケル・ピュエット/クリスティーン・グロス=ロー『ハーバードの人生が変わる東洋哲学――悩めるエリートを熱狂させた超人気講義』(熊谷淳子訳)を参照している。

[iii] 岩城京子編、『日本演劇現在形――時代を映す作家が語る、演劇的想像力のいま』、2018、フィルムアート社

文字数:5922

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