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住まう家でなく、迎える家

ドイツの哲学者マルティン・ハイデガーの『「ヒューマニズム」について』には、「言葉は存在の家である」という一節がある。このフレーズに対して、ここでいう〈言葉〉とは?あるいは〈家〉とはなんなのか?そしてこのフレーズ自体がなにを言わんとしているのか?気になる点は多々あるが、まずは『「ヒューマニズム」について』がどういう経緯で書かれたものなのかを見てみよう。

この著作は、フランスの哲学者ジャン=ポール・サルトルのハイデガー解釈に対して、ハイデガー本人が批判するために書かれたものである。その発端は、1945年にサルトルが行った講演、「実存主義はヒューマニズムであるか?」に遡る。講演が行われた当時、実存哲学はマルクス主義者たちから、恵まれた立場にいる一部の人間が行うことのできる思考様式という意味をこめて、ブルジョワ哲学と呼ばれていた。サルトルの講演はそのような批判に対して、実存主義はヒューマニズムである、すなわち人間である以上だれもが行いうる思考様式だという反論を試みたものなのだ。そのなかでサルトルは、実存主義を2つのタイプに区別し、一方を有神論的実存主義、もう一方を無神論的実存主義と名づける。そして前者のタイプにはカール・ヤスパースとガブリエル・マルセルが、後者にはサルトル自身とハイデガーが該当するとしている。サルトルは有神論/無神論と区別をつけることで、哲学の歴史において〈神〉という絶対者を放棄したはずの思想家たちが、〈超越者〉や〈包括者〉といった、〈神〉に値するような審級を持ち込むことで自らの思想を理論づけていることを批判しようとしたわけであるが、本論考において重要なのは、そのような区別を設けたうえで、サルトルが実存主義に共通するものとしてあげている特徴である。サルトルによれば、実存主義という立場は、人間の「実存が本質に先立つ」と理解するものである。どういうことか。

〈本質〉とは、「~はそもそもなんであるか」という問いの答えになるものである。それなしでは、あるものをそのものとして呼べなくなってしまうような性質、また、あるものをほかのものと明確に区別させる性質を、そのものの〈本質〉と呼ぶ。リンゴを例にあげれば、赤くて丸い果物だ、という性質がりんごの〈本質〉として考えられる。それに対して〈実存〉というのは、あるものが〈現実にここに存在している〉ことを意味している。たとえば、いまこの現実に確かに存在しているわたし、というのが、わたしにとっての〈実存〉である。そのことを理解したうえで、さきほどのテーゼに戻ろう。人間においては「実存が本質に先立つ」ということは、裏を返せば、人間以外においては「本質が実存に先立つ」ということである。これは、さきほどのリンゴの例でいえば、赤くて丸い果物である、という性質の説明によって、実際のリンゴをひとつも目にすることがなくても、リンゴの性質について語れてしまうことを意味している。これはすべてのリンゴに、ある〈本質〉がもれなく共有されているから可能なことである。それに対して人間は、実際の個別具体的な人間からしか、その〈本質〉は説明しえないとサルトルは考えている。彼の思考においては、すべてのリンゴが共通した性質を持っていたのに対し、人間にはそのような共通の性質がないと考えているのである。それゆえ、人間を〈本質〉すなわち性質の側から説明することは不可能であり、個別具体的ないまここにいる個人、すなわちそれぞれの〈実存〉を起点にすることでしか、人間の性質については語れない。サルトルにとって人間の〈本質〉を語ることは原理的に不可能であり、その意味で、彼にとって人間の本質は〈無〉なのである。

以上が、サルトルによる実存主義=ヒューマニズムという解釈である。これに対してハイデガーは、自らが実存主義者であることを否定し、『「ヒューマニズム」について』を著する。そこでハイデガーは、サルトルが人間の本質を〈無〉であるとしたのに対し、人間の本質は〈思考する〉ことだと言う。

ここでいちど、〈存在〉、〈思考〉、〈言葉〉といったものの内容を整理しよう。まずは〈存在〉。これはハイデガーの哲学にとってもっとも重要なテーマである。存在者(実際に存在している人やもの)のなかで、人間だけが自らの〈存在〉について考えることができる(人間以外の動物や無機物などのものは自らの「存在」を認識することすらできない)。そしてその〈存在〉は、〈思考〉という行為をへて人間に与えられる(人間が能動的に獲得するのではなく、受動的に与えられる点が重要である)。そして〈思考〉によって〈存在〉が人間に与えられる際に、〈言葉〉というかたちを持つ。

ハイデガーが提示する〈存在〉、〈思考〉、〈言葉〉の概念は非常に魅力的であるが、とうぜん批判の余地はいくらでもある。たとえば、いままさにこの文章を書いているわたしと、その文章を読んでいるあなたの立場からすれば、「言葉は存在の家である」という定義は日本語の場合も当てはまるのか?という疑問は思い浮かぶだろう。そのような言語の違いにもとづく反論は、批評家の福嶋亮大が『復興文化論』のなかで、柿本人麻呂の長歌や紀貫之の詞書で描かれる〈家〉のイメージを参照しつつ行っているし、また、ハイデガー本人も『言語についての対話』という著作のなかで、「私たちヨーロッパ人は、どうやら東アジアの人間とは全く別の家に住んでいることになります。」と述べてしまっている。

しかしここで、日本語を日常的に用いているひとこそ自覚的になる必要があるのは、〈東洋〉という単語に〈日本〉を安直に重ねてしまうことである。歴史をふりかえれば、いままさにここで用いられている日本語が、かつて中国から絶大な影響を受けながら形成されていったことが思い出されるべきだろう。それでは、中国では〈言語〉や〈思想〉はどのように扱われていたのだろうか。

 

 

 

中国哲学の研究者である中島隆博は、『思想としての言語』のなかで、『淮南子』に記された、言語の起源に生じた出来事について紹介している。いわく、蒼頡という人物が書字のかたちを定めた、すなわち文字を発明したときに、世界の創造主は自らの秘密を隠すことができなくなり天から粟を降らせ、霊や怪物、鬼などは姿を見せなくなった、というのである。中島はこのエピソードを、「起源の言語には、自然の秘密を明らかにする力があり、その結果、鬼という他者が姿を隠すことができなくなる」とまとめている。そのうえで、以下のようにも述べている。

 

「言語と秘密。言語は秘密をあばく。しかし、本当にそのように単純な開示の構造が問題になっているのだろうか。言語の手前にある秘密とは何か。それは、言語以前には秘密ですらない。言語が秘密を作り上げ、それを明らかにすると考えてみてはどうだろうか。このことは鬼という他者についても同様であって、言語が鬼を可能にし、それを抑圧するのだとすればどうだろうか。」(『思想としての言語』、p.vii)

 

言語が秘密をあばく。しかしそれ以前に言語が秘密を作り出す。すなわち、わたしたちは他者という得体のしれない存在者に対して〈言葉〉を通して接近することができるが、その〈言葉〉がそもそも、他者とわたしのあいだに溝をつくってしまっているということである。この、〈言葉〉こそがその捉える対象を遠ざけてしまっているという発想が、ハイデガーの言語観においては欠けている。ハイデガーにとっての〈言葉〉は、あくまで人間という限られた存在が、〈思考〉という行為によって〈存在〉が与えられるときに生じるものとして考えられていた。そして、人間は〈言葉〉の家に住まって〈存在〉の現れを見守る牧人であるとされたわけだが、その〈存在〉がわたしたちの足元にあることは、どれほど自明なのか。むしろ人間が〈言葉〉という家に住まうことこそが、〈存在〉や未知の他者といったものを人間から遠ざけていることもありえるのではないだろうか。

思えば、ハイデガーの言語観は非常に独我論的なものである。そこでイメージされている構図は、〈存在〉とわたしのあいだをつなぐ一対一の関係である。人間は確かに思考する。そして、その際には言語を用いる。その点で、ハイデガーの指摘はまったくの見当違いというわけではないが、大きな見落としがあることは否めない。ハイデガーによって見過ごされているのは、〈言葉〉というのは〈存在〉に触れるためのものではなく、自分以外の他者と関わるためのツールであるという素朴な感覚だ。〈言葉〉を通して〈思考〉するということは、わたしとは異なる他者と共に在るための場所をつくることなのである。

中島は先ほど引用した部分につづき、『思想としての言語』のなかで空海の「声字実相義」という文章に言及する。これは、〈声〉、〈字〉、〈実相〉という3つの概念の関連と、その関連によってこの世界がどのように構成されているかを論じたものである。〈声〉というのは、異なる2つの存在者が接触した際に生じる音響であり、〈字〉は〈声〉と対応するものを、文字において示す。〈字〉が生まれるということは、本来は汲みきれない他者という存在がかたちを持ったある〈言葉〉に固定されることである。それは、本来は〈多〉であるものを〈一〉に限定するということであり、一対一の対応関係ではなく、翻訳のような、〈多〉を想定した変換が行われている。一対一の対応による変換を論理的交換と名づけるならば、〈多〉を捉える変換は詩的交換とでも呼べる。〈言葉〉という家が建てられることによって〈存在〉はむしろ人間から疎外されてしまう。そして、家としての〈言葉〉が硬直化するほど〈存在〉はなおのこと人間から遠ざかってしまう。むしろその〈言葉〉を詩的言語として組み替え続けることが必要なのではないか。言葉が存在の家であるならば、それは存在の上に建つ家ではない。言葉は、存在の訪れ(=異者との接触)を迎える家である。

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